AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和6
の編集
http://eu4.paradoxwiki.org/?AAR/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%82%88%E5%86%8D%E3%81%B3/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%EF%BC%96
[
トップ
] [
編集
|
差分
|
履歴
|
添付
|
リロード
] [
新規
|
一覧
|
検索
|
最終更新
|
ヘルプ
]
-- 雛形とするページ --
(no template pages)
[[AAR/ローマの平和よ再び]] 前回:[[第五話 東西ローマ同盟>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和5]] *西方大遠征 ―the Great West Invasion― (1700~1750年) [#h20ee84b] &ref(113.jpg); **もくじ [#f5293a3b] #contents **あらすじ [#wc87ca72] 引き続きイタリア政策の遂行と新たに西地中海への進出を始めました。フランスと同盟していればカスティーリャも敵ではありません。地中海を我らが東西ローマ同盟の内海にしてやりましょう。 **はじめに [#k0b108ca] &ref(y.jpg); それじゃあ引き続きローマ帝国万歳プレイやっていくよー。今回からAARの型を少し変えてみたよ。ぶっちゃけ対話形式はもうネタ切れだよ。だって全然動きがないんだもん。 &ref(j.jpg); メタい話はやめましょう。しかし歴史に恋する作者としてはもっと説明的な記述がしたいのは山々ですね。最初にAAR書くときは対話形式にするつもりなんてありませんでしたから。 &ref(y.jpg); そして何よりも対話を少なめにし事件を羅列してその説明を補助として入れるだけなら断然作業量が減るんじゃないかというk &ref(j.jpg); さあそれはさておき、前回で見事東地中海帝国へと返り咲くことができたので今度は西地中海方面への進出もしていきましょう。 &ref(y.jpg); はいはい。モロッコに宣戦布告だよ! **西地中海への進出 [#r86b892c] ***第一次モロッコ侵攻 (1705-1708) [#z48a73b1] 東地中海を平定したビザンツ帝国はその領土的野心を西方へと向けた。1705年、ビザンツ帝国は旧領奪還を名分にモロッコへと侵攻を開始した。モロッコはその同盟国であるヒジャーズ王国に援助要請を送りこれを受けたヒジャーズ王国はエジプト方面に侵攻しビザンツ軍の撹乱を狙った。東西に戦線を持つことなったビザンツ軍は主力部隊を集中投与することは敵わなかったがその優れた軍事技術で両国を圧倒しモロッコ=ヒジャーズ同盟の必至の抵抗もむなしく、1708年チュニジアをビザンツ帝国に割譲することで和平した。 &ref(116.jpg,,70%); ビザンツ帝国はこの戦争の結果割譲させた領土にアルジェリアを属国として建国し、これを西地中海進出への拠点とした。またこのころビザンツ帝国は大幅な軍備拡大を行っており、世界3位の陸軍国家、世界5位の海軍国家へと上り詰めていた。 ***クリスチャン戦争 (1712-1714) [#o09f46eb] ビザンツ帝国はイタリア政策に乗り出した時代からミラノを自らの勢力下とし、ミラノ以西をフランスとの国境とすることを目論んでいた。1712年、ビザンツ帝国とこの参戦要求を受けたフランスが再びミラノに侵攻を開始した。これに対しミラノを保護すべくその同盟国であるアラゴン、当時の神聖ローマ皇帝であったオーストリア大公国、オーストリアと対ビザンツ同盟を結ぶモロッコ王国、プロテスタントの信仰の守護者であったイングランド王国が相次いでビザンツ帝国に宣戦を布告した。 &ref(121.jpg,,70%); 交戦勢力にカソリック、プロテスタント、ギリシア正教国が参加しているためこの名で呼ばれるが、開戦の火ぶたを切ったビザンツ帝国の最大の目的はミラノの獲得とイタリア半島下半への進出であったため宗教戦争とは名ばかりのものである。