[[AAR/偽史朝鮮]]

*朴氏朝鮮 その1  [#w846ada7]

**朴永昌(1463~1514)[#ve83c0e0]
祹(ド)の死後朝鮮の王位に着いたのは、朴氏に嫁した王女の息子、永昌(ヨンチャン)でした。

朴氏朝鮮の開祖として朝鮮の黄金時代を切り開いた彼は、即位のエピソードからして強烈です。
祹(ド)が倒れたその日、宮廷に参内していた彼は即座に自宅に取って返すや朴一族を糾合して宮廷に再び乗り込み、動揺する廷臣たちに即位を認めさせたと伝えられています。
才気に溢れた優秀な人物(4/2/5)として早くから武官を中心に支持を集めていた永昌ですが、当時21歳だった彼より年上の外孫は複数いました。
この行動がなければ別の外孫が王位についていた可能性は非常に高かったでしょう。
恐るべき果断さでした。

こうして王位には着いたものの、その経緯からして国内外には彼を軽んずるむきもありました(個性・DipRep-1。王朝交替によりLegitimacy20)。
永昌はまず己の足元を固める必要がありました。

永昌は己の支持母体となった武官を厚遇し(Strengthen Governmentの実施)文官を中心として根強かった反発を力で抑え込むとともに、
宗主国・明には様々な貢物を送り、王権の正当性を認めるよう働きかけました(イベントPolitical Capitalが2回発生)。

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これらによって国内の動揺は表面上は収まりましたが、しかしまだ確固たる地位とは言えません。
そこで彼がとった方策は、絶大な支持を集めていた先王の政策をさらに推し進め、己こそは名実ともに祹の後継であるとアピールすることでした。
そう、北伐と海進です。

***永昌の北伐 [#z3b58410]
1474年、朝鮮は軍を発して野人女直を攻め、7州を割譲させました。
その後軍政を改革して連戦を可能とする動員力を確保すると(Quantityアイディアを取得)、
1492年にホルチン部を攻めて2州を獲得、翌年には軍を転じて再び野人女直に侵攻、2州を割譲させました。
さらに1506年、ホルチン部から独立たハルハ(KHALKHA)を攻めて属国としました。

永昌はその死の直前の1514年にもホルチン部再征の兵を発しました。
この戦いの決着がついたのは永昌の死後(1516年)ですが、その後長く北方での軍事行動が止むことから、この戦いまでがまとめて«永昌の北伐≫と呼びならわされています。
この戦いの決着がついたのは永昌の死後(1516年)ですが、その後長く北方での軍事行動が止むことから、
この戦いまでがまとめて«永昌の北伐≫と呼びならわされています。
都合5度の征服戦争で、満洲(および内モンゴル東部)における朝鮮の領土は圧倒的に拡大しました。

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(Beijing隣接州を確保。この後1州をKHALKHAに与えた)

北伐を進めた永昌ですが、その統治方針は単に力で抑えるだけではありませんでした。
先王の時代に属国とした海西女直の諸族を慰撫し直轄統治下に組み込むと、彼らの文化を積極的に受け容れるとともに、信仰にも配慮し同化に努めました。
(文化受容・AnimismのHarmonise)
この方針は海西女直以外の女真族にも適用され、満洲はその後の朝鮮の飛躍を支える重要な国土となります。


***永昌の海進 [#z3b58410]
先王・祹の勅によって始まった朝鮮の海進ですが、それを本格化させたのは永昌でした。
北伐に先立つ1473年、永昌は小型船3隻からなる探検隊を組織し北の海へと送り出します。(Quest for the New World解除)
彼らはアイヌの住んでいた北海道を探検したのち、今で言うカムチャッカ半島にまで到達しました。
帰国した探検隊の報告を受けた永昌は1486年に北海道を制圧します。

その後も探検は続けられ、アリューシャン列島を経てアラスカにまで発見は進んでゆきます。
アリューシャン列島には15世紀の末から朝鮮による入植がはじまったと記録されています。
永昌が推し進めた海進政策は朝鮮に新たな活気をもたらしました。
15世紀末からの50年間は朝鮮の黄金時代と呼ばれています。(1497年末に開始)

