#author("2023-07-17T09:20:47+00:00","","")
[[AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興]]

**前回のあらすじのような何か [#mc1398dc]
なんか変なのが来た

&ref(z.png); いやちょっと待って、この顔はたしか百年前の大提督・・・

&ref(g.png); 姓が鄭か、それとも名が和なのかの?

&ref(w.png); ? 僕は熊小摁だよ。鄭和って誰?

&ref(diplomats.png);

&ref(t.png); 予想外の名前と明人らしからぬ無学の同時カミングアウト。

&ref(g.png); 先が思いやられるのー

**何があった [#n3e070ad]
&ref(g.png); 白状すると、新しい外交官の名前をそれらしいやつにしようと、正統帝がリセット((本AARはIronmanであるが、3か月ごとに生成されるオートセーブを使えば一瞬の操作ミスなどを取り消すことができる。その上ゲーム中断時点のデータも残るシステムを悪用すると、オートセーブから1日進めて中断、またオートセーブをロードというのを繰り返すと大量のセーブデータを内部ファイルをいじらずに確保できる。今回は上記のアホな理由により図らずもコンティニューポイントが生まれ、正直助かった。))((ほめられた行為じゃないことは分かってます・・・低スペックマシンで一回のリセットに5分くらいかかるから、無制限に使おうとは思っていません・・・申し訳ありません))を繰り返してのう・・・ようやく鄭其昌(Qichang Zheng)という名前が出たのを確認してから前回の締めをしたんじゃが、一年後に&ruby(オスマン){奥斯曼};帝国・&ruby(モスクワ){莫斯科};連合軍に袋叩きに遭うという大惨事が起きたのじゃ・・・

&ref(z.png); 結局うまくいった世界線では、鄭でも和でもない、そもそも人名らしくもない謎外交官とやっていくことになった、しかし前章の画像を差し替えるわけにも行かずと・・・

&ref(w.png); はい、その話はもうおしまい!朝貢・改革担当の熊くんが中華帝国改革を解説するよ!

&ref(t.png); あ、もうその名前で押し通していくのね。

**Make China Great Again [#o8518a9d]

&ref(seaban.png);

&ref(w.png); 現段階で開放しているCelestial Reformは2段階。Meritocracyを上昇させる「改土帰流(Introduce Gaituguiliu)」と、貿易効率を上昇させ外交官を追加する「海禁改革(Reform Seaban)((海禁を緩めていく方向の改革))」だよ。

&ref(t.png); それで新外交官として熊が来たってわけか。

&ref(w.png); 三帝冠プレイでは今後も外交官の数が結構変動するらしいよ。それはそうと、この改革はHRE改革と違って皇帝にしか効果が無いし、開放のために重い代償を払わなきゃいけないんだ。

&ref(z.png); 天命(Mandate)-50と安定度-1ですか。改革のたびに帝国がぐらつくのは面白いシステムですね。

&ref(g.png); こちらとしてはたまったもんじゃないが、まあ様々な特典を享受してもおるから仕方ないのう。

&ref(w.png); 後々はコア化コスト削減とか「新皇帝のADM+1」とか美味しい効果がそろっているけど、全部開放しても何か起こるわけではないよ。

**Great Chinaとは一体 [#hef45318]

&ref(weak.png);

&ref(g.png); リセマラの混乱のおかげで7年ほど記録が消し飛んでおる。この第三次&ruby(オスマン){奥斯曼};戦(1510年1月13日終結)も何時始まったのかとんと見当がつかぬ。何でも&ruby(ティムール朝){帖木儿帝国};の半分&ruby(サマルカンド){撒馬爾罕};ノードを吹き飛ばし、必死に&ruby(モスクワ){莫斯科};と関係改善して居た事丈は記憶して居る。

&ref(dogeza1.png);

&ref(g.png); &ruby(エディルネ){埃迪爾內};を占領したうえで土下座じゃ。

&ref(z.png); 今は覇権争いとかしている場合じゃありませんからね。&ruby(ポーランド・リトアニア){波蘭立陶宛};戦線はどうですか?

&ref(t.png); こっちはもう慣れたもんだ。mothballしていた要塞群に強襲を仕掛け続けて、ほんの5か月でこの有様。

&ref(mothball.png);

&ref(z.png); 一回壊滅させられてリセマラを覚悟したり、&ruby(オスマン){奥斯曼};に攻められて泣きついてきた&ruby(マムルーク){馬木留克};を蹴ったりと色々ありましたが、何とか目当てのプロビは確保しました。(1511年1月3日 - 1513年12月2日)

&ref(polanstronk.png);

&ref(w.png); ん?これで計画通りってことは、正統帝は&ruby(チュートン){条顿};骑士团を食うつもりなの?

