なのでサーバーにもやさしく画像の添付は少な目のつもりだったのですが、すみません。
とりあえず、仮想の状態での出発なので皆さまの今後閲覧時の予備知識にと、アステカ関連のイベントは大目に記述、画像も入れておきます。
使用バージョン:steamプレイなので最新バージョン
DLC:全部有り
開始国家 :モンゴル帝国
開始年月日 :1224年
難易度 :普通
目標 :世界征服
その他の自分ルール:
・公爵、王爵は作らない、奪わない
・末子相続制を変更しない
・似非アイアンマンモード。負けたらやり直すとかなし
ちなみにCK2とはParadox社の姉妹ゲームCrusador Kings IIのことです。念のためw
首都はクズロルダ/Kyzylorda(サマルカンドの近くです。CK2のマップではそのプロヴィンスすべてを表示し切れていません。現カザフスタン在の都市)
モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・ハーンが1206年に創設した遊牧国家。
中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス (Yehe Monggol Ulus.png Yeke Monγγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。
テングリ教を国教とし、征西の過程でテングリ教を世界宗教に変質させていった。征服地に信仰を強要したためユーラシア西部においてその信者が多い。
モンゴル帝国は15世紀までにユーラシア大陸とアフリカ大陸の北部を覆い尽くすまでの拡大を続け、当時群を抜いた巨大帝国であり、人類史上空前の統一国家だった。
1444年時には東アジアでの支配領域を大きく失っていた。
シナにおいては黄河以南を明朝を立てた漢人に回復され、女真族は満洲を名乗り独立を果たしていた。
![]() |
15世紀中葉のモンゴル帝国 |
![]() |
世界史の英雄チンギス・ハーン |
1206年、モンゴリアを統一したテムジンはクリルタイでハーンに推戴され、以後チンギス・ハーンと称した。チンギスはのちの大帝国の基礎となる軍制を整え、一族に遊牧領民集団(ウルス)を分与して、東西に向かって拡張を開始した。1211年までにウイグルが服属。1214年には金朝を降して東アジアに領域を拡大。
1218年からは中央アジアのオアシス地帯に対して遠征軍を発し、現在のイランあたりに興っていた大国ホラズム・シャー朝に侵攻した。
同じ遊牧民のクマン族と同盟し北の安全を確保したチンギスは6万騎のモンゴル軍を使い、イラン高原から、メソポタミアへ侵入イスラム系諸国を征服した。
チンギスは初め、征服国では現地の諸侯の領地を安堵した。しかし、被征服諸侯があえて反乱するように仕向けてから討伐して、モンゴル人に領土を細かく分与た。
![]() |
チンギス・ハーンのもう一つの功績 |
テングリは世界宗教へと昇華した |
一方のクマン・ハンはハンガリーへ侵攻。これを征服したが、1239年ローマ教皇がハンガリー回復を提唱(ハンガリー十字軍)し、西欧諸国が延べ8万人を十字軍として送り込んだ。
戦争の初期には西欧軍が優勢で、チンギス・ハーンは同盟を履行し援軍に駆けつけ大いに西欧軍を打ち破るが、西欧軍4万がモンゴル軍2万をペストの戦いで破るとハンガリーの諸都市を次々に攻囲していった。
その戦いの中でチンギスは戦死。モンゴル軍は潰走した。
![]() |
第2代懺悔帝カジュ |
1240年、チンギスの末子カジュはクリルタイで第二代大ハーンに推挙されたが、当時13歳だったカジュ実権はなく、彼の叔父たちが3年間統治した。
