AAR/華麗なる一族/第2章 中世最後の騎士
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[[AAR/華麗なる一族]] *第2章 中世最後の騎士 [#lb79a6ef] **レオポルト八世の即位 [#lb79a6ef] &ref(max.jpg); レオポルト八世 フリードリヒ三世が1486年に泉下の人となったとき、跡を継いだのは長男レオポルトでした。 レオポルト八世として皇帝に即位すると、彼は同君連合という形だけではなく、ハプスブルク家の直轄領を増やすことを決意します。 ブルゴーニュとハンガリーと同君連合を形成しているとはいっても、レオポルトが皇帝の地位を手にするためには選帝侯国に対し、特別な恩寵を与えたり、多額の資金援助を約束することが必要でした。 つまりは歴代の皇帝と同様に、絶対的な君主たる「皇帝」として君臨するには程遠い状態にあったのです。フランス王が皇帝の地位に野心を抱き買収攻勢をかけてきたことがそれに拍車を掛けました。 銀行家であるフッガー家一族の融資とフランドル地方からもたらされる莫大な上納金がなければ、レオポルトは皇帝に即位することも危うい状態でした。 レオポルトが目を向けたのはオーストリアから地理的に近く豊かな領土、すなわちイタリアでした。 歴代の皇帝がイタリア政策に拘泥するあまりドイツの分裂状態を加速させていったことはレオポルトも承知しています。 それに、普段はいがみ合っているイタリア諸国も皇帝がイタリアに野心を抱いたときには一致団結してこれを退けてきた事実を忘れたわけでもありません。 それでも、レオポルトがイタリアに狙いをつけたのは確かな勝算があったからでした。 **イタリア政策 [#lb79a6ef] &ref(map01.png); 1485年 レオポルトはスイスとサヴォイアの小競り合いにイタリア諸国がそれぞれ介入しているのに目をつけます。 双方の戦力が互角だったため泥沼化していたこの戦争を皇帝として仲裁すると宣言してサヴォイア側に立ってスイスに宣戦布告したのです。 彼はハプスブルク発祥の地であるスイスを敵に回すことも厭いませんでした。 そして、皇帝に従いさえすれば既得権益以上のものを手にできると暗に仄めかしたのです。 ジェノヴァにはライバルのヴェネツィアが押さえていた交易の利権を約束し、フェラーラに対してはモデナの併合を承認し、トスカーナにはアラゴンとの同君連合が解消されて以来自立の道を選んでいたナポリ侵攻の資金援助をするといった具合です。 既得権益以上のものを手にするものが出てくれば、当然失うものも出てきます。 いちばん割を喰ったのはヴェネツィアでした。 ヴェローナ、クレモナ、ブレシアといった豊かな州を手放すことを強要され、これらは実質的にオーストリアに組み込まれました。 かつてローマ帝国は「分割して統治せよ」という格言の元に属州が一致団結できないように腐心しましたが、まさにそれをイタリアで実践したわけです。 「イタリア」というのはかつてのローマ帝国の本拠地であったと人々に記憶されてはいたものの、国家の単位として意識されることは稀で、メッテルニヒの言葉を借りれば「地理的な表現以上のものではない」といった有様だったのです。 皇帝が帝国諸侯同士の争いを黙認あるいは奨励さえしている状況を見て諸侯は色めき立ちました。 しかし、レオポルト八世は諸侯のやりたい放題にさせていたわけではありません。もし諸侯の好き勝手にさせたら皇帝の権威など失墜してしまいます。 現に、バイエルンがアンスバッハの支配権を求めて侵攻を開始した時にはアンスバッハ側に立って介入し、逆にバイエルンから2州を割譲させています。 つまり、帝国のあらゆる現状変更には皇帝の承認を要するという事実を確固たる形で示したのです。 