&ref(g.png); うむ。ここまで来て今回の方針が定まったらしい。前回プレイでは&ruby(アフリカ){非洲};で&ruby(ポルトガル){葡萄牙};を殴って&ruby(イベリア){伊比利亚};半岛上陸、&ruby(フランス){法国};に変態した((次回、当時の状況を掲載する予定。))が、海軍の弱い今回は地中海を渡るのは難しい。((リセマラ中に一度試したが、オスマンの妨害で悲惨な目に遭った。おまけ参照))早々に&ruby(プロイセン){‘'普魯士''};に変態し、陸軍で殴る筋書きで行くぞい。

&ref(z.png); ではそのように。&ruby(スウェーデン){瑞典};独立戦争のおかげで&ruby(デンマーク){丹麦};や&ruby(モスクワ){莫斯科};が封じられていますから、とっとと併合しちゃいましょう。

&ref(teutonic.png);

&ref(w.png); 敵と同盟している朝貢国(&ruby(リヴォニア){立窝尼亚};骑士团)って、宣戦布告では×が付いているのに大抵裏切ってくるんだよね。

&ref(t.png); 実際裏切るかどうかは内訳を見れば確認できるし、どちらにしろ大した違いじゃねぇな。一気にバルト海まで突っ切って&ruby(リヴォニア){立窝尼亚};骑士团は早々に金で解決、&ruby(プロイセン){‘'普魯士''};化に必要だという&ruby(ケーニヒスベルク){柯尼斯堡};、&ruby(ヴァルミア){瓦爾米亞};(&ruby(Ermland){エルムラント};)、&ruby(ダンツィヒ){但澤};を獲得したぞ。(1514年3月20日 - 1515年11月11日)

&ref(prussia.png);

**長きにわたる自己との闘争の始まり(またの名を自作自演) [#t5837659]
バーンヒューヒュー

&ref(protestant.png);

&ref(w.png); お、早速&ruby(ヴァルミア){瓦爾米亞};が&ruby(プロテスタント){信義宗};に改宗したって。

&ref(z.png); ふう・・・びっくりしました・・・てっきり青州に放置していた宣教師が改宗に成功してしまったのかと。

&ref(t.png); そういや基督教に改宗する話はどうなったんだ?

&ref(g.png); それがじゃな、第3章で得意顔で紹介した「Catholic Zealotsを生成する方法」がなぜか使えなくなっての。何をしてもQi Separatistが消えなくなりおった・・・リセマラの中では1550年代まで行っても解決できなかったこともあったんじゃ。仕方がないのでOpen China系列イベント第四弾の発動を待つことに・・・

&ref(w.png); あれ、言ってるそばから青洲にCatholic Zealotsが出てるよ?

&ref(g.png); え・・・ええっ!?

&ref(hukkatu.png);

&ref(t.png); あ、分かったかも知れねぇ。調べてもそれらしい記述がさっぱり無いんだが((こんな重要なことが書かれていないはずがない。どこかでまた見落としてるに違いない。))、実のところ「天命が50を下回ると反乱タイプが固定される」仕組みになっているんじゃないか。おそらく反乱タイプを変えて進行度をリセットする手を封じ、反乱を起こしやすくしているんだろう。

&ref(z.png); そういやイベントで天命+5が入ったばかりでしたね。

&ref(g.png); ならば今が好機じゃ。プロビのUnrestは宣教師派遣で+6、不忠な&ruby(Shizu){聖職};Estate管理下で+5が入る。周りに戦争を吹っかけて戦争疲弊やOEを上げ、National Unrestを稼ぐのも手じゃ。
**アジアの覇者、ヨーロッパの聖人(またの名を財布) [#x873be25]

&ref(z.png); こちら東アジア戦線。&ruby(チャガタイ){察合台};・&ruby(ヤルカンド){葉爾羌};を2度の戦争で滅ぼし(1517年2月14日 - 1518年4月15日、1531年12月2日 – 1532年7月27日)、小部族に転落していた&ruby(モンゴル){韃靼};(1517年11月11日 – 1518年3月26日)、&ruby(カム){康區};(1527年6月15日 – 1530年1月17日)も併合しました。&ruby(オイラト){瓦剌};も併合を考えましたが、手っ取り早く朝貢させることにしました。

&ref(chagatai.png);

&ref(t.png); こちら西アジア戦線。&ruby(ティムール朝){帖木儿};(1519年11月3日 – 1520年7月19日、1535年1月2日 – 1535年8月7日)は無事に消滅した。((大部分を属国アフガニスタンに食べさせた。本来のアフガンの領域が最後の戦争でやっと回収できたのはご愛敬。))西半分を朝貢国の&ruby(ペルシャ){波斯};に、南部を&ruby(バルーチスターン){俾路支斯坦};に取られたが仕方ない。

&ref(timurid.png);

&ref(w.png); こちら欧州!第二次対明包囲網戦争だよ!(1530年1月16日)

&ref(coalition1.png);

&ref(g.png); ん?この面子でかかって来おるのか?1516年に&ruby(オスマン){奥斯曼};対策として&ruby(オーストリア){奥地利};((同盟後に単独でオスマンを攻めて負け、ハンガリーを放棄した上に皇帝位まで奪われた残念なエスターライヒ君))と組んでおるゆえ、数では負けん。11万対9万5000、これなら正統帝でも十分勝てるわ!