敵戦力の陸軍代表国家であるオーストリア大公国は立て続く東西ローマ同盟との戦争の結果疲弊しており、名のある欧州の国が多く参戦したもののこの戦争はわずか2年で終結した。この戦争の結果、再びビザンツ帝国のミラノ獲得の目的は達成されなかったもののアラゴンからイベリア半島の領土およびイタリア半島中部の領土の割譲、モロッコからはアルジェリアへの旧領返還を行った。 ***ヒスパニア遠征(1714-1716) [#i51a775c] クリスチャン戦争の結果イベリア半島進出への足掛けを手に入れたビザンツ帝国は続けてカスティーリャ王国へ宣戦布告した。カスティーリャの同盟国であったオーストリア大公国は再び東西ローマ同盟と対峙することとなったが、東西ローマ同盟の圧倒的な兵力数の前に屈し、戦線から離脱した。この戦争の結果ビザンツ帝国は属国としてイベリア半島南端にグラナダ王国を建国。さらにカスティーリャの持つ旧アルジェリア領を大幅に返還させ和平した。 &ref(y.jpg); スクショ取り忘れたよー。ごめんなさい。 **遠征の失敗と混乱期の訪れ [#ra09aba5] ***ウラビノ遠征(1714-1716) [#sa7f7679] ヒスパニア遠征の裏でビザンツ帝国はウラビノの征服を画策していた。ウラビノ遠征の際にカソリックの信仰の守護者であるフランスと対峙することを恐れていたビザンツ帝国はヒスパニア遠征によりフランスと共同戦線を組むことでフランスとの交戦を避ける作戦を選択した。しかしウラビノ陥落にはビザンツ帝国の予想以上に時間がかかってしまったためその間にヒスパニア遠征が終結。結果オーストリアとその同盟国であるポーランド王国の参戦を許してしまい戦争の継続を断念したビザンツ帝国はポーランド王国に対して降伏を申し出、ビザンツ帝国は再びブルガリア領を放棄することとなった。さらにこの遠征の失敗からビザンツ帝国民は立て続く拡張戦争への反感の意を示し、この混乱に乗じて帝国領各地でナショナリスト、カソリックによる大規模な反乱が頻発する時代が続くこととなった。 &ref(125.jpg,,70%); ***帝国の混乱期(1716-1735頃) [#f1a2114a] ウラビノ遠征の失敗に端を発した民衆の放棄は1720年に入るとついに帝国正規軍のみでは鎮圧しきれない規模になっていた。反乱勢力の大部分を占めるカソリックを懐柔するためビザンツ帝国は一時カソリックを国教として定めるも、これにより皇帝を見限ったギリシア正教が反乱に加担したために帝国は再びギリシア正教を国教として定めた。同盟国であるフランスの援助もあり反乱は次第に静まり、1735年には再び帝国に安定の時代が訪れた。 &ref(j.jpg); もっともらしい書き方をしていますが国教の変更は本当はイベリア半島の領土に沸いた反乱軍を潰すのが面倒で国威に余裕があったからよく読まずに反乱軍の要求を聞き入れたのが原因ですね。 &ref(y.jpg); だってイベリアまで大規模な軍隊派遣するの面倒だったんだもんー。それからフランスの援助って書いてあるけど、本当は「フランス軍に全て任せた」のが正しいよねー &ref(j.jpg); なおこの内乱の終結後にトスカーナ及びアルジェリアの外交併合を行いました。 &ref(y.jpg); グラナダちゃんは後回しねー **欧州の覇権 [#nc6b0f74] ***第五次ポーランド分割(1738-1746) [#s05d71f9] 1738年、ブランデンブルクを筆頭とし、ロシア・リボニア・ハンガリーによるポーランド分割が始まった。ブランデンブルクの拡大及びロシア帝国のポーランドへの進出を恐れたフランスはポーランド保護を名目にブランデンブルクに対して宣戦を布告した。ビザンツ帝国は東西ローマ同盟を維持すべくフランスの参戦要求に応じフランスに続きブランデンブルクに宣戦した。 開戦からわずか1年半ほどでフランスはブランデンブルクのほぼ全土を制圧し、ロシアはポーランド東半を占領していた。この戦争の盟主はブランデンブルクであったがビザンツ帝国は自国領の守備に徹し、その主な交戦はフランス対ロシアの体を成したためこの戦争を差してフランス=ロシア戦争と称する時もある。 &ref(134.jpg,,70%); このおよそ8年に及ぶフランスとロシアの総力戦はフランス側の勝利に終わり、欧州列強におけるフランスの絶対的有利を証明するものとなった。またこのフランスの優位を見たビザンツ帝国は東西ローマ統一への野望を断念したとも言われている。