帝国でも随一の名門であるヴィッテルスバッハ家ですら、ハプスブルク家に逆らうと父祖伝来の地を失うことになるという事実は諸侯を恐怖させました。 ここにきて諸侯はハプスブルク家に楯突くよりも擦り寄った方が甘い汁が吸えると認識を改めたのでした。 レオポルトはモデナを併合したフェラーラも外交的手段を持って属国化し、これをオーストリアに編入します。 ハプスブルク家の直轄領は飛躍的に拡大したのでした。 **イタリア戦争の幕開け [#lb79a6ef] さて、ブルゴーニュ公国領の獲得に失敗し、神聖ローマ帝国の指名争いにも敗れたフランスはハプスブルク家の拡大をただ黙ってみていただけだったのでしょうか。 もちろん、そんなことはありませんでした。 ブルターニュ公国継承権を持つアンヌ・ド・ブルターニュはレオポルト八世の再婚相手として婚約していました。 しかし、フランス王シャルル八世は突如ブルターニュに侵攻すると強引にアンヌと結婚式を敢行してブルターニュを事実上併合してしまいます。 &ref(anne.jpg); アンヌ・ド・ブルターニュ また、メーン、アンジュ―、プロヴァンスの3州を獲得し、アヴィニョンの教皇領も直轄地として併合しました。 さらに、ジェノヴァの要請に応じてサヴォイアに侵攻した折に電撃的にクネオ州を占領しこれを強引に自国に併合してしまいました。 これまでハプスブルクにしてやられたばかりだったフランスが凱歌を上げたのは言うまでもありません。 帝国諸侯同士で領地のやり取りがあるのはともかく、帝国外の国に領土を侵犯されたとなっては、皇帝として見過ごすわけにはいきません。 レオポルト八世はフランスが不法に占拠したクネオ州をサヴォイアに返還せよと要求を突きつけます。 これに対しフランスは教皇を担ぎ出して対抗します。 ハプスブルク家の威勢に恐れをなした教皇クレメンス七世はアヴィニョン捕囚時代を忘れたかのようにフランスと接近を図ります。 そして、教皇領以外のイタリアは暫定的にフランスの委任統治領とする、とする布告を出すことを了承します。 つまり、オーストリア及びフランスが双方のイタリア領の支配権を否定するという緊張状態が生まれたのでした。 &ref(italian01.png); 叙任権闘争に代表されるように、神聖ローマ帝国の歴史において皇帝と教皇の対立は事あるごとに表面化しますが、レオポルト八世もその例外足り得なかったということでしょう。 しかし、ここですごすごと引き下がるレオポルト八世ではありません。 これ以上フランスに大きな顔をさせないために不測の事態に備えてハプスブルク家領の拡大路線を一端中断します。 そして機が熟すのを待ったのでした。機が熟すのも待つ忍耐力はレオポルト八世が父フリードリヒ三世から受け継いだ類まれなる資質でした。 **ミラノ防衛戦争の勃発 [#lb79a6ef] さて、オースストリア及びフランスの直接的な激突が起こらない中で先に焦れたのはフランスでした。 教皇領以外のイタリアに対する委任統治権を教皇から取り付けはしたものの、それにイタリア諸国が素直に従うはずもなく、イタリアの委任統治権はいわば絵に描いた餅に過ぎませんでした。 初めこそ皇帝の高圧的な支配からの解放というスタンスでイタリア諸国に取り入ろうとしたフランスですが、次第にイタリアの支配者として横暴な振る舞いが目立つようになります。 フランス人に交易上の特権を認めろであるとか、対オーストリア戦に備えて戦費を供出しろだとか、イタリア諸国が嫌がる要求を次々に突きつけたのです。 当初イタリア諸国はフランス及びオーストリアどちらか一方に与する危険をおかさず、保険の意味も含めて両方に良い顔をするというお得意のしたたかさを発揮していました。 ひとつひとつは基本的に都市国家に過ぎない彼らが皇帝から独立を保ち続けることができたのはこのしたたかさによるものが大きいと言えるでしょう。 しかし、フランスからの要求がエスカレートしていくに従い、徐々に反フランスに傾いていきました。 