チュートン騎士団、リヴォニア騎士団を属国化し、着々と力を蓄えつつあるポーランド。
AEも危険水準に達していてしばらく拡張はできないし、HRE構成国を殴るとオーストリアが黙ってはいません。モスクワがノブゴロドを滅ぼすにはまだ時間がありそうです。
こんなときに何をすべきか?
私はwesternizationと答えます。
オスマンのような大国だと技術差がつくまでの間に大国化しすぎてwesternizationの負担が大きくなりがちで、技術グループごとのユニット差があまりなくなった現バージョンではそもそも必要すらないかもしれません。私もオスマンで完走した時にはスルーでした。
一方、ポーランドはというとボヘミア、ブランデンブルク、ポメラニアとwestern技術グループの3国と初期から国境を接していて条件を満たすのは容易な上に、Mazovia・Moldavia・チュートン騎士団と3つ属国を併合したとしても、westernization中の補正が入れば月の収入が15ダカットを切るので最速でwesternizationを達成することが可能です。
ポーランドは1479年1月にwesternizationを開始することを決意します。
このときの技術レベルはADM5、DIP3、MIL5でボヘミアと技術差が7ついていました。
MILポイントでharsh treatmentを連打し、苦難の時が終わるのをじっと待ちます。
そして1485年10月にwesternizationを完了しました。
westernizationの混乱を乗り越えたポーランドはneighbor bonusの恩恵も受けつつ、飛躍的な技術革新を遂げます。コペルニクスの登場はその象徴と言えるでしょう。
ポーランドはハンガリーの他にモスクワ、デンマークからライバル指定を受けていましたが、どの国もオーストリアと強固な同盟で結ばれたポーランドに直接手を出そうとはしませんでした。
オーストリアにとってもポーランドとの同盟は対フランスの帝国防衛のために重要な意味を持っていました。
フランスは早々100年戦争で勝利を収めると、精力的にブルゴーニュから領土を切り取っていきました。フランスリージョンの回収が終わると今度は神聖ローマ帝国内の小国群に領土的野心を剥き出しにし、しばしば侵略を試みていたのです。
オーストリアはポーランドと共同戦線を張ることでフランスを撃退し、皇帝としての権威を高めていました。
オーストリアとポーランドの王室は代々婚姻を重ね、ポーランドがハプスブルク家から国王を迎えることも珍しくありませんでした。
そんな折に両国を苦しめたのは外国の侵略よりもむしろ国内の宗教的混乱でした。
ポーランドはこの宗教的混乱を重く見て、技術レベル的には十分に可能であったにも関わらず、コモンウェルスの形成を遅らせ、国内の宗教的統一を急ぐことにします。
最初のアイディアグループは外交を選択していましたが、次のアイデアグループには宗教を選びました。また対抗改革が始まるとすかさずこれに倣い、カトリックの教えに帰依するように国民を諭しました。
宗教的混乱から解放されたポーランドが真っ先にしたのは長らく同君連合を組んできたリトアニアと統一国家を樹立することでした。
ポーランドは多くの人種が存在する多民族国家でしたが、特にリトアニアとは同化が進み、もはや両者を区別するのも困難なほど、一体化は進んでいました。
1531年、ついに両国はコモンウェルスの名のもとに統一されました。
以下はそのときのデータです。
陸軍の扶養限界はスペインと並んで世界でトップになっています。
一方で収入はスペインの約3分の2に過ぎません。
主要貿易港をDanzigに移し、貿易による利益を増やしてはいるのですが、やはり1州あたりの基礎税が低いことやtrade nodeの位置が不利なこともあり、収入で世界一になるにはさらなる拡大が必要となるでしょう。
周りに目を向けると、ノブゴロドをほぼ死に体まで追い込み、遊牧民を草刈り場にしているモスクワが巨大化しています。
旧リトアニア領にロシア人居住地域がかなりあることもあって、モスクワはこちらへの敵愾心を隠そうともしません。
コモンウェルスはモスクワをはっきり倒すべき敵と認識しました。