#author("2020-02-20T15:02:46+09:00;2020-02-17T02:30:58+09:00","","")
#author("2020-02-20T15:44:36+09:00;2020-02-17T02:30:58+09:00","","")
[[AAR/砲兵は戦場の神である]]

鎖を引けー! 砲を並べ鎖で繋げよー!
お前達、一人々々が砲台となり、鉄の力で戦友との絆を作るのだ。
そうすれば誰にも打ち破る事の出来ない、無敵の部隊が誕生する。

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*技術LV20 Swivel Cannonの段階 [#w370d708]


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CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/7Nr6evO.png)aa;|

1654年 財政規模と軍事状況がこちらです。

領土についてはアフリカと新大陸で拡大しただけなので省略。
全ての砲兵を傭兵へと置き換えても、問題の無い財力を確保しております。

軍事強化はプロテスタント化、富豪・攻勢アイディアをコンプリート。
経済-攻勢 のポリシーによりArtillery Combat ability +10%の補正を受けています。


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CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/kUCQ2FT.png)aa;|

お相手はまたもやマムルーク。
左から順に開戦1日目・3日目・6日目です。

1日目 まず火力フェイズで前列配置の砲兵による斉射。相手の士気を2割り削りました。あまり効いていないような?
1日目 まず射撃フェイズで前列配置の砲兵による斉射。相手の士気を2割り削りました。あまり効いていないような?
3日目 相手の士気を6割り削りました。効果がなさそうに見えたのは別に気のせいでしたね。
   むしろ敵軍の歩兵が約6k消失している点が、今までにない手応え。
6日目 敵軍右翼が白兵フェイズの戦闘を耐え抜き、0.23の士気を維持する事に成功。
   恐慌状態ではありますが0ではない為、あと1日くらいは戦闘を続けてくれるでしょう。

よしこれはもう勝ったな、風呂行ってくる(慢心)。


CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/vl8j9p9.png)aa;|

自軍67k vs マムルーク軍67k 死者約19k : 約25k

敵に増援がやってきましたが、問題なく撃退。
戦闘正面幅を満たせば大軍同士の戦いでも勝ち目が見えてきましたね。

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/WgNkqyk.png)aa;|

では戦闘正面幅を満たすものの、満足な支援砲撃を行えない分だけの砲兵を投入してみましょう。

左から順に開戦1日目・3日目です。

1日目 まず火力フェイズで前列配置の砲兵による斉射。相手の士気を1割り削りました。あまり効いていないような?
1日目 まず射撃フェイズで前列配置の砲兵による斉射。相手の士気を1割り削りました。あまり効いていないような?
3日目 相手の士気を4割り削りましたが……射撃戦の時点で自軍の士気が3割り削られています。危険な兆候ですね。

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/YKAk2HX.png)aa;|

自軍53k vs マムルーク軍53k 死者約40k : 約15k

大敗北です。同数での戦闘なのに全く勝てません。

技術LV20の段階では戦闘正面幅が34です。
砲兵100%部隊を運用する場合前列と後列の双方を満たせるだけの部隊数、つまり68k以上を1単位として扱う事が推奨されますね。

え? 40kを超える部隊を1領邦に滞在させると補給限界を超えて損耗するって?

ハッハッハッ ナイスジョーク!

その為の100%傭兵です。傭兵は損耗をしても補給に人的資源を消費しませんし、戦時疲弊も上昇させません。
金さえ払えば何とでもなる、それが傭兵100%プレイです。ver1.29.5時

やっぱりこれは将来の弱体化修正が予告されるだけあって、ゲームバランスを破綻させる行為ですね。
ですが今回は検証を名目とした実験的なプレイですので、このまま傭兵100%で最後まで押し切ります。



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さてここまでの実験結果から、そろそろ''砲兵100%部隊って実は弱いんじゃないの?''
と考え始める背教者が現れそうですね。

