AAR/華麗なる一族/第3章 皇帝とペチコート
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[[AAR/華麗なる一族]] *第3章 皇帝とペチコート [#lb79a6ef] **レオポルト九世の即位 [#lb79a6ef] &ref(karl6.JPG); レオポルト九世 レオポルト八世が1519年に死亡すると、その後を継いだのはレオポルト九世でした。レオポルト八世があらかじめ選帝侯国の支持を取り付けていたためレオポルト九世の即位はスムーズに行われました。 レオポルト九世は父レオポルト八世のような煌びやかさこそなかったものの、物静かで思慮深い人物であり、統治者としての資質は十分でした。 皇帝に即位すると、彼が真っ先に手をつけたのはボヘミアでした。 ボヘミアでは既にプロテスタントが多数派を形成する勢いで宗教内乱に発展していました。プロテスタントの教えが広がるのを抑える意味でも、ボヘミアが選帝侯国であるという事実からも、これを見過ごすことはできなかったのです。 レオポルト九世の母がボヘミア王女だったことも介入を容易にしていました。 愛妻マリー・ド・ブルゴーニュを失ってから、アンヌ・ド・ブルターニュとの再婚をシャルル八世いに妨害されて後、レオポルト八世はボヘミア王女と再婚しており、レオポルト九世が生まれていたのです。 ボヘミア王が後継者がないまま宗教混乱の中で命を落としたという報を聞きつけると、レオポルト九世は自身の継承権を主張して、ボヘミアに侵攻しました。 戦争は皇帝軍の圧倒的優位のまま終了し、レオポルト九世は以後ボヘミア王の称号を手にしました。 &ref(bohemia1.png); つまり、父から継承したオーストリア大公、ハンガリー王、ブルゴーニュ公の称号にボヘミア王の称号が加わることになったのです。 選帝侯国のボヘミアを押さえたというのは皇帝の世襲を狙っているハプスブルク家にとってとりわけ大きな意味を持ちました。 ハプスブルク家による帝位の世襲にまた一歩近づくことができたからです。 &ref(union001.png); **後継者問題 [#lb79a6ef] では、ボヘミア王の称号を手にしてレオポルト九世が安心できたかと言えば、そんなことはありませんでした。 なぜなら、レオポルト九世自身がなかなか子宝に恵まれなかったからです。 待望の第一子は珠のように美しいマリア=テレジアという名の女の子でした。 マリア=テレジアは祖父レオポルト八世譲りの美貌に加え、才気煥発で、子煩悩のレオポルト九世を喜ばせたのですが、ハプスブルク家の当主としては大きなハンディキャップを負っていました。 すなわち女性として生を受けたことでした。何より、神聖ローマ帝国の皇帝に女性は即位することが認められていないのです。 いくらレオポルト九世が皇帝であるといっても、一存で女子の後継者を国際的に承認させることは難しいのです。 レオポルト九世は帝国諸侯の支持を得るために奔走しましたが、帝国諸侯はマリア=テレジアをハプスブルク家の後継者として承認する見返りに様々な特権や領地を要求してきました。 父レオポルト八世の時代には靴でさえ舐めるように這いつくばっていた連中が一斉に禿鷹のように群がってきたのです。 レオポルト九世は帝国諸侯が神聖ローマ帝国皇帝を敬っていたわけでなく、あくまでレオポルト八世個人にひれ伏していただけだということを痛感しました。 特に高圧的な態度に出てきたのはバイエルン公国でした。 次期皇帝の称号であるローマ王の称号を堂々と要求してきたのです。それだけでなく、レオポルト八世が取り上げた2州の返還と遠縁にあたるボヘミア王位まで要求してきました。 フランスはかねてから主張していたブルゴーニュ公国の支配権を寄越せと息巻きます。 バイエルンが強気に出られたのはフランスが次期皇帝即位の後ろ盾となることを約束したからでした。 レオポルト九世は選帝侯国の支持を取り付けることを最優先し、マリア=テレジアのローマ王就任を既成事実化するという方策を取ることにしました。 半ば強引にローマ王としての戴冠を敢行したのです。 &ref(pragmatic01.png); **マリア=テレジア一世の即位 [#lb79a6ef] &ref(maria01.png); もし、レオポルト九世がマリア=テレジアをローマ王につけてから10年、いや5年でも生きることができたら、マリア=テレジアの皇位継承はレオポルト九世の思惑通り既成事実化できていたかもしれません。 しかし、レオポルト九世はマリア=テレジアをローマ王につけてから3年足らずで亡くなってしまいました。このとき、マリア=テレジアはロレーヌ公子と結婚をしていましたが、まだ18歳の少女でした。 &ref(maria.jpg); マリア=テレジア一世 ハプスブルク家の発展を優先するなら彼女を強力にバックアップできる身分の夫を選ぶべきだったのでしょうが、マリア=テレジアがフランツに夢中になっており、またレオポルト九世自身もフランツを気に入ったためこの結婚を認めたのです。 こうして当時としては奇跡的な恋愛結婚をしていたわけですが、多くのプロポーズを袖にしたことにもなり、マリア=テレジアは一層厳しい状況に置かれたといえます。 しかし、マリア=テレジアは悲劇のヒロインになるつもりはありませんでした。父から受け継いだ領地を一片たりとも失うことは彼女の矜持が許さなかったのです。 バイエルン公は明らかにマリア=テレジアを見た目がいいだけの小娘と馬鹿にしていました。そして、かねてから野心を燃やしていたアンスバッハに侵攻を開始したのです。 マリア=テレジアには介入する勇気などないであろうし、仮に勢いで介入を宣言したとしても、ちょっと脅しをかけてやりさえすれば、泣いて許しを請うだろうという軽い考えでした。 皇帝の裁可なく帝国領の現状変更は許さないというのはレオポルト八世から絶対の不文律と認識されていましたから、これは明らかにマリア=テレジアに対する挑戦です。 マリア=テレジアは介入を宣言します。しかし、重臣たちは「バイエルンの行為に多少目を瞑るくらいでハプスブルク家領が保たれるのであれば静観するのが得策でしょう」などと抜けぬけと申します。 保身を図っていた者が多くいたのもありましたし、なかにはバイエルン公やフランス王に買収されていた者さえいたのです。 マリア=テレジアはウィーンの本領が頼りにならないと判断すると、僅かなお供だけを連れてハンガリーに向かいました。軍の派遣と財政援助を得るためです。 ハンガリー議会の貴族たちは当初、気が済むだけ喋らせたら帰らせようくらいのつもりでいました。 というのも、長く同君連合で同じ君主を戴いてきたとはいえ、ハンガリーには独立気質が強く残っており、分離独立を求める運動もしばしば起こっていたのです。 オーストリア側にもハンガリー人を見下す傾向は少なからず残っていました。 美貌の女王は冷ややかな視線を浴びながら壇上に上りましたが、彼女が話を始めると貴族たちの目つきが変わります。 その口から出てきたのはドイツ語でもなく、当時の教養人の共通言語だったラテン語でもなく、流暢なハンガリー語だったからです。 彼女はありがちな修飾語で言葉を飾ることはしませんでしたが、簡潔に核心をついた状況説明に始まり、自分がいかに窮状にあるか、どれだけハンガリーを頼りにしているか、自分がハンガリー女王としていかにハンガリーを愛しているか、を涙ながらに滔々と訴えます。 貴族たちの中には演説の途中で感動のあまり涙を流すものもありました。 マリア=テレジアが演説を終えると、議場は割れんばかりの拍手がいつまでも続いたといいます。 ハンガリー議会は女王に絶対の忠誠を誓い、軍の派遣と財政援助を約束しました。以後、ハンガリー軍はマリア=テレジアの最も忠実な中核軍を構成することになります。 **オーストリア継承戦争 [#lb79a6ef] ハンガリーで素早く軍を編成した彼女はさすがに陣頭に立つことはありませんでしたが、アンスバッハを包囲中のバイエルン軍を尻目にミュンヘン及びニュルンベルクの包囲を指示します。 自国が攻められることをほとんど想定していなかったバイエルンにはろくに守備兵が残っておらず、ハンガリーから動員された大軍に仰天して、すぐに開城してしまいました。 泣いて許しを請うことになったのはバイエルン公の方になりました。 