AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和7
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[[AAR/ローマの平和よ再び]] 前回:[[第六話 西方大遠征>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和6]] *第七話 地中海の平定 ―the Suppressoon of the Mediterranean― [#y3f648bb] &ref(142-1.jpg); **もくじ [#t6c27545] #contents **ビザンツ帝国史(1750-1800年) [#i9d3d6a9] ***第一次地中海戦争(1750-1753) [#q8f9641e] モロッコ遠征の成功により世論を拡張政策に傾けることに成功したビザンツ皇帝は1750年、再度ミラノに宣戦布告した。ミラノを保護すべくカスティーリャ・オーストリア・アラゴンが東西ローマ同盟と対峙したが、陸戦では精錬されたフランス軍の前に、海戦では艦隊の軍拡政策を行っていたビザンツ海軍の前に成すすべもなく屈した。ビザンツ帝国はこの戦争においてアラゴン・カスティーリャの地中海艦隊を全て撃沈させ、地中海の海上支配権を確立した。 &ref(143.jpg,,70%); この戦争の結果ビザンツ帝国はアラゴンから大幅に領土を割譲させイタリア政策の完結の兆しを見せただけでなく、ミラノを完全併合することで長年に渡るフランスとの国境案をついに現実のものとすることとなった。 ***アルジェリア征服(1754-1755) [#ob0337a2] 第一次地中海戦争において成功を収めたビザンツ帝国は地中海の海上支配を確固たるものとするためジブラルタル海峡に重きを置いた。既存のジブラルタルのビザンツ領と北アフリカの領土を直結させるため1754年ビザンツ帝国はアルジェリアに侵攻を開始した。この侵略戦争はわずか1年で終結し、アルジェリア王国はビザンツ帝国の従属国家となることを条件に存続を許された。 &ref(147.jpg,,80%); &ref(y.jpg); 実は一度大西洋に面するとこまでアルジェリア・モロッコの領土を領有していたよ。でもこれは「ビザンツ帝国の最大版図」から外れることに気づいた朕はモロッコやカステラさんの隣国にプロビを売り返しているよー &ref(j.jpg); これがあんな悲劇を生むことになるとは、この時はまだ知る由もなかったのである・・・ &ref(y.jpg); フラグ立てるのやめてーちょ・・・ ***第二次地中海戦争(1766-1770年) [#of3789a7] 1765年まで再度のロシアとの戦争に苦戦していたフランスはカソリックの信仰の守護者の地位を失っていた。しかしこれをフランスのカソリック国の保護義務が消えた好機と見たビザンツ帝国は1766年東西ローマ同盟を率いアラゴン王国に宣戦を布告した。これに対して地中海におけるビザンツ帝国の完全優位を阻止すべくポルトガル王国がビザンツ帝国に宣戦布告、さらにポルトガル王国と同盟関係にあったティムール帝国も参戦した。ビザンツ帝国はその海軍力にものを言わせ地中海制海権は早期に治めることができたが、約300連隊の陸軍を投与したティムール帝国に対して苦戦を強いられた。しかしフランス軍によるリスボン陥落を経て、4年に及ぶ激戦の末ついにポルトガル王国は東西ローマ同盟に対して全面降伏を申し出た。 &ref(157.jpg,,70%); この戦争の結果ビザンツ帝国はアラゴン王国を完全に併合し、ポルトガルの持つジブラルタル海峡に面する領土を割譲させた。これにより地中海は完全にビザンツ帝国とフランス王国の東西ローマ同盟に二分される事となり、ビザンツの地中海支配を確固たるものとした。 &ref(y.jpg); グラナダちゃんはこの後外交併合したよー &ref(Roma.jpg); ***ベネルクス侵攻(1775-1782年) [#nc29f17a] 1775年、アムステルダムの富を求めフランス王国はネーデルラントに宣戦を布告した。