[[AAR/ポーランドは未だ滅びず]]

*第三章 東欧の覇者 [#m4ad539e]

**1つの国家、1つの宗教 [#m4ad539e]

1531年に産声を上げたコモンウェルスですが、最初からその統治基盤が盤石だったわけではありません。

ルテニア文化は統一と同時にaccepted cultureになりましたが、旧リトアニア領の大半は正教を信仰していて文化も異なります。
コモンウェルスは宗教アイディアと対抗宗教改革によって4人まで増員された宣教師を使って積極的にカトリックの教えを広めていきます。

合わせてpolish文化への同化を推進していきました。
ポーランド=リトアニアの同君連合の時代には多様な文化が存在していましたが、来るべきモスクワとの大規模な戦いを前に、「コモンウェルスの一員」としての意識を国民に植えつけ、士気を高める狙いもありました。

正教地域では散発的に暴動が起きたものの、コモンウェルスはカトリックの教えのもとに統一されました。
コモンウェルスが教皇庁の御者に選ばれたことはカトリック国家としてのコモンウェルスを象徴し、コモンウェルスの人々の帰属意識を更に高めたのでした。

**冬将軍との死闘 [#m4ad539e]

タタールの頸木から脱し、勢力を拡大していたモスクワはコモンウェルスの宗教統一事業をもっとも苦々しく思っていた国家といえるでしょう。
旧リトアニア領のロシア人居住地域の信仰がカトリックに塗り替えられていく様子は、正教の盟主を自負するモスクワには挑発行為と映ったに違いありません。
コモンウェルス領に大量のclaimをねつ造し、隙あらばいつでも襲い掛かる構えを見せています。
コモンウェルス領に大量のClaimを捏造し、隙あらばいつでも襲い掛かる構えを見せています。

コモンウェルスはいよいよモスクワとの戦いは不可避と判断し、オーストリアと共に宣戦を布告します。
宣戦理由は両国の宗教対立を背景とした「聖戦」でした。

コモンウェルス軍とモスクワ軍の規模はほぼ互角でしたが、オーストリアという有力な同盟国を得たコモンウェルス陣営が総兵力では優位に立っていました。
さらに優勢を決定づけたのは、westernizationを完了したコモンウェルス軍が先進的な装備を配備しているのに対し、モスクワ軍は技術レベルで1つ場合によっては2つも遅れていたことです。
ユニットが更新されるタイミングでの技術レベルの差はことさら大きく、会戦では連勝を重ねました。

全ては順調に推移しているように見えましたが、最大の敵は敵の軍隊ではなく、やはりロシアの大地の厳しい冬でした。
severe winterの補正で損耗が5%上昇するというのは思いのほか過酷で、プロヴィンスを移動するだけでみるみるうちに数を減らしていきます。
コモンウェルス軍は敵主力を殲滅した後の占領作業は傭兵に任せ、人的資源を守る方式に切り替えました。

モスクワ軍は2度3度の冬を迎えても撤退せずに占領地を増やし続けるコモンウェルス軍に立ち向かう気力を挫かれ、ついに交渉の席につきました。
コモンウェルスが突きつけた講和条件はモスクワがPskow及びTverを解放することと、旧Permの1領の割譲でした。
正教国家モスクワに対するカトリック国家コモンウェルスの完全勝利に、国民は歓喜しました。

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コモンウェルスは解放された両国とすぐさま同盟を締結し、関係改善のアプローチ、資金援助を駆使して、コモンウェルスの属国になるように呼びかけます。
コモンウェルスの保護なしでは再びモスクワに飲み込まれるだけであることを悟った両国はすんなりこれに応じました。

**Sejmの暗躍[#m4ad539e]

国王の権限拡大を面白く思っていなかったSejmは国王のモスクワ出征の隙を狙ってThe Pacta Conventa and the Henrykian Articlesを既成事実化してしまいました。

#ref(pactaconventa.jpg)

・外交官-1
・戦争疲弊軽減コスト50%増
・インフレ軽減コスト50%増

拒否する選択肢すらなく、これがコモンウェルスの行動を縛り続けることになります。
国王はこれを知ったとき激怒し、Sejmと対決する決意を固めたといいます。

Sejmは国王に対し事実上の勝利を収めたことに気を良くしていましたが、モスクワに対する華々しい勝利によって国王の権威は大いに高まり、相対的にSejmの影響力が低下するのは避けられませんでした。
これは、十字軍による遠征で西欧各国の王の権威が高まり教皇の影響力が相対的に低下していった構図にやや似ていると言えるでしょう。

**One King to Rule![#m4ad539e]

国王が老衰で死亡し、オーストリアのハプスブルク家から新たな王が即位すると、Sejmは大きな勝負に出ました。
即位したばかりで国王としての実績がまだなく、しかも外国出身の王であることから御しやすいと踏んだのでしょう。
1606年10月、貴族共和制への移行を国王に迫ったのです。

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国王はこれを断固拒否しました。
オーストリア出身とはいえ前王を深く尊敬していた彼は、貴族たちと闘う道を選んだのです。

安定度が大幅に低下、各地の貴族たちが蜂起し反乱率が急上昇します。
これまで、westernization、religious civil disorderと大きな混乱期を経験してきたコモンウェルスはこれに動じませんでした。

蜂起する貴族を各個撃破していき、1609年11月ついに貴族たちは悉く国王への恭順を誓い、コモンウェルスは絶対王政に移行しました。

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1444年の空位時代から約165年間をかけて、コモンウェルスは世襲の王室が統治するいわば「普通の国」になったわけです。
もちろんThe Pacta Conventa and the Henrykian Articlesも廃止されます。

同盟国オーストリアはハプスブルク朝コモンウェルスの誕生を大いに喜び、両国の絆は一層強固なものになりました。

**モスクワの落日[#m4ad539e]

コモンウェルスはモスクワに対する聖戦を再開し、モスクワの首都Moskvaを始め、支配するに足る地域を次々と支配下に組み入れていきました。

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モスクワはシベリア開拓で得た領土の他はウラル山脈の西側にわずか2つプロヴィデンスを残すのみとなり、Kazanに征服され、属国となりました。
モスクワは再びタタールの頸木に囚われることになったのです。

コモンウェルスはロシア文化も自国の主要文化として受容し、ポーランド人と平等な扱いを保証しました。
技術先進国であり、寺院や工房等のインフラ整備も進むコモンウェルスの統治を受けて、ロシア人もコモンウェルスの国民であることを快く受け入れるようになります。

コモンウェルスは誰もが認める東欧の覇者になったのでした。

* [[第四章 ハプスブルクの栄光>AAR/ポーランドは未だ滅びず/ハプスブルクの栄光]][#o6806ac5]

TIME:"2014-09-11 (木) 22:55:51"

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