AAR/Gott Mit Uns/第二章 改革の時代
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[[AAR/Gott Mit Uns]] **ボヘミアの興亡 [#o07d8233] フリードリヒ3世は領土の改宗を概ね終わらせると死去、新たにエルンストが選帝侯となる。彼は新たに独立したリトアニアと同盟することで外交基盤を固め、更にバルト海交易の支配のためにリューベックに宣戦、ハンブルクなどの諸都市との戦いが始まった。 https://i.imgur.com/Bbs08eu.jpg この勝利に気を良くしたエルンストは、更にカルマル連合と結んでボヘミアに宣戦する。 先の敗戦の屈辱を晴らすべく北ドイツ諸都市も参戦、カルマル連合の軍隊の拘束に尽力、孤立したブランデンブルク軍は単独でボヘミア王カレル4世との決戦を強いられ、 https://i.imgur.com/AIWVodV.jpg ビューラー将軍指揮の下、およそ倍の敵軍に善戦するも敗北。 既にデンマーク軍も疲弊していることも理由となり、ここで白紙講和が結ばれた。 この戦争により、改めてベルリンの人々はボヘミアの恐ろしさを知った。元々の優れた軍質、ポーランド分割で得た軍量が合わさり、ブランデンブルクの脅威となることに間違いはなかった。 しかし、そんなボヘミアもより大きな力に屈服する時が来る。 https://i.imgur.com/0eIk2NU.jpg ――皇帝オーストリア大公、破門を理由にボヘミアに宣戦。 当然ブランデンブルクもこの”十字軍”に参加し土地の獲得を狙う。さしものボヘミアも三倍の敵には成すすべもなく蹂躙される。 結果としてブランデンブルクはポーゼンを中心とするポーランド北部を獲得、更にかつてボヘミアの臣下であったシュレジエンが独立政権として解放される。 これに目を付けたエルンストはシュレジエンに宣戦するも、直後に死亡。 跡を継いだアルブレヒト4世の下で戦争は遂行され、シュレジエンの大部分を得た。 そして、もたらされた平和の下に… https://i.imgur.com/UXsdPCA.jpg アルブレヒト4世、プロイセン王を名乗る。 **パワーバランスの変化 [#lfa7039f] 北ドイツ諸都市との抗争で疲弊したカルマル連合であったが、国力を回復させるとモスクワ大公に宣戦。 これまでの恩を返すべくプロイセンも参加し、激しい戦いが繰り広げられた。 https://i.imgur.com/mHKmPRH.jpg 両軍厳しい損耗の末にデンマークが勝利。ネヴァ河の河口までを確保する。 陸軍が壊滅したモスクワ大公国はその後、全土を反乱に包まれ崩壊。以後ルーシの地に統一国家が生まれることは無かった。 事件は更に続く。 オーストリアがボヘミア王位を求めてかの国に宣戦する。当然アルブレヒト4世も援軍要請に応じ、見返りに北部地域を獲得。 しかしオーストリアの野心はとどまることを知らず、更に北イタリアへも進出する。 ここに来て、アルブレヒト4世は疑念を抱く。 今はボヘミアやイタリアが対象であるからまだ良い。それらを征服したら、次はベルリンを目指すのではないか? **宗教戦争 [#af6fa1a0] 事実、プロテスタント諸侯とカトリック諸侯との関係性は急速に悪化していた。 その理由が新教諸侯により形成された”新教同盟”であり、彼らはシュレジエン公を筆頭に皇帝に叛逆。 1568年、神聖ローマ帝国における宗教の優位性を決める大戦争が始まった。 アルブレヒト4世はこれに対し、静観を決め込むことを宣言。新教同盟にも参加せず、かといってオーストリアからの援軍要請に応えるもことも無く、独自の秩序を目指してゆくのであった。 と言えば格好が良さそうだが、要するに狙いは火事場泥棒だ。皇帝が新教諸侯を打倒して凱旋するまでの間、(ヨアヒム2世への代替わりを経験しつつ、)ヴェストファーレン、ヘッセン=カッセルなどを誰にも邪魔されることなく征服できた。 https://i.imgur.com/tHUf8If.jpg 皇帝の勝利によりプロイセンは公国に格下げされるが、大した問題ではなかった。北ドイツの統一の方が優先事項である。 なお、この頃にフランスと同盟したが、代わりにデンマークからは同盟破棄を通達されている。 **皇帝との決戦 [#qb63cdcf] 1600年の頭になると、オーストリアはハンガリーを完全に併合するが、代わりにボヘミア王位を失う。 これを機に、かつてオーストリアに虐げられた国々―― 東部国境の後退を余儀なくされたフランス 中枢部を奪われたミラノ公国 王国から格下げをされた挙句、包囲網を組まれたプロイセン ――らで連合が組まれ、フランス主導による対皇帝戦が開始された。 https://i.imgur.com/0104xx1.jpg プロイセン軍は北からウィーンを目指し、会戦で皇帝軍を撃破。 この頃になるとプロイセンの軍質は欧州でも随一のものとなり、敵に数倍の損害を与えるのもしばしばであった。 https://i.imgur.com/SrNpZxP.jpg この戦争はあくまでフランスの戦争であり、講和条件という視点で見ればプロイセンにとって得るものは少なかったが、それでも皇帝への勝ち筋が見えたという点で重要な戦争だった。 [[AAR/Gott Mit Uns/第三章 絶対主義の時代 前編]]に続く
