AAR/華麗なる一族/第5章 プルス・ウルトラ
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[[AAR/華麗なる一族]] *第5章 プルス・ウルトラ[#lb79a6ef] **ハプスブルクとアブスブルゴ [#lb79a6ef] マリア=テレジア二世が死去した後はレオポルト十世の短い治世が続きました。 彼の治世はあまりに短かったため功績も失態もほとんどありませんでしたが、特筆すべきはハプスブルクの婚姻政策がまたひとつ大きな成功を収めたことでしょう。 ハプスブルク家の成功に触れる前に、簡単にイギリス、スペイン、ポルトガルの情勢について触れておきたいと思います。 イギリスではランカスター朝が断絶した後にポルトガルと同王朝のアヴィシュ朝が成立し、2世紀以上に及ぶ同盟をさらに強固なものにしていました。 大陸に野心を燃やす度に手ひどいしっぺ返しを受けたきたこの国は、フランスとの百年戦争に敗北した後はもっぱら目を新大陸に向け大きな成功を収めていました。 新大陸でもっとも豊かな北米東海岸に加えてメキシコの北半分に植民地国家を建設していたのです。 一方スペインでもトラスタマラ朝が16世紀初頭に断絶し、ポルトガル王家と代々婚姻を重ねてきたこともあり、アヴィシュ朝が成立していました。 スペインは新大陸においてはブラジルとアルゼンチンに広大な植民地国家を建設し、ポルトガルはメキシコの南半分に加えてペルーとコロンビアを手中にしています。 新大陸は概ねこの3か国で分割されていたといえます。 &ref(avis01.png); &ref(avis02.png); イギリスとスペインはお互いをライバル視しており、しばしば両国間には緊張が高まっていました。 しかし、両国と同盟を結ぶポルトガルが間を取り持って大きな衝突は回避されてきました。 イギリス、スペイン、ポルトガルはいずれも新大陸への進出と交易で大きな利益を手にしていた国だったので、戦争で海上交易が妨げられると双方痛手を負うという事情も関係していました。 つまり、いずれもアヴィス王朝の君主を戴く三国は、王朝という観点からも、同盟関係においても、ポルトガルを中心とした危うい均衡の中で共存してきたのです。 そうした中で、スペインで今度はそのアヴィシュ朝が断絶し、ハプスブルク朝(スペイン語ではアブスブルゴ朝)スペインが成立したのです。 &ref(ha01.png); もともとオーストリアとスペインはフランスを仮想敵国とする同盟関係を15世紀から維持してきており、両国の王家は代々婚姻を繰り返してきました。 仮想敵国のフランスが両国の国力と比較して脅威と言えなくなるほど弱体化したため両国の友好関係の持続を危ぶむものも多くいましたが、思わぬ形で絆がさらに強まったのです。 同君連合という形こそとっていませんが、ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため以後スペインは同盟関係で結ばれていたこれまで以上にオーストリアと歩調を合わせた外交を展開していくことになります。 それはアヴィス朝連合の一員としてのスペインの終焉であり、イギリス及びポルトガルからすれば国家の安全保障が根本から覆されたことを意味していました。 そして、ほぼ西ローマ帝国に匹敵する領域に加えて新大陸のブラジル・アルゼンチンを支配する広大なハプスブルク帝国が出現したことは、いまや周辺国共通の脅威と認識されるようになっていたのです。 **フェルディナント一世の即位 [#lb79a6ef] &ref(k1.jpg); フェルディナント一世 フェルディナント一世の成人までは摂政が置かれていましたが、15歳になると彼は親政を開始します。 当時のヨーロッパで受けうる最高の教育を施されてきたフェルディナント一世は類まれなる王者の資質に恵まれていました。 彼は成人前に既に神聖ローマ帝国皇帝に即位していましたが、親政の開始と同時にある宣言を出します。 「神聖ローマ帝国」というのはいかにも大層な名前ではありますが、その統治領域はほぼドイツに限定されていました。 西ローマ帝国の復興というカール大帝(シャルルマーニュ)の壮大な理想を発祥とするこの帝国は初め「帝国」もしくは「ローマ帝国」と称していました。 それが12世紀には「神聖帝国」と呼ばれるようになり、13世紀には「神聖ローマ帝国」と呼称されるようになります。 1512年以降は統治領域がドイツに限定されているのを半ば追認するような形で「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」というのが正式名称となっていました。 フェルディナント一世はこの正式名称から「ドイツ国民の(Deutscher Nation)」を削除すると宣言したのです。 