&ref(z.png); ・・・列強の数が偏っています。こちらが明奥の2国、敵は波1国。これでは敵側に介入される恐れがあります。(RoM要素)

&ref(w.png); あ、&ruby(オスマン){奥斯曼};が飛び入り参戦してきた。(1530年4月10日)

&ref(g.png); グッバイまた14年後!!!

&ref(coalition2.png);

&ref(coalition3.png);

&ref(t.png); まあポジティブに考えれば、&ruby(オスマン){奥斯曼};が参加してくれたおかげで敵対国を丸ごと停戦期間の彼方に追いやったことになるな。&ruby(オスマン){奥斯曼};については朝貢国を攻められる場合があるが。

&ref(g.png); 朝貢国攻めの対策はリセマラ中に確立済みじゃ。あらかじめ&ruby(オスマン){奥斯曼};に100近いスパイ網を張っておくと、下画像のように近々侵攻する先が把握できるので対象国を朝貢破棄すればよい。スパイが露見して巻き込まれるのを防げなかったならば、参戦したうえで即刻土下座。貴重な天命を無駄にせずに済む。

&ref(z.png); 毎度ながらチキン戦法の連続ですね。しかしこれ以降の明の改宗運動期間中、なぜか&ruby(オスマン){奥斯曼};は静寂を保ってくれました

&ref(something.png);

&ref(w.png); もう戦力にならない&ruby(オーストリア){奥地利};は用済みだね。未だに&ruby(ロシア){俄罗斯};になれない&ruby(モスクワ){莫斯科};((朝貢国にすると勝手に朝貢国リャザンを食べてロシア化するが、同盟国にすれば枷にはめられる。ロシア化させたければ、好きな時にリャザンを朝貢破棄すればよい。))、そして珍しく&ruby(オスマン){奥斯曼};をEnemy扱いしている&ruby(フランス){法国};と同盟を組み直したよ。

&ref(z.png); 最終的に欧州征服する際には、この両国がラスボスになるでしょう。その前にいつ&ruby(ロシア){俄罗斯};を生み出して&ruby(シベリア){西伯利亚};植民させるかが一つの問題ですがね・・・

**宮廷のドロドロ [#d4e5eb8e]

&ref(xiaoren.png);

&ref(t.png); 時代遡って1518年6月。おなじみXiaoren?がポップしたぞ。

&ref(g.png); 戴基(0, 4, 6)に代えて(3, 5, 1)じゃと・・・?なぜ合計値をわざわざ下げねばならん、ということで却下じゃ。

2年後

&ref(w.png); 名君成化帝が身罷られたよ。(1520年9月20日)この能力で享年59歳、在位32年ってのは驚異的だね。

&ref(zaiji.png);

&ref(z.png); 次の帝は弘治帝戴基ですね。・・・あれ?この皇太子、見覚えがありますね。

&ref(g.png); (3, 5, 1)が(3, 4, 1)に落ちたとはいえ、この似方は同一人物としか思えんのう。朱雄英、この子こそ嗣子でありながら反朱戴基派に担ぎ上げられた「貴族」だったというのか・・・!

&ref(z.png); Xiaoren?イベントは脳内補完のためには素晴らしい要素ですよね。

この会話は「おまけ」に入るものだと誰もが思っていた。
そう、あの衝撃的な事件(RP的に)が起こるまでは・・・

**第一次泰平楽土の乱 [#s7e8ec65]

&ref(revolt.png);

&ref(g.png); よぉし!ついに青洲でCatholic Zealot蜂起じゃ!(1531年4月)

&ref(w.png); たった2プロビの&ruby(カム){康區};戦に3年かけ厭戦を溜めたり、進行度を高めるためだけに&ruby(キエフ){基輔};をState化したりした甲斐があったね!