モンゴルの皇位継承の混乱と西欧による十字軍を奇禍として、イスラム諸国がアラビアに対してジハードを行ったが、主力となったマムルーク朝で農民反乱が相次ぎ進撃が遅れ、十字軍ほどの兵力をもたなかったこともあり、オゴダイ率いるモンゴルの中東勢力に撃退された。
ジハードを撃退し帝位継承の混乱を平定したカジュはモンゴル軍を回復させ西欧十字軍に反撃を行った。
モンゴル本国から連れてきていた5万の騎馬軍は十字軍とジハードへの応戦ですり減り今は既になく、中核となる騎馬軍を創設したが、その数は僅かに5千。
カジュは征服したメソポタミアとイラン、ペルムからサマルカンドまでの草原とオアシスの民を動員し合わせて3万5千の軍をハンガリーへ向かわせた。
1246年9月 西欧諸国軍とブルガリア北部で決戦、モンゴル軍はこれに勝利した。
しかし、11月には主戦国のクマン汗国が降伏してしまい、ハンガリー諸侯は独立。遊牧民はテングリの聖地ペスト(CK2での話)を再び失った。
またこのとき、ブルガリアのいくつかの諸侯はクマン汗国から独立し、ギリシャのアウトクラトール(ビザンティン帝国皇帝)に臣従した。
1251年テングリの最高位僧の呼びかけでブルガリア聖戦に参加した草原の諸侯だったが、ギリシャのアウトクラトールが参戦しテングリ勢は一気に劣勢になった。
テングリを信仰する諸侯を支援すべく、カジュ・ハーンは聖戦参加を決定。軍をブルガリアへ進めた。
モンゴルの主力騎馬軍は30年前の勢いこそなかったが、それでもモンゴルは同盟国を3~5馬身引き離す活躍を見せた。
ブルガリア、ハンガリーはテングリの支配下となったが。その支配権はクマンのハーンにあった。
![]() |
海の彼方からの異人 |
1254年、アステカを名乗る国の使者がイングランドに上陸。
彼らはモンゴル人のような見かけと奇異な服装をし、太陽神を崇めている。
海を越えてきた未知のエキゾチックな人たちは言葉も通じない。
奇妙見かけの船で大西洋岸に沿って上陸できる全ての土地で、黒曜石、ビーズ、カラフルな羽や黄金と引き換えに土地を購入しようとしている。
彼らの申し出を拒否すると、あからさまに恐ろしい呪いと大海を越えてくる偉大な皇帝の力を思い知るがいいと脅された。(意訳)
![]() |
Sunset Invation |
3年後の1257年、アステカ人は約束?通り、日の沈む方角から大艦隊をもって大西洋岸一帯に攻め入り、数年のうちにイングランド、フランス、フリースラント、ポルトガル、アンダルシア、モーリタニアを征服した。
1269年5月ローマ教皇は異教徒に奪われた失地回復の十字軍を呼びかけるがアステカに大敗。(アキテーヌ十字軍失敗)
1273年5月天然痘の大流行。アステカが海を越えて持ち込んだ伝染病だという。西欧一帯に拡がった
1276年7月アイユーブ朝が失地回復を呼びかけるがアステカに大敗。(モーリタニアジハード失敗)
その間、カジュはグルジアや中東諸国を征服しつつ延べ8人の側室に26人の子供を産ませ1296年に他界した。
![]() |
第3代皇帝大胆帝アンバガイ |
アンバガイは即位直後に兄嫁に暗殺されかかるなど、帝位継承は混乱した。
末子相続制のモンゴル帝国は代替わりの度に幼君を立てることになり、毎度内乱をおこしていた。
そのかわり治世はとても長いものになることが多かった。
他に類を見ない巨大な版図を支配した偉大なハーンの跡を継ぐのは難しい。
各地で発生した叛乱をそれでも2年で平定したアンバガイは、モンゴル騎馬軍の再建に着手。
モンゴル本土から呼んでいた遠征軍ではなく、帝国西方領域で整備することとした常備軍として1万3千騎を用意した。常備軍は軽騎兵と弓騎兵で編成され、機動力と攻撃力をもって、反乱鎮圧と侵略の際の中核となるものと期待された。