フランスがもう何度目になるかわからない要求を突きつけた時、ついにミラノがこれを全面的に拒否します。 これを聞くとちょうどよい口実ができたとばかりにフランスはミラノへ宣戦布告しました。 &ref(milano01.png); ミラノはかつてオーストリアがブルゴーニュと対立した時にはブルゴーニュ側に立ってオーストリアとは敵対した過去がありましたが、フランスの侵攻に対してはオーストリアに助力を嘆願しました。 神聖ローマ帝国は領邦の中でこそ絶えず争いが繰り広げられていましたが、外国の侵略に対しては一致団結して防衛にあたってきたのであり、帝国諸国防衛はまさに皇帝の最大の責務と言ってよいものでした。 レオポルト八世は参戦要請に快く応じます。 オーストリア・フランス両軍はついに直接戦火を交えることとなったのです。 &ref(milano02.png); フランスは自国が支配を強めていたイタリア諸国がフランス側に立って参戦するのを当然のように期待していましたが、イタリア諸国を始め、この侵略戦争に加担する国は一つとしてありませんでした。 オーストリアはフランス戦に備えて国庫には十分な資金を用意していましたが、対外的には資金が足りないといってフランスの油断を誘いつつ、暗にイタリア諸国からの寄付を募ります。 当事国のミラノはもちろん、他のイタリア諸国も積極的に皇帝側に財政援助を申し出たのはフランスの神経を逆撫でするのに効果抜群でした。 **将軍レオポルト八世 [#lb79a6ef] &ref(max02.jpg); 鎧姿のレオポルト八世 レオポルト八世は父にはない贈り物を神から授かっていました。 かつてフィリップ突進公と刃を交えたときに彼を惚れ込ませたように、優美な容姿と騎士としての高潔な人柄、そして将軍としての類まれなる資質を備えていたのです。 父フリードリヒ三世が決して戦場に出ようとはしなかったのと対照的にレオポルト八世は戦場に生きた皇帝でした。 フランスにはブルターニュ戦争やプロフヴァンス戦争を勝ち抜いた百戦錬磨の将軍がいましたが、一歩も退くことはことなく、激闘を繰り広げました。 &ref(milano3.png); &ref(milano4.png); 一般兵にも細やかな気遣いを絶やさなかった彼は多くの将兵を感動させました。 宮廷にあって策謀を巡らせるのが好きで「蜘蛛」とあだ名されたフランス王と中世最後の騎士と評されたレオポルト八世は対照的であり、戦場においてそれは士気の差となって現れます。 時にフランス軍よりも多くの損害を出しながらも、着実に会戦での勝利を重ねていきました。 フランスは国庫が戦争支出に耐え切れなくなるとともに人的資源も底を尽き、ついにオーストリア側の勝利を認めて講和に応じます。 &ref(peace.png); レオポルト八世はクネオ州をサヴォイアに返還させるという約束をしっかり守りました。 それだけでなく、フランスがアラゴンから奪い取っていたピレネー州をカスティーリャに割譲させます。 これはフリードリヒ三世がハプスブルク家だけの利益を追求して一部で反感を買ったことの反省が生かされていました。 ハプスブルク自身にはかつてブルゴーニュ領だったヌヴェールをブルゴーニュに返還させ、シャンパーニュ州を直轄領に組み込みます。 イタリア戦争は皇帝の全面勝利で幕を閉じたのです。 **宗教改革 [#lb79a6ef] さて、フランスの影響力をイタリアから排除した後にフランス側と結んだ教皇クレメンス七世をそのままにしておく程レオポルト八世はお人よしではありません。 教皇は精神に異常をきたしたということにして事実上の軟禁状態に追い込み、新しい教皇を擁立します。 &ref(choice.png); 枢機卿の選出にも影響力を行使し、皇帝に敵対的な人物が教皇に就任することがないよう目を光らせるようにしました。 