&ref(chart1.png);

&ref(z.png); 現段階で&ruby(カトリック){天主教會};の割合はわずか2.5%。ここから一つずつプロビを塗り替えて、支配的宗教に持ち上げなければいけません。

&ref(t.png); 北京を占領されてしばらくすると反乱が「成功」してしまい、占領地域のAutonomyが上がるだけで終わってしまう。近郊に軍を待機しておいて、反乱軍占領後すぐに取り返せるように準備しておかなけれb

&ref(xiongying.png);

&ref(g.png); 弘治帝崩御・・・(1533年5月7日)

&ref(w.png); えっうそ・・・絶賛北京包囲中じゃない。

&ref(t.png); 禁軍ハ君ヲ守ル能ハザル己ガ身ヲ恥ジ・・・何もしない。

&ref(z.png); デスヨネー

&ref(g.png); 正徳帝雄英(3, 4, 1)が即位し、朱瞻埏(4, 4, 4)を立太子。年からして子ではないが、正徳帝立太子の経緯から弟とも考えられんのう。能力が正徳帝の祖父成化帝に似ておるし、従弟ということにしよう。成化帝には及ばぬが、バランスの取れた名君の登場が期待できるのう。

&ref(govi.png);

&ref(t.png); 北京は城壁破壊・強襲ですぐに奪還したが、肝心の反乱軍が突然&ruby(オイラト){瓦剌};方面に走り出したぞ。((訓練された明プレイヤーは、たとえ上の画像にプロビ名が無くとも甘粛回廊を見ただけで位置を特定できる。))明領の外は占領しないようだが、何をするつもりだ?

&ref(oirat.png);

&ref(w.png); あっ・・・兵士の画像が消えた!

&ref(g.png); それは当章から導入した軽量化Mod“Fast Universalis”の仕業じゃ。((海や首都をはじめとしてグラフィックを簡素化するMod。筆者のPCは常時5速でプレイするような低スぺで、少しでも改善しようと導入してみた。効果は無いわけではないくらいのレベル。))それよりも大変なことをしてくれたのう・・・このままではCatholic Zealotが消滅してもう一度沸かせるのが困難になるんじゃ。

&ref(z.png); 残っている反乱軍の占領地を放置すればそのうち新手が沸くのでは?

&ref(g.png); 中華帝国において、それはなかなか難しい問題なんじゃ。こういう時に限って朝貢国が従属国家面して反乱鎮圧にやってくるからの。

&ref(w.png); 手下に鎮圧されたくなかったら、親分が鎮圧するふりをしていればいいんじゃない?

&ref(g.png); ふむ。一理あるのう。高歓、特務命令じゃ。残っている反乱軍占領地域3プロビに軍を置き、「占領しそうになったら一瞬離脱するそぶりを見せ、また元に戻る」のを繰り返し、一か月弱ごとにひたすら占領進行度をリセットしつつ''占領行動''をし続けるのじゃ!

&ref(t.png); 何だそれは!正統帝も「ここまでフラストレーションの溜まるEU4プレイはなかなかない」ってぼやいてたぞ。

&ref(z.png); 一瞬でも目を離したらすべてが水の泡ですよ。頑張って。

&ref(occupation.png);

こうして明史上最大の偽装作戦(笑)が始まった。(1535年4月24日)

**官製反乱 [#ed21499f]

&ref(g.png); さて、こちらもできる限り早く新手の反乱軍を出さねばならん。高歓と正統帝の集中力が切れる前にの。

&ref(40.png);

&ref(g.png); 反乱進行度が40%以上になると、そのRebel Factionが活動しているプロビの反乱タイプは固定される。高Unrestの異教プロビに次々に宣教師を送り、反乱タイプをZealotに塗り替えることもできるんじゃ。

&ref(z.png); Unrestを-6まで下げるという話は?

&ref(g.png); よう分からんが、実際Unrest+17のプロビに宣教師を送ってもZealotsが発生したのう。謎じゃ。

&ref(spread.png);

&ref(w.png); Spread of Christianity発生。&ruby(Lingyun){凌雲};と&ruby(Guiyang){貴陽};が&ruby(カトリック){天主教會};に改宗したって。(1537年10月19日)

&ref(g.png); これじゃ。Open China系列イベント第4弾、これを待っていたんじゃ。

&ref(z.png); The arrival of the Jesuitsで&ruby(カトリック){天主教會};を容認した後、広西、西広東、東広東の中でランダムの2プロビに&ruby(カトリック){天主教會};が発生するイベントですね。しかし今となっては&ruby(カトリック){天主教會};が少し増えただけのような気もしますが。

&ref(g.png); 重要なのは立地じゃ。前回の青洲のように北方のプロビに反乱軍が発生すると、北京を目指したり北方を彷徨って大国に潰されてしまったりする。南海に近い広西および澳門から反乱軍が発生すれば高確率で儒教プロビを占領してくれるし、高プロビの江南地域がひっくり返るのも期待できるからの。

**第二次泰平楽土の乱 [#k4eee325]

&ref(t.png); うう・・・反乱はまだか・・・1か月ごとにピコピコ軍を動かす苦痛から救ってくれる反乱は・・・やった!ついに反乱軍第2弾だ!