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特に元々交易地として栄えていた慶州は入植を目指す人々の出発地として活気であふれ、当時の朝鮮の発展を牽引する都市となりました。
(1505年、Colonialismの発生源に!)
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永昌の海進は探検と植民者の派遣だけには止まりませんでした。
海を越えた地に軍を派遣し、その国土を広げていったのです。
先に述べた通り北海道は1486年に制圧していましたが、1498年、この地に32000の兵を集めた永昌は渡島半島、そして東北へと軍を進めます。
当時東北北陸には小笠原家が勢力を誇っていましたが、足利将軍家を通じて諸大名に救いを求めようにも小笠原自身が他の大名と争っている最中。
孤立した小笠原を蹴散らした朝鮮は、渡島・陸奥の領有を将軍家に認めさせました(1501年)。
外国の侵略を許した将軍家の権威は失墜し、1506年の細川幕府成立の遠因となります。
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次いで1508年、永昌はスラウェシ島中部に拓いた開拓地を足掛かりにButon、Makassarを、また1511年にはLuwuを征服。
先代からの入植地と合わせ、朝鮮は東南アジア島嶼部に7州を領することとなりました。

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1514年、永昌は72歳にして世を去りました。
50年を超える在位の末の大往生でした。


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**朴貞心(1514~1553)[#ve83c0e0]
永昌には福成という王子がいたのですが、永昌の死に先立つこと14年、1500年に狩場での事故で35歳にして世を去っています。
(李朝最後の王子、李文の死因もまた狩猟中の事故であったことを皆さんはご記憶でしょうか?)
その後永昌は後継を定めませんでした。
先王を真似るにも行き過ぎだと、皮肉った落首が残されています。

とはいえ在位50年の間に朴一族の権勢は十分安定していました。
永昌の晩年の宮廷は一族の合議によって運営されており、後継についても彼らに委ねたというのが実際のようです。
永昌の死を契機に、李朝の末裔を名乗る勢力が満洲北部で反乱を起こしますが、即座に鎮圧されています。
(Rise of Pretender。6kが蜂起)
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永昌没後、朴一族が立てたのは、彼の孫にあたる24歳の女王・貞心(ジョンシン。5/5/3)です。

***海賊女王 [#z3b58410]
貞心の治世の特色は、ユーラシア大陸内での軍事行動を起こさなかったことです。
唯一の例外は即位時すでに始まっていた第2次ホルチン部征服戦争でしたが、
1516年の停戦後、収支報告を一瞥した貞心はこれ以上の草地は不要と述べたと伝えられています。
永昌の時代、朝鮮の国土は拡がりましたが、それによる収入増は軍拡による支出拡大とギリギリのバランスの上にありました。
さらなる発展を目指すのなら、税収と交易網を意識した拡大をする必要があったのです。
豊かとは言い難いステップの代わりに貞心が目を向けたのは海の向こうでした。
後世、彼女は海賊女王と呼ばれます。
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1518年、貞心は細川幕府の傘下にあった小笠原氏に宣戦します。
Nipponトレードノードにおける影響力の増大を狙った侵攻でしたが、戦乱の中で鍛えられた大名達の軍勢は想像以上に頑強な抵抗を示します。
4年にわたる戦いの末に朝鮮は3州を奪いますが、多数の傭兵を補充せざるを得なかった朝鮮の財政は一時的に悪化しました。
占領地にこれ以上兵を割くことを嫌った貞心は、上杉氏の末裔にこの3州を与えて統治をゆだねました。
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(越前も上杉に渡した)
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次こそは実入りの多い戦いをと、貞心が目を付けたのはボルネオ島でした。
島の南部にはすでに朝鮮が入植を始めていましたが、以前から発展していた北部諸州はブルネイが統一し、東南アジア交易の要地として栄えていました(首都BruneiのDev22)。
入植地から侵攻した朝鮮軍は、ブルネイ軍を圧倒。また同盟国として参戦したスールー軍も蹴散らします。
朝鮮は西岸の豊かな2州と457Dの賠償金を得るとともに、ブルネイに滅ぼされていたクタイ王国を復活させ、将来の東部侵攻への足掛かりを築きました。
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ブルネイから奪った賠償金の使い道として貞心が選んだのは、当時首都を中心に芽生え始めていた古典復興運動の後援でした。
温故知新を旗印に広がったこの運動は朝鮮の文化・技術を大きく発展させるとともに、国内外からの求心力を高めました。
(1527年、ルネサンス受容。50%軽減。Administrativeアイディア採用。1524年、個性DipRep+1獲得)
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さらに1530年、貞心はボルネオの南、ジャワ島に目をつけます。
マジャパヒト王国をバリ島に追いやったスンダ王国が治めていたジャワ島は、ボルネオ以上の繁栄を謳歌していました。
(当時ボルネオ全島のDev合計149、ジャワ島は173)