しかし、フランスがイタリア諸侯の反感を買った二の舞を演じることはないと判断し、皇帝に敵対的だったヴェネツィアを例外として、イタリアで領土を割譲させることは避けました。 フランスに侵略された当事国であるミラノ公国及びクネオ州の返還を受けたサヴォイア公国は皇帝に深く感謝し、以後はイタリアにおける皇帝派として振る舞うようになります。 着実に皇帝権限を強化していったレオポルト八世でしたが、最後まで順風満帆というわけにはいきませんでした。 後に宗教改革と呼ばれることになる一大運動が始まったのです。 &ref(protestant01.png); レオポルト八世は教皇庁の求めに応じて、95か条の論題を発表したマルティン=ルターをヴォルムス議会に招集しました。 ルターは教皇庁の腐敗、とりわけ贖宥状の販売について鋭く糾弾します。 レオポルト八世は教皇庁の腐敗に一人のキリスト教徒として義憤を感じていたこともあり、口にこそ出さなかかったものの、ルターの宗教的情熱に敬意を持ったといいます。 教皇庁は彼を異端者として処刑することを求めましたが、レオポルト八世はこれを許しませんでした。 ひとたび自由通行証を与えて召喚したからには、尋問後に断罪して処刑するのは王者の振る舞いとして相応しくない、というのです。 腐敗した聖職者を野放しにしておいてルターだけを処刑して、どう教皇庁は示しをつけるのだ、と言われると自身も脛に傷を持つ枢機卿たちも押し黙るしかありませんでした。 ひとりの騎士としては称賛される判断だったかもしれませんが、プロテスタントの活動に対する事実上の黙認と受け取った新教徒たちは瞬く間にその勢力を拡大させていきます。 そして、宗教問題は次代以降に持ち越されることになったのです。 * [[第3章 皇帝とペチコート>AAR/華麗なる一族/第3章 皇帝とペチコート]][#o6806ac5]
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[[AAR/華麗なる一族]] *第2章 中世最後の騎士 [#lb79a6ef] **レオポルト八世の即位 [#lb79a6ef] &ref(max.jpg); レオポルト八世 フリードリヒ三世が1486年に泉下の人となったとき、跡を継いだのは長男レオポルトでした。 レオポルト八世として皇帝に即位すると、彼は同君連合という形だけではなく、ハプスブルク家の直轄領を増やすことを決意します。 ブルゴーニュとハンガリーと同君連合を形成しているとはいっても、レオポルトが皇帝の地位を手にするためには選帝侯国に対し、特別な恩寵を与えたり、多額の資金援助を約束することが必要でした。 つまりは歴代の皇帝と同様に、絶対的な君主たる「皇帝」として君臨するには程遠い状態にあったのです。フランス王が皇帝の地位に野心を抱き買収攻勢をかけてきたことがそれに拍車を掛けました。 銀行家であるフッガー家一族の融資とフランドル地方からもたらされる莫大な上納金がなければ、レオポルトは皇帝に即位することも危うい状態でした。 レオポルトが目を向けたのはオーストリアから地理的に近く豊かな領土、すなわちイタリアでした。 歴代の皇帝がイタリア政策に拘泥するあまりドイツの分裂状態を加速させていったことはレオポルトも承知しています。 それに、普段はいがみ合っているイタリア諸国も皇帝がイタリアに野心を抱いたときには一致団結してこれを退けてきた事実を忘れたわけでもありません。 それでも、レオポルトがイタリアに狙いをつけたのは確かな勝算があったからでした。 **イタリア政策 [#lb79a6ef] &ref(map01.png); 1485年 レオポルトはスイスとサヴォイアの小競り合いにイタリア諸国がそれぞれ介入しているのに目をつけます。 