&ref(wuding.png);

&ref(z.png); ・・・&ruby(Wuding){武定};に。(1538年11月)

&ref(g.png); また北京周辺が荒らされるのを待つしかないのかの・・・

&ref(w.png); この後の流れは年代記後半で詳しく述べるよ。ここまで反乱軍の動きを実況して応援するAARもなかなか無いだろうね。

&ref(g.png); この頃は反乱軍の一挙一投足に一喜一憂して、本当に他の事に目を向けておらんかったからのう。

**基督の勝利 [#g357dcc2]

10年以上の時が流れた。何だかんだで反乱軍は南海に到達、味方を増やしながら元気に中国を荒らしていた。

&ref(t.png); 長々とワガママなZealotに振り回され続けてきたが、何となくその進軍する性格が分かったような気がするから箇条書きでまとめるぞ。ただ各項目の優先順位は分からなかった。

-対象宗教プロビの一つを目標に定めて占領に向かう。
--どんなに遠くても、一度目標が設定されると一直線に突き進む。大陸横断も厭わない。
-正規軍が反乱占領地を解放しようとした時、また解放完了した時、目標への進行を中断してそのプロビの再奪還に向かう傾向がある。
-対象宗教プロビに宣教師が派遣されると、そこを新たな進軍目標に設定する傾向がある。
-目標に向かう進軍路は、途中で他国領を通ろうが正規軍の巨大駐屯地であろうが、常に最短経路をとる。またその経路上で「反乱発生国」のプロビを通る際、そのプロビの宗教に関わらず占領を試みる。

&ref(g.png); ところで、第3章で「もう一つ」を断念する、と言ったの。あれは嘘じゃ。

&ref(t.png); 前言撤回を撤回するのか・・・

&ref(g.png); 正統帝いわく、そのもう一つ、Open China系列イベント第五弾が「存在している意味を理解していなかった」ことに気づいたそうじゃ。詳しくは次回に回すが、反乱改宗と「もう一つ」は両立する、というより本来組み合わせるべきものじゃったんじゃな。

&ref(z.png); ※実のところ至極当たり前のことを言っているのですが、正統帝が受けたショックの大きさを鑑み無駄話を続けております。

&ref(g.png); どちらにしろ、目指すのは&ruby(カトリック){天主教會};をDominant Religionにする、という事に変わりない。既に儒教や&ruby(イスラーム){伊斯兰};を抜いて3割近くのシェアに達しておるが、まだまだ道は遠・・・

&ref(christianity.png);

&ref(g.png); ・・・ふぁっ!?

→[[NEXT>AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興/第5章 プロイセン中華帝国?]]

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**おまけ [#hd82a709]

***リセマラに至った諸事情(自虐ネタ) [#n0c0d19d]
&ref(z.png); 色々ありましたねぇ・・・&ruby(オスマン){奥};&ruby(ロシア){莫};連合戦から始まって、平均より5も低い軍事レベルのまま毎月-100ダカットの赤字に陥ったり・・・三下の&ruby(バフマニー){巴赫曼尼};に各個撃破された上で包囲網結成コンボをくらったり・・・AE管理のために&ruby(ダンツィヒ){但澤};を解放独立させたらHREに加入されて属国化できなくなったり・・・

&ref(t.png); 天命0で&ruby(オスマン){奥斯曼};帝国と正面衝突して国軍まで0になったり・・・&ruby(ユスティニアヌス){查士丁尼};を気取って&ruby(カステラ){卡斯蒂利亚};に全軍で遠征したら&ruby(オスマン){奥斯曼};海軍に封じられて中国本土が緑色に染まったり・・・

&ref(g.png); オオオ・・・やめい、やめるんじゃ・・・1 October 1503の日付を繰り返した記憶など思い出しとうない・・・

&ref(w.png); さすがの正統帝クオリティ。世界線の潰し方が雑。

***陽明学 [#d8bcdcd6]

&ref(yome.png);

&ref(w.png); 何これ。ネオ儒教だって。(1513年12月18日)

&ref(t.png); 陽明学イベントだな。よく分からんが王陽明は超絶優秀な将軍(史実)だから、ぜひ受け入れようじゃないか。

&ref(z.png); 残念ながらそういった効果は無いみたいですよ。異端寛容度が上がるようですけど、儒教にとっての異端って何です?

&ref(g.png); 東方宗教グループ、すなわち仏教と神道じゃな。今はそこまで必要ないが、基督教に改宗した際にはお世話になる効果じゃろうの。

***などと供述しており [#q3430885]

&ref(z.png); &ruby(オスマン){奥斯曼};が&ruby(ポーランド){波兰};に宣戦布告したようです。

&ref(t.png); このままでは隣接されて天命に大きなペナルティが付いてしまうな。どうすればいい?