ジャワ海を超えた朝鮮軍はスンダ王国軍を圧倒、交易中心地に加え多額の賠償金を奪います(637D)。
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貞心はこの資金を投じて、慶州に発し朝鮮半島全域に伝わっていた植民地主義を国土のすみずみにまで広げます(1531年、Colonialism受容。26%軽減)。
貞心はこの資金を投じて、慶州に発し朝鮮半島全域に伝わっていた植民地主義を国土のすみずみにまで広げます。
(1531年、Colonialism受容。26%軽減)
こうして南洋から奪った富により朝鮮は当時世界最先端の技術発展を遂げました。

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(図は1554年時点の列強。韓国と明が世界技術の最先端。明のルネサンス受容は1545年だった)
(図は1554年時点の列強。韓国と明が世界技術の最先端。
 明のルネサンス受容は1545年だった)


***東海の嵐 [#z3b58410]
繁栄を謳歌する朝鮮。当然その軍事技術も世界最先端でした(MilTech11)。
1535年、貞心は上杉の旧領回復を名分に、再び軍を日本に派遣します。
当時日本ではかつて将軍だった細川氏が中央集権体制を確立していました(1527年JAPAN成立)が、技術的にはまだまだ後進国であり(MilTech9)、
ブルネイやスンダ同様あっさりと戦いは終わるはずというのが朝鮮王宮の見方でした。
しかし・・・

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群雄割拠の戦乱の中で磨き上げられた日本兵は恐るべき戦巧者ぶりを発揮。
軍を率いていた馬久(Ma Gu)が討ち取られると朝鮮軍は大混乱に陥りました。
海峡封鎖も間に合わず、敗走を続ける朝鮮軍を追って日本軍はついに北海道へ。
あわや全軍壊滅の危機が訪れました。
未開の千島へ逃げ込んだ朝鮮軍は冬の寒さと日本軍襲来への恐怖に震えたといいます。
結局日本軍は千島までは追撃せず、多数の犠牲を出しつつも朝鮮軍は満洲に撤退しました。
あるいはこの時日本軍が千島を襲撃していたら戦いの趨勢は決定的なものとなっていたでしょう(戦勝点は-40%近くにまで達しました)。

敗走の報を受け動揺する王宮の中、一人貞心だけは落ち着きを失いませんでした。
彼女はすぐさま戦時国債を発行すると大陸中から傭兵をかき集めます。
また命からがら逃げかえった敗軍のもとには夏銅(Ha Dong)を新たな将軍として派遣、虎の子の砲兵隊をすぐさま慶州へと移動させ傭兵部隊と合流させます。
かくて第一次遠征軍以上に膨れ上がった軍勢が対馬海峡を渡りました。

朝鮮軍を北の果てへと撃退したと油断していたのも束の間、遥か離れた筑前からの急報に慌てて軍を返す日本でしたが、夏銅の指揮(4/2/3/0)のもとに息を吹き返した朝鮮軍はこれを撃退。
九州、そして山陽山陰へと軍を進め、ついに京都を陥落させました。
1542年、筑前の割譲と賠償金の支払いを条件に両国は停戦にいたります。
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(日本はこの賠償金の支払いで破産しました)
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あわや敗戦と思われた戦いをひっくり返したことで貞心の求心力はますます高まりましたが(1540年、個性Legitimacy+1/年獲得)、
それで借金が消えてくれるわけではありません。
では何をするか?
貞心が選んだのはさらなる戦争でした。
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軍の編成を調えなおした貞心はその目を再び東南アジアへ向けます。
1544年、朝鮮はTidoreを制圧、統治下に組み込むとともに奪った財宝で国債を償還しました。
またブルネイ・スールー、そしてスンダへ再び侵攻し、ボルネオ島全土とスールー諸島(1548年)、そしてジャワ島の西部を支配下に置きました(1552年)。

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1553年、貞心は60歳でこの世を去りました。
彼女の治世は東南アジアの海洋諸国にとっては災難としか言いようのないものでしたが、
島々からかき集められた富によって発展した朝鮮の文化と技術は東アジア各国へと伝わり、この地を世界の先進地域へと押し上げる結果となりました。

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***[[次回:朴氏朝鮮 その2>AAR/偽史朝鮮/朴氏朝鮮_その2]] [#z3b58410]

TIME:"2017-06-18 (日) 03:26:30"

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