Je ne suis toujours pas revenue de la coïncidence, Alexandra, avec l'épingle et le carton! En plus, ça faisait vraiment longtemps que je n'avais pas utilisé d&©le;Ã#ping39, c'est vraiment incroyable!
[[AAR/スルタン絵日記]]

*野望の果て [#m5b4ab40]

**地獄の沙汰 [#d2e663dd]
一応、要求を確認。
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ラグサ目当てに宣戦してきてその要求は何だ。

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デンマーク=ロシアとフランスも参戦。
同盟国の参戦に強気になったスペインは、ビザンツの解放すら要求。

参戦はしたけどこっちにこれないんじゃ?
とう一縷の望みを託して外交情報を見てみたところ、デンマーク、ロシアとも、きっちりリトアニア経由でこられることが発覚。
見なきゃよかった。
黙って玉砕の準備を進める。

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年末、早くもロシア軍第一陣到着。
こちらの総兵力はようやく10万に達したところで、各個撃破すらできるか怪しい。

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ボスポラス海峡にはなぜか艦隊がいなかったので、増援が来る前になんとか移動できないかと、海峡前面に兵力を集中。
そのとたん移動してくるスペイン艦隊。ちゃんとチェックしてるのか?
おとなしく黒海北岸を移動することに。

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どうにか黒海北岸付近まで移動。
しかしどうしようもなさげ。
一方こちらは、属国のシチリア軍が占領しているサルディーニャ島が唯一の占領地。

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玉砕とはいえ、すこしでもマシな状況で戦おうと部隊を配置。
Yedishkulでの防衛戦を狙う。ほぼ平地だが、それ以外によさそうな場所がないので仕方ない。

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なかなか攻撃は実施されず、その間にも増大する占領地。
そしていよいよフランス軍も含め、8万の大軍による攻撃が開始されようとしていた。
ロシア軍3万がなにをしているかは謎である。

しかし戦闘開始直前。

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それまで侵略した土地の解放だの崇高な戦争目的を掲げていたデンマークが、突如豹変。
そんな要求をしてもなんの得にもならないと考えたのか、金銭を要求。
オスマンは大喜びで支払うことに。

''1603年6月2日 デンマークと単独講和 2040D支払''

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さらにフランスもこれに続く。
フランスはデンマーク離脱後も、十字軍を発動するなどしてしつこく戦い続けていたが、結局実益をとったようだ。

''1605年10月23日 フランスと単独講和 1168D支払''

かくして危機は去った。

''1606年7月23日 スペインと停戦 白紙和平''
その後、無事スペインと停戦に持ち込む。
しかし戦闘ではフランス・デンマークより格下と思われたスペイン軍にも苦戦、もはや質の優位はないことを思い知らされる。

**春の目覚め [#l4c31ea7]
''1607年4月2日 ハンガリーに宣戦''

''1609年5月10日 ハンガリーと停戦 イストラ獲得''

先の防衛戦のため、ちょうど全軍がヨーロッパにいたのでハンガリーに宣戦。
イストラは、以前の捏造期限が切れていたのだが、コスト増大よりスパイ発覚を恐れて即宣戦。

スンナ布教後、スティリアに0Dでプレゼント。
周辺のHRE領土は食べてくれないので、スティリアはこれで用済み。
外交併合を開始。

''1611年6月25日 ペルシャに宣戦''

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目標は、黒羊朝のコアが残っているマーザンダーランの回収。
さらに捏造したギーラーンを直轄地として確保し、飛び地にならないようにする。

''1613年2月13日 ペルシャと停戦 ギーラーン獲得、マーザンダーランを黒羊朝へ''
直轄地としたギーラーンも、すぐ黒羊朝に0Gで売却。これで黒羊朝も用済みだ。

領土拡大とは裏腹に、情勢はさらに厳しさを増す。
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ハンガリーはオーストリアの同君連合下に。
事前にイストラを取れたのが幸いか。

すでにイギリスの同君連合下だったナポリは、とうとう併合される。
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イギリスと陸続きになってしまった。

''1613年5月25日 アフメト1世(4/2/4)崩御 メフメド1世(1/2/1)即位''
ステータスはおいておくとして、後継者がいないのがつらい。

''1618年2月14日 マムルークに宣戦''
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ジャマル・シャッマルを確保してコア回収のためにナジュドを復活させ、さらにアフリカを切り取れるだけ切り取る予定。