これは神聖ローマ帝国そのものの領域をドイツ地域を超えて拡大するという意思表示であり、西ローマ帝国の統治領域全てをその統治領域と見做すという宣言でした。 ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされて以来、ローマ帝国の再建などというものは現実離れした考えと断じる人間が多かった中で、途方もない理想を掲げたのです。 もし彼が大言壮語を吐くだけの君主であったならば、誰も本気にはしなかったでしょう。しかし、彼は自分の理想を本気で信じる芯の強さと、果断な実行力を備えていたのです。 彼はハプスブルク家領ではあっても神聖ローマ帝国領とは見做されていなかった地域を次々に帝国に編入していきました。 フェルディナント一世はオスマン帝国に対する十字軍を発令します。 &ref(crusade02.png); 確かにそれを中世への逆行と見るものもいました。オスマン帝国の強大な軍事力に恐れをなして消極的なものもいます。しかし、 「イベリア半島でできたことが、バルカン半島でできないということがあろうか」「第二のローマを異教徒の手に委ねたままにして何がローマ帝国か」 といったフェルディナント一世の叱咤は民族の違いを超えて支持を集め、神聖ローマ帝国軍は快進撃を続けます。 &ref(crusade01.png); 異教徒に対する聖戦での華々しい勝利は、フェルディナント一世の権威をこれまでのどの皇帝よりも高めました。 **ハプスブルク=ローマ帝国の誕生 [#lb79a6ef] 神聖ローマ帝国は本来の領土に加えフランスの大部分、イタリアの大部分、ハンガリー、さらにはバルカン半島まで新たに版図に組み入れました。 神聖ローマ帝国は「ローマ帝国」を名乗るのに相応しい内実を備えつつあったといえるでしょう。 フェルディナント一世は満を持してハプスブルク家による帝位の世襲を宣言します。 これまでも事実上ハプスブルク家による世襲が行われていたため、選挙は形式的なものになりつつありましたが、選挙制度そのものの廃止は大きな意味を持ちました。 ついでフェルディナント一世は帝国諸侯の特権の廃止を宣言しました。 世界帝国の名に恥じない実力を身に着けたハプスブルク帝国に逆らう諸侯は一つとしてありませんでした。 そして、1637年ついに帝国内に残っていた全ての諸侯を神聖ローマ帝国に編入すると宣言します。 &ref(emp01.png); この時をもってこれまでの神聖ローマ帝国次代と区別して後期神聖ローマ帝国の開始あるいは「ハプスブルク=ローマ帝国」時代の開始とするのが通例となっています。 フェルディナント一世はハプスブルク=ローマ帝国を誕生させてからも精力的にオスマン帝国を初めとする諸外国に遠征を繰り返しました。 オスマン帝国からはバルカン半島の過半の領土を奪い返し、イギリスからはスコットランドに前線基地を獲得しました。 また、属国として復興していたビザンツの領土をオスマンから奪い返し、さらに属国化したウクライナが領有権を主張する各州をポーランドから割譲させました。 &ref(m01.png); 1637年 しかし、そんな彼も持病の痛風が次第に悪化し、激痛に苛まれるようになります。 そして外征よりも、社会的弱者や被差別民の救済に関心を寄せるようになっていきました。 特に「バリャドリッド論争」の名で知られる、アメリカ先住民(インディオ)の地位とインディアス問題に関する審議会で不当な先住民の差別の撤廃に道筋をつけたことは特筆に値するでしょう。 フェルディナント一世は、1665年に退位を決意し、息子のラディスラフにその地位を全て譲りました。 「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。 (略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。 もし万一、そんなことがあったとすれば、ここにゆるしを請いたい」 と述べ、続く言葉は涙で途切れたといいます。 ブリュッセルの市井の人はフェルディナント一世について次のように回想しています。 「あれこそほんとうの君主じゃった。世界中の者をもれなく庇護してくれてよ。なにかにつけて掛けがえのない方じゃった。道で出会っても、まるで隣に住んでいる者同士のように会釈されてよ。 思い出すと、ほんの少人数の家来を連れて、お拾いか馬でお出ましじゃった。あの方が息子様にここの支配を譲ったときにゃ、わしらみんなして泣いたもんじゃないか」 偉大な皇帝の退位は多くの人を悲しませましたが、フェルディナント一世の壮大な理想はしっかりと次代に受け継がれていました。 それはまさに彼が遺した「プルス・ウルトラ(もっと先へ)」という標語の通りといえるものでした。 * [[第6章 A.E.I.O.U.>AAR/華麗なる一族/第6章 A.E.I.O.U.]][#o6806ac5]