&ref(w.png); はいはい!奪われちゃマズいところにInterestをつければ、明に睨まれるのを恐れて&ruby(オスマン){奥斯曼};も取りに来ないと思います!

&ref(t.png); (・・・?)

&ref(moldavia.png);

その後

&ref(z.png); Interestをつけていた2プロビだけ&ruby(オスマン){奥斯曼};に取られました。

&ref(g.png); そりゃライバルの目標をくじくのは基本じゃから当然じゃろ・・・もとより&ruby(オスマン){奥斯曼};には舐められきっておるし。仕方ない、&ruby(ザポロージャ){扎波羅熱};を属国作成して緩衝国にせん。

&ref(w.png); ふえーん

***天皇海山链((天皇海山列)) [#jdff7ecf]

&ref(emperial.png);

&ref(z.png); 今更になって気づいたんですけど、太平洋の一角、&ruby(Emperor Ridge){天皇海山链};がぽつんと可視域になっているんですね。

&ref(g.png); その海域とワープで行き来できるわけでもないんじゃがのう。おそらく、ネタとして&ruby(リーベン){日本};の可視域になっているのを中国も共有しているんじゃろうな。

***Institution [#te3aac07]

&ref(w.png); 1533年5月24日、&ruby(Renaissance){文艺复兴};と&ruby(Colonialism){殖民主义};を一気に受容したよ。

&ref(g.png); 成化帝のおかげで君主点が余り過ぎて、結局&ruby(Colonialism){殖民主义};も単独で自力受容してしもうた。行き当たりばったりで済まぬが、第2章冒頭の話は忘れておくれ。

&ref(t.png); 1550年1月、時間通りに&ruby(Lund){隆德};((まだ見えない範囲だが、多分もうスウェーデン領になっている。))で&ruby(Printing Press){印刷机};が発生したぞ。最後の自力受容はどこに君主点をつぎ込もうか。

&ref(z.png); 少しでも&ruby(カトリック){天主教會};の割合を増やしたい所ですから、第二次泰平楽土の乱の発祥地&ruby(Wuding){武定};を開発しましょう。1552年9月11日にプロビ受容が終わりました。

&ref(press.png);

&ref(t.png); しかし&ruby(カトリック){天主教會};地域で発祥とか、年代記のネタになりそうなことを''その時点では無意識に''やるのもまた正統帝クオリティだよな。

**問題児 [#h20c2cc1]

&ref(z.png); 今回、2回ほどオスマンと無関係のところで朝貢国からの参戦要請を拒否しました。

&ref(t.png); またなぜに?

&ref(w.png); &ruby(ミラノ){米蘭};と&ruby(マントヴァ){曼托瓦};がやらかしたんだよ。

&ref(rejected.png);

&ref(g.png); 勝手に拡張して包囲網組まれた・・・じゃと?んなもの朝貢国放棄するなりk単位で賠償金払うなりして自力で解決せんかい!

&ref(z.png); それは無茶ですよ。しかし明が好き放題に食べまくっている一方で、一地方を統一しただけの中小国がフルボッコにされるのは少し可哀そうです。

&ref(w.png); まあうちらには関係ないもんね。天命スタック増やしててよかった((朝貢国からの参戦要請を拒否すると対象国からのOpinionが暴落し、天命-10のペナルティが付く。))。(真顔)

**年代記 [#s4943670]
''成化帝''の快進撃は止まらない。中華皇帝として自身2度目の&ruby(ワルシャワ){华沙};入城を果たすと、勢いそのままに北進、かつて蒙古と戦った基督教騎士団を撃滅し、&ruby(バルト){波罗的};海を睥睨する者となった。その一方では西の帝国を名乗る西戎とも誼を通じ、武一辺倒になることを防ぐ器量も持ち合わせていた。
とはいえ晩年になっても彼は常に戦場に居場所を求め、中央&ruby(アジア){亚洲};・北辺の憂いを完全に断ち切った末、中華への帰途で崩じた。即位後ついに一度も北京を望むことなく、草原を駆け回った彼を、彼の先祖でもある英雄&ruby(チンギス・ハン){成吉思汗};になぞらえぬ者はいなかった。

皇帝不在の北京は、陰謀の坩堝と化していた。粗暴な振る舞いが目立つ皇太子''朱戴基''が国政を代理していたが、各地に急速に広がる基督教の処遇について一切対策を講じることが無かった。そのうちに江南出身の官僚の間に基督教が広まり、ついに四川出身の将軍徐貫などは重臣の地位にあって信仰を口にすることを憚らなくなった。皇太子につく旧支配者階級と対立を深めた基督教徒勢力は皇太子の一人息子''朱雄英''の擁立を試み、一度は失敗するも、2年の潜伏を経て''成化帝''崩御と共に復活、''朱雄英''の立太子に成功して、新帝・''弘治帝朱戴基''の取り巻きに比肩する力を持った。