マリア=テレジアは沈着冷静に判断することもできましたが、その本質は激情家でもあります。 同じヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯(プファルツ選帝侯)からバイエルンが強奪していたフランケン州を返還させると同時に、ミュンヘン及びニュルンベルクについては皇帝領として接収することを宣言します。 つまり、バイエルン公国を完全に消滅させる決断をしたのです。ライン宮中伯は労することなく旧領を取り戻すことができたわけで反対する理由はありませんし、長年のヴィッテルスバッハ家内の抗争にケリをつけようと率先してこれを支持しました。 これを手始めにマリア=テレジアは自身の継承に反対するものには容赦なく制裁を加えました。 最終的にフランスも介入してきましたが、逆侵攻してマリア=テレジアの皇帝即位の承認に加えて2州の割譲を認めさせました。 帝国諸侯たち及び外国の国王たちはマリア=テレジアがレオポルト八世にも劣らない傑物であることを認めざるを得なくなります。 戦勝の勢いがあるうちに彼女はハプスブルク家領の再編に乗り出すことにしました。 すなわち同君連合の形を取っていたブルゴーニュ公領及びハンガリー王領をオーストリアに編入して直轄領にすると決断したのです。 ここでも彼女の外交手腕が如何なく発揮されました。 &ref(map01.png); 1546年 これまで国ごとにバラバラだった度量衡や通貨を統一し、行政効率を大きく高めることに成功します。 また、寺院や工房等のインフラ設備の整備も進み、国民の生活水準は飛躍的に向上しました。 これまではあくまでハプスブルク家の発展が主眼でしたが、ようやく国民全体の繁栄にも光が当たってきたのです。 マリア=テレジアはペチコートを身に着けた初の神聖ローマ皇帝となっただけでなく、国母として慕われるようになったのでした。 * [[第4章 王錫と磔刑像>AAR/華麗なる一族/第4章 王錫と磔刑像]][#o6806ac5]
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[[AAR/華麗なる一族]] *第3章 皇帝とペチコート [#lb79a6ef] **レオポルト九世の即位 [#lb79a6ef] &ref(karl6.JPG); レオポルト九世 レオポルト八世が1519年に死亡すると、その後を継いだのはレオポルト九世でした。レオポルト八世があらかじめ選帝侯国の支持を取り付けていたためレオポルト九世の即位はスムーズに行われました。 レオポルト九世は父レオポルト八世のような煌びやかさこそなかったものの、物静かで思慮深い人物であり、統治者としての資質は十分でした。 皇帝に即位すると、彼が真っ先に手をつけたのはボヘミアでした。 ボヘミアでは既にプロテスタントが多数派を形成する勢いで宗教内乱に発展していました。プロテスタントの教えが広がるのを抑える意味でも、ボヘミアが選帝侯国であるという事実からも、これを見過ごすことはできなかったのです。 レオポルト九世の母がボヘミア王女だったことも介入を容易にしていました。 愛妻マリー・ド・ブルゴーニュを失ってから、アンヌ・ド・ブルターニュとの再婚をシャルル八世いに妨害されて後、レオポルト八世はボヘミア王女と再婚しており、レオポルト九世が生まれていたのです。 ボヘミア王が後継者がないまま宗教混乱の中で命を落としたという報を聞きつけると、レオポルト九世は自身の継承権を主張して、ボヘミアに侵攻しました。 戦争は皇帝軍の圧倒的優位のまま終了し、レオポルト九世は以後ボヘミア王の称号を手にしました。 &ref(bohemia1.png); つまり、父から継承したオーストリア大公、ハンガリー王、ブルゴーニュ公の称号にボヘミア王の称号が加わることになったのです。 選帝侯国のボヘミアを押さえたというのは皇帝の世襲を狙っているハプスブルク家にとってとりわけ大きな意味を持ちました。 ハプスブルク家による帝位の世襲にまた一歩近づくことができたからです。 &ref(union001.png); **後継者問題 [#lb79a6ef] では、ボヘミア王の称号を手にしてレオポルト九世が安心できたかと言えば、そんなことはありませんでした。 なぜなら、レオポルト九世自身がなかなか子宝に恵まれなかったからです。 待望の第一子は珠のように美しいマリア=テレジアという名の女の子でした。 マリア=テレジアは祖父レオポルト八世譲りの美貌に加え、才気煥発で、子煩悩のレオポルト九世を喜ばせたのですが、ハプスブルク家の当主としては大きなハンディキャップを負っていました。 すなわち女性として生を受けたことでした。何より、神聖ローマ帝国の皇帝に女性は即位することが認められていないのです。 いくらレオポルト九世が皇帝であるといっても、一存で女子の後継者を国際的に承認させることは難しいのです。 レオポルト九世は帝国諸侯の支持を得るために奔走しましたが、帝国諸侯はマリア=テレジアをハプスブルク家の後継者として承認する見返りに様々な特権や領地を要求してきました。 父レオポルト八世の時代には靴でさえ舐めるように這いつくばっていた連中が一斉に禿鷹のように群がってきたのです。 レオポルト九世は帝国諸侯が神聖ローマ帝国皇帝を敬っていたわけでなく、あくまでレオポルト八世個人にひれ伏していただけだということを痛感しました。 特に高圧的な態度に出てきたのはバイエルン公国でした。 次期皇帝の称号であるローマ王の称号を堂々と要求してきたのです。それだけでなく、レオポルト八世が取り上げた2州の返還と遠縁にあたるボヘミア王位まで要求してきました。 フランスはかねてから主張していたブルゴーニュ公国の支配権を寄越せと息巻きます。 バイエルンが強気に出られたのはフランスが次期皇帝即位の後ろ盾となることを約束したからでした。 レオポルト九世は選帝侯国の支持を取り付けることを最優先し、マリア=テレジアのローマ王就任を既成事実化するという方策を取ることにしました。 半ば強引にローマ王としての戴冠を敢行したのです。 &ref(pragmatic01.png); **マリア=テレジア一世の即位 [#lb79a6ef] &ref(maria01.png); もし、レオポルト九世がマリア=テレジアをローマ王につけてから10年、いや5年でも生きることができたら、マリア=テレジアの皇位継承はレオポルト九世の思惑通り既成事実化できていたかもしれません。 しかし、レオポルト九世はマリア=テレジアをローマ王につけてから3年足らずで亡くなってしまいました。このとき、マリア=テレジアはロレーヌ公子と結婚をしていましたが、まだ18歳の少女でした。 &ref(maria.jpg); マリア=テレジア一世 ハプスブルク家の発展を優先するなら彼女を強力にバックアップできる身分の夫を選ぶべきだったのでしょうが、マリア=テレジアがフランツに夢中になっており、またレオポルト九世自身もフランツを気に入ったためこの結婚を認めたのです。 こうして当時としては奇跡的な恋愛結婚をしていたわけですが、多くのプロポーズを袖にしたことにもなり、マリア=テレジアは一層厳しい状況に置かれたといえます。 しかし、マリア=テレジアは悲劇のヒロインになるつもりはありませんでした。父から受け継いだ領地を一片たりとも失うことは彼女の矜持が許さなかったのです。 バイエルン公は明らかにマリア=テレジアを見た目がいいだけの小娘と馬鹿にしていました。そして、かねてから野心を燃やしていたアンスバッハに侵攻を開始したのです。 マリア=テレジアには介入する勇気などないであろうし、仮に勢いで介入を宣言したとしても、ちょっと脅しをかけてやりさえすれば、泣いて許しを請うだろうという軽い考えでした。 皇帝の裁可なく帝国領の現状変更は許さないというのはレオポルト八世から絶対の不文律と認識されていましたから、これは明らかにマリア=テレジアに対する挑戦です。 マリア=テレジアは介入を宣言します。しかし、重臣たちは「バイエルンの行為に多少目を瞑るくらいでハプスブルク家領が保たれるのであれば静観するのが得策でしょう」などと抜けぬけと申します。 保身を図っていた者が多くいたのもありましたし、なかにはバイエルン公やフランス王に買収されていた者さえいたのです。 