双方の戦力が互角だったため泥沼化していたこの戦争を皇帝として仲裁すると宣言してサヴォイア側に立ってスイスに宣戦布告したのです。 彼はハプスブルク発祥の地であるスイスを敵に回すことも厭いませんでした。 そして、皇帝に従いさえすれば既得権益以上のものを手にできると暗に仄めかしたのです。 ジェノヴァにはライバルのヴェネツィアが押さえていた交易の利権を約束し、フェラーラに対してはモデナの併合を承認し、トスカーナにはアラゴンとの同君連合が解消されて以来自立の道を選んでいたナポリ侵攻の資金援助をするといった具合です。 既得権益以上のものを手にするものが出てくれば、当然失うものも出てきます。 いちばん割を喰ったのはヴェネツィアでした。 ヴェローナ、クレモナ、ブレシアといった豊かな州を手放すことを強要され、これらは実質的にオーストリアに組み込まれました。 かつてローマ帝国は「分割して統治せよ」という格言の元に属州が一致団結できないように腐心しましたが、まさにそれをイタリアで実践したわけです。 「イタリア」というのはかつてのローマ帝国の本拠地であったと人々に記憶されてはいたものの、国家の単位として意識されることは稀で、メッテルニヒの言葉を借りれば「地理的な表現以上のものではない」といった有様だったのです。 皇帝が帝国諸侯同士の争いを黙認あるいは奨励さえしている状況を見て諸侯は色めき立ちました。 しかし、レオポルト八世は諸侯のやりたい放題にさせていたわけではありません。もし諸侯の好き勝手にさせたら皇帝の権威など失墜してしまいます。 現に、バイエルンがアンスバッハの支配権を求めて侵攻を開始した時にはアンスバッハ側に立って介入し、逆にバイエルンから2州を割譲させています。 つまり、帝国のあらゆる現状変更には皇帝の承認を要するという事実を確固たる形で示したのです。 帝国でも随一の名門であるヴィッテルスバッハ家ですら、ハプスブルク家に逆らうと父祖伝来の地を失うことになるという事実は諸侯を恐怖させました。 ここにきて諸侯はハプスブルク家に楯突くよりも擦り寄った方が甘い汁が吸えると認識を改めたのでした。 レオポルトはモデナを併合したフェラーラも外交的手段を持って属国化し、これをオーストリアに編入します。 ハプスブルク家の直轄領は飛躍的に拡大したのでした。 **イタリア戦争の幕開け [#lb79a6ef] さて、ブルゴーニュ公国領の獲得に失敗し、神聖ローマ帝国の指名争いにも敗れたフランスはハプスブルク家の拡大をただ黙ってみていただけだったのでしょうか。 もちろん、そんなことはありませんでした。 ブルターニュ公国継承権を持つアンヌ・ド・ブルターニュはレオポルト八世の再婚相手として婚約していました。 しかし、フランス王シャルル八世は突如ブルターニュに侵攻すると強引にアンヌと結婚式を敢行してブルターニュを事実上併合してしまいます。 &ref(anne.jpg); アンヌ・ド・ブルターニュ また、メーン、アンジュ―、プロヴァンスの3州を獲得し、アヴィニョンの教皇領も直轄地として併合しました。 さらに、ジェノヴァの要請に応じてサヴォイアに侵攻した折に電撃的にクネオ州を占領しこれを強引に自国に併合してしまいました。 これまでハプスブルクにしてやられたばかりだったフランスが凱歌を上げたのは言うまでもありません。 帝国諸侯同士で領地のやり取りがあるのはともかく、帝国外の国に領土を侵犯されたとなっては、皇帝として見過ごすわけにはいきません。 レオポルト八世はフランスが不法に占拠したクネオ州をサヴォイアに返還せよと要求を突きつけます。 これに対しフランスは教皇を担ぎ出して対抗します。 ハプスブルク家の威勢に恐れをなした教皇クレメンス七世はアヴィニョン捕囚時代を忘れたかのようにフランスと接近を図ります。 そして、教皇領以外のイタリアは暫定的にフランスの委任統治領とする、とする布告を出すことを了承します。 