AAR/オスマン世界征服完全版/8話 土下座外交
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[[AAR/オスマン世界征服完全版]] * オスマン世界征服完全版/8話 土下座外交[#xe371e31] **ロシア戦[#s8ea5d57] 外交枠が3つも超過しているので、Croatiaの外交併合を開始しました。 それと同時にCroatiaのコア回収も兼ねてBosniaに宣戦。 その後1州だけBosniaに残した状態で和平をしました。 そしてBosnia戦と同時並行で、Muscovyに宣戦布告 &ref(./01.jpg,50%); Muscovyは前回から続くSwedenからの独立戦争中で消耗しており、 その国土が広いといえども、楽な戦いが出来ると思っていました。 そして軍をそのMuscovy領内に進攻させていたそのとき・・・ &ref(./02.jpg,50%); 奴らは我が軍の主力がMuscovy領内に深く入っていたが為、 西側の兵力が手薄になった、正にそのタイミングを狙っていたのです。 **屈辱の土下座[#s8ea5d57] 完全に囲まれている状況 &ref(./03.jpg,50%); それでも通常の会戦なら勝てる! &ref(./04.jpg,50%); Muscovyと白紙和平をし、主力を急行させる &ref(./05.jpg,50%); 数々の激戦が各地で起こり一進一退の攻防が続く。、 しかし、敵の主力との会戦でその兵力差に敗北を覚悟。 &ref(./06.jpg,50%); こうなれば、傷がまだ浅いうちに講和することを選択。 &ref(./07.jpg,50%); オスマン領内の、Dulkadir、Ramazanの独立を条件とした、 屈辱の土下座外交で終戦をする。 **憂さ晴らし[#s8ea5d57] この敗戦によりMuscovy侵攻は中断されましたが、 早期の講和によりマンパワーの損失は10,000程で済みました。 また独立された2国も、Turkish文化なのでオスマンコアが残ったままに なるので15年後にまた併合すれば良いのです。 何とか前向きにとらえて行こうと思いますが、 憂さ晴らしのため、より積極的に領土を拡大していくことにしました。 Mamluks、Tunisia、Makuria、Shammar、Tabarestan、 そしてまたSpain、Portugalを、ストレス解消とばかりボコボコにしていきました。 **1517年勢力範囲[#s8ea5d57] &ref(./08.jpg,50%); SpainやPortugalからは、Cape Verde等の孤島もいくつか奪っています。 **メフメト二世大往生[#s8ea5d57] 1518年4月2日未明 もはや不死身か?とも噂されていたMehmet二世が遂に御崩御。 この稀代の名君の長きに渡る治世によって、 オスマントルコの世界征服は大きく前進したのでした。 &ref(./09.jpg,50%); そして跡を継いだMehmet三世は、 このわずか2年後に、父を追うように世を去るのでした。 1520年11月1日。 Mehmet三世の後を引き継いだBayezid一世。 彼は跡を継いだのが50代後半と高齢ながら、 今後20年以上オスマントルコの皇帝の座に、座り続けるのでした。 &ref(./10.jpg,50%); ------------------------------------- [[AAR/オスマン世界征服完全版/9話 西洋化]]
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[[AAR/オスマン世界征服完全版]] * オスマン世界征服完全版/8話 土下座外交[#xe371e31] **ロシア戦[#s8ea5d57] 外交枠が3つも超過しているので、Croatiaの外交併合を開始しました。 それと同時にCroatiaのコア回収も兼ねてBosniaに宣戦。 その後1州だけBosniaに残した状態で和平をしました。 そしてBosnia戦と同時並行で、Muscovyに宣戦布告 &ref(./01.jpg,50%); Muscovyは前回から続くSwedenからの独立戦争中で消耗しており、 その国土が広いといえども、楽な戦いが出来ると思っていました。 そして軍をそのMuscovy領内に進攻させていたそのとき・・・ &ref(./02.jpg,50%); 奴らは我が軍の主力がMuscovy領内に深く入っていたが為、 西側の兵力が手薄になった、正にそのタイミングを狙っていたのです。 **屈辱の土下座[#s8ea5d57] 完全に囲まれている状況 &ref(./03.jpg,50%); それでも通常の会戦なら勝てる! &ref(./04.jpg,50%); Muscovyと白紙和平をし、主力を急行させる &ref(./05.jpg,50%); 数々の激戦が各地で起こり一進一退の攻防が続く。、 しかし、敵の主力との会戦でその兵力差に敗北を覚悟。 &ref(./06.jpg,50%); こうなれば、傷がまだ浅いうちに講和することを選択。 &ref(./07.jpg,50%); オスマン領内の、Dulkadir、Ramazanの独立を条件とした、 屈辱の土下座外交で終戦をする。 **憂さ晴らし[#s8ea5d57] この敗戦によりMuscovy侵攻は中断されましたが、 早期の講和によりマンパワーの損失は10,000程で済みました。 また独立された2国も、Turkish文化なのでオスマンコアが残ったままに なるので15年後にまた併合すれば良いのです。 何とか前向きにとらえて行こうと思いますが、 憂さ晴らしのため、より積極的に領土を拡大していくことにしました。 Mamluks、Tunisia、Makuria、Shammar、Tabarestan、 そしてまたSpain、Portugalを、ストレス解消とばかりボコボコにしていきました。 **1517年勢力範囲[#s8ea5d57] &ref(./08.jpg,50%); SpainやPortugalからは、Cape Verde等の孤島もいくつか奪っています。 **メフメト二世大往生[#s8ea5d57] 1518年4月2日未明 もはや不死身か?とも噂されていたMehmet二世が遂に御崩御。 この稀代の名君の長きに渡る治世によって、 オスマントルコの世界征服は大きく前進したのでした。 &ref(./09.jpg,50%); そして跡を継いだMehmet三世は、 このわずか2年後に、父を追うように世を去るのでした。 1520年11月1日。 Mehmet三世の後を引き継いだBayezid一世。 彼は跡を継いだのが50代後半と高齢ながら、 今後20年以上オスマントルコの皇帝の座に、座り続けるのでした。 &ref(./10.jpg,50%); ------------------------------------- [[AAR/オスマン世界征服完全版/9話 西洋化]]
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