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/Vig6Rg8.png)aa;|

いえいえ、そんな事はありませんよ。俯瞰して見れば場当たり的な戦闘でも勝利の方が多いです。

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/ypsNNmj.png)aa;|
CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/cxe9Yw3.png)aa;|

むしろ相手を選べば野戦での敵軍殲滅も、視野に入れて構わないと言えるでしょう。


自軍67k vs マムルーク軍   31k 死者約7k : 約31k
自軍65k vs ホルムズ軍    32k 死者約6k : 約32k
自軍60k vs ネジド軍     27k 死者約6k : 約27k
自軍62k vs アジェルラーン軍 40k 死者約6k : 約40k

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/rbeZtaU.png)aa;|
CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/aRbp2VZ.png)aa;|
CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/RBCBA6S.png)aa;|

左から順に全て開戦1日目から3日目にかけてです。砲撃によって数日で敵軍は半壊いたします。

そしてEU4の野戦では開戦から10日以内で敗北した場合、撤退できずに殲滅されるとの特殊判定がなされます。
そしてEU4の野戦では開戦から12日以内で敗北した場合、撤退できずに殲滅されるとの特殊判定がなされます。

よって戦場付近に友軍の存在しない30~40k程度の部隊までであれば、労せず退治できます。


絶対主義の時代に入りますと、費用対効果の面で見ても砲兵は役に立つ存在になったと言えるでしょう。


*クズルエルマ 赤いリンゴの地を求めて [#cf540b17]

''註'' 架空歴史解説です

さてヨーロッパの平地で戦う為の新たなる軍事教義の開発に四苦八苦していたスペインですが、その答えは東方からもたらされました。
イスラーム世界の英雄壮麗帝スレイマン1世がハンガリーを征服したモハーチの戦いです。
もっとも当時はオスマントルコに占領されたハンガリーの旧都ブダ近郊に存在するフェネケトレン湖の名を借りて、底なし沼の戦いと呼ばれておりました。

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/H2PpX0M.png)aa;|

ハンガリーを中心とした重騎兵を含むキリスト教連合軍5万の兵が、オスマントルコの砲兵隊によって僅か4時間で壊滅させられた戦いです。
ハンガリー王ラヨシュは溺死。後継者不在となったハンガリーの王位を巡る後のウィーン包囲へと繋がる戦いではありますが、そちらへは触れません。

ここで大切なのはスペインが恐れた重騎兵隊を、オスマントルコの砲兵隊が打ち破ったとの事実です。

絵画を詳しく見て見ましょう。
まずはひと際目立つ大砲が平野へと水平に並べられ、大砲の後部に大量の歩兵。
そして大砲の前方に歩兵と騎兵が見えますね。随分とちぐはぐです。この状態で大砲を水平に打てば味方の背中に当たりますよね?
絵画の右側により注目しましょう。大砲からは煙が上がっていますが、同時により射程の短い歩兵銃からも煙が上がっております。

よってこれは開戦前の陣形ではなく、開戦中にオスマントルコ軍が砲兵よりも前進し、掃討戦に移行した状態であると判断できます。


研究の進んだ現代では以下の事実が判明しております。
1 フェネケトレン湖ではなく、ドナウ川流域のモハーチにて両軍は戦った。
2 オスマントルコは浮橋を利用して、大量の野戦砲を戦場へと運び入れた。
3 オスマントルコは野戦砲の間を鎖で繋ぎ、接敵時の浸透戦へと備えていた。
4 キリスト教連合軍は、オスマントルコの野戦砲へ対し正面突撃を行った。
5 野戦砲から放たれたぶどう弾の水平射撃によって、キリスト教連合軍は僅か4時間で壊滅した。
6 ハンガリー王ラヨシュは溺死した。