アンバガイ・ハーンは征西再開の手始めにルーシ諸国を各個撃破しつつ北野平原を進んだ。
1285年には森林湖沼地帯に到達。そのままスカンジナビア諸国へ侵攻し、これを征服した。
![]() |
西の果ての珍味 |
1296年6月 モンゴルの宮廷でもアステカの珍味が食されるようになった。
アステカが彼らの遠い故郷クエルナバカからもってきたのは天然痘や戦争だけではない。
彼らの食事は(おそらく食べられる)いくつかの奇妙な植物を含んでおり、これらの多くは、現在ではヨーロッパとアラビアの宮廷でエキゾチックな料理として楽しまれている。
ココアと呼ばれる木の豆で作られた甘い飲み物『チョコレート』を試しながらアステカの商人との取引をし、進取の農民はポテトと呼ばれる植物を自分の畑で作付しているという。(CK2のイベント)
1297年にはノブゴロドを征服して支配領域をバルト海沿岸を南に拡大。同年チュートン騎士団を粉砕しドイツ騎士団領を征服した。(意訳)
![]() |
大草原の秋 |
1298年11月アステカからの使者がアンバガイ・ハーンに謁見。西の海の向こうの情報をモンゴルに伝えた。
曰く、アステカにとって、馬は恐怖の代名詞であったが、いまでは彼らの故郷アナワク渓谷で牧畜が確立されている。
アステカは騎兵連隊を編成し彼らのいう北の平原の叛徒を鎮撫するために大変効果をあげているという。
ショーン自治領とスー連邦はすでに、彼らの帝国に組み込まれているし、大西洋岸イロコイ自由都市国家の攻略に向けて邁進している。
大陸全体がテノチティトランの大帝都から支配されるのは時間の問題かもしれない。(意訳)
奇しくも、海の向こうでも騎馬軍は最も頼りになる兵種であるという。
妙な被り物をした者たちの話をうのみにするのはとどうかと思うが、全くの未知の島の話はエキゾチックで楽しめたし、彼らの献上品の多くは黄金細工であった。
1300年12月ヴェネチアの商人一行がモンゴル帝国を旅したマルコ・ポーロというものが記した本が欧州で人気を博しているとクズロルダの宮廷にも噂が伝わった。
マルコ・ポーロなるもの、どうやら東のクビライの家臣だった者のようだが、先のアステカ商人のいう西海の向こうの情報と合わせると、どうやらこの大陸の東西には黄金の島があるらしい。(CK2のイベント)
![]() |
東方見聞録 |
その後1302年5月にアキテーヌを支配するアステカに対する十字軍が成功したと成功の知らせに続き、1306年8月にはアラビアのカリフがアンダルシアジハードを開始したと伝え聞く。
どうやら、先の2つの使者団は同盟を求めていたのか?と合点?がいく。
イスラム諸国への征服事業はスカンジナビア半島とルーシの平原を席巻した騎馬軍を南に移動させ、新規に増設した連隊?を合流させて開始した。
1312年にはメッカ征服。1321年にアイユーブ朝からアラビアと西方宗教の聖地エルサレムを奪った。
しかしその後、北と南で独立を求める叛乱が相次ぎ、アンバガイ・ハーンの征西事業は休止せざるを得なくなったが、その間、ブルガリアに対する聖戦に%名目だけ%参加。モンゴル帝国の藩屏によって征服はなされた。
セルジューク朝はテングリとの聖戦に敗れたビザンティン帝国を1323年に滅ぼしたが、1336年のローマ教皇の第三回東方十字軍に大敗。ようやく手に入れたコンスタンティノープルを失い、聖ヨハネ騎士団領がギリシャに成立した。