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[[AAR/華麗なる一族]] *第5章 プルス・ウルトラ[#lb79a6ef] **ハプスブルクとアブスブルゴ [#lb79a6ef] マリア=テレジア二世が死去した後はレオポルト十世の短い治世が続きました。 彼の治世はあまりに短かったため功績も失態もほとんどありませんでしたが、特筆すべきはハプスブルクの婚姻政策がまたひとつ大きな成功を収めたことでしょう。 ハプスブルク家の成功に触れる前に、簡単にイギリス、スペイン、ポルトガルの情勢について触れておきたいと思います。 イギリスではランカスター朝が断絶した後にポルトガルと同王朝のアヴィシュ朝が成立し、2世紀以上に及ぶ同盟をさらに強固なものにしていました。 大陸に野心を燃やす度に手ひどいしっぺ返しを受けたきたこの国は、フランスとの百年戦争に敗北した後はもっぱら目を新大陸に向け大きな成功を収めていました。 新大陸でもっとも豊かな北米東海岸に加えてメキシコの北半分に植民地国家を建設していたのです。 一方スペインでもトラスタマラ朝が16世紀初頭に断絶し、ポルトガル王家と代々婚姻を重ねてきたこともあり、アヴィシュ朝が成立していました。 スペインは新大陸においてはブラジルとアルゼンチンに広大な植民地国家を建設し、ポルトガルはメキシコの南半分に加えてペルーとコロンビアを手中にしています。 新大陸は概ねこの3か国で分割されていたといえます。 &ref(avis01.png); &ref(avis02.png); イギリスとスペインはお互いをライバル視しており、しばしば両国間には緊張が高まっていました。 しかし、両国と同盟を結ぶポルトガルが間を取り持って大きな衝突は回避されてきました。 イギリス、スペイン、ポルトガルはいずれも新大陸への進出と交易で大きな利益を手にしていた国だったので、戦争で海上交易が妨げられると双方痛手を負うという事情も関係していました。 つまり、いずれもアヴィス王朝の君主を戴く三国は、王朝という観点からも、同盟関係においても、ポルトガルを中心とした危うい均衡の中で共存してきたのです。 そうした中で、スペインで今度はそのアヴィシュ朝が断絶し、ハプスブルク朝(スペイン語ではアブスブルゴ朝)スペインが成立したのです。 &ref(ha01.png); もともとオーストリアとスペインはフランスを仮想敵国とする同盟関係を15世紀から維持してきており、両国の王家は代々婚姻を繰り返してきました。 仮想敵国のフランスが両国の国力と比較して脅威と言えなくなるほど弱体化したため両国の友好関係の持続を危ぶむものも多くいましたが、思わぬ形で絆がさらに強まったのです。 同君連合という形こそとっていませんが、ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため以後スペインは同盟関係で結ばれていたこれまで以上にオーストリアと歩調を合わせた外交を展開していくことになります。 それはアヴィス朝連合の一員としてのスペインの終焉であり、イギリス及びポルトガルからすれば国家の安全保障が根本から覆されたことを意味していました。 そして、ほぼ西ローマ帝国に匹敵する領域に加えて新大陸のブラジル・アルゼンチンを支配する広大なハプスブルク帝国が出現したことは、いまや周辺国共通の脅威と認識されるようになっていたのです。 **フェルディナント一世の即位 [#lb79a6ef] &ref(k1.jpg); フェルディナント一世 フェルディナント一世の成人までは摂政が置かれていましたが、15歳になると彼は親政を開始します。 当時のヨーロッパで受けうる最高の教育を施されてきたフェルディナント一世は類まれなる王者の資質に恵まれていました。 彼は成人前に既に神聖ローマ帝国皇帝に即位していましたが、親政の開始と同時にある宣言を出します。 「神聖ローマ帝国」というのはいかにも大層な名前ではありますが、その統治領域はほぼドイツに限定されていました。 西ローマ帝国の復興というカール大帝(シャルルマーニュ)の壮大な理想を発祥とするこの帝国は初め「帝国」もしくは「ローマ帝国」と称していました。 それが12世紀には「神聖帝国」と呼ばれるようになり、13世紀には「神聖ローマ帝国」と呼称されるようになります。 1512年以降は統治領域がドイツに限定されているのを半ば追認するような形で「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」というのが正式名称となっていました。 フェルディナント一世はこの正式名称から「ドイツ国民の(Deutscher Nation)」を削除すると宣言したのです。 これは神聖ローマ帝国そのものの領域をドイツ地域を超えて拡大するという意思表示であり、西ローマ帝国の統治領域全てをその統治領域と見做すという宣言でした。 ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされて以来、ローマ帝国の再建などというものは現実離れした考えと断じる人間が多かった中で、途方もない理想を掲げたのです。 もし彼が大言壮語を吐くだけの君主であったならば、誰も本気にはしなかったでしょう。しかし、彼は自分の理想を本気で信じる芯の強さと、果断な実行力を備えていたのです。 彼はハプスブルク家領ではあっても神聖ローマ帝国領とは見做されていなかった地域を次々に帝国に編入していきました。 フェルディナント一世はオスマン帝国に対する十字軍を発令します。 &ref(crusade02.png); 確かにそれを中世への逆行と見るものもいました。オスマン帝国の強大な軍事力に恐れをなして消極的なものもいます。しかし、 「イベリア半島でできたことが、バルカン半島でできないということがあろうか」「第二のローマを異教徒の手に委ねたままにして何がローマ帝国か」 といったフェルディナント一世の叱咤は民族の違いを超えて支持を集め、神聖ローマ帝国軍は快進撃を続けます。 &ref(crusade01.png); 異教徒に対する聖戦での華々しい勝利は、フェルディナント一世の権威をこれまでのどの皇帝よりも高めました。 **ハプスブルク=ローマ帝国の誕生 [#lb79a6ef] 神聖ローマ帝国は本来の領土に加えフランスの大部分、イタリアの大部分、ハンガリー、さらにはバルカン半島まで新たに版図に組み入れました。 神聖ローマ帝国は「ローマ帝国」を名乗るのに相応しい内実を備えつつあったといえるでしょう。 フェルディナント一世は満を持してハプスブルク家による帝位の世襲を宣言します。 これまでも事実上ハプスブルク家による世襲が行われていたため、選挙は形式的なものになりつつありましたが、選挙制度そのものの廃止は大きな意味を持ちました。 ついでフェルディナント一世は帝国諸侯の特権の廃止を宣言しました。 世界帝国の名に恥じない実力を身に着けたハプスブルク帝国に逆らう諸侯は一つとしてありませんでした。 そして、1637年ついに帝国内に残っていた全ての諸侯を神聖ローマ帝国に編入すると宣言します。 &ref(emp01.png); この時をもってこれまでの神聖ローマ帝国次代と区別して後期神聖ローマ帝国の開始あるいは「ハプスブルク=ローマ帝国」時代の開始とするのが通例となっています。 フェルディナント一世はハプスブルク=ローマ帝国を誕生させてからも精力的にオスマン帝国を初めとする諸外国に遠征を繰り返しました。 オスマン帝国からはバルカン半島の過半の領土を奪い返し、イギリスからはスコットランドに前線基地を獲得しました。 また、属国として復興していたビザンツの領土をオスマンから奪い返し、さらに属国化したウクライナが領有権を主張する各州をポーランドから割譲させました。 &ref(m01.png); 1637年 しかし、そんな彼も持病の痛風が次第に悪化し、激痛に苛まれるようになります。 そして外征よりも、社会的弱者や被差別民の救済に関心を寄せるようになっていきました。 特に「バリャドリッド論争」の名で知られる、アメリカ先住民(インディオ)の地位とインディアス問題に関する審議会で不当な先住民の差別の撤廃に道筋をつけたことは特筆に値するでしょう。 フェルディナント一世は、1665年に退位を決意し、息子のラディスラフにその地位を全て譲りました。 「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。 (略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。 もし万一、そんなことがあったとすれば、ここにゆるしを請いたい」 と述べ、続く言葉は涙で途切れたといいます。 ブリュッセルの市井の人はフェルディナント一世について次のように回想しています。 「あれこそほんとうの君主じゃった。世界中の者をもれなく庇護してくれてよ。なにかにつけて掛けがえのない方じゃった。道で出会っても、まるで隣に住んでいる者同士のように会釈されてよ。 思い出すと、ほんの少人数の家来を連れて、お拾いか馬でお出ましじゃった。あの方が息子様にここの支配を譲ったときにゃ、わしらみんなして泣いたもんじゃないか」 偉大な皇帝の退位は多くの人を悲しませましたが、フェルディナント一世の壮大な理想はしっかりと次代に受け継がれていました。 それはまさに彼が遺した「プルス・ウルトラ(もっと先へ)」という標語の通りといえるものでした。 * [[第6章 A.E.I.O.U.>AAR/華麗なる一族/第6章 A.E.I.O.U.]][#o6806ac5]
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