AARとしての体裁を整えた上での記載をお願いします。形ができるまで一旦コメントアウトとさせて頂きます。 //[[FrontPage]] // //1445年4月5日、プロヴァンス公国が教皇領を攻撃。フランスのシャルル王もこれに続く。 // アナトリア半島に興った新興の遊牧民トルコのオスマン朝は当時バルカンとアナトリアにまたがる地域を支配し、かつてこれらを支配していたビザンティン帝国を圧迫していた。ビザンティンはかつては地中海を支配し、東ローマ帝国を名乗るほどだったが、イスラーム勢力の台頭とともにその権威と領土を大きく損失していた。今や彼らに残された領土は首都コンスタンティノポリスとその近郊、ペロポネソス半島のモレアス専制皇国とエーゲ海諸島部にしか残っていなかった。このオスマン朝に対する対抗と帝国の援助を目的として開催されたのが、バーゼル公会議である。 // このバーゼル公会議こそが、教会闘争の原因である。 // この公会議はビザンティンの援助とオスマン帝国に対する十字軍が目的であった。しかし当時援助と十字軍に興味を示した世俗の君主は一人もいなかった。 // フランス王シャルル7世はブルゴーニュ公国のシャルル突進公をはじめとした反フランス王派の諸侯たちとイングランドとの百年戦争が続行中。 // イングランド王国はフランス王国との戦いのほかに国王ヘンリー6世の悪政に伴い王の王朝であるランカスター家とヨーク家が互いに争う状況。 // カスティリア王国、アラゴン王国とナバーラ王国は、いち早くイスラームに征服されたイベリア半島の再征服レコンキスタを終わらせたポルトガルに負けじと共通の王ファン2世のもと、グラナダのナスル朝を倒すのに夢中。 // 神聖ローマ帝国皇帝にしてオーストリア大公フリードリヒ3世は自分のハプスブルク家の権威を増そうと婚約政策に熱中する毎日。 // 東欧でもリトアニア大公国のミガミシュ、モスクワ大公国のヴァシリー2世(盲目公)、デンマークのクリストファ王とクリム・ハン国を中心としたタタール人(モンゴル人)諸国が互いに戦乱と対立に明け暮れる日々。 // イアリアは言うまでもない。彼らは根っからの商人の国である。彼らはすでにマムルーク朝の支配するアレクサンドリアに海外交易の拠点を設けていたし、イスラーム諸国にも友人を多く持っていた。教皇の十字軍は商売の邪魔でしかないのだ。 // ハンガリー王国とヴェネツィア共和国だけが唯一オスマン帝国に対して行動を起こしていた。防戦手いっぱいの状況ではあったが。 // このような状況でも教皇エウゲニウスは公会議の開催と十字軍を実行しようとヨーロッパ各地を巡り諸侯に訴えかけていた。 // そしてビザンティン皇帝ヨハネス8世の準備が整ったことでかなり強引だが1431年7月23日にバーゼルで開会した。しかしほとんど参加者が集まらず、東方正教会の司祭がほとんどであったため、カトリックと正教会の合同という機運が見られ、教皇はイタリアのフェッラーラに公会議を移そうとした。これが諸侯を刺激した。フランス王はエウゲニウスを教皇には値しないと宣言し、バーゼルに公会議が残ることを主張し、サヴォイア伯アメーデオを対立教皇として即位させる。 // 対立教皇に先を越されアヴィニョンに入城されたエウゲニウスは一時,フィレンツェに逃げる。こうして2人の教皇が存在することになった。 // そんな中でも教皇エウゲニウスはめげることなく、進んで諸侯と対立した。 // シャルルとは真っ向から対立し、イタリア、ひいては地中海世界一の銀行メディチの総裁コジモにも教皇お抱え銀行の役目を解き、イタリア共和国と嫌悪な関係になった。 //自らの実力を示そうとしたのか、1444年1月にハンガリー王兼ポーランド王ラースロー1世に十字軍を組織させた。 // ハンガリー軍を主力にワラキア公国、リトアニア大公国、クロアチア王国、ボヘミア王国、ボスニア王国、セルビア公国、教皇庁と神聖ローマの傭兵が加わった。 // ムラト3世が治めるオスマン帝国がこれに対した。 // この戦いは最初から勝敗は見えていた。オスマン帝国が6万の軍勢を従えていたのに対し、十字軍は2万だったからだ。 // ヴァルナ湖で両軍は相まみえた。ボヘミアしか歩兵がいなかった十字軍の騎兵部隊は沼地に足を取られ、トルコ軍に虐殺された。唯一クロアチアの軍隊が本陣へ戻ることができた。王の舞台は取り残され、孤立した。王は最後の望みをかけ、ポーランド騎士500を引き連れ、敵中央を突進した。ムラト3世の首が目的だった。攻撃に集中していたトルコのイェニチェリは王の舞台の通過を許し、もう少しでムラト3世の首をとれそうだったラースロー王だったが、突然王の馬が足を取られ、王は落馬とともにその場でイェニチェリに殺害された。ハンガリーの摂政にして元帥フニャディ・ヤノーシュは王の遺体を取り返そうと本陣から出たが、結局撤退する部隊の援助しかできなかった。ラースロー亡きあと、ハンガリーの政治はフニャディが継いだが、ポーランドでは混乱が起こった。十字軍は大失敗に終わった。エウゲニウスの体面と権威は地に落ちた。 // そして、とうとう1445年4月5日、ソルボンヌ大学の神学者たちがフランス王の圧力で教皇領アヴィニョン征服は合法であるという論議結果を公表、対立教皇アメーデオもこれを承認。王の代わりにプロヴァンス公ルネが教皇領アヴィニョンに侵攻した。 // アヴィニョンは1っ週間持たず陥落し、エウゲニウス4世は様々な教書を認めさせられた。教書の中にはカトリックと正教会の合同も取り消しとなることが明記されていた。 // ペストの兆候が見られたため、銀行家で富豪のコジモ・デ・メディチがフィレンツェに招いていた公会議も皇帝ヨハネス8世があきれ果て、ビザンティン・ローマ風の芸術と詩や哲学思想をイタリア全土にまき散らせて帰ってしまったため自然消滅した。 //1446年11月3日、共和国元首ピエトロ・レオポルド・ボルゲーゼが死去。 // ローマのボルゲーゼ家という枢機卿や教皇を輩出した名家の生まれで、芸術活動と人文学を発展させた。イタリアにおけるルネサンスは彼の活躍が一翼を担った。 //1446年11月20日、イシドロ・マラスピーナ(先ドージェピエトロ・レオポルド・ボルゲーゼのシニョリーアの国務長官。)ジュリアーノ・ダッラ・ローザ(コンスタンティノープル大使)エルメス・オルシーニ(元海軍総司令官)の中からエルメス・オルシーニが選出される。 // エルメス・オルシーニは海賊行為を行い、イタリア沿岸を荒らすチュニス、トレムセン、フェザーン、モロッコに対して徹底した海賊狩りを行い、民衆の人気を集めた。しかしカスティリア王国の開始したナスル朝に対するレコンキスタで、それに参加し、軍事費が増した。 // 1448年11月5日、カスティリア王国はナスル朝とチュニスに宣戦を布告し、レコンキスタを再開した。イタリアは同盟国であったため、エルメス・オルシーニはチュニスの海軍をつぶすいい機会ととらえ、戦争に参加。ボン岬の海戦とリグーリアの海戦で勝利し、スルト湾の海戦でブトゥルス・バドラ率いるチュニスの主力艦隊を撃退した。陸軍でもアルフォンソ・オルシーニ率いるナポリ軍団がチュニスを包囲していた。しかし民衆の間で戦争税に対する反発が強まり、議会でも国家収入がひどく下がったため1449年11月20日に行われた信任投票で不信任となった。 // 同日ピエモンテ出身のイシドロ・カブール、ジェノヴァの豪商マッシミリアーノ・ドーリア、同じくジェノヴァの元イタリア海軍司令官でチュニスとの海戦で大勝利を挙げていたジャン・カルロ・ジュスティツィアーニの中から、マッシミリアーノ・ドーリアが選出された。 // 彼はチュニスとの戦争は継続したが、戦争税はあげず、貿易を促進すると約束した。 //1449年12月3日、アルフォンソ・オルシーニ率いるナポリ軍団は対チュニス戦争を一刻も早く終わらせたいという政府の意向によってパレルモに向かい、そこから海を渡りチュニス領に上陸した。チュニスのスルタン、ウスマン・ハフシードは慌てて首都チュニスを捨てて逃亡した。 //1449年12月15日、ナポリ軍はスーサを陥落させる。18日にはビゼルトを包囲した。 // ウスマン・ハフシードは1万4千もの兵力を集結させ、国土復活のため北上した。ナポリ軍もこれに対処すべくビゼルトを早々に陥落させ待ち受ける。 // 両軍は1449年12月22日、ビゼルト近郊で戦った。 //アルフォンソ・オルシーニの率いるイタリア南部方面軍の総数は1万3千、対してチュニス軍は1万4千。数では劣った。 // しかしアルフォンソ将軍は高地に陣取り、被害は大きかったもののチュニス軍に勝利する。死者は多く、1万3千の軍勢がけが人と使者を除くと6千になっていた。イタリア軍はそのまま逃亡するチュニス兵を追い回しながら南下し、25日にはチュニスを包囲、同日陥落させた。 // そのころレコンキスタの戦場ではカスティリア軍がナスル朝のすべての領土を占領していた。カスティリアの強大な陸軍、ポルトガルの海軍によりナスルの陸と海はほぼ解散していた。 // 1450年1月1日、アブー・アブドゥッラー・ムハンマド11世がグラナダから部下を連れ撤退したことによりグラナダが陥落した。 // そしてグラナダ陥落とともにナスル朝は滅亡し、800年にわたるレコンキスタは完全に終結した。 // カスティリア王国とナスル朝との戦争が終わり、イタリアとチュニスとの戦いも終わりを告げた。ナポリ軍はイタリアに撤退した。 // このことに気をよくしたのか、マッシミリアーノ・ドーリアはアルフォンソ・オルシーをイタリア共和国の本軍であるローマ軍の総司令官に任命し、ローマ軍に軍事訓練を行わせる。と同時に国民に約束した貿易の拡大を実行するため、オリエントのシャハーンギールの治める白羊朝とシャージャハーンの治める黒羊朝に接触し航路の発見に努める。また、ラグーザの交易を支配するため、ラグーザ侵攻まで計画し始めた。 // 政府もこれを支持し、にわかに農村部への負担が増した。兵糧とチュニス戦で傷ついたナポリ軍の補修、ローマ軍の訓練費用などで、財政が圧迫されたからだ。 // 1451年3月5日、とうとうロンバルディアの農村部で暴動が起きた。辞任を要求する農村部に根負けし、農民たちに金銭的補助を与えひとまず7月に暴動は沈せかした。 // しかし政府への威信はがた落ちし、1452年11月20日の定期選挙でマッシミリアーノ・ドーリアは不信任となり、カルロ・フェリーチェ・スピノラ、ベネデット・ブスカ、フランチェスコ・ディ・サヴォイアの中から元首が選出されることとなった。 // 熱心な討議の後に行われた選挙の結果、ベネデット・ブスカが選出された。 // 彼の父親はカスティリア王国首都トレドとイングランドのロンドン、マムルーク朝のカーヒラの駐在大使を歴任し、当時嫌悪な関係であったマムルーク朝と通商関係をまとめ、その当時のスルタンムハンマド2世と親友となって、現スルタンであるムハンマド3で務めたガレアッツォ・ブスカである。 // 39歳という異例の若さで選出されたベネデット・ブスカだが、議会には人気があった。 // まずマムルークのスルタンとの友好関係が望めたことである。アレクサンドリアへの進出を狙っていたイタリアにはスルタンとの友好関係は大切だ。 // それ以外にも彼の目立ちたがらない温厚な性格や息子がいないのが考慮された。 // 1452年12月3日ヴェネツィア共和国、イタリアの強大な交易力に認められるため、イストリアに新交易所を新設。18日にはキプロスが参加し、主に交易というよりはアドリア海から東地中海までの諸国の貿易船団(特にイタリア)を護衛する。 // 同日、クリム・ハン国、キプチャクとの戦争中に配色が濃いのに罰を悪くしたのか、オスマンの特使を迎える宴会の席で、王であるハジー・ハンがセルビアを口頭で非難、セルビア専制公ドゥラド1世ブランコヴィクを敵に回す。 // 1452年12月、オスマン朝のメフメト征服王の数々の要求と圧力に屈し、ドゥルガディル侯国のスレイマン・ベグが屈服し、属国化する。オスマン朝の拡大は勢いを失わない。 // 1453年1月4日、新年の習慣にしたがい教皇が新枢機卿を幾人か任命する。その中にマントヴァ出身のフェルディナンド・ゴンザーガが枢機卿となる。温厚な老人で、甥であるマントヴァ候爵家当主ルドヴィーコ3世とは友好的で、イタリアの更なる教皇への影響力が増す。 // 1453年2月19日、イングランドがフランドルへ禁輸処置をとる。 // イングランド国内ではすでにヨーク家とランカスター家の対立が激化し、貴族議会でヨーク派が国内への権威を高めようと、フランドルへの禁輸処置を議決させたと思われる。 // 3月2日、アナトリア半島のラマザン侯国のドゥンダル1世は、宿敵カラマン公国のイヴらヒム2世に宣戦を布告した。ラマザンはカラマンを征服しようと試みるオスマン朝と手を組んだ。それに対し、カラマン公国はオスマンとは宿敵のマムルーク朝を味方につけた。 // 3月5日、イタリア共和国、フランス王国との軍事同盟を結ぶ。 // これは教皇領復帰のため、プロヴァンス公国内のアヴィニョンを征服する際、フランスに介入してきてほしくないという意思表示であったが、フランスはその意志はない。 // 1453年、バーゼル公会議の際に東ローマ帝国の連れてきた詩人や、古代ギリシア・ローマ風潮が広まり、人文主義が全イタリアで起こる。大変な勢いで、思想や絵画・彫刻、音楽に至るまで、まったく革新的なものが続々と生み出された。 // 5月9日、フランスで新国王ルイの開催した馬上鉾試合で、貴族たちの騎士道精神に火が付き、それを聞いたフランス商人が任地先のアレクサンドリアでキリスト教を布教したとして、マムルークとフランスの関係が嫌悪になる。 // 同日、ブルゴーニュ公国がプロヴァンス公国と和平を結ぶ。お互いただの傷つけ合いで終わった戦争だった。 // 5月13日、黒羊朝のスンナ派商人がティムール朝の首都ヘラートでシーア派のティムール商人と喧嘩をし、相手を殺害した。黒羊朝の商人は処刑されたが、両国の関係は嫌悪となった。11月12日には両国互いに禁輸処置をとる。 // //・コンスタンティノポリスの陥落 // 5月29日、とうとう東ローマ帝国最後の都コンスタンティノポリスが陥落した。 // コンスタンティノポリスはギリシア人だけが守っていた。教皇庁が傭兵を派遣するという約束があったが、プロヴァンスによるアヴィニョン侵攻でそれはないこととなっていた。ヴェネツィアもオスマンに立ち向かえる状況ではなく、コンスタンティノポリスには兵は向かわなかった。わずか1000のギリシア部隊を率い、皇帝自らが陣頭指揮を行った。前述のバーゼル公会議で述べたように、かつて地中海を支配したビザンティンももはや後影も残していなかった。 // オスマン朝トルコ帝国のスルタン・メフメト2世(征服帝)の能力はは曾祖父にあたる雷帝バヤズィトがあともう少しで果たすことのできなかったコンスタンティノポリスの攻略を成し遂げるのに十分であった。トルコ帝国のスルタンの宮廷では最初、まさかメフメト2世がコンスタンティノポリスを攻略しようなどとは考えないであろうと予想していたし、また実行できないと確信していた。我々西欧諸国もそう思っていた。 // まずもってコンスタンティノポリスを攻略すること自体、トルコには利益をもたらさないし、逆に害になると思われていたからだ。コンスタンティノポリスはさすがはローマを名乗る国の首都だけあり、とても規模が大きい。地中海最強の都市であり、最大の規模を誇る。ビザンティンの最盛期には人口は50万を超え、天然の良港と黒海貿易の中継地点で通らざるを得ない町のため、各国の商人、特にイタリアやスペイン、ジェノヴァ、ヴェネツィアの商人でにぎわった。ジェノヴァの商人などはコンスタンティノポリス市街に金角湾をはさんだ対岸に城壁と要塞を築き、そこで自分たちだけの自治と商売を行うことまでした。世にいう‘‘ガラタ地区‘‘だ。 // トルコの商人もまたトルコ領となったバルカン半島のギリシア商人やユダヤ商人も十二分にこの‘‘黄金の都‘‘の恩恵を受けていた。ゆえにこの都は長くオスマン・トルコの支配から逃れてきたのだ。皇帝はトルコのスルタンに年貢金を払ってはいたのだが。 // 当時のスルタン、メフメト2世の高祖父であるバヤズィト1世は雷帝とあだ名された男で、オスマン朝の中で初めて本格的にビザンティンと戦った。1444年当時の支配領域も、基礎を形作ったのは彼である。彼はセルビアの王ラザルをコソボの戦いで破り、欧州における帝国領を確立、セルジューク・トルコ以来のアナトリアの諸侯も従え、1393年9月25年日には教皇ボニファティウス8世の招集した神聖ローマ皇帝シギスムント率いる十字軍にニコポリスで勝利し、スルタンの称号をいただく。 // そしてコンスタンティノポリスを包囲したが、さすがはコンスタンティノポリス、三重壁はびくともせず、多くのトルコ人兵士が死んだ。 // しかしあのまま包囲されればコンスタンティノポリスは陥落していただろう。だがバヤズィトは陥落を見ることはなかった。その時、東より大きなる脅威がオスマンに迫っていたからだ。ティムール大帝の率いるティムール朝である。ティムールはエジプトのマムルークをたたき、インド北部を荒らしまわったのち、とうとうオスマン帝国へその野心を向けた。コンスタンティノポリスの包囲の途中であったバヤズィト雷帝は急ぎ引き返した。 // 両軍は1402年7月20日、アンカラで対した。戦闘はオスマン側は12万、ティムール朝は20万。戦闘は朝方から夜まで続き、激戦を極めるがティムール朝が圧勝する。雷帝バヤズィトはとらえられ、捕虜として一年後に獄死する。 // 亡き雷帝の息子たちは権力を争い、内紛を興し、オスマン帝国の権威は地に落ちた。属国も勢いを取り戻し、次々に独立。こうして1回目のコンスタンティノポリス攻略は大失敗に終わったのだ。 // 内紛に勝ち、スルタンとして即位したメフメト1世はやっと回復したバヤズィト雷帝以来の領土再興と属国の再支配で統治を終わらせる。その子ムラト2世は、ヴァルナの十字軍を撃退したり、短期間コンスタンティンポリスを包囲してみたりと優秀だったが、やはり帝国の再建期が幼少期であったため、家臣に至るまで親ビザンティン派で、コンスタンティノポリスに対しても独立を認めていた。息子のメフメト2世も父や祖父のような帝国の再建で治世を終える器だと思われていた。(一度ムラト2世が退位し、メフメトが帝位を継いだことがあったが、メフメト2世は内気で何を考えているかわからず残忍であったので兵士たちの人気が取れず、狩に言っている間に父帝に復位され、蟄居を命ぜられる場面があった。また実際は次々と夭折したメフメトの兄たちが継ぐはずで、彼は兄弟の中では最も継承権が下だった。) // しかしメフメト2世はそうではなかった。まずサガノス・パシャをはじめとした反欧州派の宰相たちを任命した。そしてもともとバヤズィト雷帝が築いていたコンスタンティノポリスに向かう黒海貿易の商船が通るダーダネルス海峡の岸にあった要塞アナドール・ヒサーリ(アジア側にあったため、アジアの城という意味)に続き、すぐ対岸にもルメーリ・ヒサーリ(ヨーロッパ側にあったため欧州の城といういみ)を築かせ、商船に通行金をとることによって黒海貿易を衰退させ、コンスタンティノポリスを締め上げる。 // そして有名なあの場面でコンスタンティノポリスの運命は決まったのだ。 // 先代のムラト2世の治世で親欧州・ビザンティン派の頭目とされていたハリル・パシャが真夜中突然スルタンに召集命令を受ける。真夜中の呼び出しに、とうとう邪魔になった自分が暗殺されると思ったハリル・パシャは覚悟を決め、習慣に従い山金貨を銀の盆にのせて参上した。それを見たメフメトは実に穏やかな声で尋ねた // ‘‘これはどういう意味ですか、ラーラ‘‘ // ラーラとはトルコ語で先生という意味である。3代前のメフメト1世より使えているハリル・パシャは純潔トルコ人であるということも考慮してかなりの厚遇を受けていた。先代のムラト2世も幼少期のメフメト2世に彼をラーラと呼びなさいと言っていたため、公式の関以外ではメフメト2世は彼をラーラと呼んでいた。 // ハリル・パシャは重々しい丁寧な口調で答えた。 //‘‘我がスルタン、習慣として真夜中に主人に謁見する際、何も持参しないでの参上というのは礼儀に欠く行為でございます‘‘ // それを聞いたメフメト2世はしばらくひざまずくハリル・パシャを見ていたが、金貨の盆をハリルのほうに押しやるといった。 //‘‘あなたの持つ富は私にはすでに必要ありません。逆に私はあなた方にあなた方の持つ富よりもずっと大きな富を与えることもできるのです。私があなた方に望むことはただ一つ、あの町をください‘‘ // こうしてコンスタンティノポリス1190年の歴史にも終わりが来た。 // コンスタンティノポリス包囲戦で特徴づけられたのは火器。特に大砲である。メフメト2世は攻略戦のずいぶん前からとある大砲の開発を進めていた。ハンガリー人のウルバンが開発したウルバンの巨砲である。8メートルの全長を誇り、直系75センチ、砲弾は500キログラムを超え実験では轟音とともに1.6キロ飛び、さらに地中に2メートルめり込んで止まったそうである。 // トルコの精鋭部隊イェニチェリやセルビアをはじめとした属国の兵士、傭兵を合わせた6万もの軍勢とともにエディルネを出たメフメト2世は初戦は苦戦する。ウルバンの巨砲は砲丸の材料となる石材が不足し、膨張による爆発の恐れがあるため、頻繁には打てなかった。小さな大砲はそれこそたくさんあったが、3重壁を崩すのには不足だった。 // しかし金角湾を占拠したオスマン海軍は1204年の、コンスタンティノポリスが1000年の歴史の中唯一陥落したヴェネツィアとイタリアが行った第四次十字軍を模倣し、1453年5月29日なんとガレー船のマストから梯子を伸ばし城壁に侵入。 // その混乱とともに一斉に陸から攻撃を仕掛けた。城壁は防衛できていたが、海側は陥落し、占拠された。陸側も皇帝が自ら陣頭指揮にあたってよく持ちこたえたが、総司令官エマノエル・カサヴェテスが戦死したのを皮切りに、ロマノス軍門が陥落、それと同時にトルコ人が海側と陸から同時に侵入、1000年続いたビザンティンひいてはローマ帝国の最後の皇帝となったコンスタンティヌス11世は‘‘私の胸に剣を突き付けてくれる一人のキリスト教徒もいないのか‘‘と言い残し、怒涛の如く押し寄せたトルコ兵に身を投じて壮絶な戦死を遂げたといわれている。 // コンスタンティノポリスは3日艦略奪がなされ、栄光ある聖堂ハギャ・ソフィアはモスクに変わり、帝国宰相ノタラスら重鎮はオスマンに従属を申し入れ、貴族から修道士に至るまで、ありとあらゆる市民が奴隷としてつながれ連行されたため無人の都とかした。こうしてローマ帝国最後の帝都は双頭の鷲に紅のマントをたなびかせながら白馬をかける皇帝とともに永久に消滅した。 // またこれによりコンスタンティノポリスに拠点を置いていた商業国家も大打撃をこうむり、特にガラタ地区陥落によるジェノヴァの衰退は著しく、イタリアやヴェネツィアの商人も相当な打撃をこうむった。 // // 6月17日、アナトリアで起こったラマザンとカラマンの戦争で、配色が濃いと見たマムルーク朝は単独でラマザンと和平を結ぼうとするが、カラマンからイチェルを落としていたラマザンとオスマン連合軍はこれを完全に拒否。コンスタンティノポリス陥落で手が空いたイェニチェリ・オスマン正規軍が加わり、カラマン公国はさらに不利な状況を迎えていた。 // 8月2日リトアニアがモスクワ大公国に禁輸処置。いつもの争いである。 // 9月13日、イタリア、ジョルジュ・ボスコのラグーザ共和国についに宣戦を布告。世にいうラグーザ交易戦争である。 // 元首ベネデット・ディ・ブスカと元老院はプロヴァンスにおける教皇領の解放が限りなく難しいと悟ると、ラグーザ共和国の攻略を優先した。 // 商業戦争という名目で戦ったため、欧州諸国もあまり関心を示さず、またイタリアが圧勝すると予想していた。本来は小規模な戦争で終結するはずであった。 // しかし元老院と元首の予想ををずれ、戦争は思いもよらぬ拡大を遂げる。 //9月13日深夜、ハンガリー王国の摂政フニャディ・ヤノーシュからの書簡が元首官邸にもたらされる。そこにはハンガリーのイタリア側での参戦を要望するものであった。ラグーザ共和国の併合の暁にはハンガリーにラグーザ市が持つ交易圏に一枚かませろ、その代わり今回の戦争では陸軍をハンガリーが持つ故、イタリアは海軍活動を行ってくれ、という内容だ。 // 元首ベネデット・ブスカはこれをその場で独断で承諾。これがのちに大きな問題となる。 //9月14日、早くも戦争は拡大する。ザルツブルク司教国のベルンハルト1世とアーヘン自由都市のゲオルク・フォン・ケルンハウゼン市長がラグーザ共和国側で参戦、イタリア共和国に宣戦を布告。 // この2国はどれも神聖ローマ帝国を構成する国だ。参戦した主な要因は両国ともラグーザの交易圏で収入の大半を得ていたからだ。ザルツブルクはまだ自国内でもやってはいけたが、アーヘンはこのラグーザ貿易路にかけていた。 // しかしまだ今の段階ではハンガリーとイタリアという大国に対抗するには少ない戦力だった。ではなぜこの2国は参戦したのか? //9月15日、オスマン帝国ラグーザ側でイタリア・ハンガリー両国に宣戦を布告。 // これには元老院も元首ベネデット・ディ・ブスカも相当焦った。まさかオスマン帝国が参戦するとは夢にも思わなかったのだ。 // 第一に、オスマン帝国は1453年5月29日のコンスタンティノポリス陥落で第一陸軍の体力を大きく消耗していたと思われていたし、残りの陸軍もカラマン侯国との戦いでアナトリア半島南部で活動中であったからだ。オスマンの主力はあくまで陸にあり、それが満足に使えない状況で参戦するとは元首ブスカは思えなかったのだ。 // しかし少し考えればわかったはずである。コンスタンティノポリス陥落でも海軍は存在し、その海軍は多くの国を凌駕する規模であったということ。オスマン帝国がラグーザ貿易圏で利益の何割かを得ていて、同共和国に独立保障していたこと。 // にわかにイタリア共和国の政界が2分される。一方は新たに国政に参加することを許された商業を生業として発展した新貴族の勢力、もう一方は元首ブスカを筆頭としたイタリア半島に古くから存在した旧貴族たちだ。 // 新貴族は独断でハンガリーと同盟を結んだ元首を非難し、国内防衛と商業で航海をする商船に追加の護衛戦をつけることを主張、旧貴族は率先的な攻撃を主張し海軍の第2主力艦隊を海路で、新たにコンスタンティニーエと名前を変えたトルコ帝国の首都コンスタンティノポリスに向かわせ、オスマン海軍の主力をたたくという計画を立てる。 // 結局旧家が勝ち、全元首エルメス・オルシーニが率いる第2主力艦隊が出航する。 // その後、イタリア海軍とハンガリー陸軍は快調に戦役を進める。 //9月20日アドリア海でラグーザの艦隊にイタリア主力艦隊が勝利する。 //9月21日、ボンバ湾でラグーザの商船団をイタリアの商船団が破る。 //9月22日、アレクサンドリア航路を守る船団が、オスマンの主力海軍と遭遇、3隻撃沈という敗北を期す。しかしイタリア元老院は逆に盛り上がり、オスマンの主力艦隊の出現に奮い立つ。 //10月5日、ハンガリーの軍団1万がザルツブルクに攻撃を仕掛け、1000のザルツブルク兵に勝つ。 // オスマン帝国陸軍はやはり一向に攻めてこず、ハンガリーとイタリアが敵を圧倒する状況だった。しかし、11月、イタリアを震撼させる事件が起きた。 //11月1日、エルメス・オルシーニ率いる31隻の第2艦隊、マルマラ海でムラト・シャイーフ率いるオスマン帝国海軍21隻に敗北。司令官エルメス・オルシーニは戦死した。 // この知らせを聞いたとき、元老院は静まり返ったという。まさか、イタリアの海軍が、地中海最強とうたわれた海軍がオスマンという陸地型の国に、数で押されたならともかく量でも圧していたのに14隻もの損害を出して大敗したなど、信じられるものではなかった。実に100年ぶりの大規模海戦での敗北である。元首ブスカはこのことを国民に知らせまいと努力したが、努力もむなしく、7日後にはイタリア半島全域、20日後には欧州中に広まった。 // イタリア中の交易所や銀行では暗い顔をしたイタリア商人たちが話し合う姿が見られた。にわかに戦争に対する、もしくは政府や元首に対する不満が募る。 // 欧州諸国の宮廷でもイタリア海軍の敗北を知り、多くの驚きとオスマンへの恐怖が生まれた。ルネサンスのブームを迎えていたイタリアでは大げさに誇張された詩や絵画が多く発表された。 // 実際の海戦はどうであったか。確かに決定的敗北といっていい結果だったが、現実はそう単純ではない。 // 戦闘が起こったのは朝方早くだったそうである。その日、マルマラ海は霧が立ち込め、北西風(マエストラーレ)が吹いていた。オスマン艦隊を見止めたイタリア艦隊司令官エルメス・オルシーニは小型快速船に乗り移り、小型帆船を下がらせた。実はこの時の艦隊編成は実に雑で非戦闘的であったのだ。ベネデット・ディ・ブスカが急いで編成をさせたために、もともとはジェノヴァ航路の保護を行っていた艦艇がほとんどであった。つまり商船と小型快速船だ。なぜ比較的大きい商業用の小型帆船に乗らず、後ろに下がらせたかというと、北西風ではこちらに向かい風なので、帆船では動きが満足に取れないのだ。小型快速船はオールでこぐので、風がなくとも向かい風でも動くことが可能なのだ。 // 戦闘は最初イタリア艦隊が有利に進めた。快速船とイタリア人の天性の航海能力でオスマン側は追い風にもかかわらず、決定的な勝利があげられなかった。 // しかし3時間経過したとき、突然海流が変わったのだ。オスマン艦隊側に流されまいと必死にオールをこぐエルメス・オルシーニはじめ14隻は海流とオールの力が重なり、海中にほぼ静止する。その間に回り込んだオスマンのガレー船が一気に襲い掛かる。 // 包囲はどんどん縮められ船は沈むか航行不能となっていった。最後に残ったエルメス・オルシーニはのろしを上げ、後方に撤退させていた残りの艦隊に撤退を命令し、部下に海中に飛び込むよう命令し、船長室にこもり、大量の火薬に火をつけ、オスマンのガレー船5隻をまき沿いに爆沈した。 // エルメス・オルシーニは実に大胆で部下との絆を重んじ、また賢明な男だった。 // 1401年6月4日ローマのオルシーニ家の一家流グラヴィーナ家に父フランチェスコとチェザリーニ家出身の母クラリーチェの間に生まれる。元首に就任したのは45歳。チュニスの海賊相手に戦果を挙げて、彼が救ったオスティア出身のローマ貴族にして当時の元首ピエトロ・レオポルド・ボルゲーゼが死去する間際にエルメス・オルシーニを次期元首として推薦していたので、ほかの対立候補に元首になられるよりはと、元老院が選出した。 // 対海賊と海軍強化を進めたが、あいにく元首としての在位は短く、チュニス戦役で戦費が増したことをベネデット・ディ・ブスカに指摘され彼の取り巻きの議員によって不信任投票となった。オスマン海軍の強大化を早くに予想していたが、だれも信じなかったのだ。 // 彼がオスマンに降伏しなかったのは、単に命が惜しくないとか、壮絶な戦死を望んだからではない。もし自信が捕虜になり、イタリア政府が身代金を払えばイタリアの敗戦はさらに誇張され、権威が失落すると思ったからだ。死ぬにしても遺体、特に首級はとられてはならなかった。さらし者になる可能性がある。 // 彼の死は部下たちによって本国に伝えられ、彼の望んだガレー船の主力艦隊への導入は実現する。 //11月5日、イタリア共和国元老院で旧貴族が戦争終結後にベネデット・ディ・ブスカが退陣すると宣言。それまでの間は旧家と新貴族が結び付く必要があると説き、コジモ・デ・メディチ主導の新貴族もこれを受けた。イタリアは危機に瀕し、一つになった。 // //11月11日、キプチャク・ハン国のクチュク・ムハンマド、カザン・ハン国のクルグ・ムハンマドに宣戦を布告。クリム・ハン国とジェノヴァを破り、かつてのキプチャクの栄光を取り戻したいと見える。 // //11月29日、リトアニア大公国(ガジミシュ大公)、エウフィーミー2世のノヴゴロド大公国と和平。リトアニアに有利な条件で、リトアニアは戦争に勝ったといえる。 // //同日、コンラート・フォン・エルリヒ団長率いるチュートン騎士団、カジミール1世のダンツィヒ共和国との戦いに敗れ首都をオステローデに移す。それと同時に和平。 // //12月26日、イタリア海軍のマルマラ海戦敗北のほうを聞き、ブワディスワフ4世のポーランド王国、オスマンを宴会の席で侮辱し、敵視する。 // //1454年1月4日、ファン2世のカスティリア王国とアラゴン王国に対抗するため、アブド・アル=ハック2世のモロッコとムハンマド・ヒンタータのマラケシュが盛大な宴会を催す。その際アブド・アル=ハックがヒンタータに送った大量の金が話題になり、逆にファン2世の野望を強める。 // //2月3日、冬季のため鎮静化していたラグーザ戦争もにわかに波が立ち始める。トレヴーゾがアーヘン自由都市の傭兵エドゥアルド・ファルケンベルクの軍勢に包囲される。 // イタリア陸軍はナポリ軍が療養中、アルフォンソ・オルシーニのフェッラーラ―軍はラグーザ攻略のためアドリア海の対岸、マントヴァ軍はハンガリー軍と協力してトルコ領ヴィディンとセヴェリンを占領したばかりなのでバルカン半島。 // 焦った元首ブスカはローマ本軍を派遣。しかも将軍なし。 //3月9日、ドゥルスン・ゼンダル率いるオスマン海軍第2艦隊15隻がカリアリの海岸を封鎖。これをチャンスと見た新貴族の筆頭メディチ家のコジモは元首ブスカに半場強制的にセヴァスティアーノ・ロレダン率いるイタリア主力艦隊34隻を向かわせる。イタリア海軍の力を思い知らせる機会である。マルマラの海戦の艦隊とは違い、ほとんどが大型帆船で大砲も積んでいる。戦闘に特化したイタリアの切り札だ。 // //同日、フランスで大規模な反乱がおこる。農民反乱で、フランスボルドーでブノワ・ペテューヌとニコラ=アンリ・ド・ボンヌフォワが同時に反乱。フランス軍はこれを撃滅。 // //3月14日、ヴァシリー2世のモスクワ大国国とウラジーミル・リューリコヴィチ大公のロストフ侯国が大規模な宴会を催す。少し前から両人の関係の良さは知られており、王家同士で結婚もしている。 //同日、ヒスン・カイファのアル=シャイフ・サラーフ・アッディーンが白羊朝のシャハーンギールを侮辱、敵対関係となる。 // //4月3日、ミュンスター司教国で新司教フランツ1世ファン・エフモント就任 // //4月7日、デンマーク王クリストファ3世、ハインリヒ3世フォン・バルデリクのリヴォニア騎士団に宣戦を布告。大陸への進出が狙いと思われる。 // //同日、セヴァスティアーノ・ロレダンのイタリア主力艦隊、メッシーナ沖の海戦でオスマンの第二主力艦隊を完膚なきまでに破る。 // イタリア中が歓喜に満ち溢れた。庶民から金持ち、元老院に至るまでが喜びに包まれた。 // 昼近く、セヴァスティアーノ・ロレダンはイタリア主力艦隊接近を聞いて逃げる途中のオスマン第二主力艦隊15隻に遭遇、そのまま先頭に入った。 // 風はシロッコ南風。イタリア海軍には向かい風だったが、セヴァスティアーノ・ロレダはマストをたたませ、大砲を打つはずの砲門からオールを出させ漕がせた。オスマンは大砲と小型船にかく乱され、7席以上の損害を受けた。司令官ゼンダルの旗艦も拿捕され、メッシーナ港に歓声に包まれイタリア艦隊は凱旋する。 // コジモ・デ・メディチと新貴族派閥はさらに名声を高めた。なぜならこの計画はコジモが提案したものだからである。 // 逆に旧貴族は元首ブスカの派遣したローマ軍が4月30日フリウリで行われたラグーザのアメーデオ・サラカ率いる5000に戦いを挑み、勝てたはものの、5000の死傷者を出し大損害を被ったのをきっかけに、名誉をさらに損失していた。 // //1454年5月22日、スイスのパウル・オイクスターに対抗するため、サヴォイア公国のルドヴィーコ1世とラーフェンスブルクのエルンスト・オルトリーブと軍事同盟を結ぶ。 // //6月4日、ニュルンベルク自由都市のヴィリーハラー・フォン・ハラーシュタインとトーリア自由都市のヤコプ・フォン・シルクが中央集権を進めるプファルツ公国のルートヴィヒに対抗し軍事同盟を結ぶ。 // //同日、フランドルとイングランドの交易戦争は終わりを知らず、またもやフランドルが羊毛に輸出禁止処置をとる。 // //6月12日、ボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトがポーランドの王位を要求。 // //6月19日、ルネサス巻き起こるイタリアで技術爆発。さらに経済はよくなる。 // //6月29日、技術爆発とともにイタリアに歴史的ブドウの豊作。世界一のワイン産出国となる。 // //1454年7月4日、トーリアとニュルンベルクに対抗すべくプファルツ公ルートヴィヒ4世、アウクスブルクのペーター・フォン・シウムベルクと軍事同盟。 // //1453年7月20日、セヴァスティアーノ・ロレダン率いるイタリア第一艦隊、ムラト・パシャ率いるオスマンの艦隊にエーゲ海で圧勝。 // やはりイタリアの主力艦隊に勝る海軍は地中海の波が洗う土地には存在しなかった。34隻の艦隊は一隻も傷を負うことなく15隻を撃退した。イタリア本国でもガレー船22隻の建造が完成間近だった。 // //1454年8月26日、セルビア専制公ドゥラド1世死去。 // ドゥラド1世は悲劇の君主であった。父公スチェパンの跡を1427年に継いだが、オスマンとの戦いに敗れナーンドルフェヘールヴァル州を失い、首都をブラニチェヴォに移した。専制公は息子ラザル2世が即位。この男は33歳で父とは違い非常におしゃべりで道化とあだ名されていた。 // //9月1日、アブド・アル=ハック2世のモロッコは親友であるヒンタータの治めていたマラケシュをこの日、ヒンタータの死とともに併合。モロッコは拡大した。 // //9月8日、リガの司教にヨハン4世アルランブルクが就く。 // //1454年9月12日、オスマン領征服部隊であるイタリア・ハンガリー合同軍、セヴェリン近郊でオスマン帝国に大敗。 // セヴェリン陥落させていたイタリア・ハンガリー軍はぬかっていた。マムルークの支援を受けたカラマン侯国が帝国に反旗を翻し、アナトリアを次々と占領していた状況でまさか辺境の地を占領されたくらいで来るとは思えなかった。しかしオスマンの陸軍は膨大な数を抱えている。 // 武勇で誉れ高いアラジン・アマシャーリ率いるオスマン軍1万6千は2万6千のイタリア・ハンガリー軍に勝った。オスマン側は3313、イタリア・ハンガリー側は1577の死傷者を出した。この戦いでベネデット・ディ・ブスカの計画していた和平交渉は台無しとなり、新貴族はさらにその勢いを増した。 // // 10月10日、スイスのパウル・オイクスター、スイスでの熱心な布教に感謝し、ザルツブルク司教ベルンハルト1世に贈り物。この金は対イタリアへの軍資金として使われた。 // // 10月29日、ボスニア国王スチェパン・トマオストイクが死去。彼もまた非元気の君主であった。オスマン帝国との戦いでヴァルナで負けて以来、欝を患った国王は悲劇の中に死んだ。新国王にはスチェパン・トマエコヴィク・ユトロマニッチが就いた。彼は優秀な軍人で、幾分か王国の名誉を取り返してくれるだろうと予想されている。 // //10月31日、ローマ本軍がミラノに攻撃を仕掛けていたエドゥアルド・ファルケンベルク率いるニュルンベルク軍と戦い、なんと惨敗。1万6000のイタリア軍は8197の損害を出し、撤退。またもベネデット・ディ・ブスカの名誉は傷ついた。 //しかしミラノは占領されることはなかった。12月1日、フニャディ・ヤノーシュ率いるハンガリーの軍勢が彼らを破り、敗退させたからだ。総司令官エドゥアルド・ファルケンベルクは撤退中にハンガリー兵に殺された。 // エドゥアルド・ファルケンベルクは1412年ニュルンベルクに生まれた。父親はコンラートといい、母は地元の有力地主の娘であるらしい。もともとはニュルンベルク司教の伝令役を職としていたが今回の戦争で人手不足により戦地に赴いたのである。傭兵に対する正確な支払いと伝令役の時に知り合った多くの農村出身の兵たちが軍の大半を占めていたため軍の指揮を高く保ち、イタリア軍主力に勝利するなど並々ならぬ指導力を発揮した。 // 名称フニャディ・ヤノーシュ率いいるハンガリーとの戦いで敗走中にハンガリー兵に周りを囲まれ殺された。しかし彼の首はハンガリー軍側には渡らなかったようで、実際死んだのかはわかっていない。ひとえに彼の兵装が司令官にしては貧しいものであったということが主な要因だ。 // //1454年12月1日、リトアニアで大規模な貴族反乱がおこる。モージリウスではアジュオラス・ライスケヴェシス伯爵、トゥルヴァス・ヴォイルネ両州では2万3千もの反乱兵を従えリナス・リエトヴィス辺境伯が立ち上がる。 // 寒害の影響で収入が低下したのもあるが、やはりノヴゴロドとの戦争が後を引いているらしい。公の右腕ともいわれたリトアニア東部辺境伯リエトヴィスの反乱に、事の重さを悟ったリトアニア大公ガジミシュ自らが出陣する。 // //1454年12月13日、ファン2世のカスティーリャ王国、勢力を拡大するアブド・アル=ハック2世のモロッコに対して禁輸処置。 // //1454年12月13日、イングランドがフランスへ禁輸処置。 // //1455年1月15日、チュニスの海賊にシラクーザが襲われる。 // 先のチュニス戦役で休戦を結んでいたチュニスをはじめとしたフェザーンやトレムセンだが、休戦協定が切れたと同時に大挙して海賊が押し寄せた。シラクーザはまだ軽度で済んだが、29日、フェザーンに襲われたサッサリとカリアリはひどいもので、故エルメス・オルシーニの要望で新設されたイタリア海軍ガレー船艦隊22隻の最初の仕事は海賊狩りとなった。 // // 1455年1月21日、永久に続くブルターニュ・プロヴァンス公国戦争でプロヴァンスはユトレヒトと休戦までこぎつけた。ブルターニュとの戦いは続行された。 // // 同日、モスクワ大公ヴァシリー盲目公はベロオーゼロ大公ミハイルと友好を宣言、ロシア諸国の団結を強める。 // //1455年、2月17日ユトレヒトのフィリップ・ファン・ヘーネゴウエン司教はリューベック自由都市のヴィルフリート・ヴィックに対抗するため、フェルデン侯国のヨハン・アドルフ4世を見方につける。 // //1455年3月12日、ラグーザ近郊でハンガリー軍フニャディ・ヤノーシュ率いる1万3千とアラジン・アマシャーリ率いるオスマン軍が衝突。大規模な戦闘となる。 // 最初、オスマンは高台を取り戦いを優位に進めるが、中盤になって総司令官アマシャーリの騎兵隊は勝利を確固たるものにしようと高台を捨て突進する。それを見たフニャディ・ヤノーシュも騎馬隊を従え突撃。両司令官が戦うという詩的な戦場となる。一騎打ちという形だった。激しく馬上で歯を交えた両司令官だったが、最終的にフニャディ・ヤノーシュの放った石弓がアラジン・アマシャーリの肩に刺さり、落馬。命は何とか彼の近衛騎馬隊が助けたが、司令官の負傷をど真ん中で見せられたオスマン軍はひるんだ。そのすきを突きハンガリーは猛攻。援軍であるアルフォンソ・オルシーに将軍が到着したときはすでにオスマン軍は撤退していた。 // この戦いは長らく戦役に苦しんでいたラグーザ市長ジョルジュ・ボスコに決定的な失望を埋め込んだ。 // // 1455年3月16日、リトアニア、モスクワを敵視。 // リトアニアでの貴族反乱はほぼ鎮圧され、ヴォイルネ近郊の戦いでガジミシュ大公がリエトヴィス辺境伯を破り、辺境伯が最後の抵抗を行ったヴォイルネの陥落で反乱は完全に終結した。とらえられた辺境伯の口から反乱はモスクワ大公国の支援があったからという証言が出たため、このようなこととなった。モスクワ大公ヴァシリーが関与を否定したのは言うまでもない。 // //1455年3月28日、カリャリを大規模な飢饉が襲い、死者が多数出る。政府は7万800ドゥカートもの金額を贈与した。 // 海賊行為はなくなったが、働き手である若い男が海賊にさらわれたため、もしくはイタリア南部方面軍に徴集されているため、主産業である牧畜ができないのだ。戦争の影響はすでにイタリア各地にみられた。これ以上戦争が長引けば経済や私生活にまで影響が出てくる可能性があった。イタリア政府はここで初めて外交的手段に転ずる。 //1455年4月4日、ラグーザ交易戦争、終結。 // 1453年9月13日に始まったラグーザ交易船そうはついに終結した。ラグーザ市も、オスマン帝国も、イタリアも、ニュルンベルク司教国もアーヘン自由都市も戦争に疲弊していた。ハンガリーの摂政フニャディ・ヤノーシュだけはやる気十分で、この知らせを聞いたとき憤り、国王アルブレヒト2世の前にもかかわらず‘‘寝取られ女の息子め!‘‘とキリストを侮辱する言葉を漏らしたそうであるが、国王が下痢を起こしていたため、おとなしくラグーザ市の包囲を解いた。 // ラグーザとの会談は元首ベネデット・ディ・ブスカの父親、ガレアッツォが取り次いだ。わざわざアレクサンドリアから出向いたのだ。和平条約の内容はこうである。 //・アーヘン自由都市、ニュルンベルク司教国はその経済力をイタリアとハンガリーに提供する。 //・ハンガリー・イタリア軍が占領したバルカン半島のオスマン帝国領は直ちに返還される。 //・ラグーザ市は向こう10年間イタリア共和国に収入の1割を賠償金として払うこと。 //・ラグーザ市は独立国家として認められる。 //・ラグーザ市にイタリア軍が駐屯することを認める。またラグーザ港をイタリア海軍が使用する権利を与える。 // 以上である。ラグーザ市評議会と市長ジョルジュ・ボスコはこれを認めた。 // 結果としてラグーザ側、死傷者27661人、撃沈もしくは航行不能となった艦艇22隻、イタリア・ハンガリー側死傷者27544人、撃沈22隻となった。 // イタリアはラグーザの交易市場をハンガリーと独占した。イタリア国会では戦争終結に安どの声が漏れ、会議をまとめたガレアッツォ・ディ・ブスカの功績をほめたたえた。元老院での報告でガレアッツォはこう報告している。 //‘‘この度の戦争は、何も元首であり、我が息子ベネデット・ディ・ブスカだけの責任ではない。元首にも過ちがあったことは確かである。だが我々は建国以来共和制の国である。一人の人間を責めることはできない。我々の海軍はマルマラ海で敗北しました。建国以来我々の軍は敗北と本当の戦争になれていません。この敗北は後を引くでしょう。・・・・・・最後にこの度の無謀で、我が海軍の権威と士気を低下させ、多くの若いものや戦争に関係のない市民を死に至らしめた戦争は我が国の外交技術と元首制度の不敗、戦争というものの在り方が変わってきていることの証拠であり、我々がこの戦争に学ばなければ、我が国の共和制や存続そのものを脅かす原因となる恐れがあるということを、ここに意見具申させていただきます。‘‘ // ガレアッツォ・ディ・ブスカはこの3か月後、1455年7月15日、アレクサンドリアで没した。彼はそののち伝説の外交大使として外務省のあるローマ・コンスルタ宮殿に石像が置かれる。ゆえに彼の人生をここに書き記したい。 // ガレアッツォ・ディ・ブスカは1370年4月9日、ミラノで政治家の名門ブスカ伯爵家に生まれる。父は元老議員ダニエリ、母は名門ヴィスコンティ家の女。 // パドヴァの法学部を卒業し、元老院時代は旧貴族派閥を率い、かなりの攻撃的口調で新貴族と争った。ニコポリス十字軍の時に教皇からの多額の費用と出兵を命じられた際、賛成派をこう一括した。有名な名言である。‘‘まずイタリア人、その次にキリスト教徒‘‘ // 息子ベネデットを34歳の時にトッレ家出身の妻ルクレツィアとの間に設けた。1444年には息子に勢力のリーダーを譲り、自信は外交大使として各地を来訪、各国の政治や歴史を見て回る。アレクサンドリアでスルタン・ムハンマドに気に入られ、イタリアの貿易独占権を認めさせた。 // 彼の名言‘‘まずイタリア人、その次にキリスト教徒‘‘は国会で議論が白熱すると必ず叫ばれるようになり、彼の名はイタリア外務省の、彫刻家アンドレア・ピサーノ作の石像とともに永久に残される。 // // 1455年4月10日、イングランド、フランドルにまたもや追加禁輸処置。 // // 1455年4月27日、チュートン騎士団のコンラート・フォン・エルリヒ団長、デンマーク王クリストファ3世に敗れ、賠償金を払うことで和平を結ぶ。 // ケーニヒスベルクの戦いで惨敗を喫したチュートン騎士団は1453年の11月29日に首都であり本部のあるケーニヒスベルクを奪われていた。雪が降り注いでいたため、騎士団の主力の騎馬が足を取られたのだ。 // この地にキリスト教を広め、北方十字軍や対モンゴルの戦いを生き残った騎士団にとってみれば屈辱であった。 // //1455年4月30日、フランス王国、イングランドに報復関税。 // イギリス経済圏の覇権を狙うフランス、イングランド、フランドルの暴走は止まらない。 // //1455年5月17日、モスクワ大公国のウラジーミル盲目公、ペルミ地方の再征服の名目でウルグ・ムハンマドのカザン・ハン国に宣戦を布告。カザンはリトアニアとキプチャクとの争いで弱っている。 // //1455年5月20日、プーリア地方のバーリで兵士徴収名簿に偽りの名前が多数。政府処罰に踏み切り、プーリア州知事フェデリーコ・バディーロとバーリ農村部の住民13人が逮捕される。 // プーリアは昔からなだらかな丘が広がる地方で、権力者や貴族が鷹を使った狩りをする定番の場所だった。主産業は農業と港町バーリでの交易。 // このバーリをはじめとしたプーリア地方は収入と就業率がイタリアで最も低く、貧しい地方として知られていた。知事フェデリーコは徴兵の免除を申し出ていたが元首の耳には届かなかったようだ。 // バーリの市民は政府のこの対応に不信感を募らせ、旧貴族派閥の南部での支持基盤の一つがなくなった。 // //1455年、モロッコのアブド・アル=ハック2世、タフィルラートを併合。 // カスティリアの脅威に対抗するために、モロッコはさらに南へと領土を広げた。 // //1455年6月2日、リャザン公国のイヴァン・フョードロヴィチ・リューリョコヴィチはダンボフの征服を掲げ、キプチャク・ハン国に宣戦を布告した。すでにクリム・ハン国とカザンに大部分をキプチャクは占領されていたが。 // //1455年、盟友イングランドをランカスター朝とヨーク家の内部分裂で見限ったシャルル1世突進公のブルゴーニュ公国、対フランスへの協力を請うため、ヌヴェールのジャン2世に贈り物。 // //1455年6月26日、ブルターニュ公国のフランシス1世、教皇領アヴィニョンの独立を条件にプロヴァンスと和平。 // アヴィニョンの包囲戦で敗れたプロヴァンスは財政と公ルネ1世の体調がさらに悪くなっていったためブルターニュの要求に屈し、教皇領アヴィニョンを返還した。 // バーゼル公会議戦争またはアヴィニョン占領以降、教皇エウゲニウスはローマにも、アヴィニョンにも帰れなかったため、最初はフィレンツエのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、次いでアッシジのサン・フランチェスコ修道院、モンテカッシーノ修道院を転々としていた。ローマはフランス王の傀儡であるフランス人枢機卿に占拠されていたので戻れなかった。 // フランス王の要求を呑んで、対立教皇アメーデオに教皇位を返還された後も、あまりの屈辱に怒っていた彼は、ローマには帰ろうとはしなかった。 // アヴィニョン返還を聞いたときには、十字軍説を熱唱し、異教徒を悪魔と叫んでいた時が大昔のように思われるほど精神をすり減らしていた。それでもヴァティカンに入城した彼は何事もなかったようにいつも通りの生活に戻った。イタリア元老院の要求で住民の視線を避けるため、深夜の、しかも市街地を通ることのないトラステヴェレ地区からのローマ入城だった。 // //1455年6月30日、プロヴァンス公ルネ1世、財政悪化に伴い、フランス王にフォルキエを売却。 // ブルターニュ公フランシスとの戦いに敗れたルネ公は善良王とあだ名されるだけあり、フランス王ルイ11世の真の野心を知らずに、ルイに領土を明け渡した。 // フランス王の真の目的とは、すなわちプロヴァンス公国、そして同じルネが治めるロレーヌ、ヴァロワ、アンジュ―のフランス併合である。 // ルネ公はブルターニュ公フランシスにアヴィニョンの戦いで捕虜にされたときの病が悪化し、療養のため宮廷とともに南フランス・プロヴァンスに移った。 // //1455年7月1日、猛烈な元老院の反対を押し切り、シニョリーア(内閣)と元首ベネデット・ブスカ、教皇庁に独立保障。 // 新たに独立した教皇領アヴィニョンに次の教皇もイタリア人を据えるため、影響力を行使しておこうと考えたのだ。 // //1455年7月8日、イングランド王国、デンマーク王国に禁輸処置。 // イギリス海峡経済圏をめぐる争いに、フランドル側についてデンマークが参加したためと思われる。 // //1455年7月19日、バイエルン選帝侯アルブレヒト3世、イタリアとの戦争で疲弊したにザルツブルク司教国のベルンハルトに宣戦布告。勝敗は明らかである。バイエルンは神聖ローマ皇帝を選ぶことのできる選帝侯国である。バイエルンにニュルンベルクのヴィリーハラー・フォン・ハラーシュタイン、マインツのアルブレヒト2世、メミンゲンのオットーシェンクがバイエルンについた。 // だがことはそう簡単には決しなかった。1455年7月20日にはオーストリア大公にして神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がザルツブルク側で参戦した。 // バイエルン選帝侯アルブレヒト3世の目的はこれであった。神聖ローマ皇帝を退位させれば、次の皇帝は彼のものだからである。帝国は明後日の方向に向かって戦乱を突き進んでいた。 // //1455年7月20日、マクデブルクでルドルフ1世即位。46 // ギュンター2世司教が井戸に落ちて73歳で溺死したため、彼の右腕とマクデブルクで言われた修道院長である彼が後継者として即位した。 // //1455年8月6日、プロヴァンス公国、スイスと敵対。 // 宮廷内でルネ公の会計係であったスイス人が多額の金を着服をしていたのが発覚し、そのスイス人がスイス内に逃亡した。スイス人の引き渡しを要求したプロヴァンス公国の要求をスイスが拒否したため、両国は嫌悪な関係となった。 // //1355年7月23日、オーストリア大公フリードリヒ3世、スイスから傭兵部隊を2370ドゥカートを払い雇う。 // スイス兵の強さは欧州の国々の知るところで、その傭兵部隊はバイエルン公アルブレヒト3世の軍を撃退した。 // //1455年8月7日、メルケンブルク大公国のハインリヒ4世に敗れたハンブルク自由都市のハートヴィン・ティーデマン、賠償金を引き換えに和平。北ドイツも戦乱が続く。 // //1455年8月25日、サヴォイア公国で幼き公爵フィリッポ2世(4)を助けるため、母親であるアリーチェ・アルチンゴッリが摂政として政治を執り行う、アリーチェは美人として知られているが、夫亡きあとは貞淑を保っているらしい。 // //1455年、9月11日、教皇庁内で教皇エウゲニウス、自信の力を強めるため、聖職者の権限を一部抑制すると発表。 // これはイタリア元老院の教皇庁に対する影響力増強と深く結びついている。教皇エウゲニウス4世と元老院はイタリア人枢機卿を利用し、当時教皇領を牛耳るフランス人枢機卿に対抗するため、枢機卿会議を開いた。議題はヴァティカン宮殿のカギを誰に預けるか、ということである。 // ヴァティカン宮殿は教皇の住まいとして使われるだけではなく、緊急時の避難回路や当時はフランス人のパリの枢機卿アンリ・ド・ヴァロワが持っていた。名の通り、フランス王家ヴァロワ出身である。 // 白熱した議論の結果、翌12日に鍵の持ち主はイタリア人のジェノヴァの枢機卿アレッサンドロ・ドーリアと可決され、フランス人枢機卿の影響力は薄れた。 // ジェノヴァの枢機卿は時期イタリア共和国元首最有力候補セヴェリーノ・ドーリアの甥である。 // // //1455年9月14日、摂政アリーチェ・アルチンゴッリの治めるサヴォイア公国、フランシス1世の治めるブルターニュと同盟。ブルターニュのフランシス1世は以前からアリーチェに好感を抱いており、摂政アリーチェはそれを利用して不安定な摂政政治国家サヴォイアを安定させたいと考えていると思われる。 // //1455年9月15日、フェルデンのヨハン・アドルフ1世司教、リューベック共和国のジルフリート・ヴェックに敗北し、賠償金を払い和平。 // //9月20日、白羊朝のシャハーンギール、トレビゾンド皇国のヨハネス4世コムネノスと白紙和平。 // //1455年9月25日、プロヴァンス公ルネ、オルデンブルクのクリスティアン6世と同盟。 // //1455年10月1日、モスクワ大公国のヴァシリー盲目公、ロストフ大公国の内乱に介入し、ロストフを併合。 // ロシア諸国の中ではモスクワ大公国が最も力ある国家として台頭した。 // //1455年10月23日、イメレティ王国のジョルジョ2世、グルジア王国を征服。 // コーカサス地方で長く続いていたコーカサス2大大国グルジアとイメレティの戦いは、イメレティのグルジア征服で終結した。 // //1455年11月10日、イングランド王国、フランドルに追加の禁輸処置。 // フランドルはブルゴーニュ公シャルル突進公の治める同君連合の国である。ここには欧州でも有数の羊の産地があり、イギリス海峡貿易でもかなりの利益と割合を占めているものである。 // イングランドのヨーク家はランカスター朝に対抗するため、ブルゴーニュとランカスター朝時代の王たちの関係を解消するため、このようにわざと貴族評議会でブルゴーニュに損になることをしているのだろう。 // あるいはただただ単純にイギリス海峡貿易を独占したいのか。 // //11月14日、勢力を拡大したジョルジョ2世のイメレティ王国、白羊朝を牽制、敵対。 // グルジア王国を征服したイメレティ王ジョルジョはさらなる野心を中東に向けた。カフカスに沿う形で広がる国土では農業はうまくいかない。ほかの土地を征服するしかなかった。 // //1455年11月20日、冬の議会総選挙、ダシリエレ開催に伴い、ラグーザ交易戦争時の約束に基づき、元首ベネデット・ブスカ退陣。 // 新たな元首が選ばれることとなった。戦争時のような、新貴族と旧貴族派閥は解消していた。しかし、1442年のイタリア共和国建国以来、元首が死を迎えるまで務めた事例は初代のピエトロ・レオポルド・ディ・ボルゲーゼしかない。ほかの元首はみな任期途中で退陣した。 // ここで一度イタリア統一について話すことにする。 // イタリアは西ローマ帝国崩壊以来、北からのロンゴバルド人の建てたロンゴバルド王国、教皇領、ビザンティン領が縞模様に支配されていた。 // のちに南イタリアにはノルマンディア出身のノルマン人の王朝ホーエンシュタウヘンがアラヴ人に征服されたシチリア島とビザンティン領南イタリアを平定し、中部イタリアにはフランク王ピピンの献上した多くの領土を加えたローマ教皇庁、北中部と北部にはフランク王国(神聖ローマ帝国)に支配された。 // しかしカール大帝の死後、帝国は急速に分裂し、イタリアに対する影響力は減った。これを機に、イタリアの諸都市が国家として台頭する。大変な数だ。のちに神聖ローマ帝国がこれらの都市を奪還しに来るが、教皇との争いやロンバルディア同盟など、処暑の障害でイタリアの諸都市国家を従えることはなかった。 // 次第に3つの都市国家が群立状態のイタリア北部をまとめ上げた。海洋貿易でイスラームとの貿易から莫大な富と強大な海軍を保有するようになったヴェネツィア共和国、鉄鋼業とその強大な軍事力で北イタリアロンバルディア地方を支配したミラノ公国、金融業とメディチ家によってトスカーナ地方に台頭したフィレンツェ共和国である。 // これに教皇庁と、教皇との争いに敗れてホーエンシュタウヘン長が倒れ、新たにフランス人の王を迎え入れていたナポリ王国を加えて5大国という。 // 5大国はそれぞれイタリアの覇権をめぐって戦争を繰り返した。このままではイタリアは永久に統一されなかったであろう。だが機会が訪れる。 // 1442年、アラゴン王アルフォンソ5世がナポリ王国の利権を主張し、当時の王朝の王であったルネ1世と戦争を始めたのだ。結果はアルフォンソが勝ち、アルフォンソ5世はアルフォンソ1世としてナポリ王に君臨しそうになった。 // だがこれをナポリと南イタリアの市民は受け入れなかった。ルネ王(現在はプロヴァンス公ルネ)は‘‘ル・ボン‘‘(善良)とあだ名されるほど民に寄り添い、無理のない税制や兵役をナポリ全土に敷いていた。外国人が王国を統治する際には当然のこととルネ王は考えていた。しかし、アルフォンソ王はそうではなかった。まるで征服者のように入城し、即位式での過酷な統治とアラゴンの属国になるという宣言をした。これでイタリアは第二次シチリアの晩鐘(シャルル・ダンジューがホーエンシュタウヘン長を倒してシチリア王となった際、その統治に不満があったシチリアの住民が晩鐘を合図に蜂起し、ダンジュ―朝を追い出した事件)といわれたナポリ蜂起を実行し、アルフォンソ王は這う這うの体で逃げ帰った。 // こうしてナポリでは共和制が採用され、暫定政府が仕切ることとなった。 // これに教皇庁他イタリアの大国が注目した。誰しもが不安定なナポリを手に入れたがった。 // メディチ家のコジモとヴェネツィア共和国のフランチェスコ・フォスカリ、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの3か国同盟が1442年に教皇庁とナポリ暫定政府も含めたイタリアの将来について考える会議を招集を提案、教皇庁もそれに乗り、ナポリも参加した、イタリア5大国は北部イタリアの小都市ローディに終結した。 // 最初はナポリの王を誰とするかで議論がなされていたが、ナポリ代表アルフォンソ・クックルーロの演説で会議の雰囲気はがらりと変わった。それはイタリア統一構想であった。 // 以前からフィレンツェの僭主コジモとミラノのフィリッポ・マリーアはフィレンツェとミラノの合同を検討していた。オスマンに押され気味のヴェネツィア共和国の元首フランチェスコも、彼個人だけならば賛成していた。反対したのは教皇庁である。教皇庁はナポリ他3か国が統一に乗り気なのを察し、早々に会議自体から離脱し、ローマに帰った。だが教皇をローマで待ち受けていたのはサン・ピエトロ大寺院の大門周りの大崩落であった。ローマ市民は恐れおののき、枢機卿も幾人かなくなっていた。教皇エウゲニウスは一時フィレンツェのサンタマリアノヴェッラ教会に居を移した。だがことはそう単純ではなかった。ローマの市民は教皇が自分たちを見捨てたのではないかと疑心に駆られた。サンピエトロの修復も一向に行われなかった。直すだけの資金が教皇にはなかったのだ。これにローディの和平のメンバーが目を付けた。コジモ・デ・メディチは自信の莫大な資産とフィレンツエの腕利きの芸術家を送ると教皇に呼びかける。その代償は教皇領のローディ和平への参加である。