なおポーランドの保護を名目に開戦した戦争ではあったが、ロシア・ブランデンブルクによるポーランド分割は阻止されたもののその主戦場はポーランドであったためにその広大な土地のほとんどが焦土と化してしまった。 ***第二次モロッコ侵攻(1747-1750) [#e076330b] フランス=ロシア戦争の際にビザンツ帝国はグルジア方面でロシア帝国軍の猛攻に会い、その領土の一部を占領されていた。この戦争の結果ビザンツ帝国が外交的に失うものはなかったが、8年に及ぶ激戦を行ったのにもかかわらず一切の国益がなかったためにビザンツ国民の間で皇帝の政策に対する不満が募り始めていた。ビザンツ皇帝は国民の不満の意を逸らすため対外遠征を模索した。ムスリムの信仰の守護者はティームールであったためビザンツ帝国はモロッコに対する侵略戦争を懸念していたが、ティムール帝国がロシア帝国との間で行っていた戦争での圧倒的に不利な形成を見ると二回目のモロッコ侵攻を決行した。 &ref(136.jpg,,70%); ビザンツ帝国の目論み通りティムール帝国はモロッコの参戦要求を拒否しモロッコ王国一国のみで東西ローマ同盟と対峙する形となった。この戦争の結果モロッコ王国はアルジェリア王国の独立を承認しビザンツ帝国側の勝利に終わったが、この戦争はあくまでも形式的なものでありその意図は戦勝によるビザンツ帝国民の不満の払拭、東西ローマ同盟の永劫性と両国間の友好関係の再確認などであった。 &ref(y.jpg); やっとティムール君とロシア君がおっぱじめてくれたかー &ref(j.jpg); あんなに広く領土を接しているにも関わらずこの数百年一度も戦争に至りませんでしたからね。案の定ティムール側の完敗に終わりましたか。 &ref(y.jpg); この時間軸でもGreat Khanの実績達成ならずか・・・。分かってはいたけどなんか少し残念ね。 &ref(j.jpg); なお1750年のMAPは取ったのですが不手際で削除してしまったようです。申し訳ございません。 &ref(y.jpg); あとあとー、いつまでたってもRomaがギリシア正教に改宗できないんだけど対策方法を知っている人はコメントくれると嬉しいです。それじゃあ次回までゆっくりしてしていってね! *[[第七話 地中海の平定>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和7]] [#d9a31145]
タイムスタンプを変更しない
[[AAR/ローマの平和よ再び]] 前回:[[第五話 東西ローマ同盟>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和5]] *西方大遠征 ―the Great West Invasion― (1700~1750年) [#h20ee84b] &ref(113.jpg); **もくじ [#f5293a3b] #contents **あらすじ [#wc87ca72] 引き続きイタリア政策の遂行と新たに西地中海への進出を始めました。フランスと同盟していればカスティーリャも敵ではありません。地中海を我らが東西ローマ同盟の内海にしてやりましょう。 **はじめに [#k0b108ca] &ref(y.jpg); それじゃあ引き続きローマ帝国万歳プレイやっていくよー。今回からAARの型を少し変えてみたよ。ぶっちゃけ対話形式はもうネタ切れだよ。だって全然動きがないんだもん。 &ref(j.jpg); メタい話はやめましょう。しかし歴史に恋する作者としてはもっと説明的な記述がしたいのは山々ですね。最初にAAR書くときは対話形式にするつもりなんてありませんでしたから。 &ref(y.jpg); そして何よりも対話を少なめにし事件を羅列してその説明を補助として入れるだけなら断然作業量が減るんじゃないかというk &ref(j.jpg); さあそれはさておき、前回で見事東地中海帝国へと返り咲くことができたので今度は西地中海方面への進出もしていきましょう。 &ref(y.jpg); はいはい。モロッコに宣戦布告だよ! **西地中海への進出 [#r86b892c] ***第一次モロッコ侵攻 (1705-1708) [#z48a73b1] 東地中海を平定したビザンツ帝国はその領土的野心を西方へと向けた。1705年、ビザンツ帝国は旧領奪還を名分にモロッコへと侵攻を開始した。