新大陸の統一と産業発展の輝かしい1760年代前半から一転して
60年代後半は長い大不況が訪れた
政府により全国で産業は振興された反面、
殆どの地域で人口増加は起こらなかった*1
アメリカを構成するプロヴィンスは1497年の5県から今や675県まで広がったが
リッチモンドの統治が完全に及ぶ地域は北米東海岸とメキシコ・カリブに留まっていた*2
首都から遠隔地では勝手に県が関税を課し市場は寸断され
100種類を越える貨幣が氾濫し、商業は停滞していた
悪条件は重なった
18世紀にアメリカと衝突した欧州国家は悉く戦争に敗れたが、報復に超高関税措置をとり
最大の取引相手イギリス・フランスを失ったアメリカは
農業の近代化による生産過多が裏目に出て
穀物の価格崩壊の憂き目にあった*3
1768年ウィリアム4世はオスマン帝国に対し
聖地奪回の十字軍を起こす*4ことで不満の一掃を狙った
経済損失の甚大な北米東岸中部・中西部地域出身の連隊が多く組まれたが
ウィリアム4世はその一人に暗殺されてしまう
オクタヴィウス(2/2/2)が後を継ぎ
聖都コンスタンティノープルを占領、
聖地イェルサレムとシナイ半島*5・ヒジャーズ地方を獲得した
オクタヴィウスは敬虔なプロテスタントであり
社会の統一のために宗教的権威の復興を目指した
また、この十字軍で攻勢的戦術研究を奨励した*6
1772年トスカーナとの密約でオーストリアに宣戦し
ヴェローナの戦いでラウドン将軍率いるオーストリア軍を破る
トスカーナはヴェローナ・トリエントを獲得し
イタリア王国を成立させた
オクタヴィウスは過去の辣腕を振るった名君たちと比べ
能力は平凡であり、議会にしばしば意見を求めた
議会は新たな領土と市場の獲得を訴えたが
既に人口希薄地の東南アジア・オーストラリアは完全に欧州国家の手に落ちていた
オクタヴィウスは東アフリカの雄ムタパを侵略の対象に選び
1776年宣教師の行方不明を口実*7に宣戦布告し
アフリカ東海岸地域を割譲させた
1770年代イギリスで工場制機械工業が本格化すると
ペルー地域の布産業は壊滅し*8
フランス系ペルー議員はイギリス製品の輸入禁止を主張した
オクタヴィウスも、革命で失われたイギリス王冠をタルボット家に取り戻す*9のを悲願にし
イギリスへの進出機会を窺っていた
オクタヴィウスはまずロシアに対して毛皮の不当な廉売の規制を要求する最後通牒を発し
1782年9月ロシアとその同盟国オスマン帝国・フランス・ロレーヌ・ポーランドに対して宣戦布告した*10
この対ロシア戦は、イギリスの同盟国でもあるブランデンブルクを忙殺するためのものであり
アメリカとの同盟に従ってブランデンブルク軍がポーランド・ロレーヌに侵攻したのを確認すると
オクタヴィウスはグレートブリテン王位を要求してイギリスに宣戦布告した*11
大陸ではハイデルベルクで11万のブランデンブルク・イタリア軍が13万のフランス・ロレーヌ軍を破る
追撃する勃・伊軍は21万に膨れ上がりスンダガウで12万の仏・洛軍と決戦、勝利した
戦場となったロレーヌ公国は荒廃し
オーストリアに攻め込まれライン地域の支配を失う
英仏海峡では米・勃海軍155隻と仏海軍100隻の海戦が起きたが
これもアメリカの勝利に終わった
イギリスは米陸軍20万の上陸の前になす術も無く
エディンバラで10万のイギリス軍は殲滅され
1785年スコットランド・イングランドの割譲で講和した
ロシアとの戦争は結局ロシアまで攻め込むことはなく
ロシア同盟国ポーランド領マリエンブルクのブランデンブルクへの割譲で講和した
ブランデンブルク選定侯は新たにプロイセン王の称号を得る
戦乱のなか、芸術・科学振興のためアメリカ芸術科学アカデミーが設立された*12
1787年オクタヴィウスはノルマンディー公を要求し
ノルマンディー・エノーに宣戦布告、これらを征服する*13
1790年オクタヴィウスは自身の政策の総決算として
合衆国銀行を設立し兌換可能な標準紙幣を発行した*14
全国的取引が活発し、商業の発展をみると
オクタヴィウスはさらに野心的な手を打った
1792年フランス王位を要求しフランス・ポーランドに宣戦布告*15する
しかしオクタヴィウスは落馬の事故によって死亡し
その息子フレデリック1世アウグストゥス(0/1/4)が後を継いだ
フレデリック1世アウグストゥスは皇太子時代から軍事的才能があり
即位直後にパリの戦いで14万のフランス軍を破る
しかし新皇帝には全く統治能力が無く、現状を無視した荒唐無稽な政策を唱えた
彼は欧州を統一しローマ以来の平和の実現を夢見て
徴兵制の強化、戦争税の大増税を含んだ勅令を出し
銃後の国民を驚愕させた
自由主義者は1758年のように再び反乱を起こし*16
指導者マクシミリアン・ウォリック(4/5/5)に導かれリッチモンドを陥れ*17
北米東海岸とメキシコ、西インド諸島、ペルーを制圧した
マクシミリアンは議会から穏健派を排除し
1795年帰国した皇帝を処刑し、王政を廃止する
そして自らは初代大統領の地位に就き
新しい議会を開き憲法制定の準備に取りかかった*18
新議会はまず継続中のフランスとの戦争の優位な終結を支持し
新たな徴兵法案を可決した
欧州フランスにおける戦闘は1795年に終結し
1796年北部フランスのアメリカへの割譲とポーランドのプロイセン地域のプロイセンへの割譲で講和した
戦争狂いの皇帝を革命で倒したマクシミリアンだったが
社会の戦勝熱に浮かれてさらなる戦争に着手する