だがそれでも教皇は参加を拒絶し、それに起こった市民とコロンナ家が反乱を起こしローマを占領しローディ同盟への参加を希望した。 // こうして1442年イタリア全国が参加するローディ連合が成立する。完全な統一国家ではないが、連結体ではある。ローマには対立教皇フェニックスが入城した。 // 連合はヴェネツィアの案を採用し、元老院と元首が主席を務める。またミラノの意見を反映し、元首は終身制となり、フィレンツェの文化を基に、頻繁な信任投票と議会選挙が行われる。元首にはローマとナポリを尊重し両国の血を引く貴族、ピエトロ・レオポルド・ディ・ボルゲーゼが務める。 // このままでは連合体ローディ連合という名前になるはずだったがさらなる機会が訪れる。 // 1443年5月6日、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが病死する。こうしてヴィスコンティ家は断絶し、彼の遺言からミラノ公領はローデイ同盟の直接の指揮下に置かれた。ミラノ公爵の称号は公に長く仕え、またアルフォンソとの戦いなどの功績でローディ連合の将軍となっていたフランチェスコ・スフォルツァが継いだ。 // 1443年10月3日にはヴェネツィアとフィレンツェの学者たちがイタリア統一時のイタリアの国力を計算し、その結果がかなりの大国、特に経済面では随一の国となることを公表し、ヴェネツィアやフィレンツェの商人の興味を集める。実はコジモとフランチェスコの流した噂なのだが。 // 1443年12月10日、ヴェネツィア共和国元老院、フィレンツェ共和国、ナポリ暫定政府フランスやアラゴンの大国に対抗するため、少数勢力の反対を押し切り政府を解体、ローディ連合に自主併合される。ヴェネツィアはクレタやイストリア、ダルマツィアを領土として残し、そこに政府を移した。ヴェネツィア商人はローディ連合かヴェネツィアかに分かれた。 // 1444年5月4日、各地で民衆のイタリア統一運動がおこる。ジェノヴァ共和国が参加を最初に申し入れ、貴族の称号と宮廷での暮らし、軍の指揮権と引き換えにフェッラーラのエステ家やボローニャのベンティヴォリオ家、マントヴァのゴンザーガ家が承諾、ルッカ、パルマ、モデナも共和政体を解体し、連合に入った。 // 最後まで参加しなかったサヴォイア公国では、イタリア半島にある領土で反乱がおき、独自に連合への自主併合を望んだ。 // こうして1444年11月20日、最初のダシリエレ(総選挙)でピエトロ・レオポルドが初代元首としてローディ憲章を発表、と同時にイタリア共和国建国を宣言した。 // 1455年11月20日に戻ろう。建国から11年しかたっていない不安定なイタリア共和国をまとめ上げてるのにふさわしいのは王のような英雄である。例えばコジモ・デ・メディチやナポリのアルフォンソ・クックルーロ、イタリア共和国陸軍総司令官フランチェスコ・スフォルツァである。 // しかしローディ憲章では元老院議員にダシリエれで選ばれたものしか元首にはなれない、と定められている。イタリアの共和政体を守るため、そこは徹底されていた。コジモ・デ・メディチは銀行家でトスカーナ州知事ではあったが、元老院議員には生涯選出されることはない。クックルーロもスフォルツァにしても同じことが言える。 // ゆえに大貴族ではなく、平凡でなおかつ果断で指導力に富む男が求められた。 // 結果、上記の要項全てに当てはまる、先代の元首ドーリアの甥、ランディ伯セヴェリーノ・ドーリアが選出された。そして今季から元首の権限は縮小され、顧問2人が監視役につけられた。顧問は十人委員会から選ばれる。 // シニョリーアはミランドラ伯ナポレオーネ・ピーコが外務長官、ブスカ元首のシニョリーアで内務長官を務めたラニエロ・デッラ・ウバルディーニが引き続き内務長官を、ヴェネツィアのカスパル・コンタリーニがサンマルコ長官、ローマのファブリッツィオ・コロンナが国防長官となった。 // 十人委員会はトスカーナ州知事コジモ・デ・メディチ、ピエロ・カッポーニ,ヤコポ・パッツィ、パチェントロ伯ジュリアーノ・オルシーニ、ガレアッツォ・トッレ、マッテオ・リドルフィ、アゴスティアーノ・ロンディ、元首補佐2名、マルコ・ファルネーゼ、バルトロメオ・アッチャイウォーリそれと元首ドーリアである。 // ベネデット・ディ・ブスカは元老院議員には選ばれたが、それを辞退した。 // ベネデット・ディ・ブスカは1404年、高名な外交官ガレアッツォとミラノの貴族トッレ家のルクレツィアとの間に生まれる。 // 1444年に父から旧貴族派閥の指導を任され、邁進するが、父の様にはうまくいかず元首に選出されるも失政が目立った。 // ダシリエレの翌日、ひっそりとローマを出、ミラノの近郊のブスカ伯爵家の別荘にこもる。息子ロレンツォは元老院議員を務めるが、生涯歴史に名を残すことはなかった。1464年、60歳で同別荘で静かに息を引き取る。 // //1455年12月14日、冬季に伴い、キプチャク戦役終結。 // キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)のクチュク・ムハンマドはハジ1世のクリム・ハン国とウルグ・ムハンマドのカザン・ハン国に大敗した。 // マジャルをクリムに、タンボフ、サトラフ、ベルジャメン、エトカラ、ウチクという国土の大半をカザンに奪われ、首都をベルジャメンから草原の小都市リソグレースクに移す。 // //1455年12月19日、モスクワ大公ヴァシリー2世1世盲目公、死去。 // ヴァシリー2世大公は1415年3月10日、先代のヴァシリー1世とリトアニア大公の娘ソフィヤの間に生まれる。 // 祖父ドミトリー・ドンスコイの遺言から叔父ユーリー・ドミトリエヴィチと父の死後戦い、内戦中に負け続けたものの、モスクワの諸氏族の支持を受け、ユーリーを退け、モスクワ大公となる。しかしカザン・ハン国の援軍とその代金で大貴族の不満を招き、1445年ユーリーの息子、ヴァシリー・コソイとドミトリー・シェミャーカにやぶれ、目をつぶだれたうえ、幽閉される。しかしシェミャーカの悪政により再び大貴族からの支援を受け、1450年にガーリチを陥落させ、1453年にシェミャーカを毒殺し勝利した。 //そして40歳の時、病の治療で受けた焼けた木片を肌に受ける治療で、やけどが化膿し、それが元で死んだ。 // 大公位はのちに雷帝と評されることとなるイヴァン3世が15歳で継いだ。 // //1455年12月26日、ドイツのファルデンでバルドウィン3世が38歳で司教となる。 // //1456年1月10日、ケルン大司教国の選帝侯にして大司教マクシミリアン・フリードリッヒ3世が46歳でケルンで即位。 // //1456年2月8日、トレムセンのアフメド2世、ラグアット征服を掲げ、トゥーグラのムバラク・ベニ・ドクジェラブに宣戦布告。フェザーンもトレムセン側で参加する。 // //1456年5月2日、イングランド、フランドルに追加の禁輸処置 // //1456年5月5日、アナザのアブドゥッラー、ナジュドと同盟 // //1456年5月15日、ジャンダル侯国の首都スィノブ、アラジン・アマシャーリ率いるオスマン軍の猛攻についに陥落。 // カラマン侯国の反乱、ラグーザ交易戦争、ワラキアの反乱でオスマンは危機的状況に立たされていたが、スィノブの陥落で一気に反撃に転ずる。 // //1456年5月19日、イタリア元老院にロレーヌからの軍事通行許可の知らせが届く。イタリア元老院はそれを否決した。 // //1456年5月24日、首都スィノブを明け渡し、服従を申し出、ジャンダルのイスマイル・ベグ、オスマン帝国のメフメト2世と和平。 // //1456年6月30日、イタリアの異常な葡萄産出、減速 // イタリアはルネサンスによって技術爆発を起こしていた。ラグーザ交易戦争中、歴史的な産出量を記録した葡萄酒は、一時価格が暴落、政府まで対応した。イタリア元老院の熱心な買い占めで、葡萄酒の価格が安定したが、それでも葡萄酒の世界における産出はイタリアがけた違いで一位だった。 // //1456年7月1日、ジャンダルのイスマーイール・ベイ、キプロス王国のジャン2世と同盟。 // オスマンとの戦争でスィノブを取られ、オスマンの野心の矛先の一つとなったジャンダルはキプロス王にして、十字軍国家の血を継ぐジャン2世と同盟したが、十字軍家系ルジニャン家がイスラーム国家と同盟したことに各国の非難が相次ぐ。 // //1456年、7月29日、オスマン帝国のメフメト2世、カラマン侯国のイブラヒムと白紙和平。 // 一時マムルークの支援を受けたカラマンは南部アナトリアを占領するも、ジャンダルの首都スィノブを陥落させたアマシャーリ率いるオスマン本軍に敗退を重ね、ここにきて白紙和平を結んだ。オスマンもワラキア反乱やマムルークに負けた海軍の補修で戦争続行は無理であった。アナトリアは小康状態となった。 // //1456年8月6日、白羊朝のシャハーンギール、ジャンダルのイスマイル・ベイとの同盟でオスマンを牽制。 // //1456年11月3日、ジェノヴァ共和国でアントーニオ・マリーア・ロンゴが総督として即位。 // 半ばイタリアの属国とかしたジェノヴァはクリム・ハン国との戦争で打撃を受けており、この危機をどう対処するかが新総督には期待される。 // //1456年11月11日、ラグーザ市長ジョルジョ・ボスコが死去。 // ジョルジョ・ボスコは1408年、同市で生まれる。黒海貿易で商売を行っていたが、市長に任命されてからは共和国評議会議長として職務をごく普通にこなした。 // ラグーザ交易戦争でイタリアとハンガリーに屈辱的敗北を期し、和平の年にがんを患い、死去した。 // 新たな市長にはルドヴィーコ・ボーナが務めることになった。この男は親イタリア派の筆頭で、イタリア共和国元首ドーリアの親友でもある。 // //1456年、11月14日、オットー一世がザクセン選帝侯に即位。当時21歳。 // 若き選帝侯に民衆は沸き返る。 // //1456年11月23日、黒羊朝のシャハーンシャーはマムルーク朝のムハンマド3世を敵視。 // //1456年12月1日、ザクセン選帝侯オットー1世、市長アルブレヒト・ヴィクのリューベック自由都市に対する野心を示す。 // //1457年1月3日、ザクセン選帝侯オットー、ハンブルクに対する野心も示す。 // 戦役であれる北部神聖ローマ領、すなわちドイツだが、各都市が戦役で弱っているこのすきに、オットー選帝侯はこの領地を支配したいと見える。 // //1457年1月7日、バイエルン戦役終結。 // 結果はバイエルン選帝侯アルブレヒト2世の大敗である。ザルツブルク司教国とバイエルンの国境紛争で、小規模戦争で終わると思われたこの戦争は、皇帝国オーストリアやその他多くの国とバイエルンが対決した大規模戦争になった。 // この戦争の最大の意味はスイス傭兵の活躍である。 // バイエルン選帝侯アルブレヒトは皇帝まで敵に回したがさしたる危機感を抱いていなかった。バイエルンは帝国内ではザクセンに次ぐ軍事力を誇っていたのだ。ザルツブルク司教領の軍など気にも留めていなかっただろう。少し前にオーストリア大公にしてローマ王フリードリヒ3世がザルツブルクとスイスの友好を利用してスイスから軍勢を雇っていたが、アルブレヒトは田舎者のスイスと思い、特に懸念しなかった。 // バイエルン軍とザルツブルク軍はインゴルシュタットで相まみえた。ザルツブルク軍は歩兵が中心で皇帝から貸し出されたスイス傭兵がほとんどを占めた。 // バイエルンの騎馬隊が正面から総攻撃をかけた。通常なら歩兵はかく乱され、バイエルンの後援の歩兵部隊がそれを撃滅する非常に伝統的な構図になるはずであった。だが。バイエルンの騎兵隊は歩兵中央で完全に足止めをされたのだ。四角陣形で密集っして腰を低くしながらパイクを構えてゆっくりと前進していたスイス兵と当たったバイエルンの騎兵は突き出されたパイクに馬上の人間が串刺しになるか、馬が恐れて近づかないか、落馬して4・5列目にいるスイス傭兵に殺された。 // バイエルン歩兵は士気が下がり、インゴルシュタットの戦闘はザルツブルク軍の圧勝で終わる。 // インゴルシュタットの戦いはスイス傭兵の百戦錬磨、欧州最強といわれる多くのスイス兵伝説、傭兵といえばスイスといわれる始まりの戦いとなる。 // 最終的にバイエルン公アルブレヒトはランツフート、ミュンヘン、インゴルシュタットをザルツブルクに明け渡した。皇帝の権威と帝国の名声も復活した。 // //1457年1月26日、皇帝フリードリヒ、ブルゴーニュ公シャルル突進公を敵視。 // //1457年1月31日、シチリアでまたもや兵士徴収に虚偽の名前が多数。 // イタリア共和国はもしもの場合に備え、市民軍に徴集可能な陸軍兵の訓練を定期的に行っている。また水兵は完全に徴兵制で、頻繁に5年間の訓練と徴収を行っていた。 // 陸軍は主に傭兵を雇い、その傭兵に市民軍の訓練を行わせている。年金が兵役中には年金が払われるので農家などの低所得者かつ出生率が高い南部の人々が多く志願する。 // 水兵は5年間の間商船などの護衛を務めたり、海賊狩りを行ったりと、船の操作と海上船を徹底的に教え込む。貴族や指定された裕福な商人は必ず兵役の対象となる。また年金が支払われないため、海上貿易を行う商人や漁師などが多い北部の人々で多くが構成される。 // 今回はシチリア州知事でナポリ暫定政府代表にしてイタリア統一の英雄アルフォンソ・リドルフィとは親戚関係のアルトゥーロ・リドルフィが図った事件である。 // シチリアの農村部に保険を掛けていたサンタガタ銀行の経営主であったアルトゥーロ・リドルフィだったが、1454年6月からの歴史的ブドウ豊作が終わりをつげ、財政的に難を抱えていた。 // アルトゥーロは幹部の家族と自信の家族に偽りの人間を加え、陸軍の徴収にかけ、年金を不正に受け取っていた。その額は8000ドゥカートに上る。上流階級の8年分の収益になる。 // アルトゥーロ・リドルフィその他共犯者は財産を没収され懲役刑を受けた。サンタガタ銀行は地元の貴族で元老院議員カルロ・ポテンタが引き継いだ。 // //1457年、2月9日、モロッコのアブド・アル=ハック2世、属国スースのムハンマド・アル・ジャズリーに金貨を送り、スース併合を試みる。 // //1457年2月19日、ブルゴーニュ公シャルルとイングランド王ヘンリー6世の間でとうとう戦争が勃発した。 // イギリス海峡の独占を狙ってのイングランドとブルゴーニュはじめその属国フランドル・ホラントの経済競争はとうとう戦争に発展した。 // ブルゴーニュ公シャルルの父親フィリップ善良公は最初は百年戦争でイングランド側でブルゴーニュ派を率いたが、ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの解放、ランス落城を受け、フランスに接近していた。 // その息子は突進公というあだ名を受け、父王の方針をさらに改革し、イングランドと対立した。 // //1457年3月30日、ザクセン公オットー、マクデブルクと同盟。 // //1457年4月20日、皇帝命令でザルツブルク、バイエルンにミュンヘンを返還。 // 影響力と名声を得たオーストリア大公にして皇帝フリードリッヒ3世はザルツブルクの影響力拡大を恐れ、皇帝命令でザルツブルクにミュンヘンを変換させた。 // //1457年4月23日、カラマン侯国のイブラヒム2世、ラマザンを全土併合。さらにオスマンへの対抗対策を強化した。あれだけの損害をこうむったにかかわらず、性懲りもなく兵を集め始めた。 // //同日、ラグアット戦役終結。 // 結果はトゥーグラの大敗北に終わった。トゥーグラ、ビスラ、ラグアット、ムサブをトレムセンに、ガフサをフェザーンに奪われた。 // //1457年6月20日、古グルジア王国を征服したイメレティ王ジョルジュ2世、新グルジア国王を名乗のる。 // //1457年10月18日、オスマン帝国のメフメト2世征服帝、ヒスン・カイファ国のサラーフ・アッディーンと同盟。 // //1457年10月29日、教皇エウゲニウス4世、崩御。 // 第207代ローマ教皇エウゲニウス4世、彼の人生は非常に波乱にとんだものだった。 // 本名はガブリエッロ・コンドゥルマーロといい、1383年ヴェネツィアの裕福な商人の家に生まれる。伯父に教皇グレゴリウス12世がいる。 // 1407年に伯父の引き立ててでシエナ司教となり、翌年枢機卿となった。コンスタンツ公会議などで知見を深め、マルティヌス5世の逝去に際して大207代ローマ教皇となった。 // 百年戦争によるイングランドとフランスの和睦に努め、ボヘミアのフス戦争でも急進派を撃滅し、穏健派と和睦をすることによって平定した。 // しかし彼の治世もバーゼル公会議から運が下がり気味になる。十字軍思想に偏りすぎたため、東方正教会とカトリックとの合同を唱え、各国を敵に回し対立教皇アメーデオの即位を許してしまう。 // 結局招集した十字軍もヴァルナの戦いでの総指揮者ヴワディスワフ3世の戦死で大失敗に終わる。 // イタリア統一を防ぐため、イタリアに野心を燃やすアラゴン王を支持し、ローディ同盟への参加を拒絶した。しかしサンピエトロ大聖堂の崩落、ローディ同盟のフィレンツエ・ミラノの画策でローマ市民とコロンナ家が反乱を起こし、ローマから逃亡し、対立教皇と入れ替わる形でフィレンツェのサンタマリアノヴェッラ、アッシジ、モンテカッシーノ大修道院を転々として最終的にアヴィニョンに逃げた。 // 1445年にはアヴィニョン侵攻でアヴィニョンから追われバーセル公会議を解散させられた。そののちはイタリアと和解し、ブルターニュ公フランシスを利用しアヴィニョンを奪得し対立教皇もいなくなったローマに入城しサンピエトロ大聖堂の修復や増築を計画するなど、通常の職務を執行した。 // だがローマはすでにイタリア領でヴァティカンでは狭すぎて彼にはもう見知った場所ではなくなっていたのだろう。ローマ近郊のオルシーニ家の城への狩りの招待に応じ、そのままそこに居座った。 //9月から冬季に伴い、狩で風邪をひき、10月29日、その地で没した。 // 教皇の遺体とともにオルシーニ城から急ぎ枢機卿が帰還し、11月3日に葬儀が執り行われ13日にコンクラーヴェが行われたが、その日に教皇は決まった。あらかじめ教皇逝去に際しての取り決めが教皇エウゲニウスのローマ帰還の際に取り決められたともいわれている。 // ペルージャの枢機卿でフランス王と親交が深いグイード・バリオーニがレオ10世として第208代ローマ教皇として即位した。イタリア市民は親フランスと聞いて警戒したが、イタリア人ということ、そして名高い傭兵隊長マラテスタ・バリオーニの息子と聞いて満足した。 // //1457年12月10日、クリム・ハン国のハジ1世、オスマンやモスクワに対抗するため、カラマン侯国と同盟。 // //1457年12月31日、マムルーク朝のムハンマド3世、ヒジャーズの太守アブドゥル・カーシム・ハワーシムに圧力。 // オスマンの陸軍力を思い知ったマムルークはイスラーム世界の最高権威を手に入れようとメッカを守護するヒジャーズ征服とハリーファの称号を狙う。 // //1458年1月15日、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ、ヘッセン自由都市のルードヴィヒ1世に返り討ちにされ賠償金。 // //1458年2月7日、黒羊朝のシャハーンシャー、キルマーンシャー征服を掲げ宣戦布告。アルダラーン、ローレスターンが黒羊朝に続く。 // //1458年3月22日、チュニスのうすまん・ハフシード、トゥーグラのムバラク・ベニ・ジェッラブと同盟。 // フェザーン・トレムセンの拡大を懸念したチュニスはラグアット戦役で両国に敗れたトゥーグラと同盟した。 // //同日、イタリア統一の4傑フランチェスコ・フォスカリ死去。 // イタリア統一4傑として歴史に名を遺すフランチェスコ・フォスカリは1373年、ヴェネツィアで生まれる。1432年、貴族フォスカリ初の元首として就任する。 // 当時ヴェネツィア共和国はミラノ公国と戦争状態にあり、フランチェスコ・フォスカリは多くの戦勝をあげた。最終的にミラノのヴィスコンティと和平し、フィレンツェ共和国とも親交を深めた。 // このころからオスマン・トルコの進出とそれに押される形の各国を見て、イタリア統一構想を立てる。コンスタンティノポリスの陥落とビザンティンの滅亡もすでに見抜いていたといわれている。 // 1444年にはナポリ動乱を成功させナポリ暫定共和国を組み込み教皇庁を無理やりに乗せローディ和平同盟からのイタリア統一を成功させる。 // 自身はイタリアに反発し、残った共和国領に移住したヴェネツィア市民の元首を務め、一生イタリアの政治には参加はしなかった。その代わりイタリア内のヴェネツィア商人の優先的商業圏とヴェネツィア市の市長はヴェネツィアの了承を得る義務をイタリアに認めさせた。 // しかし1457年ヴェネツィアをイタリアに売ったと思われた強固なヴェネツィア独立派の議員の陰謀で息子ヤコポが贈収賄の罪で起訴、有罪となると10月、その責任を負ってヴェネツィア十人委員会によって元首を退陣させられた。