''弘治帝''の治世は、''成化帝''の遺産を食いつぶしたに過ぎないと酷評される。西方の超大国&ruby(オスマン){奥斯曼};帝国の圧力に幾度も屈して威信を損ない、最終的に''成化帝''が築いた欧州政策は破綻する。最終的に青州で基督教徒の大反乱が発生すると、明軍は出動を拒否する。2万を超える、「''泰平楽土''」を名乗る反乱軍が北京を包囲した。その混乱の中で''弘治帝''は基督教徒の宦官に暗殺され、北京の城門は民衆の手で開けられた。紫禁城内では基督教徒弾圧を試みた大臣、官僚、宦官に対する大虐殺が繰り広げられる一方で、民衆は反乱兵をもてなし自発的に教会を建て洗礼を受けるなど、円満に新主を迎えた。その異常なほどの円滑さには、当然裏があったと考えて然るべきであろう。

皇太子''朱雄英''は、皇帝弑逆の報を副都南京で聞いた。立太子の経緯から父帝に疎まれ南方に飛ばされていた彼は、確かに名君ではなかったが、能臣を見抜き用いる術と、時局を見極める眼は持ち合わせていた。喪をすっ飛ばして''正徳帝''として即位すると、北京へ向かう途上で従弟の皇太子''朱瞻埏''と連名で''淮安勅令''を発布(弘治帝の元で中書省が復活していたが、この勅令における中華的体裁を無視した画期的な形式・書式に対応できず、再び形骸化した)、儒教・道教に次ぐ形で基督教を公認する。北京の民衆はこれを良しとして再び簡単に開城して泰平楽土の首領の洪''禿''全を追放、反乱軍中でも目的を失った農兵が次々と脱走して、泰平楽土は事実上崩壊した。洪禿全は絶望して「&ruby(ケレイト){克烈};に帰る」と述べ蒙古高原に侵入、&ruby(オイラト){瓦剌};の本営に遭遇して全滅した。&ruby(オイラト){瓦剌};の長&ruby(オシュ・テムル){阿失帖木儿};は、父が明に朝貢を始めたのを快く思っていなかった経緯もあり「漢人の&ruby(ゴミ捨て場){垃圾堆};にされる謂れはない」と叫び、洪禿全らの遺灰を火砲に詰めて北京に向け発射したという。

確かに''正徳帝''は基督教徒に支配されていた。しかし後世発見された資料からは、陰謀家として重臣から下層民に至るあらゆる階級を操っていた恐るべき一面が明らかとなりつつある。儒学者を弾圧したうえで基督教徒と対立させ再蜂起を誘ったり、澳門の基督教結社にスパイを送って広西の正一教徒地域へ宣教するよう仕向け、成功させたりするなどといった策動は、''正徳帝''と僅かな近臣のみが認知していた。それでいて、&ruby(アジア){亚洲};から欧州にいたる広大な大陸がすべて彼の思惑通りに動いたのは驚異と言える。
その目的は、不可避となった基督教革命を乗り切り、自らの地位を除くすべての体制の大変革を実現するという、今日から見ても狂気的な野望の賜物であった。

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さて、ここで宮廷を離れ、民草の間に生まれた英雄の話をしたい。先の第一次泰平楽土の乱の発生地・青洲の北、武定に、洪禿全の遺児とされる童がいた。この神童・・・洪秀''金''は、姿かたち、声音、そして能力に至るまで父の生き写しのようであると宣伝された(実のところ洪禿全の顔を覚えているものは皆無であり、今に伝わる彼の肖像画は洪秀金の顔をもとにしている)。先の戦乱に敗れた過激派は、まだ十を過ぎたばかりの少年のもとに集まり、再決起の算段を始めた。そして僅か3年の空隙をおいて、1538年11月、''第二次泰平楽土の乱''が勃発する(この短期間に前回を上回る3万の反乱軍が結成された点、''正徳帝''らの暗躍があったことは疑いない)。

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泰平楽土軍は前回同様に北上するが、洪秀金はなぜか北京を避けて黄海を押し渡り、対岸の&ruby(Yongping){永平};に上陸した。&ruby(オイラト){瓦剌};の件を聞いていた&ruby(コリア){朝鮮};は独自に討伐軍を派遣したが、''毛文永''将軍率いる明軍と合流した直後に撤退を始めた。

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この1542年11月の出来事は朝鮮史上最大の謎「&ruby(Ningyuan){寧遠};回軍」として知られるが、近年の研究で、明から突然多額の軍税徴収を通告された&ruby(コリア){朝鮮};政府が怒り、遠征軍に撤退命令を出していたことが判明している。