カソリック国への征西の再開は1341年に入ってから行われた。バルト海南岸から攻め入ったモンゴル軍はポーランドを数か月で降伏せしめた。1343年には神聖ローマ帝国からボヘミアを奪いそのまま軍を南へ進めクロアチアを征服した。このころからモンゴル帝国は被征服国の降伏を受け入れるようになったため、帝国の拡大速度は上昇していった。
1340年代に入ってからの征西の結果、アンバガイ・ハーンはモンゴル本国からブルガリアへの道をクマン汗国を北に迂回する形で形成。
逆に包囲されることになったクマン汗国との関係は悪化していった。
![]() |
第4代大ハーン トクタミス |
トクタミスも汗位継承の際に3度の内乱を経験した。モンゴルの内乱が完全終息に至るには丸5年を要した。
1350年、3度目の内乱の平定を終えたトクタミス・ハーンは征西を開始した。
ハンガリーがクマン汗国に独立戦争を挑んでいたため介入したトクタミス・ハーンだったが、この頃から消耗が激しくなってきた攻城戦の損耗回復資金が続かず、攻城戦を強襲から攻囲に切り替えたこともあってハンガリーの征服が終了したのは1353年4月だった。
トクタミス・ハーンは戦争のもうひとつの当事国クマン汗国に宣戦し、その全領域を帝国に取り込んだ。しかし、クマン汗を諸侯として残してしまったため後々の禍根となった。
1355年にはアラビアで叛乱が発生。トクタミス・ハーンは現地召集軍を率いこれを制圧するが、トクタミスは負傷し顔に大きな傷を残すことになった。
シリア、アラビア半島、イスラエルを征服して今まさにエジプト侵攻を開始しようと兵力を集結させていたトクタミス・ハーンに悲報が届いた。
![]() |
ティムールの乱 |
1361年2月26日、バルラス部族出身のイスラム化したモンゴル人ティムールの興したティムール朝がサマルカンドに襲来した。
エジプトを征服するためにモンゴル軍主力がイスラエルにいたため、一時はカスピ海東岸一円がティムール15万騎に占領され略奪された。
モンゴル軍はこのころまでに(回復可能な)常備軍として4万騎をそろえていた。モンゴル軍は4万騎で機動防御を行い、帝国全土で召集した軍をカスピ海東岸に終結させるまでの時間を稼いだ。
この大移動の際にモンゴルは初めて水軍を大量に用いた。バルト海北極海の兵力は海上輸送で黒海へと運んだため、兵力の集結は予想以上に順調に行えた。以後、水軍による海上輸送はモンゴルの主要戦術の一つになった。
1363年中にはティムールを駆逐、トクタミス・ハーンは東部領域を回復したが、その後帝国各地で反乱が頻発し、ティムールショック後の秩序の回復までに7年を要した。
西欧では1366年12月に対アステカの失地回復が呼び掛けられ(フランス十字軍開始~69年7月)王侯がこぞって異教徒に戦いを挑んでいた。
![]() |
テンプル騎士団領成立 |
1370年、西欧の混乱によってモンゴルの正面ではカソリックの動きがめっきり少なくなっていた。
機は熟したと判断したトクタミス・ハーンはティムール襲来によって延期されていた征西を再開。
モンゴルによるシリア侵攻中に、フランス十字軍でカソリックが勝利し、1372年フランス北部にテンプル騎士団領成立したと伝わった。アステカの地がまた一つ削られていった。
トクタミス・ハーンは西にアイユーブ朝を破り、軍を返してアナトリアを支配していたアニ汗国(セルジュークを滅ぼした)を征服。1372年にはギリシャを支配する聖ヨハネ騎士団領に宣戦。
トクタミス・ハーンはこれを東西からの挟撃と海上輸送(強襲上陸作戦)で攻撃し、1373年までに征服を完了した。モンゴル帝国は念願のコンスタンティノープル支配に成功した。
トクタミス・ハーンの征西の矛先はアフリカに向けられた。1374年にエジプトを征服し、1378年にはエチオピア征服。しかし、クマンに続いてエジプトとアラビアの王位継承権を持つカリフを国内に残したことにより先々反乱に悩まされることになった。
