[[AAR/赤き鷲はドイツ統一の夢を見るか?]]

ザクセン地方への請求権を捏造し侵攻準備を進めるブランデンブルク。
狙う先はアンハルトかヴィッテンベルクか。
外交画面をチェックしてみると、アンハルトはハンザ同盟とともにブランデンブルク包囲網を形成していた。
ハンザ同盟はこの頃メクレンブルクを併合していたため、ブランデンブルクと国境を接していた。
どうせ戦争するなら、バルト海への出口であるメクレンブルクを取っておくのも悪くないと考え、
ついでにハンザ同盟へ外交官を派遣、メクレンブルクの請求権を捏造させた。

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かくして準備は整い、1457年12月1日をもってアンハルトへ宣戦布告。
ブランデンブルク連合にはオーストリア、デンマーク両国が参戦し、属国軍も参戦。
一方アンハルト連合軍はハンザ同盟と東フリーセンのみ参加。
圧倒的な戦力差であり、滞りなく領土を奪えると・・・思っていたのだが。

まず1万のブランデンブルク軍を2千と8千に分け、飛び地戦線であるアンハルト攻略に2千を振り分け、
残り8千でもって北方のメクレンブルク攻略にあてることにした。
敵方の戦力としてはハンザ同盟軍が一番大きかったのだが、オーストリアの援軍が撃破してくれた。
アンハルト州は6月に攻略を完了し、2千の兵もメクレンブルクへ向かわせる。

ハンザ同盟の領土は味方のの軍によって包囲されていたため完全に油断していたのだが・・・
おそらく西に退却していた1万2千のハンザ同盟連合軍が態勢を立て直し、
戦線を迂回してメクレンブルクのブランデンブルク軍本隊に襲い掛かってきた。

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&size(12){リューネブルクから進行してきた敵軍につかまってしまった。};

結果、ブランデンブルク軍は敗走、壊滅・・・またも全軍を失った。おげええええ
今回この手の失敗が多いぞ!
同盟軍は健在のため戦況に大きな影響は無かったが。厭戦がとんでもないことに。
そしてこれが割と致命的なミスだったのだ・・・。

兵士を再徴集しつつメクレンブルクを攻略、オーストリア兵2万の助力を得て
ハンザ同盟軍主力を排除したあとで和平締結の使者を派遣。

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ブランデンブルクはアンハルト、メクレンブルクを獲得し、賠償金を得た。軍隊の再建に使おう。
ついでにトレードパワーも奪っておいた。1459年7月のことである。
一気に2州を奪い、皇帝の返還要求も無視したため、スネたオーストリアに同盟を切られてしまった。


軍を再建しつつ厭戦が下がるのを待っていると、獲得領で同時に反乱が発生してしまった。
その数メクレンブルクで1万1千、アンハルトで1万2千。
とっとと獲得領のコア化を行っておけば良かったのだが、君主パワーをケチったためこんなことになってしまった。
そして悲しいことにブランデンブルクのマンパワーはこの時点で2千程度しかなかったのだ…。

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ラッキーなことに、メクレンブルクの反乱軍はハンザ同盟への攻撃に向かうザクセン軍が始末してくれた。
アンハルトの反乱軍は自力で鎮圧することが出来たが、結構な損害が出てしまい、ただでさえ少ないマンパワーをまた消費。
そしてこれからが本当の地獄だったのだ。

1463年5月、再びアンハルトで反乱が発生。数1万1千
1463年9月、ブランデンブルクで異端派が反乱。数8千
1464年4月、アンハルトで大規模な反乱。数1万8千
さらにポツダムで王位僭称者の反乱。数8千

反乱祭りだあああああああ┗(^o^)┛wwwww┏(^o^)┓ドコドコドコドコwwwww


しかし笑い事ではない。
とっくにマンパワーは底をついており、まともにぶつかっても返り討ちは必定。
動くに動けずにいるうちにアンハルトとポツダムが反乱軍に奪取されてしまい、
目の前が真っ暗になりかける。政権転覆・分離独立の未来を覚悟・・・。

#ref(5.jpg)
#br
#ref(6.jpg)
&size(12){ブランデンブルクの兵力はボロボロ};

が、アンハルトの反乱軍は幸運なことに隣国ザクセンとテューリンゲンへ移動。
現地の正規軍が鎮圧してくれた。ありがてえありがてえ。
王位僭称者の反乱は鎮圧に成功し、当座の危機を凌ぐことになんとか成功。
完全鎮圧までに2年もかかってしまった。また、マンパワーは相変わらずすっからかんである。

1467年にAdaptabilityを採用し、コア化コスト-25%ボーナスを得たので、やっとコア化に着手。
マンパワー増強のため施設建設も始める。

が、ここでまたメクレンブルクで1万人規模の反乱が発生・・・!
ブランデンブルク正規軍は5千人程度しかおらず、借金して傭兵を雇い、鎮圧する羽目に。

1469年には君主フリードリヒ2世が死に、ジークムント2世が登場。
能力は6/3/3と結構いい感じなのだが、クレームがWeakだったので僭称者反乱が発生、数8千。
さらにメクレンブルクで8千人規模の反乱。

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ああ^~もう勘弁しちくり~^^^^

結局反乱の鎮圧だけで10年を消費してしまった。
1470年に入ってやっとコア化が完了し、OverExtensionによる全国反乱率も低下した。
マンパワーは相変わらずひっくいまんまだが・・・これも回復に時間がまだまだかかる模様。
これではドイツ統一など夢のまた夢ではないか。

教訓:マンパワー管理を怠ると死ぬ

唯一良かった点は10年間国内鎮定で忙しく対外拡張できなかったため帝国内での外交関係が改善したことだろうか。
いつの間にか近隣国によるブランデンブルク包囲網も解消されていた。

続く

#br
その頃世界は

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・オーストリアが勢力を拡大
・マンスターがアイルランドを統一
・グラナダ滅亡 など。

ブランデンブルクの初期Heirが君主より年上なのはなぜなのか。

TIME:"2013-09-20 (金) 06:36:45"

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