危機が去ったことで、泰平楽土軍の士気は上がった。父のように無駄に北京を攻めず、不敗を貫いたことで洪秀金のカリスマ性はいやがうえにも高まった。立ちふさがる&ruby(ノガイ){那海};軍・&ruby(クリミア){克里米亞};軍を撃破し、父の足跡を追って&ruby(オイラト){瓦剌};に侵攻、そのまま当時&ruby(カザフロード){哈萨克之路};と呼ばれていた中央アジアを西進し始めた。二代にわたるこの行動の理由は明らかになっていないが、遥か西方の&ruby(キエフ){基輔};へ基督教の同胞を求めに行ったものだという説が有力である。

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そんな泰平楽土軍の大きな転機となったのが、1548年7月にもたらされた「北京周辺の泰平楽土が破壊され、基督教徒が弾圧されている」という情報だった。

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これをもって洪秀金は中国帰還を決意、蒙古高原を荒らしつつ&ruby(アルシャー){阿拉善};に再侵入して内蒙古を東進する構えを見せた。しかし1549年12月、&ruby(ハラ・ナリン・ウラ){狼山};まで進軍したところで、情報をもたらした使者が皇帝のスパイだったことが発覚する。北京周辺で泰平楽土の勢力が取り除かれたのは確かだが、基督教の弾圧については完全なデマだった。この不可解な事実に泰平楽土幹部は困惑しつつも北京進軍を主張したが、洪秀金は「皇帝が刈り取られる時は未だ来たらず」と述べ進路を変更、一路&ruby(マカオ){澳門};への進軍を開始した。

洪秀金の名を世界に轟かせたのは、1553年10月から12月16日まで続いた「&ruby(Chonqing){重慶};の戦い」である。邪教徒の大反乱軍が南方へ進軍中であるとの報を受けた大越と&ruby(ペグー){勃固};は恐怖にかられてそれぞれ明領へ越境、泰平楽土に抑えられていた一大拠点重慶を落とし、反乱を分断しようとした。先に到達した大越軍1万5000が入城を果たした直後、&ruby(Yuanling){沅陵};から引き返してきた泰平楽土軍3万1000が到着、甚大な被害を出しつつも、山岳にこもる正規軍を僅差で追い出すことに成功する。そしてその''翌日''、無傷の&ruby(ペグー){勃固};軍17万が重慶に到着する。今度は山岳を背景にしているとはいえ、崩壊寸前のほぼ同数の反乱軍が勝てる見込みは無い・・・そこに、奇跡が起きた。

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泰平楽土軍は2か月にわたり戦い続け、ついに2つの大国の本軍を撃退した。
''正徳帝''は、この報告を受けた日の隠し日記に一言こう記している。
''「我祈了、他克了。」''
すなわち、''正徳帝''の人為すら、この天命がもたらした奇跡に一切かかわっていなかったのである。

1555年1月、ついに泰平楽土は青洲に次ぐ聖地、&ruby(マカオ){澳門};に入城する。そこから一旦西に転じて&ruby(Guiyang){貴陽};の同胞を解放してから澳門に帰還する。この間に&ruby(Waichow){恵州};の道士勢力((傭兵1連隊))が澳門を落としていたのだが、1556年5月、洪秀金軍が近づくと澳門市内で新たな泰平楽土軍が決起、反乱は総勢5万強の大軍勢となった。

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その後の泰平楽土軍は縦横無尽に中華を駆け巡り、孔子像を打ち壊しては教会を建てていった。

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洪秀金の進路

・・・しかし、この大騒乱''第二次泰平楽土の乱''は、たった2通の「同時に発された」文書によって終焉を迎える。その結末を最初から心中に思い描いていた人間は、全世界に2人しかいなかった。

1通は、1560年8月1日に''正徳帝''が発した'' 雄英勅令''(ジェンデ勅令)である。''「中華皇帝の基督教洗礼」''と''「基督教の『国教』化」''をうたったこの勅令は、基督教徒の重臣ですら発布を知らされていなかったが、既に泰平楽土軍の元で改宗していた多くの人民からの歓迎が非難を上回った。
もう1通の武定発の文書は、「中国最初の活版印刷物」とも呼ばれるが、それはたった一文が記された「ビラ」だった。「臣秀金」という書き出しに始まり、執筆時には知られていないはずの皇帝改宗を寿ぎ、終わりに「''朱&ruby(Changluo){常洛};''」と署名されているという、怪文書そのものである。しかしこのビラが数万枚、黄海沿岸の各市にばら撒かれた3日後、泰平楽土の首領・洪秀金失踪の報が流れた。

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