はい、そこ、笑わない。大砲へ対し正面から相対する事は確かに愚策です。

人間は大砲よりも小さな鉄砲の玉であっても、当たれば死にますね。
もしも皆さんが銃口を向けられれば、どうしますか? はい避けたり、屈んだり、銃口の射線から逃れようとするでしょう。
それは弾丸が弓や槍よりもずっと早く飛ぶ為、避けられないと皆さんが既に知っているからです。

つまり現代の常識において、大砲は人間を殺す事の出来る恐ろしい兵器であると判断される為です。

これは歴史を学ぶ上での盲点となりやすいのですが、常識とは場所や時代によって変化するとの事実です。


当時のヨーロッパの常識では大砲とは即ち攻城砲であり、要塞を攻め落とす為の物であって人間を相手に使う野戦砲ではありませんでした。
絵画の中央に丸い石の玉が見えますね。大砲とは天空へ向けて斜めに構え、大質量の物体を1発づつゆっくり放つ点の破壊力を重視した兵器とされます。

しかしながら大砲先進国であったオスマントルコは、このころすでに対人用のぶどう弾の開発に成功。
野戦砲とは水平に構え、小質量の物体を大量にばら撒く面の制圧力を重視した兵器であると大砲の常識を変えたのです。

この絵画の作者はヨーロッパ人であり、またぶどう弾の存在は長年の間秘匿されていた為絵画の中央に丸い石の玉が描かれています。


我々人間が過去を知る為には、史料をあさるしかありません。
しかしながらこの様に例え非常に正確な絵画であったとしても、丸い石の玉といった間違いが含まれています。
それは人間の知識や手に入る情報には限りがあり、また常識と呼ばれる盲点が常に存在する為です。

CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/RxeYauA.png)aa;|

こちらの絵画をご覧いただきましょう。

イスラーム世界の英雄壮麗帝スレイマン1世がハンガリーを征服した底なし沼の戦いです。
ウィーン包囲に先立ち、ヴェネチア総督が神聖ローマ皇帝へと警告を発する為に贈呈した当時の第1級資料です。

二つの絵を見比べてみましょうか……何もかもが違いますね。
唯一の共通点は、オスマントルコ軍が大掛かりな何かをしてる点でしかありません。


ここでまた当時の常識が盲点となります。
海上交易に従事するヴェネチア人にとって大砲とは、重装船に搭載し艦砲射撃を行うものだったのです。
船と船が戦う海戦では相手のマストや帆への打撃を目的とし、鉄球2つを鎖で繋いだ鎖弾が使用されておりました。
その為オスマントルコが大砲と鎖を大量に用意したとの事実から、ヴェネチアでは底なし沼へイスラム教徒が船を運び込んだともっぱらの噂でした。

今にしてみればとんでもない間違いだと分かるのですが、これにもまた正当な理由が存在します。

1 各国の軍事事情は国家機密であり、正確な情報はどこの国であっても手に入れる事は出来ない事。
2 モハーチの戦いでは文字通りキリスト教連合軍が壊滅した為、生き残りからの話を聞いた人間がほとんどいない事。
3 かつてスレイマン1世の曾祖父であるメフメト2世が、コンスタンティノープル征服の為船を山へと昇らせた事。

これらの事実が積み重なった結果、スレイマン1世がハンガリーの旧都ブダを艦砲射撃によって陥落させたとの噂は長らく歴史事実として扱われました。


人間とは正しい理由で、間違った判断をしてしまう生き物なのです。

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さて、ハンガリーに隣接しているヴェネチアでさえ手に入る情報は混乱しています。
よりハンガリーから離れているスペインへと伝わる情報はまさに玉石混交。尾ひれどころか胸びれと角まで付いてくる有様です。

そんな中で重騎兵に勝利する事を目指し、スペイン方陣を完成させたのが共和制スペインの初代指導者我らがドン・フェルナンドです。
もっとも皆様には、イタリア娘の貞操を守りし漢ドン・ファンと呼んだ方が通りが良いでしょうか。