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同盟国の数が多かったため、エジプト方面とペルシャ方面に兵力が分散してしまい、予想外の苦戦を強いられる。
西側にくらべ楽勝だと思っていたが、まったくそんなことはなかった。
またもマンパワーを大量消費し、結局アフリカは切り取れない結果に終わる。

''1620年1月22日 マムルークと停戦 ジャマル・シャッマル獲得''
即ナジュド建国。

戦争中、後継者マハムド(2/3/0)誕生。いないよりはマシと考える。

''1525年1月23日 マムルークに宣戦''
前回と同様アフリカ切り取り、そしてナジュド領土の回収をもくろむ。

そして翌年。

''1626年3月6日 スペイン、オスマンに宣戦''
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**審判の日 [#w6c4fd4b]
&ref(0146_info.jpg,nolink);~
~
''1626年8月4日 マムルークと停戦 ナジュドをナジュドへ''
紛らわしいが、ナジュドはジャマル・シャッマルを首都に再興させたので仕方ない。
スペインとの開戦時、マムルークとは白紙和平可能だったが、ゼロ回答は悲しいので危ない橋を渡って戦争を続けていた。
途中、一時停戦不能になった時はどうしようかと思ったが無事停戦。

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オスマン領イタリアに、ナポリを制圧した反乱軍が侵入。
イギリス領で反乱が起こった時にはいいぞ、もっとやれという感じだったが。
海は渡れず鎮圧は不可能。最悪のタイミングだ。

1627年初頭 イズミルの戦い
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戦力的には大差ないデンマーク軍に攻撃される。
もはや質は完全に劣っており、この後一方的に敗北。
壊走前の離脱を図ったが2部隊中1部隊が壊走。
敗走先でさらにロシア軍に殴られ、全滅は免れたものの大損害を受ける。

1627年8月 マルマラ海海戦
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かろうじて浮かんでいた海軍だが、デンマーク海軍がついに到着、即座に逃走。
なお、この艦隊は港からたたき出された後、なぜかスルーされていた。~
~
//1627/8
&ref(0150_162708.jpg,nolink);~
~
1628年7月 スィノプの戦い
&ref(0151_sinop.jpg,nolink);
デンマークに続き、スペイン軍もアナトリア突入。~
~
//1629/1
&ref(0152_162901.jpg,nolink);~
~
1629年12月 ダルマティア陥落
&ref(0153_dalmatia.jpg,nolink);
スペインが当初の目標だったダルマティアを占領。
戦勝点が一気に低下。~
~
//1630/1
&ref(0154_163001.jpg,nolink);~
~
1630年3月 ナポリ独立
&ref(0155_naples.jpg,nolink);
とうとうナポリ独立。場所がおかしいだろ。
イギリス側が無傷なのがひどい。
独立戦争は即日白紙和平。~
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//1631/1
&ref(0156_163101.jpg,nolink);~
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1631年3月 コンスタンティノープル、陥落
&ref(0157_cons.jpg,nolink);

**壊滅 [#odae20e5]

&ref(0158_dage.jpg,nolink);
どう見ても無理な状況だが、なおも抵抗を続ける。
カフカス付近の峻険な地形とプロビンスの位置関係を生かし、なんとか戦勝点を稼ぐ。
しかしスペインの姿勢は依然として強硬、デンマークにいたっては講和不可能。

&ref(0159_warex.jpg,nolink);
一ヶ月あたり0.47の疲弊が発生している。DIPを投入して強引に士気を確保。~
~
//1632/01
&ref(0160_163201.jpg,nolink);~
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1631年11月~1632年5月 アルメニアの戦い
&ref(0161_armenia.jpg,nolink);
山岳地帯での防衛戦に持ち込むことに成功。
かなりの戦勝点を稼げているように見えるが、態度はまったく変わらず。
この戦いでマンパワーが枯渇。~
~
//1633/01
&ref(0162_163301.jpg,nolink);~
~
1633年3月 イメレティで最後の戦い開始。砂漠山岳での防衛戦だが絶望的。
&ref(0163_imereti.jpg,nolink);

//1634/01
&ref(0164_imereti.jpg,nolink);

&ref(0165_treb.jpg,nolink);

1634年1月30日 オスマン軍、壊滅

**1634年頃のオスマン帝国 [#h03fbd71]
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TIME:"2016-06-07 (火) 22:14:19"

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