トクタミス・ハーンは被征服国の王を藩屏としつつ改宗を進めながら、モンゴルの封建法を強化していった。これがさらなる叛乱勃発の原因となった。
1385年から2年間続いた大規模な内乱が治まるとトクタミス・ハーンは征西再開のため軍主力を沿岸部に集結。海上輸送でアフリカ北岸へと輸送した。
1382年からアフリカ北岸を西へ征服をつづけ1385年にはついに西アフリカのアステカと接触していた。
兵力の集結が終わった1389年6月アステカに宣戦しアステカ領モーリタニアに侵攻した。
![]() |
衣装がかっこいい。特に鳥の被り物はしゅんいつ! |
思えばこのときからAZTECに憧れていたのかも |
1390年1月には西アフリカ内陸部の最後のイスラム教国マリに侵攻。1393年には完全征服した。
アフリカの奥地からジブラルタル海峡まで兵力を戻し、トクタミス・ハーンは1394年イベリア侵攻を開始した。
![]() |
アラルコンへ侵入 |
1395年にはアラゴンを支配していたピサに宣戦。しかし、カソリック諸国の団結に苦戦。
アラゴンを征服していたピサとモンゴル領イベリアの間に突然現れたチュートン騎士団領に加え、教皇がギリシャ十字軍を提唱したため戦争は長引いた。
さすがに4万の騎兵軍だけで戦おうとはカソリックの牙城を侮りすぎであった。
![]() |
1401年ローマ陥落 |
1401年にカソリックの総本山ローマを陥落させるも、1403年トクタミス・ハーンは戦いの最中、71歳で他界した。
![]() |
第五代大ハーン ダヤン |
ダヤンは父トクタミスとドイツ人の母から生まれた金髪碧眼の皇帝だった。
![]() |
トクタミスは治世の後半で得た息子を自ら大切に育てた。 |
ダヤン・ハーンはモンゴル史上最も皆から愛されて皇帝となったといわれた。
先の皇帝たちと何が大きく違うのかといえば、ダヤン・ハーンは史上唯一成人した後継者であったととだとろう。
父の戦争を引き継いだとはいえ、ダヤン・ハーンは即位後2年でブリテン島のチュートン騎士団領を占領し、カソリックのカウンターインベーション戦争は終わった。
1406年2月クマン汗国のアサロップ・ハーンを中心にモンゴル帝国を揺るがす大規模な叛乱が発生した。
![]() |
モンゴル史上最大の叛乱 |
先帝以来の外交努力が実りアラビアのワリイド・ハーンが加わらなかったのは幸いだったが、
ダヤン・ハーンが当初叛乱は2~3年で終わるとした予想を裏切り長期化した。
アサロップ・ハーン率いる反乱軍は攻囲戦が上手く手早く開城に持ち込んだため、ダヤン・ハーンは1408年秋には(-97%という)あわや敗戦という状況に追い込まれた。
内乱の長期化はいつの世にも隣国の益、自国の損であった。
長期の内乱の間に先の戦争で奪ったばかりのジェノヴァがイタリアに吸収され、サルディニアは教皇工に恭順。モスクワ部とオレブロ族が独立割拠するにいたった。
結局、モンゴル帝国を二分した足掛け21年に及ぶ大乱は1427年1月22日にマリを完全占領し、叛乱の盟主クマン汗国アサロップ・ハーンが降伏して終わった。
モンゴル国内にはダヤン・ハーンに逆らえる者はもはやいなかった。
ネゲヴのスルタンですら改宗に応じたほどだった。
1414年2月に鄭和の大航海。漢人が船でアラビアに到着した。
![]() |
東の元朝に叛乱した国のくせに |
モンゴルに連戦連敗のカソリックの権威が失墜し西欧の宗教が異端に染まりつつあった。ロラード派が(EU4のプロテスタントのような成長ぶり)急速に求心力を得つつあり、キリスト教圏でも内乱の兆しが芽吹き始めていた。
![]() |