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[[AAR/Gott Mit Uns]] **ボヘミアの興亡 [#o07d8233] フリードリヒ3世は領土の改宗を概ね終わらせると死去、新たにエルンストが選帝侯となる。彼は新たに独立したリトアニアと同盟することで外交基盤を固め、更にバルト海交易の支配のためにリューベックに宣戦、ハンブルクなどの諸都市との戦いが始まった。 https://i.imgur.com/Bbs08eu.jpg この勝利に気を良くしたエルンストは、更にカルマル連合と結んでボヘミアに宣戦する。 先の敗戦の屈辱を晴らすべく北ドイツ諸都市も参戦、カルマル連合の軍隊の拘束に尽力、孤立したブランデンブルク軍は単独でボヘミア王カレル4世との決戦を強いられ、 https://i.imgur.com/AIWVodV.jpg ビューラー将軍指揮の下、およそ倍の敵軍に善戦するも敗北。 既にデンマーク軍も疲弊していることも理由となり、ここで白紙講和が結ばれた。 この戦争により、改めてベルリンの人々はボヘミアの恐ろしさを知った。元々の優れた軍質、ポーランド分割で得た軍量が合わさり、ブランデンブルクの脅威となることに間違いはなかった。 しかし、そんなボヘミアもより大きな力に屈服する時が来る。 https://i.imgur.com/0eIk2NU.jpg ――皇帝オーストリア大公、破門を理由にボヘミアに宣戦。 当然ブランデンブルクもこの”十字軍”に参加し土地の獲得を狙う。さしものボヘミアも三倍の敵には成すすべもなく蹂躙される。 結果としてブランデンブルクはポーゼンを中心とするポーランド北部を獲得、更にかつてボヘミアの臣下であったシュレジエンが独立政権として解放される。 これに目を付けたエルンストはシュレジエンに宣戦するも、直後に死亡。 跡を継いだアルブレヒト4世の下で戦争は遂行され、シュレジエンの大部分を得た。 そして、もたらされた平和の下に… https://i.imgur.com/UXsdPCA.jpg アルブレヒト4世、プロイセン王を名乗る。 **パワーバランスの変化 [#lfa7039f] 北ドイツ諸都市との抗争で疲弊したカルマル連合であったが、国力を回復させるとモスクワ大公に宣戦。 これまでの恩を返すべくプロイセンも参加し、激しい戦いが繰り広げられた。 https://i.imgur.com/mHKmPRH.jpg 両軍厳しい損耗の末にデンマークが勝利。ネヴァ河の河口までを確保する。 陸軍が壊滅したモスクワ大公国はその後、全土を反乱に包まれ崩壊。以後ルーシの地に統一国家が生まれることは無かった。 事件は更に続く。 オーストリアがボヘミア王位を求めてかの国に宣戦する。当然アルブレヒト4世も援軍要請に応じ、見返りに北部地域を獲得。 しかしオーストリアの野心はとどまることを知らず、更に北イタリアへも進出する。 ここに来て、アルブレヒト4世は疑念を抱く。 今はボヘミアやイタリアが対象であるからまだ良い。それらを征服したら、次はベルリンを目指すのではないか? **宗教戦争 [#af6fa1a0] 事実、プロテスタント諸侯とカトリック諸侯との関係性は急速に悪化していた。 その理由が新教諸侯により形成された”新教同盟”であり、彼らはシュレジエン公を筆頭に皇帝に叛逆。 1568年、神聖ローマ帝国における宗教の優位性を決める大戦争が始まった。 アルブレヒト4世はこれに対し、静観を決め込むことを宣言。新教同盟にも参加せず、かといってオーストリアからの援軍要請に応えるもことも無く、独自の秩序を目指してゆくのであった。 と言えば格好が良さそうだが、要するに狙いは火事場泥棒だ。皇帝が新教諸侯を打倒して凱旋するまでの間、(ヨアヒム2世への代替わりを経験しつつ、)ヴェストファーレン、ヘッセン=カッセルなどを誰にも邪魔されることなく征服できた。 https://i.imgur.com/tHUf8If.jpg 皇帝の勝利によりプロイセンは公国に格下げされるが、大した問題ではなかった。北ドイツの統一の方が優先事項である。 なお、この頃にフランスと同盟したが、代わりにデンマークからは同盟破棄を通達されている。 **皇帝との決戦 [#qb63cdcf] 1600年の頭になると、オーストリアはハンガリーを完全に併合するが、代わりにボヘミア王位を失う。 これを機に、かつてオーストリアに虐げられた国々―― 東部国境の後退を余儀なくされたフランス 中枢部を奪われたミラノ公国 王国から格下げをされた挙句、包囲網を組まれたプロイセン ――らで連合が組まれ、フランス主導による対皇帝戦が開始された。 https://i.imgur.com/0104xx1.jpg プロイセン軍は北からウィーンを目指し、会戦で皇帝軍を撃破。 この頃になるとプロイセンの軍質は欧州でも随一のものとなり、敵に数倍の損害を与えるのもしばしばであった。 https://i.imgur.com/SrNpZxP.jpg この戦争はあくまでフランスの戦争であり、講和条件という視点で見ればプロイセンにとって得るものは少なかったが、それでも皇帝への勝ち筋が見えたという点で重要な戦争だった。 [[AAR/Gott Mit Uns/第三章 絶対主義の時代 前編]]に続く
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