マリア=テレジアはウィーンの本領が頼りにならないと判断すると、僅かなお供だけを連れてハンガリーに向かいました。軍の派遣と財政援助を得るためです。 ハンガリー議会の貴族たちは当初、気が済むだけ喋らせたら帰らせようくらいのつもりでいました。 というのも、長く同君連合で同じ君主を戴いてきたとはいえ、ハンガリーには独立気質が強く残っており、分離独立を求める運動もしばしば起こっていたのです。 オーストリア側にもハンガリー人を見下す傾向は少なからず残っていました。 美貌の女王は冷ややかな視線を浴びながら壇上に上りましたが、彼女が話を始めると貴族たちの目つきが変わります。 その口から出てきたのはドイツ語でもなく、当時の教養人の共通言語だったラテン語でもなく、流暢なハンガリー語だったからです。 彼女はありがちな修飾語で言葉を飾ることはしませんでしたが、簡潔に核心をついた状況説明に始まり、自分がいかに窮状にあるか、どれだけハンガリーを頼りにしているか、自分がハンガリー女王としていかにハンガリーを愛しているか、を涙ながらに滔々と訴えます。 貴族たちの中には演説の途中で感動のあまり涙を流すものもありました。 マリア=テレジアが演説を終えると、議場は割れんばかりの拍手がいつまでも続いたといいます。 ハンガリー議会は女王に絶対の忠誠を誓い、軍の派遣と財政援助を約束しました。以後、ハンガリー軍はマリア=テレジアの最も忠実な中核軍を構成することになります。 **オーストリア継承戦争 [#lb79a6ef] ハンガリーで素早く軍を編成した彼女はさすがに陣頭に立つことはありませんでしたが、アンスバッハを包囲中のバイエルン軍を尻目にミュンヘン及びニュルンベルクの包囲を指示します。 自国が攻められることをほとんど想定していなかったバイエルンにはろくに守備兵が残っておらず、ハンガリーから動員された大軍に仰天して、すぐに開城してしまいました。 泣いて許しを請うことになったのはバイエルン公の方になりました。 マリア=テレジアは沈着冷静に判断することもできましたが、その本質は激情家でもあります。 同じヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯(プファルツ選帝侯)からバイエルンが強奪していたフランケン州を返還させると同時に、ミュンヘン及びニュルンベルクについては皇帝領として接収することを宣言します。 つまり、バイエルン公国を完全に消滅させる決断をしたのです。ライン宮中伯は労することなく旧領を取り戻すことができたわけで反対する理由はありませんし、長年のヴィッテルスバッハ家内の抗争にケリをつけようと率先してこれを支持しました。 これを手始めにマリア=テレジアは自身の継承に反対するものには容赦なく制裁を加えました。 最終的にフランスも介入してきましたが、逆侵攻してマリア=テレジアの皇帝即位の承認に加えて2州の割譲を認めさせました。 帝国諸侯たち及び外国の国王たちはマリア=テレジアがレオポルト八世にも劣らない傑物であることを認めざるを得なくなります。 戦勝の勢いがあるうちに彼女はハプスブルク家領の再編に乗り出すことにしました。 すなわち同君連合の形を取っていたブルゴーニュ公領及びハンガリー王領をオーストリアに編入して直轄領にすると決断したのです。 ここでも彼女の外交手腕が如何なく発揮されました。 &ref(map01.png); 1546年 これまで国ごとにバラバラだった度量衡や通貨を統一し、行政効率を大きく高めることに成功します。 また、寺院や工房等のインフラ設備の整備も進み、国民の生活水準は飛躍的に向上しました。 これまではあくまでハプスブルク家の発展が主眼でしたが、ようやく国民全体の繁栄にも光が当たってきたのです。 マリア=テレジアはペチコートを身に着けた初の神聖ローマ皇帝となっただけでなく、国母として慕われるようになったのでした。 * [[第4章 王錫と磔刑像>AAR/華麗なる一族/第4章 王錫と磔刑像]][#o6806ac5]
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