16世紀までのアメリカ王領植民地の拡大は
グレートブリテン本国の経済・軍事的援助によるものであった
しかし本国のジョージ王による新たな課税・軍事費負担は
王領植民地にとって、自立した植民地社会への不当な圧政と捉えられた
メキシコが自らの王を戴くのを見て、アメリカ王領植民地も
チェサピーク植民地の創始者の子孫ジョセフ・バッフィンを首領に担いで
ジョージ王の統治機関を接収し独立を宣言、新たにUSAを建国する
メキシコ・ブラウンシュヴァイクの国家承認を得たアメリカ*1が最初に衝突したのは西インド会社、その後継者ハイチである
ハイチ共和国は西インド会社の支配地域を領土として独立したが、北アメリカ植民地はその最大の債権者でもあった
ハイチは独立に際して全ての債権の無効を宣言すると、アメリカはその補償としてキューバ全島を要求する最後通告を発し*2、アメリカ・ハイチ戦争が勃発した
アメリカ側にメキシコ、ハイチ側に英国が介入したが
リチャード・サマセット将軍のハイチ首都ドミニカへの上陸によって決着がつき
ハイチのキューバとイスパニョーラ島西部のアメリカへの割譲で講和した
議会派が勝利した英国はこの講和においてアメリカの独立を承認する
独立を達成し宗主国の庇護をうしなったアメリカ社会は変化を余儀なくされた*3
経済重視・金権主義的な価値観は西に広がる大地への開拓精神に置き換えられ
民兵のみの植民地軍から新たに徴兵制に基づく常備軍が設置された*4
このような社会変革はアメリカ哲学協会によって思想面で支えられた*5
トルデシリャス条約の補完として、英国の下を離れたアメリカとスペインに対して
教皇が五大湖・ミシシッピ川上流におけるスペインの優越権を認めると
ジョセフ・バッフィンはこの裁決を不当として、プロテスタントに改宗した。*6
独立したばかりのアメリカには産業が整っておらず、
海運業も北のスペイン系カナダ人・英国人に押されて
政府の歳入は人頭税による収入が半分近く占めていた
人頭税を払えない人々は免除される開拓地に移住していった
彼らは主にミシシッピ川・五大湖沿いやメキシコとの国境地域に居を構えた*7
1609年の執政官選挙でバッフィンに代わり、商人閥のヒュー・ベッドフォードが選ばれた
外交面でフランスとの同盟の締結に成功し、安定した長期政権(1609~1637)を維持する
スペイン領カナダとの境界紛争も平和裏に国境が決定され、スペインの内陸進出の排除に成功した*8
一方ハイチは海運業に成功し、アフリカ大陸の象牙海岸に進出して奴隷貿易を展開していた
ブラジルに植民地を持つポルトガルはハイチの海上ネットワークと同盟しており、しばしばアメリカと互いに船の拿捕を行った
大西洋におけるこの影響力を敵視するアメリカはハイチに再び宣戦布告、
アメリカはイスパニョーラ島とドミニカを占領するも
逆にハイチはマイアミやグアドルーペに上陸、ポルトガルもアメリカ首都リッチモンド*9に上陸する
しかし海上ではアメリカ海軍が圧倒的で
補給を失った上陸軍は降伏し
カリブ海の島殆どの割譲で講和した
艦隊を失ったハイチは、その後アフリカ植民地をティンブクトゥに併合されてしまった
ハイチの没落をみた英国はアメリカとの関係改善を模索、
英王室の遠戚シドニー・タルボット(1637~1641)が執政官になると米英同盟を成立させた
北米大陸では開拓民が原住民と度々問題を起こし*10その度に軍隊で原住民国家を征服したが、
原住民からの略奪*11で国庫は潤った
ハイチと原住民国家の併合は1650年までに完了し、アメリカ領土はついに大陸を横断する
これに際して議会は「大共和国」の成立を宣言した*12
メキシコは中米に植民地を広げ、
英国はコスタリカでカリブ海から太平洋へ渡りカリフォルニアに植民地を形成した
南米ではフランスがインカ帝国を征服し、ホラントがラプラタに、スペインがチリに植民地を築いた
この頃、ポルトガル領ブラジルは本国やアフリカ植民地との地理的近さから入植者も多く南米最大の植民地に成長した
海軍出身の執政官マシュー・ブロック(1641~53)の強い意向を反映し、アメリカは太平洋に進出、ハワイ・グアム・マニラに拠点を築き中国との交易を試みる
しかし中国大陸は分裂状態でしばしばアメリカ商人が襲われ、これといった利益を出せずに失敗した*13
広大な領域国家に変貌したアメリカは1650年代にはハプスブルク君主国を抜いて世界一の経済空間と化した
農業閥の執政官ウィンストン・ムーア(1653~1656)、ダニエル・デーヴィス(1656~1660)は長年のデフレ政策*14を転換する
原住民からの略奪を担保として農地改革と交通網の整備、
アフリカ奴隷の導入によるプランテーション経営の拡大が行われた*15が、
超広域の全国的な改革は官僚たちの腐敗によって天文学的財政赤字を生み出した
1660年、ダニエル・デーヴィスは破産を宣言、社会不安に伴い*16戒厳令を発して自ら終身独裁官に就いた*17
しかしその年8月に議場で暗殺される
アメリカ議会はグレートブリテン王室であるタルボット家からアメリカ皇帝を推戴することで
事態の収拾にあたった*18
彼の名は皮肉にもジョージ(4/2/5)といった*19