EU4の様だ。色的にはテングリがプロテスタントっぽい |
ダヤン・ハーンが次に行動を起こしたのはイベリア方面だった。
1427年11月に始まったレオン、ポルトガルの征服が完了したのは3年後で、この戦争の間にダヤン・ハーンの食指はその東隣へと向けられた。
このころのフランスは北部をテンプル騎士団が支配し、南部は支配者が目まぐるしく代わって落ち着かなかった。
南フランス(アキテーヌ)の支配者はアキテーヌ王から一時トゥールーズ公が支配、そのあとすぐにブルターニュ王に代わったばかりで、好機と見たダヤン・ハーンはブルターニュ王に宣戦。征服を開始した。
![]() |
ブルターニュ征服 |
1431年11月、ブルターニュ王とダヤン・ハーンが相対したメーヌ会戦でブルターニュ王が捕虜となったためブルターニュは降伏。ブルターニュ、アキテーヌ、プロヴァンス、カスティーリャ、南アイルランドから成るブルターニュ王国は開戦後1年で地図から消滅した。
ブルターニュ領南アイルランドを征服したことによってアイルランド南部からスコットランド、イングランドと攻め込む陸の路(陸だけじゃないけど)ができたことにより、ブリテン島征服の目途が立ったダヤン・ハーンは高齢であり自分の治世のうちに何としても征西を終了させたかったこともあり、1432年末にスコットランド侵攻を開始した。
![]() |
スコットランド侵攻の図 |
1434年3月、スコットランドの仕置きをすませたダヤン・ハーンは時をおかずアステカ領イングランド攻略を開始した。
南岸にテンプル騎士団が上陸してアステカ領イングランドを少々かすめ取ろうとしてきたが、彼らの攻囲が終わらないうちにアステカ領イングランドは降伏。
![]() |
明るい灰色で紛らわしいテンプル騎士団領 |
1435年11月、先のイングランド征服戦に介入して漁夫の利を得ようとしたテンプル騎士団17000はブリテン島南岸に残ったままだった。
ダヤン・ハーンはこれに謀略を仕掛け(こちらのユニットをスタックしてに宣戦。即殲滅。勝利点を大きく稼いだ)全滅させた。
全くと言っていいほど被害がなかったモンゴル軍を大陸へ輸送したダヤン・ハーンはテンプル騎士団領の首府パリを強襲し落城させた。
そのころ神聖ローマ帝国はロラード派を信奉するドイツ諸侯が叛乱して内乱状態のうえに、ローマ教皇からドイツ十字軍を宣言されていた。
ダヤン・ハーンは旧テンプル騎士団領に集結していたほぼ無傷の7万の常備軍を神聖ローマ帝国領内へ進軍させた。
侵略は順調に進んだかに見えたが、オランダやオーストリアの独立戦争が失敗に終わり、ロラード派諸侯も対モンゴル戦に加わったため、戦争は長期化した。
宗教にかかわらず、時は無情で平等だった。
1439年5月神聖ローマ帝国征服戦争の最中、ダヤン・ハーンは74歳で没した。
![]() |
第六代大ハーン チャガタイ |
二代続けて戦争中の皇位継承となったモンゴル帝国だったが、神聖ローマ帝国への侵略戦争はすでに終盤であったため、大きな混乱は発生しなかった。
皇位継承から半年後の1439年11月24日、神聖ローマ帝国は降伏、滅亡した。
チャガタイ・ハーンは1440年にイタリア侵攻を開始。
南北アルプス周辺を支配するフェラーラへ28000騎をもって侵攻した。
続けてシチリア王国、教皇領にも宣戦し3国同時侵攻となったが、同一戦域であったため、モンゴル軍の圧勝は揺るがなかった。
1445年12月5日、ローマ教皇がモンゴルの皇帝に跪いて許しを請い、戦争は終わった。
ここに1218年チンギス・ハーンのホラズム侵攻から始まった足かけ225年におよぶモンゴルの征西は終了した。
![]() |
War is over |