つまり、オーストリア及びフランスが双方のイタリア領の支配権を否定するという緊張状態が生まれたのでした。 &ref(italian01.png); 叙任権闘争に代表されるように、神聖ローマ帝国の歴史において皇帝と教皇の対立は事あるごとに表面化しますが、レオポルト八世もその例外足り得なかったということでしょう。 しかし、ここですごすごと引き下がるレオポルト八世ではありません。 これ以上フランスに大きな顔をさせないために不測の事態に備えてハプスブルク家領の拡大路線を一端中断します。 そして機が熟すのを待ったのでした。機が熟すのも待つ忍耐力はレオポルト八世が父フリードリヒ三世から受け継いだ類まれなる資質でした。 **ミラノ防衛戦争の勃発 [#lb79a6ef] さて、オースストリア及びフランスの直接的な激突が起こらない中で先に焦れたのはフランスでした。 教皇領以外のイタリアに対する委任統治権を教皇から取り付けはしたものの、それにイタリア諸国が素直に従うはずもなく、イタリアの委任統治権はいわば絵に描いた餅に過ぎませんでした。 初めこそ皇帝の高圧的な支配からの解放というスタンスでイタリア諸国に取り入ろうとしたフランスですが、次第にイタリアの支配者として横暴な振る舞いが目立つようになります。 フランス人に交易上の特権を認めろであるとか、対オーストリア戦に備えて戦費を供出しろだとか、イタリア諸国が嫌がる要求を次々に突きつけたのです。 当初イタリア諸国はフランス及びオーストリアどちらか一方に与する危険をおかさず、保険の意味も含めて両方に良い顔をするというお得意のしたたかさを発揮していました。 ひとつひとつは基本的に都市国家に過ぎない彼らが皇帝から独立を保ち続けることができたのはこのしたたかさによるものが大きいと言えるでしょう。 しかし、フランスからの要求がエスカレートしていくに従い、徐々に反フランスに傾いていきました。 フランスがもう何度目になるかわからない要求を突きつけた時、ついにミラノがこれを全面的に拒否します。 これを聞くとちょうどよい口実ができたとばかりにフランスはミラノへ宣戦布告しました。 &ref(milano01.png); ミラノはかつてオーストリアがブルゴーニュと対立した時にはブルゴーニュ側に立ってオーストリアとは敵対した過去がありましたが、フランスの侵攻に対してはオーストリアに助力を嘆願しました。 神聖ローマ帝国は領邦の中でこそ絶えず争いが繰り広げられていましたが、外国の侵略に対しては一致団結して防衛にあたってきたのであり、帝国諸国防衛はまさに皇帝の最大の責務と言ってよいものでした。 レオポルト八世は参戦要請に快く応じます。 オーストリア・フランス両軍はついに直接戦火を交えることとなったのです。 &ref(milano02.png); フランスは自国が支配を強めていたイタリア諸国がフランス側に立って参戦するのを当然のように期待していましたが、イタリア諸国を始め、この侵略戦争に加担する国は一つとしてありませんでした。 オーストリアはフランス戦に備えて国庫には十分な資金を用意していましたが、対外的には資金が足りないといってフランスの油断を誘いつつ、暗にイタリア諸国からの寄付を募ります。 当事国のミラノはもちろん、他のイタリア諸国も積極的に皇帝側に財政援助を申し出たのはフランスの神経を逆撫でするのに効果抜群でした。 **将軍レオポルト八世 [#lb79a6ef] &ref(max02.jpg); 鎧姿のレオポルト八世 レオポルト八世は父にはない贈り物を神から授かっていました。 かつてフィリップ突進公と刃を交えたときに彼を惚れ込ませたように、優美な容姿と騎士としての高潔な人柄、そして将軍としての類まれなる資質を備えていたのです。 父フリードリヒ三世が決して戦場に出ようとはしなかったのと対照的にレオポルト八世は戦場に生きた皇帝でした。 