この参戦要求を受けたビザンツ帝国はネーデルラントの同盟国であるポーランド王国との戦いを強いられることとなった。しかしビザンツ常備軍は主にイタリア半島、ジブラルタル方面、ティムール方面に展開していたためこの対応に遅れていた。ポーランド軍はバルカン北東部に頻繁に侵攻を繰り返し一時はコンスタンティノープル陥落までに至ったが、イタリア半島に駐屯していたビザンツ帝国軍の主力部隊が到着するとこれを解放、ビザンツ帝国は反撃の攻勢に出た。この戦争は約7年続き、フランスはネーデルラントから大幅に領土を割譲させ和平した。 ***第一次ビザンツ=カスティーリャ戦争(1795-1797年) [#ece890c8] ビザンツ帝国はジブラルタル海峡最後の要所であるCazidを領有すべくカスティーリャ王国に対し宣戦布告した。ビザンツ帝国はこの戦争でカスティーリャ王国に対し圧勝したが、以前のフランス=カスティーリャ戦争の結果カスティーリャはその首都をCazidに移していたためビザンツのCazid割譲の要求には応じなかった。ビザンツ皇帝はカスティーリャ王国に対して譲歩し、カスティーリャ王国の外交関係の解消とカスティーリャの持つアルジェリア王国の旧領を全て返還させることで和平した。 ***対ボヘミア=ロシア大同盟の形成(1799年) [#u0b2735f] 1798年にハンガリー王国を武力によって併合したボヘミア選帝侯国はその過剰な拡張政策から欧州諸国から警戒され包囲網を形成されるに至った。この包囲網はフランス、ポーランド、ブランデンブルクを筆頭に実に5か国以上から形成されており、ビザンツ帝国もフランスと志を同じくすべくこの包囲網に参加した。 &ref(686.jpg,,80%); **おわりに [#ae304cd2] &ref(y.jpg); 息抜きにビザンツプレイしの締めをしていたらまさかのたなぼただったよ!朕ってばラッキーね! &ref(GrandCoalition.jpg); *[[第八話 ローマの平和>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和8]] [#d5c9c239]
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[[AAR/ローマの平和よ再び]] 前回:[[第六話 西方大遠征>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和6]] *第七話 地中海の平定 ―the Suppressoon of the Mediterranean― [#y3f648bb] &ref(142-1.jpg); **もくじ [#t6c27545] #contents **ビザンツ帝国史(1750-1800年) [#i9d3d6a9] ***第一次地中海戦争(1750-1753) [#q8f9641e] モロッコ遠征の成功により世論を拡張政策に傾けることに成功したビザンツ皇帝は1750年、再度ミラノに宣戦布告した。ミラノを保護すべくカスティーリャ・オーストリア・アラゴンが東西ローマ同盟と対峙したが、陸戦では精錬されたフランス軍の前に、海戦では艦隊の軍拡政策を行っていたビザンツ海軍の前に成すすべもなく屈した。ビザンツ帝国はこの戦争においてアラゴン・カスティーリャの地中海艦隊を全て撃沈させ、地中海の海上支配権を確立した。 &ref(143.jpg,,70%); この戦争の結果ビザンツ帝国はアラゴンから大幅に領土を割譲させイタリア政策の完結の兆しを見せただけでなく、ミラノを完全併合することで長年に渡るフランスとの国境案をついに現実のものとすることとなった。 ***アルジェリア征服(1754-1755) [#ob0337a2] 第一次地中海戦争において成功を収めたビザンツ帝国は地中海の海上支配を確固たるものとするためジブラルタル海峡に重きを置いた。既存のジブラルタルのビザンツ領と北アフリカの領土を直結させるため1754年ビザンツ帝国はアルジェリアに侵攻を開始した。この侵略戦争はわずか1年で終結し、アルジェリア王国はビザンツ帝国の従属国家となることを条件に存続を許された。 &ref(147.jpg,,80%); &ref(y.jpg); 実は一度大西洋に面するとこまでアルジェリア・モロッコの領土を領有していたよ。