我らがドンは、確かに偉大なる軍事指導者でした。まずはちまたで流布されている噂の大半を誤りであると看破。
砲兵の秘術を求め当時スペインの支配下であったジェノバ商人へと扮して、敵地オスマントルコにて決死の48日間潜入を行った偉業の持ち主です。

これはクズルエルマと呼ばれ、戯曲にもなっておりますね。トルコでは誰もが知る冒険譚です。


CENTER:|#ref(https://i.imgur.com/l4Fle7N.jpg)aa;|

ドンが持ち帰り、解明した底なし沼の戦いの真実とはこのようなものでした。

1 オスマントルコはドナウ川の水運を利用して、資材をハンガリーへと運び入れた。
2 底なし沼へと浮橋を並べ、簡易要塞を建造した。
3 ハンガリー重騎兵はぬかるんだ地面に足をとられ、無力化された。
4 キリスト教連合軍は4週間の間要塞を包囲するも、オスマントルコの砲撃によって徐々に数を減らしていった。
5 ハンガリー王ラヨシュは沼地の毒水と毒虫に当たり、疫病で死んだ。


……今にしてみればとんでもない間違いだと分かるのですが、これにもまた正当な理由が存在します。


14世紀から18世紀にかけてヨーロッパでは黒死病が不定期に流行しておりました。
そして黒死病とは東から西へと常に流行を繰り返します。
ヨーロッパの東にあるのは何でしょうか? オスマントルコですね。

つまり疫病とは悪魔の仕業であり、邪悪なイスラム教徒が善なる民キリスト教徒を苦しめる為に放つ邪術なのです。
もしも本当に沼地で籠城をしたらまずオスマントルコ軍が先に疫病で倒れそうですが、敬虔なる新教徒であったドンはそのようには考えませんでした。
もしも本当に沼地で籠城をしたならばまずオスマントルコ軍が先に疫病で倒れそうですが、敬虔なる新教徒であったドンはそのようには考えませんでした。
なぜならば地獄の悪魔と手を結ぶ邪悪なイスラム教徒は、疫病にかからないからです。毒蛇(サタンの化身)は自分の毒では死なないのと同じ事です。
善なる生き物として神に作られたキリスト教徒は体内に毒を保有していません。その為毒や疫病に対して脆弱なのです。



そしてまたイベリアの山地で戦い続けた当時のスペインの常識では大砲とは即ち要塞砲であり、攻め寄せる敵軍を打ち倒す為の対人用兵器となります。
カピタンから続くドンの時代であっても、機動を重視するスペインの軍事教義は変化しておりませんでした。
騎兵を無力化する為には、機動を制御しなければならないとの結論へとたどり着いたのです。


ドンは間違った理由で、正しい判断を行いました。

すなわち要塞砲を小型化し移動可能な資材とすれば、地上のいかなる場所であっても野戦築城が可能となる。
永久要塞では射程外の相手へと追撃を行う事は出来ないが、野戦砲であれば移動は可能である。
野戦砲は戦線の変化を意図的に誘発可能とし、スペイン軍へとさらなる機動優位をもたらす。

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砲兵100%部隊 ''移動要塞''ことスペイン方陣がこの世に誕生いたしました。
確かに当時ドンが小型化に成功した砲兵は、牛馬を利用して移動させねばならない極めて鈍重な品物でした。
しかしながら''移動できる''、この1点をもって永久要塞へと決別。
''野戦築城''の概念を確立させ、スペイン軍史へと新たな1ページを書き加えたのです。





次回へ続く


***目次 [#u230b164]

- [[AAR/砲兵は戦場の神である]]

- [[宗教改革の時代>AAR/砲兵は戦場の神である/宗教改革の時代]] 1444-1621

- 絶対主義の時代 1621-1654

- [[革命の時代>AAR/砲兵は戦場の神である/革命の時代]] 1654-1794 完

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