#author("2020-07-22T23:07:37+00:00;2020-07-22T23:01:14+00:00","","") #author("2020-07-23T03:33:30+00:00;2020-07-22T23:01:14+00:00","","") [[AAR/「ローマ人の王」と7人の選帝侯]] 前回のあらすじ。 ボヘミア王は世俗諸侯であるザクセン公、プファルツ選帝侯と婚姻外交を繰り広げ、紐帯を揺るぎないものとし、選挙における不動の地位を確保しました。 *ch.2 無敗の王、ジャン・ペトロの騎行 [#i24f04fd] 1373年に即位して、1374年、親政を開始した皇帝ジャン・ペトロが行った最初の事業は、属国であるシレジア地方の三カ国の外交併合です。 外交併合にはご存知のように外交点が必要です。君主が毎月生産する外交点を、毎月所定の数だけ属国に投下して、開発度に応じた外交点が投下し終わったら、晴れて外交併合達成となります。 毎月投下される外交点の数が多いほど、外交併合までの時間がはやくなるわけですが、この所定の数というのは君主の外交値と外交評判diplomacy reputationに応じて決まります。 外交評判を高めるために、私は外交顧問として政府高官statemanを雇い、そして固有の時代ボーナスである「ボヘミアの皇帝支配」を選択しました。 この時代ボーナスは1356MODに特有のもので、ボヘミアだけが選択でき、外交評判と外交官移動日数にボーナスがあります。 &ref(ss5.jpg); 封建時代。 ということでボヘミアは14世紀末には属国をあらかた外交併合することに成功しました。 その間、なにもなかったわけではありません。 1379年にはバイエルン州のパッサウ侯国Passauが、1388年にはザクセン州のメイッセン公国Meissenが、それぞれボヘミアにCBを与えてくれました。 1379年にはバイエルン州のパッサウ侯国Passauが、1388年にはザクセン州のマイセン公国Meissenが、それぞれボヘミアにCBを与えてくれました。 パッサウは侮辱をかましてきたのです。このへん、AIの思惑がどうなっているか不明なのですが、パッサウとかいう小国が、同盟国も小国だけなのに侮辱をかましてくるとは言語道断です。 またメイッセンは外交侮辱のCBを得るイベントがボヘミアでおきたためにCBが獲得できました。これはメイッセンには罪がないのですが、ボヘミアは暇だったので彼らに宣戦しています。 パッサウとの戦争も、メイッセンとの戦争も、どちらもたいした波乱なく、ほとんど暴動鎮圧と同じ調子で戦勝しました。賠償金と陸軍伝統値を得てボヘミア軍は凱旋します。 またマイセンは外交侮辱のCBを得るイベントがボヘミアでおきたためにCBが獲得できました。これはマイセンには罪がないのですが、ボヘミアは暇だったので彼らに宣戦しています。 パッサウとの戦争も、マイセンとの戦争も、どちらもたいした波乱なく、ほとんど暴動鎮圧と同じ調子で戦勝しました。賠償金と陸軍伝統値を得てボヘミア軍は凱旋します。 しかし世紀の変わり目に勃発した、所謂フス戦争はこれらの戦争よりももう少し困難な戦争となりました。 &ref(ss6.jpg); フス戦争。 1400年、スイス東部の三州同盟Three Leaguesのもとでフス司教が、今まで見られなかった新しい、珍奇なキリスト教の新説を唱えました。 皇帝は当初、アルプス山脈の田舎町におけるこうした運動に懐疑の、そして好奇の眼差しを向けていましたが、異端を絶対許さないローマ教皇の意向をうけて、1402年、鎮圧にのりだします。 これがフス戦争です。 三州同盟はオーストリア=スティリア連合国と同盟を締結していました。 オーストリアは南ドイツの大国です。しかもオーストリアはハンガリー王国と同盟しており、ハンガリーから傭兵がくることもまた確実でした。 皇帝はフス戦争を選択するとオーストリアとことを構えることになると警戒しましたが、結局、三州同盟に宣戦布告する選択肢をえらびました。 ボヘミア、ザクセン、そしてプファルツの連合軍がアルプスの山奥に押し掛け、フス派に転向した村々を焼き討ちして回ります。 戦争は三年続き、1405年にオーストリアの首都ウィーンが陥落してまず彼らが脱落。さらに同じ年には三州同盟の評議会議長もまた、フスの火刑に賛同してカトリックに復帰することで講和に応じます。 こうしてフス戦争は終わりました。 &ref(ss7.jpg); 軽蔑的侮辱。 「ボヘミアの生活におけるほとんどの問題は、私はチェコ人の問題に帰着すると考えている。」((意味がとれません。)) ポーランドからの外交官が皇帝にこうした軽蔑的侮辱をなげかけたのは、フス戦争末期の1405年のことでした。 ポーランド王国はHRE外の東の大国です。三万の軍隊を動員できる、カトリック世界における白馬の騎士として有名です。 外交侮辱をうけたら戦争することをモットーにしていたジャン・ペトロは彼らと戦争することにはじめは否定的でした。 しかし外交タブから宣戦画面を開き、v1.30から導入された彼我の同盟諸国の戦力差を比較したら、拮抗することを知って、開戦を決意しました。 1405年、フス戦争直後にはじまったポーランド戦役(これはのち第一次ポーランド戦役と呼ばれます)は、ジャン・ペトロ側の皇帝軍の圧勝に終わります。 ポーランドはDEV値30を超えるクラクフ市を独立国として認めることで講和に合意します。 さらにジャン・ペトロの晩年、1424年にもポーランドとの国境紛争のイベントでクレームを得たので、皇帝は第二次ポーランド戦役を起こします。 この第二次ポーランド戦役で皇帝はHRE領内の西スラブ人が住む土地、ルサチアLusatiaの土地を得ます。1426年のことです。 HRE内のプロビンスを得たことでHRE諸侯は皇帝に対して対抗連合を結成しますが、ブランデンブルクもオーストリアもポーランドもフランスもハンガリーもこれに参加せず、連合はのち自然解散しました。 皇帝ジャン・ペトロは1432年に没しました。73歳、60年に及ぶその治世で、彼は六度の戦争に勝利し、異端のフスを火刑にして、白馬の騎士ポーランドを屈服させました。 彼の生涯は勝利の栄光に包まれています。 (つづく)