フランスにはブルターニュ戦争やプロフヴァンス戦争を勝ち抜いた百戦錬磨の将軍がいましたが、一歩も退くことはことなく、激闘を繰り広げました。 &ref(milano3.png); &ref(milano4.png); 一般兵にも細やかな気遣いを絶やさなかった彼は多くの将兵を感動させました。 宮廷にあって策謀を巡らせるのが好きで「蜘蛛」とあだ名されたフランス王と中世最後の騎士と評されたレオポルト八世は対照的であり、戦場においてそれは士気の差となって現れます。 時にフランス軍よりも多くの損害を出しながらも、着実に会戦での勝利を重ねていきました。 フランスは国庫が戦争支出に耐え切れなくなるとともに人的資源も底を尽き、ついにオーストリア側の勝利を認めて講和に応じます。 &ref(peace.png); レオポルト八世はクネオ州をサヴォイアに返還させるという約束をしっかり守りました。 それだけでなく、フランスがアラゴンから奪い取っていたピレネー州をカスティーリャに割譲させます。 これはフリードリヒ三世がハプスブルク家だけの利益を追求して一部で反感を買ったことの反省が生かされていました。 ハプスブルク自身にはかつてブルゴーニュ領だったヌヴェールをブルゴーニュに返還させ、シャンパーニュ州を直轄領に組み込みます。 イタリア戦争は皇帝の全面勝利で幕を閉じたのです。 **宗教改革 [#lb79a6ef] さて、フランスの影響力をイタリアから排除した後にフランス側と結んだ教皇クレメンス七世をそのままにしておく程レオポルト八世はお人よしではありません。 教皇は精神に異常をきたしたということにして事実上の軟禁状態に追い込み、新しい教皇を擁立します。 &ref(choice.png); 枢機卿の選出にも影響力を行使し、皇帝に敵対的な人物が教皇に就任することがないよう目を光らせるようにしました。 しかし、フランスがイタリア諸侯の反感を買った二の舞を演じることはないと判断し、皇帝に敵対的だったヴェネツィアを例外として、イタリアで領土を割譲させることは避けました。 フランスに侵略された当事国であるミラノ公国及びクネオ州の返還を受けたサヴォイア公国は皇帝に深く感謝し、以後はイタリアにおける皇帝派として振る舞うようになります。 着実に皇帝権限を強化していったレオポルト八世でしたが、最後まで順風満帆というわけにはいきませんでした。 後に宗教改革と呼ばれることになる一大運動が始まったのです。 &ref(protestant01.png); レオポルト八世は教皇庁の求めに応じて、95か条の論題を発表したマルティン=ルターをヴォルムス議会に招集しました。 ルターは教皇庁の腐敗、とりわけ贖宥状の販売について鋭く糾弾します。 レオポルト八世は教皇庁の腐敗に一人のキリスト教徒として義憤を感じていたこともあり、口にこそ出さなかかったものの、ルターの宗教的情熱に敬意を持ったといいます。 教皇庁は彼を異端者として処刑することを求めましたが、レオポルト八世はこれを許しませんでした。 ひとたび自由通行証を与えて召喚したからには、尋問後に断罪して処刑するのは王者の振る舞いとして相応しくない、というのです。 腐敗した聖職者を野放しにしておいてルターだけを処刑して、どう教皇庁は示しをつけるのだ、と言われると自身も脛に傷を持つ枢機卿たちも押し黙るしかありませんでした。 ひとりの騎士としては称賛される判断だったかもしれませんが、プロテスタントの活動に対する事実上の黙認と受け取った新教徒たちは瞬く間にその勢力を拡大させていきます。 そして、宗教問題は次代以降に持ち越されることになったのです。 * [[第3章 皇帝とペチコート>AAR/華麗なる一族/第3章 皇帝とペチコート]][#o6806ac5]
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