モロッコはその同盟国であるヒジャーズ王国に援助要請を送りこれを受けたヒジャーズ王国はエジプト方面に侵攻しビザンツ軍の撹乱を狙った。東西に戦線を持つことなったビザンツ軍は主力部隊を集中投与することは敵わなかったがその優れた軍事技術で両国を圧倒しモロッコ=ヒジャーズ同盟の必至の抵抗もむなしく、1708年チュニジアをビザンツ帝国に割譲することで和平した。 &ref(116.jpg,,70%); ビザンツ帝国はこの戦争の結果割譲させた領土にアルジェリアを属国として建国し、これを西地中海進出への拠点とした。またこのころビザンツ帝国は大幅な軍備拡大を行っており、世界3位の陸軍国家、世界5位の海軍国家へと上り詰めていた。 ***クリスチャン戦争 (1712-1714) [#o09f46eb] ビザンツ帝国はイタリア政策に乗り出した時代からミラノを自らの勢力下とし、ミラノ以西をフランスとの国境とすることを目論んでいた。1712年、ビザンツ帝国とこの参戦要求を受けたフランスが再びミラノに侵攻を開始した。これに対しミラノを保護すべくその同盟国であるアラゴン、当時の神聖ローマ皇帝であったオーストリア大公国、オーストリアと対ビザンツ同盟を結ぶモロッコ王国、プロテスタントの信仰の守護者であったイングランド王国が相次いでビザンツ帝国に宣戦を布告した。 &ref(121.jpg,,70%); 交戦勢力にカソリック、プロテスタント、ギリシア正教国が参加しているためこの名で呼ばれるが、開戦の火ぶたを切ったビザンツ帝国の最大の目的はミラノの獲得とイタリア半島下半への進出であったため宗教戦争とは名ばかりのものである。敵戦力の陸軍代表国家であるオーストリア大公国は立て続く東西ローマ同盟との戦争の結果疲弊しており、名のある欧州の国が多く参戦したもののこの戦争はわずか2年で終結した。この戦争の結果、再びビザンツ帝国のミラノ獲得の目的は達成されなかったもののアラゴンからイベリア半島の領土およびイタリア半島中部の領土の割譲、モロッコからはアルジェリアへの旧領返還を行った。 ***ヒスパニア遠征(1714-1716) [#i51a775c] クリスチャン戦争の結果イベリア半島進出への足掛けを手に入れたビザンツ帝国は続けてカスティーリャ王国へ宣戦布告した。カスティーリャの同盟国であったオーストリア大公国は再び東西ローマ同盟と対峙することとなったが、東西ローマ同盟の圧倒的な兵力数の前に屈し、戦線から離脱した。この戦争の結果ビザンツ帝国は属国としてイベリア半島南端にグラナダ王国を建国。さらにカスティーリャの持つ旧アルジェリア領を大幅に返還させ和平した。 &ref(y.jpg); スクショ取り忘れたよー。ごめんなさい。 **遠征の失敗と混乱期の訪れ [#ra09aba5] ***ウラビノ遠征(1714-1716) [#sa7f7679] ヒスパニア遠征の裏でビザンツ帝国はウラビノの征服を画策していた。ウラビノ遠征の際にカソリックの信仰の守護者であるフランスと対峙することを恐れていたビザンツ帝国はヒスパニア遠征によりフランスと共同戦線を組むことでフランスとの交戦を避ける作戦を選択した。しかしウラビノ陥落にはビザンツ帝国の予想以上に時間がかかってしまったためその間にヒスパニア遠征が終結。結果オーストリアとその同盟国であるポーランド王国の参戦を許してしまい戦争の継続を断念したビザンツ帝国はポーランド王国に対して降伏を申し出、ビザンツ帝国は再びブルガリア領を放棄することとなった。さらにこの遠征の失敗からビザンツ帝国民は立て続く拡張戦争への反感の意を示し、この混乱に乗じて帝国領各地でナショナリスト、カソリックによる大規模な反乱が頻発する時代が続くこととなった。 &ref(125.jpg,,70%); ***帝国の混乱期(1716-1735頃) [#f1a2114a] ウラビノ遠征の失敗に端を発した民衆の放棄は1720年に入るとついに帝国正規軍のみでは鎮圧しきれない規模になっていた。反乱勢力の大部分を占めるカソリックを懐柔するためビザンツ帝国は一時カソリックを国教として定めるも、これにより皇帝を見限ったギリシア正教が反乱に加担したために帝国は再びギリシア正教を国教として定めた。同盟国であるフランスの援助もあり反乱は次第に静まり、1735年には再び帝国に安定の時代が訪れた。 &ref(j.jpg); もっともらしい書き方をしていますが国教の変更は本当はイベリア半島の領土に沸いた反乱軍を潰すのが面倒で国威に余裕があったからよく読まずに反乱軍の要求を聞き入れたのが原因ですね。 &ref(y.jpg); だってイベリアまで大規模な軍隊派遣するの面倒だったんだもんー。それからフランスの援助って書いてあるけど、本当は「フランス軍に全て任せた」のが正しいよねー &ref(j.jpg); なおこの内乱の終結後にトスカーナ及びアルジェリアの外交併合を行いました。 &ref(y.jpg); グラナダちゃんは後回しねー **欧州の覇権 [#nc6b0f74] ***第五次ポーランド分割(1738-1746) [#s05d71f9] 1738年、ブランデンブルクを筆頭とし、ロシア・リボニア・ハンガリーによるポーランド分割が始まった。ブランデンブルクの拡大及びロシア帝国のポーランドへの進出を恐れたフランスはポーランド保護を名目にブランデンブルクに対して宣戦を布告した。ビザンツ帝国は東西ローマ同盟を維持すべくフランスの参戦要求に応じフランスに続きブランデンブルクに宣戦した。 開戦からわずか1年半ほどでフランスはブランデンブルクのほぼ全土を制圧し、ロシアはポーランド東半を占領していた。この戦争の盟主はブランデンブルクであったがビザンツ帝国は自国領の守備に徹し、その主な交戦はフランス対ロシアの体を成したためこの戦争を差してフランス=ロシア戦争と称する時もある。 &ref(134.jpg,,70%); このおよそ8年に及ぶフランスとロシアの総力戦はフランス側の勝利に終わり、欧州列強におけるフランスの絶対的有利を証明するものとなった。またこのフランスの優位を見たビザンツ帝国は東西ローマ統一への野望を断念したとも言われている。なおポーランドの保護を名目に開戦した戦争ではあったが、ロシア・ブランデンブルクによるポーランド分割は阻止されたもののその主戦場はポーランドであったためにその広大な土地のほとんどが焦土と化してしまった。 ***第二次モロッコ侵攻(1747-1750) [#e076330b] フランス=ロシア戦争の際にビザンツ帝国はグルジア方面でロシア帝国軍の猛攻に会い、その領土の一部を占領されていた。この戦争の結果ビザンツ帝国が外交的に失うものはなかったが、8年に及ぶ激戦を行ったのにもかかわらず一切の国益がなかったためにビザンツ国民の間で皇帝の政策に対する不満が募り始めていた。ビザンツ皇帝は国民の不満の意を逸らすため対外遠征を模索した。ムスリムの信仰の守護者はティームールであったためビザンツ帝国はモロッコに対する侵略戦争を懸念していたが、ティムール帝国がロシア帝国との間で行っていた戦争での圧倒的に不利な形成を見ると二回目のモロッコ侵攻を決行した。 &ref(136.jpg,,70%); ビザンツ帝国の目論み通りティムール帝国はモロッコの参戦要求を拒否しモロッコ王国一国のみで東西ローマ同盟と対峙する形となった。この戦争の結果モロッコ王国はアルジェリア王国の独立を承認しビザンツ帝国側の勝利に終わったが、この戦争はあくまでも形式的なものでありその意図は戦勝によるビザンツ帝国民の不満の払拭、東西ローマ同盟の永劫性と両国間の友好関係の再確認などであった。 &ref(y.jpg); やっとティムール君とロシア君がおっぱじめてくれたかー &ref(j.jpg); あんなに広く領土を接しているにも関わらずこの数百年一度も戦争に至りませんでしたからね。案の定ティムール側の完敗に終わりましたか。 &ref(y.jpg); この時間軸でもGreat Khanの実績達成ならずか・・・。分かってはいたけどなんか少し残念ね。 &ref(j.jpg); なお1750年のMAPは取ったのですが不手際で削除してしまったようです。申し訳ございません。 &ref(y.jpg); あとあとー、いつまでたってもRomaがギリシア正教に改宗できないんだけど対策方法を知っている人はコメントくれると嬉しいです。それじゃあ次回までゆっくりしてしていってね! *[[第七話 地中海の平定>AAR/ローマの平和よ再び/ローマの平和7]] [#d9a31145]
テキスト整形のルールを表示する
添付ファイル:
136.jpg
617件
[
詳細
]
134.jpg
667件
[
詳細
]
125.jpg
649件
[
詳細
]
121.jpg
643件
[
詳細
]
116.jpg
752件
[
詳細
]
j.jpg
583件
[
詳細
]
y.jpg
574件
[
詳細
]
113.jpg
598件
[
詳細
]