10月31日にはトンマーゾ・ヴェニエロが66代元首として就任した。 // イタリア元老院からの執拗な元老院議員の誘いを断り続け、最後はクレタの自宅で息を引き取った。75歳の生涯に幕を閉じた。生涯ヴェネツィア人であり続け、イタリアの英雄でもあった彼の葬式はヴェネツィアで両国合同式が行われ、その遺体は歴代のヴェネツィア元首が眠るサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に埋葬された。 // //同じく同日、ポルトガル王アルフォンソ5世、死亡。新王ジョアン2世が2歳のためルイーザ・デ・サルバンハがポルトガル摂政となる。 // アルフォンソ5世は1432年1月15日、シントラ宮で生まれる。父王ドゥアルテ1世の急死でわずか6歳で即位、摂政としてコインブラ公ペドロが就いた。親政を許さないコインブラ公と争い、コインブラ公と対立するバルセロス伯アルフォンソをブラガンサ公し、味方につける。 // 1446年14歳となるとコルテスとブラガンサ公を味方につけ、コインブラ公を退け親政を始める。1448年にコインブラ公の従妹イザベルに求婚を申しこむが、コインブラ公に難色を示されるばかりかイザベルにも拒絶された。激怒したアルフォンソはブラガンサ公に軍を率いさせ、コインブラ公領をコインブラ公もろとも滅ぼした。 // コルテスの要求でブラガンサ公の姉ルイーザと結婚、ジョアン王子を設ける。 // 伯父フェルディナンドがフェズで獄死し、逆さ吊りで見せつけられたのに憤慨し、モロッコ征服を企むが、コインブラ領を巡視中に馬から落馬し、急死した。 // 息子ジョアンはまだ2歳のため、王妃ルイーザが摂政になった。実際はルイーザの母アルフォソが実権を握った。 // //1458年7月3日、サンピエトロ大寺院の修復と増築が本格的にスタートした。新教皇レオ10世は芸術に関心があり、異教的なルネサンスにも一向に不快感を示さないどころか、逆に率先的に受け入れた。 // 銀行家コジモ・デ・メディチが鳴り物入りでこれでもかというばかりに当時最高の腕を持つ芸術家を送り込んできた。 // サンピエトロ寺院は絵画論を執筆し、当時天才といわれていたレオン・バティスタ・アルベルティが主任を務め、バジリカ様式にすると決定した。ファサードとドームを持つ建物である。大聖堂だけではなく、ローマ市自体が整備され、拡張されることとなった。 // コジモの親友にして修道士にもかかわらず崩壊的な生活を送る宗教画家フラアンジェリコとその弟子たちはバチカン宮殿内を装飾した。 // 人文主義に興味を示していた教皇レオはコジモにいつも付き従っているプラトン哲学者マルシリオ・フィチーノとその一団をコジモから数日間借り受けたりもした。 // その優美な笑顔が特徴なダヴィデ像やユーディトとフォロフェルネスの像で名をはせていた彫刻家ドナテッロもとその友で彫刻家ミケロッツォとコジモに無理やり工房から引き出されローマに来ていた。 // サンタ・マリーア・デルフィオーレの不可能といわれていたクーポラを完成させていたブルネレッスキも教皇にここぞとばかりに設計図を見せにローマに赴いた。 // つまり、ローマは芸術活動で興っていた。フィレンツェに限られていたリナシタ運動がローマに飛び火した。共和国元老院と国会が新たにサンタンジェロ城の横に建設され、元首官邸クイリナーレ宮殿も装飾された。 // //1458年7月23日、ケルン大司教マクシミリアン・フリードリヒ1世、ヘルレの征服に関心を寄せる。 // //1458年7月24日、マムルークのスルタンムハンマド3世、メディナの太守ダイガム・ビン・カスラム・フーサイードに圧力をかける。 // メッカに続き、今度はイスラーム第2の聖都メディナに矛先が向けられた。 // //1458年8月5日、デンマーク王クリストファ3世、リガ司教国に賠償金を支払わせ和平。 // //1458年9月16日、欧州初と思われる海洋調査船がイタリアのジェノヴァ港を抜錨する。 // 船長は45歳フィレンツェ出身のバルトロメオ・ルッチェラーイ。旗艦サン・ジョバンニ号を含め2隻が出航した。 // 経済圏獲得のため、十人委員会のコジモが提案したものである。 // //1458年9月20日、タンボフ戦争終結。 // モスクワはカザンからペンザ、シルヒンスク、カザン、ウドムルティア、ヴェダニスヴァル、テシューチ、イジカル、タンボフを奪う大勝利。クリム・ハン国もカザン・ハン国も国家破産となった。 // //1458年10月1日、モスクワ、イタリア共和国を敵視。 // //1458年10月7日、クリム・ハン国、新グルジア王国を敵視。 // //1458年11月4日、マムルーク朝のスルタン・ムハンマド3世、アナザのアブドウッラーにも圧力。 // //1458年11月20日、金づちの音響く新元老院堂で第6回目イタリア・ダシリエレ。 // 元首ドーリアは信任され、共和国史上初めての第2期元首が誕生した。のちにこれが主流となる。 // シニョリーアと十人委員会はローディ憲章に基づき完全に入れ替えられる。 // アスカーニオ・マリーア・キージが国務長官に、ロドヴィーコ・マリーア・ポンコンパーニが外務長官に、ベネデット・ポンコンパーニが国防長官となる。 // サンマルコ財務長官だけは終身制なのでガスパル・コンタリーニが引き続き務める。 // 十人委員会はピエトロ・ボルゲーゼ、バルトロメオ・ヴェスプッチ、アゴスティアーノ・モチェニーゴ、パンドルフォ・ペトゥルッチ、ミケーレ・オルシーニ、アントーニオ・リドルフィ、アルトゥーロ・ダ・プーリアに元首補佐ランベルト・ベンティヴォーリオ、アンドレア・コロンナそして元首ドーリアである。 // 元老院の議席は、ほとんどヴェネツィアとローマ出身のノーヴィレが占めた。ピエモンテ地方からの選出者はわずか2名であった。 // //1458年12月16日、皇帝命令がまたもや出され、メクレンブルクはそれに基づき、ポメラニアにグライフスヴァルト州を返還した。 // このように皇帝命令が頻繁に出されるようになるのは久しぶりである。 // //1458年12月27日、チュニス海賊によりイタリア沿岸の町々が荒らされる。 // チュニスの海賊を率いるのはチュニス戦役ではチュニス海軍の海将を務めていたブトゥルス・バドラだと報告されていた。イタリア海軍を挑発するかのようにメッシーナとカラブリアを正面から、イタリアとは良好関係なマルセイユの商人の旗を掲げ攻撃した。 // 1459年1月15日にはフェザーンにコセンツァが襲われ、イタリア海軍も対策を迫られた。セヴァスティアーノ・ロレダン海将率いるイタリア艦隊34隻が西地中海航路を巡回する。 // //1459年2月7日、セヴァスティアーノ・ロレダン海将死去。 // セヴァスティアーノ・ロレダンは1378年にヴェネツィアの名門ロレダン一門に生まれる。次男だったので最初から軍事を担当すると決まっていた。ヴェネツィアの習慣にしたがい、商船護衛船団の船員として下積み経験を積んだ。1444年のイタリア統一時にヴェネツィア元首であったフランチェスコ・フォスカリと親交を深め、イタリア海軍初代海軍総司令官、ウォーモ・ディ・マーレとなり、エルメス・オルシーニとは親友の間柄になる。 // タラント沖で体調を崩し、タラント港で急死した。風による肺炎ともいわれている。 // チュニスの海賊を追跡中だったため、遺体はタラント港に置かれ、そこからイタリア政府の手によってヴェネツィアに埋葬された。 // 第2代海軍総司令官にはアゴスティアーノ・ヴェニエルが元老院で選出された。元老院議員でも会ったヴェニエルは元老院議員の職を停止し、チヴィタベッキア港から快速船でイタリア艦隊に合流した。 // //1459年2月7日、バイエルンのアルブレヒト3世、ヴェルツブルクのゴットフリート4世と同盟。 // //1459年2月16日、フランスのルイ11世、プロヴァンス公ルネと同盟。 // //1459年3月14日、トレムセンのアフマド2世ザイヤーン死去。正当な後継者がいなかったため、摂政議会制に移行した。 // アフマド2世は優れた君主としてその統治を終えた。1403年に生まれたとされるこの人物はラグアット戦争でトゥーグラに勝利しトレムセンの領土を拡大した。 // //1459年5月11日、ナッサウは賠償金でトーリアのヤーコプ・フォン・シルクと和平。 // //1459年5月29日、トーリア次なる目標としてヘッセンを定める。皇帝の権威も荒ぶる選帝侯国までには及ばない。 // //1459年6月4日、キプチャク・ハン国のクチュク・ムハンマド、リャザンのイヴァン・ジョードロヴィチと白紙和平。 // //1459年7月1日、ボヘミア王イリツ・ポデブラド、ジレジアを併合。 // //1459年7月24日、フランス、スイスに圧力。 // フランス王ルイ11世はバイエルン選帝侯国とオーストリア・ザルツブルクを主としたドイツでの戦いで、スイス傭兵が騎兵に勝ったことを耳に入れた。ルイ王は早速スイス傭兵を試そうと考えた。 // しかしスイス同盟はフランス王の要求を拒否したのだ。スイスの民は神とイエスキリストのみに服従せよ、この教えはスイスの端から端までに隅々といきわたっていた。たとえ教会の保護者たるフランス王でも、彼らには関係がなかった。 // フランス王は少しずつ懐柔に努めることにしたという。 // //1459年10月31日、リヴォニア戦争終結 // リヴォニア騎士団は奮闘したが圧倒的な軍事力を保持するデンマーク王国に連敗し、とうとう賠償金を払い和平を結んだ。 // //1459年11月2日、ザクセンのオットー1世選帝侯急死。 // 1435年に公国の首都ザクセンで生まれる。彼の治世に何ら不具合はなく、政治にあまり関心を持たなかったオットー公の性格も全く支障はきたさなかった。 // 美男ではあったが女ではなく狩りに異常なまでの快楽を見出し、宮殿に帰ることも少なかった。ザクセン近郊で外遊中、新しく購入した馬が突然暴れ公を載せたまま崖から飛び降りた。 // ザクセン公の弟で16歳のアルブレヒト1世が継承する。 // //1459年12月13日、コルフ島で第2代侯爵レスタイアーノ・ジョアッキーノが15歳で即位。 // //1459年12月24日、デンマーク王クリストファ3世、ポメラニアのヴァルティスワフ9世と同盟。 // デンマークは大陸への進出をさらに推し進める。 // //1460年1月1日、トレムセンからジェリド、ムザブが独立、トゥーグラもフェザーンに奪われた領土を一部復帰する。 // トレムセンは摂政政治で安定していない。摂政政治を行う限り、トレムセンは満足に戦争もできない。 // //1460年1月4日、ジェリド、フェザーンやトレムセンから身を守るため、アブド・アル・ハック2世と同盟。 // //1460年1月24日、スコットランド公国のジェームズ2世スチュアートは諸島連合を併合。 // イングランドの脅威に対抗するため、ブリテン島北部の団結を強調する。 // //1460年3月9日、クリム・ハン国のハジ2世没す。 // ハジ2世の治世はクリム・ハン国の影響力が著しく停滞した。ジェノヴァ共和国領カッファを攻撃したが満足な成果は上げられず、モスクワとの戦いでは友邦カザンとともに大敗北を喫し、財政破綻宣言を出すしかなかった。 // ハジ2世は85歳で死亡した。長男と次男で継承戦争が起こりそうだったが、死の間際にオスマンの仲介を拒絶したハジ2世が長男ヌール・デヴレト1世がハンとして即位させた。しかしデヴレトは庶子であるため、正統ハン位を主張する次男ヌール・ジョチ1世とそのシンパが大規模反乱を起こし勝ったため、1463年の7月24日にその直前に死去したジョチの息子ガジ1世が19歳でデヴレトを廃しハン位についた。 // //1460年5月1日、マムルーク朝のスルタン・ムハンマド3世、ファドルを併合。 // //1460年5月12日、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ4世、アーヘン自由都市と同盟。 // //1460年5月26日、スイス同盟のパウル・オイクスター死去。 // パウル・オイクスターはフリードリヒ3世にスイス傭兵を始めて本格的に貸し出し、スイス傭兵の力を決定的なものとしたほか、ドイツ諸国家や帝国との結びつきを深めてスイスのその閉鎖的世界に新たな風を吹き込んだ。 // 全市民選挙の結果、同盟議会でジュール・ヴェヒター(35)が選出された。 // //同日、イタリア軍司令官アルフォンソ・オルシーニ引退。 // イタリア軍をフランチェスコ・スフォルツァとともに率いたアルフォンソ・オルシーニは1410年父ヴィルジニオとガエターノ家出身の母ジョバンナの間にオルシーニ家領土ネットゥーノで生まれる。幼き頃より傭兵を指揮していた父の影響で1443年に傭兵となった。 // 1444年にはリソルジメントが起こり、フィレンツェのコジモ・デ・メディチに雇われローマ動乱を機にフランチェスコ・スフォルツァとともにローマを占領した。 // 手柄をあげそこね、海賊退治で民衆と当時の元首ピエトロ・レオポルドに絶大な人気があったエルメス・オルシーニに先を越されるが、1448年、最後のレコンキスタにイタリアが参加しチュニスの戦いやスーサの攻略で活躍した。ラグーサ交易戦争ではあいにくフランチェスコ・スフォルツァが活躍したため目立った戦果は挙げなかった。 // 引退後の14年後、1474年にネットゥーノで死去する。 // //1460年6月3日、トゥーグラ、チュニスの属国となる。 // //1460年6月6日、イタリア元老院で重商主義を警告するフィレンツエの議員が影響力を増した。 // イタリアにはオルシーニやコロンナといった古くからの大貴族と新貴族2派にわかれていたが、建国から16年たち、大きく変わってきていた。 // オルシーニやコロンナは長く争う中で私兵団も持っていたが、収入が激減し、領土も失った。ローディ憲章では貴族の称号は認められるが、特権や領土は認められていなかった。大貴族は私兵団をイタリア政府や外国に貸し出すことや自信で商売することで収入を確保するようになった。貴族同士で争っている場合ではなくなったのだ。 // 新貴族といわれた人々はメディチ家をはじめとしたフィレンツエの商人家系やヴェネツィアの貴族である。共和制をよく理解していた彼らは自信でも十分食っていけた。 // しかしこのころの元老院を分けていたのはギルド派とメルカンテだ。 // ギルド派は完全自由商売を望んでいた。当時イタリア共和国は政府直営のコレガンツァという保険会社や補助会社を駆使し、資金をもたぬ者にも組合に参加しなくとも商売の機会を設けられるようにしていた。しかしギルドといわれた組合商売になれていたフィレンツェをはじめとした中部の商人は組合による競争自由市場で売りさばきたいと思っていたのだ。 // メルカンテは政府による補助金を望む収入が激減したローマやナポリ、北イタリアの名門貴族である。 // メルカンテの代表はローマ・コロンナ家唯一の議員プスペロ・コロンナ、ギルド派の代表はコジモ・デ・メディチである。 // メルカンテは旧貴族がこぞって支持するため、大変な議席を占めているが、コジモ・デ・メディチの影響はそれを打ち消すくらい絶大なのである。コジモのその善良で付け入るスキのない行動と彼の一団の活躍で、ギルド派は一本取られたということである。 // //1460年7月3日、マムルーク朝のスルタン・ムハンマド85歳で死去。 // スルタン・ムハンマド3世は1375年カーヒラで生まれる。彼は名君だった。1444年イタリア統一を機にイタリアと親密を深め、アレクサンドリアを一大交易都市とした。アナトリア戦争ではカラマンに味方しオスマンと戦った。最終的に押される形となったが、白紙和平に持っていき、海軍ではオスマンを圧倒した。 // スルタン位は息子アリーが35歳で継承した。 // //1460年7月6日、ローマで反対活動が民衆の間で興る。 // 本来はローマの大規模改築で一時避難先がないことを主張する、市民たち主流のデモだったが、ギルド派の勝利に反対するメルカンテのローマ大貴族にあおられたものに変わっていた。 // //1460年9月15日、チュニス、モロッコと同盟。 // //1460年11月6日、ジェリド、チュニスと同盟。 // //1460年12月23日、マントヴァの枢機卿、イタリア元老院議員の地位を要求。 // マントヴァの枢機卿はフェルディナンド・ゴンザーガの死去に変わり、マントヴァ候ルドヴィーコ3世の弟でカスティリオーネの司教でもあったアレッサンドロとなっていた。 // ルドヴィーコ3世はこの枢機卿をイタリア元老院内で意のままに動かそうとしたのだ。イタリア元老院議員になるには大学で法学を学んでいることは必須であり、言語もイタリア語だけでなく多言語を要求される。その中で選挙に出馬して初めて選ばれるかどうかなのである。傭兵隊長であったルドヴィーコ3世が入るのは不可能であった。 // しかしこのことを十分に理解していた元老院、特にオルシーニ家をはじめとしたルドヴィーコと同じくイタリア統一で特権を失った貴族から反対が巻き起こった。自分たちだけとはずるい、というわけである。 // 元老院は審議の結果、アレッサンドロ・ゴンザーガの元老院入り選挙の出馬を却下した。 // //・セヴェリーノ・ドーリアの陰謀 //1460年12月25日、恐ろしい知らせがイタリアの一般階級から上流階級中を震駭させた。なんとイタリアの共和制を破壊しようと陰謀を企んでいた一団がいたのだ。 // これまで陰謀や共和制を廃そうとした例は何回かあった。例えばローディ憲章を発布したとき、市民は喜んだがその土地の大貴族やシニョーレは喜ばなかった。オルシーニ家やコロンナ家、マントヴァのゴンザーガ侯爵家、フェッラーラのエステ家、ボローニャのベンティヴォーリオ家、ウルビーノのモンテフェルトロ家、南部の農地所有の貴族、ピエモンテの貴族たち、挙げればきりがない。これらの古くからの貴族は元老院で多くの議席を占めようと当主自らが出馬したが、どれも失敗に終わっている。 // 今回も陰謀は寸でのところで防がれたのだが、この陰謀の衝撃は大きかった。なんと、陰謀の首謀者が元首セヴェリーノ・ドーリアだったからだ。 // いつものように日曜の午後の元老院が終わり、まだ建造がやまない元老院堂を議員が後にしていた12月24日、ピエモンテの貴族とコロンナ家当主ジョバンニとその一団が元首官邸であるクィリナーレ宮殿に入っていく姿をギルド派のマルコ・グイニージというルッカの議員が見止めた。ピエモンテの貴族はここ数年は先の陰謀の影響で元老院追放となっている。ジョバンニを当主としていただくコロンナ家ジェナッツァーノ一門もイタリア統一の際にローマを庶民を先導して教皇を逃亡させた際、進軍したローディ和平のアルフォンソ・オルシーニ、フランチェスコ・スフォルツァの軍に自前の軍団では向かったため、追放されていた。 // 怪しく思ったグイジーニがついていくと、元首セヴェリーノ・ドーリアと中庭で会談していたのだ。そして驚きの単語を聞いた。シニョーレである。護国卿という単語も耳にし、握手しているさまも見たという。 // それを聞いたグイジーニは急いで官邸を後にし、十人委員であるピエトロ・ボルゲーゼのボルゲーゼ宮殿へ報告した。 // 十人委員ボルゲーゼは急いで秘密裏に十人委員会をボルゲーゼ宮で開いた。念のためアンドレア・コロンナは呼ばれなかったという。運よくすべての十人委員がローマ内にいた。決議により元首ドーリアの逮捕が決まった。コロンナ家当主ジョバンニもである。 // 十人委員会も追放処分となった貴族がローマ入りしていたことは知っていた。それに対処するためいつでも進軍できるようローマ軍団の部隊幾分かをローマ近郊に配置していたのだ。十人委員会が兵士を思いのまま操れたのは、十人委員オルシーニの実家であるオルシーニパチェントロ一門がローマ軍団の半分を占めていたからだ。 // すぐさまその分隊によりコロンナとピエモンテの雇った傭兵が発見され、戦闘に入った。この騒ぎにようやくローマ中がどよめき始めた。これを知った元首ドーリアはじめ陰謀の首謀者は逃げようとしたが、すでにローマの城門は閉まっていた。逃げようとしたものはすべてが逮捕された。 // 翌日、元老院が招集され、出席可能な議員すべてが集まった。そこですべてが告げられた。十人委員会のこれまでの行動は完全に越権行為だったが、それをとやかく言う議員は少なかった。早速陰謀の首謀者と新たに発覚した加担者の逮捕がなされることとなった。 // 12月26日、激しい拷問に耐え切れなくなった傭兵隊長ウルバーノがすべてを告白した。首謀者はジョバンニ・コロンナとセヴェリーノ・ドーリアであること、彼らの目的はイタリアを王国にすること、自分はドーリアがイタリア王宣言を出した後にそれに反対した元老院議員を抹殺する役目があったということ、この陰謀にはサヴォワの枢機卿ウンベルト・サヴォイアも加担していたこと、などである。 // 12月27日、セヴェリーノ・ドーリア、ほか陰謀加担者13名に判決が下る。 // ピエモンテ貴族ら、傭兵隊長ウルバーノ、ジョバンニ・コロンナは公衆の面前での絞首刑である。セヴェリーノ・ドーリアは民衆に影響があるので元首官邸内で斬首刑となった。ほか3名は禁固刑となった。サヴォワの枢機卿は聖職者のためさばくことはできなかった。 // 刑は12月28日、速やかに行われ、セヴェリーノドーリアの人生もこの日終わった。最後は何も言わず、ただただ修道士の掲げる十字架を食い入るように見つめていたそうである。言葉一つ残さなかった。 // この陰謀ののち、元老院は元首に対する権限を縮小し、監視を強めた。ヴェネツィア式の制度が取り入れられた。ヴェネツィア出身の議員はこういうのを歴史で学んできている。かつてのヴェネツィア共和国も同じような陰謀や動乱を経験しているからだ。 // 十人委員会の権限はさらに増強され、委員は緊急時にすぐ委員会を招集できるよう、任期中はローマ内に滞在することとなり、委員会本部はクィリナーレに移された。元首をいつでも監視できるようにという意味である。元首補佐も3名に拡張された。 // //1461年1月1日、イタリア緊急ダシリエレ // 新元首にはカルロ・フェリーチェ・デッラ・ローヴェレ58歳が就いた。 // 国防長官にはロレンツォ・トルヴルツィオ、外務長官ジョバンニ・サンセヴェリーノ、国務大臣には前回の陰謀発覚を瞬時に伝えた英雄として、マルコ・グイニージとなった。 // 十人委員はピエトロ・ヴェニエル、アンドレア・スピノラ、ジャン・ルイージ・ベネヴェント、ジュリアーノ・チボー、バティスタ・ピーコ、ロレンツォ・ペトゥルッチ、それに元首補佐ジャン・アンドレア・トッレ、フランチェスコ・ガエターニ、ロドヴィーコ・マリーア・モンテフェルトロそれに元首ローヴェレである。 // //1461年1月6日、メディナでダイガム・ビン・カスラム・フーサイイドが死去。 // 彼の治世は地味なものであった。マムルークの圧力に屈しまいと晩年は政務に取り組んだが、コーランと詩を愛する男だったという。 // 太守の座は息子ウムヤーン1世が15歳で継ぐ。 // //1461年4月1日、ヴェネツィアで旗艦の建造が始まる。 // イタリア海軍をさらに強大にするため、収入の低下を招くのを承知で元老院はいまだかつてない巨大な旗艦建造を開始した。 // //1461年4月13日、ドーリアの陰謀でイタリアからさらににらみを利かされてしまったサヴォイは国際的孤立を避けるため教皇庁と同盟を結んだ。 // //1461年6月4日、ヒンタータ朝スースでムハンマド1世が51歳で即位。 // //1461年7月6日、ヴェネツィアでリナシタ運動が巻き起こる。ヤーコポ・ベリーニ //ジェンティーレ・ベリーニジョヴァンニ・ベリーニ、ジョヴァンニ・ベリーニ、チーマ・ダ・コネリアーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボなどが名をはせる。 // フィレンツェ派とのその違いは、フィレンツェ派がデッサンを重視し、また肉体的芸術を意識したのに対し、ヴェネツィア派のそれは色で形を作り、肉体構造には関心を示さずあくまで詩的に表現し、人間の心に直接訴えかける作品であるということだ。 // //1461年同日、ハンガリー王アルベルト2世(31)はラグーザ市のルドヴィーコ・ボーナ65歳と同盟を結ぶ。 // //1461年10月19日、ジェリド、トレムセンと同盟。 // //1461年、同日、今まで首都をクラクフに置いてきたポーランド王ヴラディスワフ4世(33)、ワルシャワに移す。 // //1461年11月11日、コジモ・デ・メディチ引退。 // コジモ・デ・メディチの引退の影響は大きかった。元老院ではメルカンテにギルド派が連敗を重ねた。コジモの後を継いで長男ピエロがギルド派の代表を務めたが、彼は思い痛風を患っていたので元老院議員にさえなろうとはしなかった。フィレンツェから出られないのだ。弟のジョバンニとコジモとコーカサス人の元奴隷マッダレーナの間に生まれた庶子カルロが銀行経営をうまく回していた。 // //1461年12月14日、ノヴゴロドのスヴェトスラフ、リヴォニア騎士団のハインリヒ3世バルデウィク(55)に宣戦を布告する。 // //1462年、1月1日、デンマーク王クリストファ3世(48)南部に広がるホルシュタインを併合。さらに大陸への野心を深める。 // //1462年1月2日、新年の習慣に従い、教皇レオ10世(64)新たな枢機卿を任じる。 // 新枢機卿はヴェネツィア人のマルコ・クィリーニである。 // //1462年2月5日、スルタン・メフメト2世(32)オスマン帝国、スルタン・アリー(39 )のマムルーク朝に禁輸処置。 // //1462年4月27日、アルベルト2世(34)のハンガリー王国、ラグーザ市と技術共有。 // //1462年5月3日、黒羊朝のシャハーンギール(45)、カラバフを併合。 // //1462年5月15日、とうとう欧州中が危惧とともにどこか期待していた、ルイ11世(38)のフランス王国とヘンリー6世(40)のイングランド戦争が勃発した。 // ルイ11世は父王シャルル7世のようにずる賢くもなく、曾祖父シャルル5世のように勇敢でもなかった。慎重王というあだ名が与えられるほど彼はフランス内にあるイングランド領を見過ごしてきた。しかし相次ぐ諸侯の何よりも息子シャルルの強い意向に屈し、今回重い腰を上げたということである。 // //1462年6月4日、アラゴン王国のアルフォンス5世が62歳で逝去する。 // アルフォンソ5世は1396年にカスティーリャ王国に生まれる。1416年にアラゴン王として即位する。1442年にはルネ1世からナポリ王国を奪うがその悪政の結果ナポリ奮起を招き、イタリアを統一させシチリアとサルデーニャを失った。 // アラゴン王国はナバーラ王で同じ王朝のジュアン2世(60)が継承した。 // これにはカスティーリャ王ファン2世(56)が関心を示し、アラゴン領を請求した。カスティーリャとアラゴンを統一しようと思っているのだ。 // //1462年9月28日、ブルゴーニュ・イングランド戦争終結。 // ブルゴーニュ公シャルル(28)もさすがにイングランド相手には勝てなかった。アルトワ、カンブレシ、ピカルディをイングランドに明け渡した。 // 属国のフランドルはフラーンデレンを明け渡した。フランドルはブルゴーニュ支配から解き放たれ、親イングランド派のヤン1世(19)が即位した。 // //1462年10月28日、トレムセンでアブー・アッバース・アフマド1世が19歳となり成人、議会政治から親政を始める。 // //1462年12月7日、グルジア王ジョルジ1世、トレビゾンドのヨハネスのヨハネス4世コムネノスに宣戦布告。 // //1463年1月22日、ヴェネツィアで建造されていた前代未聞の高性能艦リソルジメント級リソルジメントの建造が完了し、抜錨する。 // どの国も持たない、当時最大規模の帆船だった。近くで見るだけで威圧感がある。 // //1463年2月7日、バイエルン公アルブレヒト2世55歳で死去する。新公爵アルブレヒト4世が国政をするにはまだ幼すぎるため、摂政にアンナ侯爵夫人が就く。 // //1463年3月5日、ケルンでマクシミリアン・フリードリッヒ1世が死去。マクシミリアン・フリードリヒ2世(42)即位。 // //1463年4月16日アブー・アッバース(15)のトレムセン、ハッサン・アル・マルシューティ(40)のムザブに宣戦布告。 // //1463年4月16日、ワラキア公ヴラド2世死去。ヴラド・ツェペシュが23歳で即位。 // //1463年5月6日、モスクワ大公イヴァン3世(23)、ノヴゴロドに宣戦布告。 // //1463年10月31日、アラゴンのジョアン2世61歳、カスティーリャのファン2世57歳との同盟を破棄。 // //1463年12月2日、アストラ・ハン国、クリミア・ハン国から独立。 // これに激怒した家臣セラメト1世にガジ1世が暗殺され、セラメト1世22歳がハン位に即位しベクマンベト朝を打ち立てる。 // //1463年12月12日、モロッコのアブド・アル=ハック2世64歳、トレムセンのアブー・アッバース15歳に宣戦布告。 // //1463年12月28日、アストラハン国、キプチャクの朝貢国でとなる。 // //1464年1月1日、イタリアダシリエレ。 // 国防長官にナポレオーネ・カスタニャーロ、内務長官ナポレオーネ・デッラ・ローザ、外務長官ロドヴィーコ・マリーア・カスタニャーロ、サンマルコ財務長官ガスパル・コンタリーニ。 // 十人委員会にはニッコロ・ブランドーニ、ロレンツォ・ディ・カッラーラ、エマヌエーレ・マリーア・モンティ、ジャン・ガレアッツォ・ソルマーニ、チェーザレ・サンタ・クローチェ、ピエトロ・バルバリーゴ、元首補佐3名ファブリツィオ・スピノラ、ロドリーコ・ファルネーゼ、アントーニオ・ブラガディンそれと元首ローヴェレである。 // //1464年2月6日、ヒスン・カイファ国、白羊朝に宣戦布告。 // //1464年3月19日、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国に宣戦布告。 // オスマン帝国はヴェネツィア元老院に最後通牒をつけつけた。エーゲ海にもつネグロポンテをはじめとした島々すべての‘‘返還‘‘を要求した。 // ヴェネツィア共和国元首ブルーノ・コルネールと元老院は徹底抗戦を決議した。 // かつてのヴェネツィア共和国ならオスマン帝国相手にも勝てたかもしれない。しかし今回の戦争には、どの議員も元首も兵士も市民も勝てるとは思っていなかった。人は時に、追いつめられると逃げるよりも敵に徹底抗戦をするものである。 // //1464年5月9日、ムザブ、ラグアットをトレムセンに明け渡し、和平。 // //1464年5月25日、スイスでジュール・ヴェヒター39歳で急死。 // 32歳のヨハン・スペーリが就任した。 // //1464年7月9日、テオドロ皇国のマヌエル・オルベイ、グルジアに賠償金を支払い和平。 // //1464年、7月24日、イングランド国内でロラード派による反乱がおきる。国王がフランスで戦争中のため、イングランド国防軍はなすすべなく敗退を重ねる。 // //1464年7月27日、グルジア王ジョルジ2世、38歳で死去。 // 彼はグルジア王国の建国者といわれる。チェルキシア国を破り、それを併合、カスカフを平定し、大グルジア王国を建国した。 // 王位はまだ幼いジョルジ3世に変わって王妃ネスタン・ダレジャンが摂政を行う。 // //・イタリア建国の父コジモ・デ・メディチの死去。 //1464年8月1日、コジモ・デ・メディチが死去した。 // 全イタリアが、特にフィレンツェ市民が悲しみに包まれた。説明するまでもなく名が知れた男である。アルフォンソ・リドルフィ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、フランチェスコ・フォスカリはじめとしたイタリア統一4傑の中の一人である。 // 彼は初めてイタリア統一とその利益を考え始めた。そしてそれを実行するに十分だった。それゆえに、彼の損失はイタリアにとって非常に悲しむべきことだったのである。 // 彼は1389年9月27日、銀行家ジョバンニとその妻ナンニーナ・デ・ブエリの間に、当時イタリアの5大国の一つとして他国と鎬を削っていたフィレンツェ共和国に生まれる。そのころからメディチ銀行は有名であり、彼の父ジョヴァンニの総資産はフィレンツェ一だったという。ジョヴァンニの跡を継いで銀行家になった彼は同時にフィレンツェでも有力な政治家系の長にもなった。なぜならフィレンツェは有力商人が行う少数共和制であったからである。 // しかし1433年に父の代より対立が見えていたアルビッツィ家のリナルドに負け牢獄生活まで体験することとなった。コジモとメディチ家は終わりだと思われた。アルビッツィ家とその支持者はコジモの死刑を要求していたからである。 // だがここでコジモとその一族メディチの真の力が示された。コジモは莫大な資産でフィレンツェ国内はもちろん教皇庁やヴェネツィア共和国までも買収した。国内に至っては牢屋の門番までも懐柔するという徹底ぶりだ。見事裁判では数年のフィレンツェ追放となっただけであった。 // 追放刑となりヴェネツィアに迎え入れられたコジモとその弟ロレンツォだったが、その追放もわずか1年で終わる。アルビッツィ家の政治に嫌気がさしたフィレンツェ市民がアルビッツィを追放したからだ。コジモと弟ロレンツォはフィレンツェに迎えられた。 // この時のフィレンツェ帰還の際の物語は有名なものとなっている。コジモの帰還を待ち遠しく思っていた市民はいつ帰還してきても大丈夫なよう、城門に集まり待っていた。だが日が沈んでもコジモの一行は一向に現れなかった。市民は仕方がなく帰っていった。だがその日の夜、裏にある城門からコジモ一行はひっそりと市内に帰還したのだ。コジモは知っていた。フィレンツェのその嵐のような気まぐれさと不安定な政治体制を。コジモは終始控えめな政治家として知られるようになる。自身は一向に表に出ず、フィレンツェの大統領職ゴンファロニエーレにも数回しかなっていない。だがメディチ派の議員や官僚でフィレンツェ国会はほぼ占められていた。こうしてフィレンツェは共和制でありながら君主をいただくという不思議な国となった。 // 政治家だけでなく、銀行家・芸術の庇護者としても知られている。メディチ銀行はイタリアを飛び出て南はエジプトのカーヒラ、北はロンドンに至るまでの巨大市場を誇り、コジモはイタリア一の金持ちからキリスト教世界一の金持ちになった。 // パトロンとしてはバーゼル公会議をフィレンツェに招き、ギリシア・ローマの古典や芸術を自身も非常なまでの興味をもって学んだ。公会議が去った後もその莫大な資産で学者たちを庇護し、別荘に住まわせた。こうしてフィレンツェは芸術爆発を起こす。 // そしてヴェネツィア滞在時にフォスカリと温めていたイタリア統一計画を実行する。イタリア統一では数万ドゥカートがコジモの懐から出たという。 // イタリア統一後は銀行行と芸術活動に精を出した。十人委員会に選ばれたがわずか一期で終わる。トスカーナ州知事は勤め続けた。 // 私生活は質素だった。町でもフィレンツェ出身の議員のように行列を従えもせず、そもそも町を余り歩かなかったそうだ。大抵出歩くときは芸術家の工房や建造中の建物に向かう。彫刻家ドナテッロとは親友の間で、彫刻ばかりして食事や着替えもしない彼のためによく出向いたという。別荘ではギリシアやイタリアの哲学者と実に熱心に語り合い、その知見を深めた。 // 晩年は持病の痛風が悪化し、州知事や議会を息子ピエロに任せ自身は別荘にこもることが多くなった。釣りをして議論にふけるというのが習慣だった。 // 1464年8月1日、葡萄畑に行ったきり戻らない彼を心配した妻ルクレツィアと弟ロレンツォに、椅子に腰を掛けながらフィレンツェを見下ろすようにして息を引き取っていた姿を発見された。 // 彼の葬儀は遺言に書いてあった通り、身内の間だけで質素に行われたが、イタリア元老院がそれを許さず、2度目の葬式が派手に行われた。 // 彼の死は影響が大きく、全イタリアが悲しみに包まれた。彼はフィレンツェと元老院から祖国の父という称号を受ける。こうして残るイタリア統一の英雄はナポリのアルフォンソ・リドルフィだけとなった。 // //1464年8月15日、スースでムハンマド1世55歳で死去。 // ハサム1世が38歳で即位。 // //1464年9月1日、キプチャク・ハン国のクチュク・ムハンマド85歳で死去する。 // クチュク・ムハンマドの統治時代、キプチャクはその権威と領土を大きく喪失した。同じタタール人諸国の分裂と闘争、モスクワ大公国の進撃でかつてのモンゴル西方遠征時のキプチャクの領土は半分になったといっていいい。 // 新たな王としてアフマド1世チンギスが29歳で即位した。 // //1464年9月4日、スコットランド王国のジェームズ2世、アルスター伯国のアルトロエ・マッジニスに宣戦布告。 // //1464年11月23日、テオドロ皇国のマヌエル・オルベイ、ワラキア公国のヴラド・ツェペシュと同盟。 // //・イングランド王ヘンリー6世の死。 //1464年12月21日、イングランド王ヘンリー6世が死去した。 // ヘンリー6世は1421年イングランド王国ウィンザー城に生まれる。生後九か月で父王ヘンリー5世が死去し王となる。 // フランスとの百年戦争は続行したがすでにランスは奪われ、イングランド軍不利は止まらなかった。1424年に勝手に出兵したが文字通り大敗し和平を結ぼうとするが実現せず見方だったブルゴーニュとまで敵対する。 // 1436年にはパリが陥落しイル・ド・フランスを奪われた。これにより和平を結んだが、フランス王シャルルが死にルイ11世が王となってメーヌを占領した。これによって百年戦争が再開され、ヘンリー6世も出兵した。初戦は有利に動いたがピカルディの会戦の敗北で形勢は逆転、イングランド内でロラード派の反乱まで起こり、会戦での負傷もあってヘンリー6世は帰国。だがロンドンに帰った時点で傷は悪化しどうすることもできなかった。 // 彼の功績は教育においてである。彼はイートン校とケンブリッジ大学キングス・カレッジを設立した。父が始めた建築への支援を引き継ぎ、イートン・カレッジ礼拝堂やキングス・カレッジ礼拝堂や彼の支援になる他の建築物の大半(ヘンリー5世が着工し、ヘンリー6世が完成させたシオン寺院など)は、単一の後期ゴシックあるいは垂直様式の教会に修道院と(あるいは)教育機関としての基盤が付与されたものであった。 // 王位は息子ヘンリーが継ぐが、この王がまた、変わった王であった。即位名をヘンリー4世としたのだ。これまでのランカスター朝を否定し、イングランドのみを考え行動する方針を固めていた自分こそがイングランドの王を名乗るのにふさわしと信じて疑わなかった。ランカスター朝の最初の王はヘンリー4世である。それ以前のプランタジネット朝はヘンリー3世で終わっていた。 // 彼はフランスとの戦いは続行したが、まるでフランスからの講和を待っているかのようで2万の軍勢を戦闘を避けさせながらフランス国内をさまよわせた。 // //1465年1月13日、トンマーゾ・ヴェニエルが78歳で死去。元首にはブルーノ・コルネールが就く。 // //1465年2月15日皇帝命令発動。 // 皇帝フリードリヒ3世はまたも皇帝命令を出した。ユトレヒト領主フィリプス1世はヘルレの領主ヘンドリク2世から首都ヘルレを奪っていたのだが皇帝はこれを返還せよと命令を出した。 // 最初は抵抗を示したフィリプスだったがヘルレは返還された。 //6月13日、ボヘミア王イージ・ス・ポチェブラド、マクデブルクのルドルフ2世司教と同盟。 // //1465年9月18日、ブルターニュ公フランシス1世、51歳で死去。 // フランシス公はフランスでも指折りの美男として知られていた。また政治の執り行いも実に優雅で果断なものだった。フランス王とは適度な距離を取り、イタリア元老院との協議で自身の野望でもあったプロヴァンス公国宣戦布告、教皇庁領アヴィニョンを開放した。晩年はサヴォイア公フィリッポの摂政アリーチェに恋をして何かにつけて会おうとしたが、恋は成就しなかった。 // 狩りの途中にあった大雨の影響で肺炎になり、ブルターニュの城で亡くなった。 // 侯爵位は16歳の長男ジャンが継いだ。 // //1465年11月9日、テオドロ皇国のマヌエル・オルベイ、モスクワ大公イヴァン3世に賠償金20グロッソドゥカートを払い和平。 // //1465年11月8日、ギルド派の元老院議員、元首ローヴェレにギルドの参加を求める。元首と元老院、これを否決。 // //1465年12月13日、ポルトガル王ジョアン2世、15歳となり親政を開始する。 // //1465年12月15日、チュートン騎士団総長コンラート・フォン・エルリヒスハウゼン72歳で死去。 // 彼の治世、チュートン騎士団は大部分の領土をダンツィヒ共和国に奪われた。1410年のポーランド・リトアニア連合の前に敗れて以来、チュートン騎士団の権威と名誉は下落するばかりだった。 // 新総長には56歳のルートヴィヒ1世が即位。 // //1466年1月2日、ノヴゴロド戦役終結。 // ノヴゴロド共和国政府、ネヴァ、インゲルマンランド。オロネツ、ソロカ、カルゴポリ、ラドカ、チフウィン、オネガの州をモスクワ大公イヴァン3世に明け渡し、和平。 // モスクワ大公国はさらに強大となった。 // //1466年1月16日、トレビゾンド皇国、グルジア王国に全土併合。 // //1466年3月8日、フランチェスコ・スフォルツァ死去。 // フランチェスコ・スフォルツァは、傭兵隊長ムーツィオ・アッテンドロと、ルチーア・ダ・テルツァーノとの間に、庶子として生まれた。 // フェッラーラのニッコロ3世・デステの宮殿の近くで少年時代を過ごした。1412年12月、11歳の時に父に従いナポリに移り、ナポリ王ラディズラーオ1世によって騎士に叙任され、トリカーリコ伯に封ぜられた。 // 16歳の時、傭兵隊長アンジェロ・ラヴェッロと対戦し頭角を現した。 // 1418年10月23日、ロッサーノにおいてポリッセナ・ルッフォ と結婚した。ポリッセナは、カラブリアのモンタルト・ウッフーゴの貴族の娘で、フランス人騎士ジャコモ・デ・マイッリの未亡人であり、特にコゼンツァにおいて多くの土地を支配していた。1420年にポリッセナはアントニア・ポリッセナという娘を産むが、まもなく死んだ。 // 1424年1月にペスカーラで父が死去すると、フランチェスコは父の遺産を引き継ぎ、4月にはナポリを奪回してアラゴン人(アラゴン王アルフォンソ5世)との戦争を終結させた。 // 1444年にはイタリア統一運動に加わり、ローマを占領、初代イタリア陸軍総司令官に任命される。 // その後は目立った活躍はせず、ローマに住みながら軍事訓練などをして過ごしたという。 // //1466年3月19日、ヒスン・カイファ国、白羊朝のシャハーンギールに全土併合され、滅亡。 // //1466年4月1日、オスマン帝国のメフメト2世、外交工作でドゥルガディルを併合。 // こうしてアナトリア半島で独立を保っている勢力はオスマン以外にはカラマン侯国、ラマザン皇国だけとなった。 // //1466年5月3日、セラメト1世、クリム・ハン国に封建制度を導入。 // //1466年7月7日、モスクワ、トヴェリとの同盟放棄。 // //1466年7月11日、フィリッポ2世15歳となり親政を開始。 // //1466年7月25日、ジェリドのカナータ・マリーン、モロッコのアブド・アル=ハック2世に賠償金を払い和平。トレムセンとの共同戦線を放棄。 // //1466年9月18日、イタリアのメディチをはじめとした諸銀行、フランスとイングランドとの百年戦争でフランス有利と見込み、1000グロッソドゥカートを支払う。1000グロッソドゥカートとは一国の一年での収入をも上回る大金だ。フランス王はこれにより借金や軍備を埋めた。 // //1466年9月14日、フランチェスコ・スフォルツァにかわってファビオ・ボンコンパーニが第2代イタリア軍総司令官となる。 // //1466年10月6日、グルジア摂政ネスタン・ダレジャン、モスクワのイヴァン3世と同盟。 // //1466年12月3日、ジェリドのカナータ・マリーン、チュニスのウスマン・ハフシードにガダス州を売却。 // //1466年12月4日、ジェームズ5世のオ―モンド伯国、オファリー王国を併合。 // //1466年12月16日、第一次ヴェネツィア・オスマン戦争終結。 // 戦争でまともな戦闘は行われなかった。ヴェネツィア海軍は軍船をかき集めても5隻程度である。ネグロポンが早速包囲され、陥落、続いてコルフ島も陥落した。 // ヴェネツィアはコルフ島、ネグロポンテ、ナクソスをオスマン領として認め、110グロッソドゥカートを払った。 // ヴェネツィアに残された領土はイストリア・ダルマツィア、首都クレタのみとなってしまった。ここにきてイタリアとハンガリーは不安になり始めた。ネグロポンテとナクソスの島の陥落でエーゲ海は完全にオスマン帝国のものとなった。コルフ島の陥落でアドリア海の出入り監視されることになったのだ。 // //1467年1月1日、イタリアダシリエレ // デッラ・ローヴェレは信任される。 // シニョリーアは国防長官にチエーリ伯ジュゼッペ・ドーリア、外務長官にロメオ・スフォンドラーティ、内務長官にジョルダーノ・ブオナローティである。 // 十人委員会はマッシリミリアーノ・マローア・スタンパ、カルロ・エマヌエーレ・ナーヴァ、パンドルフォ・スピノーラ、ロドリーゴ・ブランカッチョ、アゴスティアーノ・クィリーニ、アントーニオ・ブラガディン、それに元首補佐ピエロ・サルヴィアーティ、ジュゼッペ・マリーア・アルマローリ、クリストーフォロ・ドーリア、それに元首ローヴェレである。 // //1467年1月8日、モスクワの猛攻に防戦一方のノヴゴロド代表サヴェリー、35グロッソドゥカートでリヴォニア騎士団と和平。 // //1467年2月16日、アーヘンのアレクサンダー・ジークムント・ファルケンベルク、教会の命令を受け、市内の異端者と思われる一団を逮捕、判決として火刑に処す。 // //1467年3月29日、白羊朝のシャハーンギール、オスマンと同盟。 // //1467年4月5日、アーヘンと同様の異端団体がボヘミア王国内で発見、最初国王イージ・ス・ポチェブラドは教会からの命令に積極的ではなかったが、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世からの命令もあり、その一団を火刑に処した。 // 話によれば異端とされた一団は皆女であり、女性の権利と離婚法を主張する団体だったそうである。 // //1467年5月11日、トレムセンのアブーアッバース・アフマド1世、モロッコのアブド・アル=ハック2世にダラ、ウアルセニ、カスディルと賠償金60グロッソを支払い和平。 // //1467年6月20日、アストラハン国のハジ・ムハンマド、オスマンと同盟。 // //・アオスタの陰謀 // 1467年10月17日、アオスタ公アメーデオ3世が国家反逆罪の罪で逮捕された。 // イタリア北部ミラノで開かれたフランチェスコ1世を継いでミラノ公爵となったガレアッツォ・マリーアの祝賀会で、モンフェッラート候グリエルモ8世が恐ろしいことを聞いた。 // モンフェッラート候は親友であるアオスタ公に陰謀への加担を持ち掛けられたのだ。 // アオスタ公は酒に弱かったので秘密にしいた陰謀をモンフェッラート候に暴露してしまったのだ。 // モンフェッラート候の証言によればアオスタ公はピエモンテ公国を通じてフランスの一領主と連絡を取り、陰謀を計画していたのだという。 // モンフェッラート候は恐ろしくなり、友人の元老院議員に打ち明けた。逮捕されたアオスタ公はすべてを簡単に白状した。 // 陰謀の実態は実にお粗末であり、ピエモンテ公が関係していたことは確認できたがフランスの一領主の名前ははっきりせず、ピエモンテ公はもちろん関係を否定したので、裁判では財産没収と公爵位のはく奪、国家追放となった。 // //1467年12月27日、リトアニアのガジミェシュ大公、リヴォニア騎士団のハインリヒ3世と同盟。モスクワに対抗するための同盟だろう。 // //1468年4月26日、イブラヒム2世のカラマン侯国、オスマンと同盟。 // //・百年戦争 // 1468年4月29日、イングランドとフランスの間で和平が結ばれた。 // 1462年5月15日、フランスが宣戦布告をするという形でイングランド領フランスに侵攻した。イングランドもこれを受け海峡を封鎖し、アイザック・プロスター伯率いいる2万3000の兵がアキテーヌから上陸する。 // 初戦、イングランドが快進撃を続ける。プロスター伯はアキテーヌからフランス北部を目指し、北上した。道中のフランスの村々は焼き払われた。対してフランス王ルイ11世は決定的な行動がとれずにいた。慎重王とあだされる彼は常に優柔不断で、息子シャルル王子や家臣に尻をたたかれなけれななかなか動こうとしないのだ。シャルルの強い意向でフランス軍1万3000をカレーに送り包囲させたことくらいしか、していない。 // フランス王がもたもたしている間、兵糧を蓄えながらイングランド軍は北上、ついにフランス北部にたどり着いた。 // ここにきてもまだフランス軍は動こうとしない。フランス軍の総数はカレーを包囲しているクザヴィエ・デストレの1万3000、フランス元帥ニコラ・ド・マルグリーの1万6000、そして目立った司令官を持っていない1万の軍勢である。イングランドにこのすべてが当たれば間違いなく勝利できただろう。 // フランス軍が動き出さないのを見たイングランド軍は次々と町を征服していった。 // 3月11日にはヴァロワが陥落。4月6日にはトロワが陥落、4月23日にはヌムールが陥落、5月2日にはランスまで陥落した。 // ルイ王はそれでも決心がつかなかったのか、今度はパリを捨てオルレアンに逃げた。イングランドはパリも包囲し、7月23日にはフランス王国の首都であるパリが陥落した。 // ここでようやくルイ王は重い腰を上げた。イングランドは勝利にわき、イギリス王ヘンリ―6世までピカルディの港からフランス入りし、イングランド軍を率いいる。 // ピカルディで国王ヘンリ―6世と合流したイングランド軍はカレーを包囲しているデストレ将軍のフランス軍をたたこうと進軍を開始するが、フランス軍はマルグリー元帥と司令官のいないフランス軍総勢2万6000がピカルディで待ったをかけた。 // こうして1464年8月11日、ピカルディで大規模な戦いが繰り広げられた。 // 最初はどちらもにらみ合いを続けていた。イングランド軍は長弓兵が主な兵士なので、攻撃には徹していない。向かってくる相手を射殺すのを得意としていた。 // フランス王国軍は騎馬兵が主力を占め、攻撃と防御に富んでいるが、それを過信して百年戦争ではイングランド兵に負け続けたのである。 // 最初に攻撃を仕掛けたのはフランス軍だった。重騎兵が長弓兵のすさまじい攻撃の中、前進する。このままではクレシ―の戦いの様になってしまったかもしれないが、そうはならなかった。フランス軍は大砲を使った。 // フランス軍はイタリアの傭兵をいつものように雇っていたが、その傭兵の中にメッシーナ学団という傭兵部隊がいた。普通の傭兵のように人殺しになれた男の集団ではなく、学生がほとんどを占めている。 // イタリアのメッシーナ大学の学生たちで構成されるこの一団は、イタリア政府の資金を得て、大砲などの兵器の開発を行っている。メッシーナを通るイスラーム商人からいろいろな技術を学んでいるのだ。メッシーナ学団は戦いなどで資金をもらいながら、同時に実験もする。 // メッシーナ学団は新型の大砲をイングランドめがけて打ちまくった。イングランド前線の長弓兵は壊滅し、重騎兵がイングランド軍右翼のイングランド騎兵と衝突した。フランスの中央に布陣した槍兵もイングランドと白兵戦を開始した。こうなればイングランドに勝ち目はない。 // ヘンリー6世はそれでもねばっては見たが、イングランド軽装騎兵はほぼ壊滅、右翼がなくなり、フランス重騎兵がどっとなだれ込んだ。ヘンリー6世はフランス兵の放った石弓が方に刺さり、戦線を離脱、それを見たイングランドの兵士も同時にひいた。 // フランス軍は逃げたイングランド軍を追うよりも、いまだ撤退せずにフランス歩兵と戦闘にあったイングランドの長弓兵を包囲し、これを撃滅した。フランス軍は3000の被害を受け、たいしてイングランドは6000の被害を出した。 // こうしてピカルディ・アミアンの戦いはフランス軍の勝利で終わった。 // イングランドは負傷した国王をイングランドに返すため、カレーから渡ろうとしたが、デストレ将軍のフランス軍がすでに占領していた。 // 仕方がなくアキテーヌの港から帰すことになった。イングランド国内ではロラード派による反乱がおきており、国王の帰還を一刻も早くしなく成し遂げねばならなかった。 // その間にフランス軍はパリやランスをはじめとしたイングランドに占領されたフランス領とフランス内北部のイングランド領をすべて制圧した。 // 1464年12月21日にはヘンリー6世が開戦の傷が元で死去、この時点でフランスの勝利は確実となった。 // イングランドは再びフランス軍に戦いを挑もうとしたが、その前にヘンリー6世の息子ヘンリー4世がフランスと和平を結んだ。 // イングランドはラブール、アキテーヌ、メーヌ、アランソン、コー、カーン、ユタンタンをフランスに明け渡し、82グロッソの賠償金を支払った。 // こうしてイングランドは国土の3分の1以上を失い、フランスにおけるイングランド領はカレーを中心とした一帯だけとなってしまった。 // //1468年5月26日、イングランド、教皇庁と同盟。 // //1468年7月14日、イタリアが歴史的豊作。 // //1468年7月24日、イングランド、カスティーリャ王国と同盟。 // //1468年7月29日、聖ヨハネ騎士団領ロードス島で地元のギリシア人と騎士団員がお互いに平和を結び、オスマンに対する攻撃で協力することをお互いに認めた。 // //1468年8月11日、アオスタ公の陰謀の影響でフランス、サヴォイア公国との同盟放棄。 // //1468年8月14日、イタリア元老院、商業推奨法を発布。 // イタリアは商業活動を推奨するため、融資国営企業コレガンツァの融資金額を増額、商業による活性化を狙う。 // //1468年10月15日、オ―モンド伯ジェームズ5世、イングランド王ヘンリー4世と同盟。 // //1469年1月1日、ポルトガル艦隊、マイデラ諸島を発見。 // ポルトガル王ジョアン2世は海洋地理に関心を持ち艦隊を派遣することが多かった。 // //1469年2月8日、イヴァン3世のモスクワ大公国、プスコフを併合。 // //1469年4月13日、チュートン騎士団のルートヴィヒ1世、61歳で死去。 // 新総長には久しぶりの若い団員が就いた。38歳のマクシミリアン1世である。新総長マクシミリアンは今までの保守的な騎士団を一新すると宣言、団員の中でも若い層から絶大な人気があり、軍備拡張に乗り出す。 // //1469年5月19日、アブド・アル・ハック2世のモロッコ、摂政マリカ・カナータのジェリドと同盟。 // //1469年5月23日、ポーランド王ヴワディスワフ4世、チュートン騎士団に宣戦布告。 // ポーランド王ヴワディスワフはチュートン騎士団総長マクシミリアン1世の挑発に乗ってしまった。 // //1469年5月28日、デンマークのクリストファ3世、モスクワ大公イヴァン3世と同盟。 // 両国ヨーロッパ中央部への南下政策をとりたいのは共通していた。バルト海の覇権をめぐって争う中でもあった両国だったが、ここは手を組むことにしたのだろう。 // //1469年6月1日、オスマン帝国に生涯逆らい続け、メフメト2世を悩ませ続けたカラマン侯国の君侯イブラヒム2世が、61歳で死去した。 // オスマンに多くの君侯国(ベイ・リク)が服従を申し入れる中、毅然とオスマンに立ち向かい、実に見事に侯国を守り抜いた。 // 先代のオスマン帝国皇帝スルタン・ムラートとは良好な関係を築いていたが、メフメト2世の危険をいち早く察し、準備を整えていた。一時はマムルークとの同盟でオスマンを追い詰めるがその後連敗してしまった。 // ベイの地位は息子の中では最も出来のよかった庶子デルビス1世が18歳で継ぐ。 // //1469年7月17日、トーリア選帝大司教国で、大司教ヤーコプ・フォン・ジルクが71歳で死去した。 // 特に目立った功績はなく、皇帝フリードリッヒとも良好な関係を築いていた。晩年は蝶集めに熱心になり、死の間際まで標本を作っていたそうである。 // 大司教にはヨハン2世が圧倒的支持で就いた。 // //1469年9月1日、イタリア共和国、教皇庁と同盟。 // 8月30日の昼、突然教皇レオ10世が高熱を発症した。結局は回復に向かったのだが、教皇の急死を心配した元老院はもし教皇が死去した場合の後のコンクラーヴェでイタリア人を据えるために、同盟をその日の夜結んでしまった。 // //1469年11月21日、黒海貿易でロシア人との交易で利益を上げていた交易派の貴族の一団が、ロシア人とよりよい関係を築くために、ロシア人の要請を議会に承認してもらいたいといってきた。ロシア人の要求は、イタリア内で、またイタリアが支配する経済圏の中での商売の優先権を得たい、というものだった。 // ギルド派はこれに反対、元老院と交易派の半数も反対し、否決となった。 // //1469年12月2日、フィレンツェでメディチ銀行総裁ピエロ・デ・メディチが死去した。 // ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチは1416年にフィレンツェでメディチ銀行総裁コジモ・デ・メディチとバルディ銀行のバルディ家の息女コンテッシーナの間に生まれた。幼き頃より痛風を患っており、コジモは銀行業は弟のジョバンニとコジモの庶子カルロに行わせようとしていた。 // 弟ジョバンニとその子コジミーノ、カルロが相次いで亡くなると、コジモはピエロに銀行業を託したが、コジモ亡き後、コジモの芸術復興でつぎ込んだ莫大な出費もあり、メディチ銀行は経営不振が目立った。 // いつものように痛風の治療のため、フィレンツェ近郊の別荘に向かう途中、なくなったという。ピエロの後はいまだ青年のロレンツォ・デ・メディチと美男で有名な弟のジュリアーノが、バルディ家やアッチャイウォーリ家、アルビッツィ家、ソデリーニ家などの主要銀行家と協力して継承した。 // //1469年12月29日、マインツ選帝国でアルブレヒト2世司教、死去。59歳であった。 // 新司教にはハートヴィヒ家のフランツが51歳で大司教となった。 // //1469年12月7日、スコットランド国王ジェームズ2世、アートロエ・マッジニスのアルスター伯国へ攻め入るも大敗北。賠償金を支払い和平を結んだ。 // //1470年1月1日、イタリア第8回ダシリエレ。 // シニョリーアは内務長官フィリッポ・マリーア・デッラ・ウバルディーニ、外務長官カルロ・エマヌエーレ・ディ・カルデ、国防長官アゴスティアーノ・ボンコンパーニ。 // 十人委員会はガレリオ・ダヴェリオ、エマヌエーレ・チェルメッリ、ジョバンニ・デ・ボルタ、アントニオ・ブランダーニ、マーカントニオ・マリーア・カヴァリエーリ、ルーカ・デ・ピエロ・ディ・マンチーニ、元首補佐アンドレア・メッツォ、ピエトロ・ミノット、ジュリアーノ・ネーリ、そして元首ローヴェレである。 // //チュートン騎士団、オステローデでダンツィヒ、モルダヴィア、ポーランドにメール、シュチノ、ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、エルムラント、マリーエンブルクを奪う大勝利。 // 連合軍相手に勝つ見込みはないと悟った騎士団は首都オステローデにこもり、連合軍2万と対した。オステローデは堅牢な要塞で簡単には落ちないばかりか、大吹雪が巻き起こり、吹雪がやめばオステローデから出てきた騎士団のゲリラに殺されるという負の連鎖に陥った。 // 騎士団はグルンヴァルトの戦いの屈辱を晴らしたといえるだろう。 // //1470年1月16日、オスマンのメフメト2世、ジャンダル・ベイのイスマーイールに宣戦布告。 // //1470年3月27日、リトアニア大公ガジミェシュ・ヤゲウォ、ポーランド王ヴワディスワフ4世と同盟。両国はグルンヴァルトの戦い以来、友好関係にある。 // //1470年3月30日、ヴェネツィア経済同盟にダンツィヒが参加。 // //1470年4月4日、ウルグ・ハサンのマーワラーアンナフル、カザン・ハン、ウルグ・ムハンマドと同盟、共同でウズベク族領に宣戦布告。 // //1470年6月9日、ラグーサ、イタリアへの港使用権を停止。 // ラグーザ交易戦争からはすでに時が経過しており、ラグーザは独立性を高めていた。12日にはザルツブルクが、18日にはアーヘン自由都市がイタリアへの交易力移送を取りやめた。イタリアのラグーザにおける独占体制が崩れつつあった。 // //1470年7月1日、モスクワ大公イヴァン3世、ベロオーゼロを併合。 // //1470年7月8日、デンマーク王クリストファ3世、リヴォニア騎士団のハインリヒ3世に宣戦布告。 // //1470年7月15日、イタリア元老院でギルドをメルカンテが破り、ジェノヴァ港の関税が引き上げられた。 // //1470年9月14日、メフメト2世のオスマン帝国、ハンガリーのアルベルト2世に対して禁輸処置を行う。 // //1470年12月30日、イタリア陸軍を形成する傭兵団が契約期間延長を断り、国外に移る。 // 戦争なきイタリアで、傭兵団は居場所がなかった。国内でもこれを懸念する意見は多く、オスマンやチュニスといった今後イタリアに脅威となる国とは率先的に争うべきという急進派の意見も目立ってきた。 // //・教皇レオ10世の死去と新教皇アレクサンデル6世の即位。 // 1470年9月28日、ヴァティカン宮殿で208代教皇レオ10世が崩御した。 // レオ10世、本命グイード・バリオーニはペルージアで名高い傭兵隊長マラテスタ・バリーニの息子として生まれた。 // パリ大学に在籍したことがあり、フランスに近いイタリア人枢機卿として、コンクラーヴェで思いもよらず教皇となる。文芸を愛し、ローマの街並みを一新し、損傷したサンピエトロ寺院を芸術家を招き復興させた。 // 209代教皇には、スペイン出身で、親イタリアのロドリーゴ・ボルジアがアレクサンデル6世として就いた。伯父はカリストウス3世であり、レコンキスタを終了後としては初のスペイン人教皇である。 // しかしこの教皇は黒い噂に堪えぬ男でもあった。すでにヴァノッツァ・カッタネーイという娼婦の間に子供をもうけているといわれ、そのほかの女性方面でもうわさが絶えない。しかし技量と知識は教会一であり、枢機卿団からも慕われている。 // //同日、イベリア半島でナスル朝復興を名乗る組織が反乱をお起こす。 // ハーシム・イブン・アウド・アッラー、イブン・イドリース、イブン・ウマイヤに率いられた2万6000のムスリム兵だったが、カスティーリャ王国の軍勢に叩き潰された。 // //1471年10月5日、モロッコのアブド・アル=ハック2世、ポルトガル王国とカスティーリャ王国に宣戦布告。ポルトガル王国の持つセウタの征服が目的である。モロッコにはスースとチュニスが同盟国として参戦した。 // //1471年10月21日、ラグーザで議長ルドヴィーコ・ボーナが71歳で死去した。新議長には反イタリアの筆頭ジョヴァンニ・ボスダリが即位。 // //1471年11月11日、グルジア王ジョルジュ3世、諸侯の反対を無視し、親政開始。 // これに怒って各地で反乱がおこる。 // //1472年4月3日、ミュンスターのフランツ1世、ヘルレを戦争で全土併合 // //1472年5月17日、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世、外遊中に風邪をひき、58歳で死去。選帝侯は弟のアキレス・フォン・ホーエンツォレルンが継ぐ。 // //1472年、フランドル公ヤン1世、ミュンスターのフランツ1世と同盟。 // イングランドの傀儡として就いたヤン1世だったが、独立性を高めるため、最近ヘルレの征服で力をつけていたミュンスターと同盟を結んだ。 // //1472年5月25日、スイスでヨハン・スペーリが選挙で不信任となった。公金を横領したということである。 // 新しい代表にはヴァンサン・ルツ52歳が就いた。 // //1472年7月1日、マムルーク朝のスルタン・アリー、メディナとヒジャーズを強制併合。これに怒ったメディナとヒジャーズ、大規模反乱。 // スルタン・アリーも仕方なく独立を認めた。 // //1472年7月16日、ジャンダルをオスマンに占領され、国外に逃亡しトレビゾンドに逃れようとしたイスマーイールとその家族、オスマン兵士に見つかりその場で殺された。 // こうしてジャンダルが完全併合され、アナトリアで独立を保つ君侯国はカラマンを残すのみとなった。 // //7月17日、元老院、飢饉で苦しむサルディーニャはサッサリの農民たちを工事でにぎわう首都ローマに労働力として招く。 // //1473年1月1日、イタリア第9回ダシリエレ。 // 国防長官ジャン・ガストーネ・ダッラ・ローザ、内務長官ナポレオーネ・デッラ・トッレ、外務長官エウジェーニオ・メルツィである。 // 十人委員会はルカ・ポッジ、パッツィ銀行総裁ヤーコポ・パッツィ、ピエロ・ソデリーニ、アルフォンソ・ネグリ、アンドレア・ピエロ・ヴェッリ、アントーニオ・ピエトロ・リッポマーノ、元首補佐アンジェロ・バルボ、ガリレオ・セルヴェッローニ、サンセヴェリーノ家当主セヴァスティアーノである。 // //1473年1月14日、マムルーク朝のスルタン・アリー3世、影響力を拡大するチュニスに対抗してフェザーンのアブドゥッラーと同盟。 // //・リヴォニア・デンマーク戦争におけるイタリア軍傭兵の惨敗 //1473年5月23日、元老院で急進派の一部議員が演説を行う。メルカンテはできるだけ危ない道を歩みたくないという意見が強かったが、すでにイタリアの財政はこれほどかというほどに安定し、メルカンテもアレクサンドリアやラグーザ、チュニスに進出し自立しているものが多かった。それに何度も言うが、彼らは元は封建貴族や騎士である。戦いで名をあげることを祖先たちは名誉にしていたのだ。 // 元首ローヴェレは選出時からの元老院に服従という姿勢を崩さず、発言を控えた。シニョリーアにも国防長官ジャン・ガストーネ・ダッラ・ローザが急進派の重要人物であった。 // ちょうどモスクワのイヴァン3世とデンマーク王クリストファ3世と戦争中で苦戦していた同盟国リトアニア大公ガジミェシュからコンドッティエーリ(傭兵)を要求が来ており、マントヴァ候ロドリーゴが総司令官を名乗り出ていた。 // 元老院はマントヴァ軍1万3000をロドリーゴに託し、ハンガリーとポーランドを経由させて送り出した。 // 傭兵送り出しに反対した議員は1473年10月23日の国会を欠席した。共和国史上初の出来事である。筆頭としてオルシーニ家当主ニッコロ1世やコロンナ家のものたちがあげられる。彼らは総司令官に指名されなかったことが不満なのだ。 // 1474年4月26日、カウナス・ネマン河畔の戦いでイタリア軍惨敗。 // カウナスを包囲していたスウェーデン軍を打とうと、マントヴァ候ロドリーゴはリトアニア大公ガジミェシュの意見を無視し、ネマンまで迫った。スウェーデン軍1万1000を率いていたベンケルト・イェゲルホルンはカウナスの包囲を一時解き、行軍で消耗していたイタリア軍にゲリラ攻撃を加えた。 // イタリア軍はたまらずネマン川を渡ろうとしたが早い流れに流されてしまった。ロドリーゴは体制を立て直そうと、歩兵を残して逃亡、しかしそれもペルミのヴァシリー・クシェク6000に叩き潰され、ヴィルニュス近郊で落ち武者につかまり、リトアニア軍に助け出されるも軍は消滅した。 // 元老院では急進派の追及が始まり、多くの議員が元老院を去った。 // 1474年11月29日には冬季に伴い戦争が終結し、リヴォニア騎士団は240グロッソデゥカートとリヴォニア、レヴアル、ゴルディンゲン、ナルヴァがデンマーク領に、リトアニアはブレンスカス、スモレンスカスをモスクワに譲り、戦争は終結した。 // しかしモスクワ大公国では各諸侯の反乱が相次いでおり、イタリアの傭兵団を問うことはしなかった。 // //1473年6月21日、ブルターニュのジャン5世、ブルゴーニュのシャルル突進公と同盟。 // //1473年7月15日、元首ローヴェレの名義でバーリに巨大葡萄農園とヴィーノ工場が建てられる。南部は特にプーリアでは農村部が貧困に苦しんでいた。プーリアは名高い家柄が鷹狩りや狩りで赴く場所で、平らで平原が広がる土地だった。農業さえも目立たないこの土地で、葡萄を育てようとするのは異例である。バーリ市民はイタリア中央政府を歓迎し、多くの労働者が農園で働くようになった。 // このころのイタリアではどんなものでもよく売れた。都市は人口密集と商業活動でにぎわい、農村部はその都市に物資を供給していた。 // 浮浪者の男が、フィレンツェにやってきて岸で拾った平らな石を冗談で10ドゥカートで売り出していたらそれを面白がったジェノヴァの商人団がそれを買い取ったという話もあったくらいである。 // //1473年11月27日、元老院では新たな論争で沸いた。 // メルカンテは外国に存在するイタリア人以外のギルドに参加する権利を得てしかるべきと主張する。しかしギルドは国内の影響や利益の喪失しかねないとそれを拒否した。しかし結局外国の情報を探ることができるという意見が説得的だったのか、メルカンテが勝利した。 // だが目立った成果が得られなかったため、のちにはあまり行われなくなる。 // //1474年1月1日、フェザーンでアブドゥッラーが死去した。この男は海賊経験が豊富で、幾度かイタリアの海岸も荒らしたことがあり、イタリア政府から賞金を懸けられていた男だった。しかし海に目を配りすぎたか、チュニスに圧迫され、マムルークの保護を求めるしかなかった。 // 息子のアフマド3世が後を継いだ。 // //1474年1月12日、チュートン騎士団のマクシミリアン1世、リガ司教国のヨハン7世と同盟。 // //・マリーン朝モロッコのスルタン、アブド・アル=ハック2世の死去とその生涯 // //1474年1月20日、モロッコの首都フェズでスルタンであるアブド・アル=ハック2世が75歳で死去した。 // アブド・アル=ハック2世は父アブー・サイード・ウトマーン3世の子として1399年に生まれる。1420年、父の暗殺とともにスルタンを継ぎ、継承戦争を豪族ワッタース家のアブー・ザカリヤーの支持を婚礼により取り付け勝利。 // 成長したアブド・アル=ハック2世はアブー・ザカリヤーを左遷。ポルトガルやカスティーリャと進んで対決した。 // 1455年には南方のタフィルラートとマラケシュを併合。モロッコの影響をさらに強めた。1466年にはワッタース家の人間を虐殺し、王権を強化した。 // 1471年、チュニスと同盟を組み、属国スースをしたがえポルトガル領セウタに攻撃を仕掛ける。戦線は有利だったが、ハック2世の体は衰え、ついに戦争を終えずにその生涯を閉じた。 // スルタン位は息子のハマダ1世27歳が継ぐが、タフィルラートではワッタース家の残党が反乱を起こし独立した。 // //1474年7月25日、イタリア元老院大砲技術で有名なメッシーナ大学に投資。砲兵の活用に関心を寄せる。 // //1474年10月12日、ラグーザでジョヴァンニ・ボスダリが不信任となり、新たにルイージ・ゴッツェ58歳がつく。 // ボスダリはあまりに反イタリア政策を貫いたため、親イタリア派の議員と対立していた。 // //1474年10月25日、イングランド国王ヘンリー4世、アラゴンのジョアン2世と同盟。 // //1474年11月29日、イタリアも痛手を被ったリヴォニア・デンマーク戦争は終結。 // //1475年1月13日、セウタの戦いでポルトガル・カスティーリャ連合軍、モロッコ・チュニス連合軍に勝利。 // //アラゴン王ジョアン2世の死 // 1475年2月15日、アラゴン王にしてナバーラ王ジョアン2世が73歳で死去した。 //王位は息子マルディデ・トラスタマラが12歳のため、王妃アレハンドラ・ガルメンディアが摂政として付いた。 // //1475年2月20日、スイス議会代表ヴァイサン・ルツが51歳で落馬、死去。 //選挙でヴィンツェンツ・ブリースが代表となる。この男はザルツブルクとバイエルンの戦争で活躍したスイス傭兵に参加していた男である。 // //1475年3月10日、カスティーリャ王国のファン2世、摂政政治で不安定なアラゴンと同盟。 // //ファセット加工技術の発見と宝石市場の拡大に伴う価値の高騰。 //1475年8月1日、コンスタンティノポリスのスルタンのトプカプ宮殿に通う宝石商が画期的な宝石加工技術を発見する。 // 砂塵を浮遊させた油を使うことによって加工の難しかったエメラルドやダイヤモンドをはじめとした宝石類をより美しく、複雑に加工できるようになったという。この技術はオスマン帝国に広まり、イタリア経由でその宝石を仕入れる欧州の貴族たちの間でも大きく需要が高まった。 // イタリアの商人たちはこの機を逃さず、宝石を大量に仕入れようと、奮闘した。 // //1475年10月20日、第二次セウタの戦い。 // モロッコは軍勢を立て直し、今度はスースとの連合でモロッコ北部の町を包囲していたポルトガル・カスティーリャ連合軍と対決。これを粉砕した。 // //1475年11月3日、ジェノヴァ共和国領ヤッファでアントーニオ・マリーア・ロンゴが59歳で死去。彼の治世はジェノヴァは小康状態を保った。イタリア統一以来、ジェノヴァは主な収入を奴隷と穀物の輸出に頼っていた。 // 新元首にはジョヴァンニ・アンドレア・ジュスティニアーニがついた。 // //・リトアニア大公ガジミェシュ・ヤゲウォの死去。 //1475年12月17日、リトアニア大公ガジミェシュ・ヤゲウォが48歳で病死した。 // ガジミェシュは1427年にリトアニアの首都ヴィルニュスで生まれる。 // 1453年にはエウフィーミー2世のノヴゴロド共和国の進行を防いだ。 // 1454年12月1日、モスクワの画策でリトアニアで大規模な貴族反乱がおこる。モージリウスではアジュオラス・ライスケヴェシス伯爵、トゥルヴァス・ヴォイルネ両州では2万3千もの反乱兵を従えリナス・リエトヴィス辺境伯が立ち上がる。結局鎮圧はできたが軍は消耗した。 // リヴォニア・デンマーク戦争ではモスクワ大公国とデンマークの軍勢とはまともに戦わず、ゆえに敗戦を期した。 // 晩年は関節炎に悩まされ、結局それがもとで死んだ。 // 大公にはアルギルダス2世が即位した。 // //1476年1月1日、イタリア第10回ダシリエレ。 // シニョリーアは国防長官マッテオ・サヴォイア、外務長官イシドロ・ヴィスコンティ、内務長官ジョルダーノ・バルツァーリである。国防大臣マッテオ・サヴォイアは元老院の中でも数少ないピエモンテ貴族の議員であり、共和国史上初のサヴォイア家出身の長官となった。 // サヴォイア家のサヴォワ公国はイタリアとは非常に嫌悪な関係であり、イタリアに対する数多くの陰謀も某国が関与している。マッテオ・サヴォイアはサヴォワ家当主フィリッポ2世と対立し、イタリアに亡命中だった。 // また、今回、ガスパル・コンタリーニが96歳の高齢のために普段は終身制のサン・マルコ財務長官が交代することとなった。新たに南イタリア出身のフランチェスコ・スパダフォーラが務めることになった。 // ガスパル・コンタリーニはヴェネツィアの名門コンタリーニ一門に生まれる。ヴェネツィアの習慣に従いアレクサンドリアで商業経験を積み、帰国後元老院入り。イタリア本土のヴェネツィア共和国としては最後のサンマルコ長官を務める。 // ローディ和平に伴い、コンタリーニ家はイタリア側につくことを決定。ガスパルもフランチェスコ・フォスカリに協力。イタリア共和国建国時にはサンマルコ長官職はそのまま残り、彼もまたそのまま長官を務めた。 // 長官職退任後、1478年5月10日、ヴェネト地方のコンタリーニ家の別荘で静かに息を引き取る。98歳という、まれなる長寿の後の死であった。 // 十人委員会にはフィリッポ・ディ・ナルディーニ、ルーカ・ディ・デルモッリ、ベネデット・テリオーニ、エマヌエーレ・ウンベルト・ツァナッティ、ジュリオ・カルボーニ、カルロ・マッテオ・インペリアーレ、元首補佐アントーニオ・カッセッティ、イシドロ・マリーア・ガンバーラ、リナルド・ルッフォである。 // //1476年4月4日、キプロス王ジャン2世・ド・ルジニャン、聖ヨハネ騎士団のデジデーリオ1世と同盟。 // アナトリアの同盟国にして盟友ジャンダル公国がイスマーイルの死とともにオスマンに併合され、ジャン2世は同盟国を探していた。適当な相手に聖ヨハネ騎士団がいた。聖ヨハネ騎士団はイタリアの庇護もうけていたので安心できる同盟相手国だ。団長のデジデーリオ1世もイタリアの貴族出身だった。 // //1471年4月1日、フェズ近郊でモロッコとスース、チュニスの連合運がカスティリア軍と激突。これを粉砕。 // //・イタリア商人のアレクサンドリア交易活躍によるイタリアとマムルーク朝の対立。 //1476年7月21日、マムルーク朝のスルタン・アリーの怒りの文章が元老院に届いた。 //アレクサンドリア貿易で大成功を収めていたイタリア商人ヴェネツィアのニッコロ・バルバロとその一派があまりにも影響力が強すぎて、ユダヤやアラブの商人をないがしろにしているというものである。 // またイタリアがアレクサンドリア航路保護のために22隻で行っていた捕鯨活動で、マムルーク朝の船が拿捕されたということも書いてあった。 // スルタン・アリー3世の要求としてはニッコロ・バルバロのイタリア帰国とユダヤ人商人との協力であった。 // しかし元老院はこれを否決。ニッコロ・バルバロはそのままアレクサンドリアにとどまり、万が一の時を考え、護衛兵がつけられた。22隻の捕鯨活動船団もそのまま海賊行為取り締まりに切り替えはしたものの、航海を続けた。 // スルタン・アリーは憤慨し、ユダヤ系商人に優先的特権を与えた。しかしスルタンの祖父ムハンマド2世のときからイタリア諸国とマムルークは非常に密接な関係であり、それだけでイタリアの商業独占権を取り消すことはできなかった。 // //・シエナにおける市民とガラス組合の対立。 //1476年10月14日、元老院に裁判所から決定の依頼が来た。シエナはガラス加工を主産業とし、生計を立てていた。しかし当のシエナ市民が作るものより、より生産的で価格の安いフィレンツェのガラス組合の商品ばかり売れてしまっていたため、シエナの職人たちは怒って裁判所に訴えた。 // イタリア高等法院は元老院に判決を委託した。ギルドとメルカンテが壮絶に争い、議論を展開したが、結局ギルド議員が勝利し、シエナはフィレンツェのガラス組合はこのまま生産を続けることとなった。 // シエナの職人たちは憤慨したが、ガラス製品の生産は増し、イタリアにおけるガラスの交易独占の地盤固めとなった。 // //1476年10月15日、ボヘミア王イージ・ス・ポテブラドが50歳で死去した。 // イージ・ス・ポテブラドはフス戦争に参加した穏健派のヴィクトリン・ス・クンシュタート・ア・ポジェブラトの息子として生まれた。アルブレヒト2世の後を継いだ息子ラディスラウス・ポストゥムスの治世、ボヘミア国内はオルジフ2世・ズ・ロジュンベルカ率いるローマ忠誠派と、イジー率いるフス派とに二分された状態だった。和解の試みが何度もなされた後、イジーは軍事的解決しかないと考えた。そこでフス派の牙城であり、自らの一族が先祖代々本拠とするリティツェの城のあるボヘミア北東部で、徐々に武装した軍隊を組織していった。1448年、イジーは9000の強兵からなる自軍をクトナー・ホラから首都プラハまで進軍させ、ほぼ何の抵抗も受けずに首都を掌握した。 // //結局内戦が勃発したものの、イジーは上手くローマ忠誠派の貴族達を敗北に追い込んだ。1451年、幼いラディスラウス・ポストゥムスの後見人を務める皇帝フリードリヒ3世は、イジーにボヘミアの行政権を一任することを決めた。同年、プラハで招集された議会はイジーに摂政の地位を差し出した。 // また彼はヨーロッパ統一構想を考えた。ドイツからフランス、イタリアを巻き込み、スペインを含んだ大連合である。ヨーロッパと特定しなかったが、各国の宮廷にそれとなく漏らしていた。しかしそれは全く実現不可能であった。 // 息子のイジ―1世が28歳でボヘミア王位を継ぐ。 // //・ジブラルタル戦役 //同日、セウタの和平が結ばれ、ポルトガル・モロッコ戦争が終結した。 // ポルトガルはレコンキスタの一環としてジブラルタルを挟んで北アフリカにセウタという町を所持していた。歴代のポルトガル王はこの地を基盤としてアフリカに進出しようと試みてきた。 // 当時のマリーン朝モロッコのスルタンアブド・アル=ハック2世はこの地をモロッコのものにすべく、トレムセンとの闘いを有利に進めていたハフス朝チュニスと従属国スースを従え、1471年10月5日、セウタに侵入、ポルトガル王国に宣戦を布告した。 // ポルトガル王ジョアン2世は同じレコンキスタを共にしたカスティーリャ王国のファン2世とこれに対した。 // 最初、ポルトガル・カスティーリャは統一戦線をなかなか築けなかった。総司令官の問題がその最たる例である。カスティーリャは陸軍では熟練である自国出身の司令官をつけたかったが、戦争の主導国であるポルトガルは王ジョアンが若いだけあって譲らない。 // その間にもイスラーム連合軍はセウタを包囲していた。セウタの要塞に立てこもるディアスとポルトガル兵たちはよく持ちこたえていたが、本国が全く動かないのに絶望し、1475年に降伏した。4年間にわたって攻防したポルトガル兵はイスラーム連合軍に皆殺しにされた。指揮官ディアスは全身の皮をはがれ、四肢を切断されジブラルタルに流されたという。 // これに憤慨したポルトガル・カスティーリャの両軍はそれぞれ司令官を立て独断でジブラルタルを渡った。 // 1475年1月13日、セウタ近郊まで進出したカスティーリャ軍司令官フェルナンド・デ・コルドーバはセウタに残っていたモロッコ・チュニスの防衛兵と対決した。最初はカスティーリャ軍が押されていたが、ディエゴ・カブラル率いるポルトガル軍が援軍として加わり、キリスト教軍4万3000、イスラーム側2万2000の壮絶な戦いとなった。激戦の末、キリスト教軍が勝利する。 // キリスト教軍は3月にセウタを落とし、再び入場した。これを受けてイスラーム側は本気を出し、チュニスのアブー・アル・ムーミン・バッシール率いる4万がセウタに侵攻した。 // 第2次セウタ近郊開戦でバッシール率いる4万とコルドーバ、カブラルの3万8000は戦った。歩兵においてスペインは優秀だったが重火器を率先的に取り入れていたモロッコのラクダ兵の前には太刀打ちできず、キリスト教軍は惨敗を期す。コルドーバとカブラルはこの戦いで戦死した。 // その後もモロッコのアブド・アル=ハックが死ぬもイスラーム軍は戦いを非常に有利に進めた。 // スースのズルフィカル・セッラーミ、モロッコのラスール・ハイダが加わった総勢3万がイグナシオ・デ・トレド率いる2万8000のカスティーリャ軍に対するフェズの戦いの勝利が戦争の勝利を決定的とした。 // セウタで講和が結ばれ、セウタは以後モロッコ領となった。しかしモロッコ軍不在中にモロッコの今まで征服していた領地が一気に反旗を翻していた。チュニスでも軍隊不在により多くの勢力が独立した。北アフリカは再び混とんに包まれた。 // TIME:"2019-07-08 (月) 20:33:12"