でもこれは「ビザンツ帝国の最大版図」から外れることに気づいた朕はモロッコやカステラさんの隣国にプロビを売り返しているよー &ref(j.jpg); これがあんな悲劇を生むことになるとは、この時はまだ知る由もなかったのである・・・ &ref(y.jpg); フラグ立てるのやめてーちょ・・・ ***第二次地中海戦争(1766-1770年) [#of3789a7] 1765年まで再度のロシアとの戦争に苦戦していたフランスはカソリックの信仰の守護者の地位を失っていた。しかしこれをフランスのカソリック国の保護義務が消えた好機と見たビザンツ帝国は1766年東西ローマ同盟を率いアラゴン王国に宣戦を布告した。これに対して地中海におけるビザンツ帝国の完全優位を阻止すべくポルトガル王国がビザンツ帝国に宣戦布告、さらにポルトガル王国と同盟関係にあったティムール帝国も参戦した。ビザンツ帝国はその海軍力にものを言わせ地中海制海権は早期に治めることができたが、約300連隊の陸軍を投与したティムール帝国に対して苦戦を強いられた。しかしフランス軍によるリスボン陥落を経て、4年に及ぶ激戦の末ついにポルトガル王国は東西ローマ同盟に対して全面降伏を申し出た。 &ref(157.jpg,,70%); この戦争の結果ビザンツ帝国はアラゴン王国を完全に併合し、ポルトガルの持つジブラルタル海峡に面する領土を割譲させた。これにより地中海は完全にビザンツ帝国とフランス王国の東西ローマ同盟に二分される事となり、ビザンツの地中海支配を確固たるものとした。 &ref(y.jpg); グラナダちゃんはこの後外交併合したよー &ref(Roma.jpg); ***ベネルクス侵攻(1775-1782年) [#nc29f17a] 1775年、アムステルダムの富を求めフランス王国はネーデルラントに宣戦を布告した。この参戦要求を受けたビザンツ帝国はネーデルラントの同盟国であるポーランド王国との戦いを強いられることとなった。しかしビザンツ常備軍は主にイタリア半島、ジブラルタル方面、ティムール方面に展開していたためこの対応に遅れていた。ポーランド軍はバルカン北東部に頻繁に侵攻を繰り返し一時はコンスタンティノープル陥落までに至ったが、イタリア半島に駐屯していたビザンツ帝国軍の主力部隊が到着するとこれを解放、ビザンツ帝国は反撃の攻勢に出た。この戦争は約7年続き、フランスはネーデルラントから大幅に領土を割譲させ和平した。 ***第一次ビザンツ=カスティーリャ戦争(1795-1797年) [#ece890c8] ビザンツ帝国はジブラルタル海峡最後の要所であるCazidを領有すべくカスティーリャ王国に対し宣戦布告した。ビザンツ帝国はこの戦争でカスティーリャ王国に対し圧勝したが、以前のフランス=カスティーリャ戦争の結果カスティーリャはその首都をCazidに移していたためビザンツのCazid割譲の要求には応じなかった。ビザンツ皇帝はカスティーリャ王国に対して譲歩し、カスティーリャ王国の外交関係の解消とカスティーリャの持つアルジェリア王国の旧領を全て返還させることで和平した。 ***対ボヘミア=ロシア大同盟の形成(1799年) [#u0b2735f] 1798年にハンガリー王国を武力によって併合したボヘミア選帝侯国はその過剰な拡張政策から欧州諸国から警戒され包囲網を形成されるに至った。この包囲網はフランス、ポーランド、ブランデンブルクを筆頭に実に5か国以上から形成されており、ビザンツ帝国もフランスと志を同じくすべくこの包囲網に参加した。 &ref(686.jpg,,80%); **おわりに [#ae304cd2] &ref(y.jpg); 息抜きにビザンツプレイしの締めをしていたらまさかのたなぼただったよ!朕ってばラッキーね! &ref(GrandCoalition.jpg); *[[第八話 ローマの平和>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和8]] [#d5c9c239]
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