AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興

前回のあらすじのような何か

なんか変なのが来た

z.png いやちょっと待って、この顔はたしか百年前の大提督・・・

g.png 姓が鄭か、それとも名が和なのかの?

w.png ? 僕は熊小摁だよ。鄭和って誰?

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t.png 予想外の名前と明人らしからぬ無学の同時カミングアウト。

g.png 先が思いやられるのー

何があった

g.png 白状すると、新しい外交官の名前をそれらしいやつにしようと、正統帝がリセット*1*2を繰り返してのう・・・ようやく鄭其昌(Qichang Zheng)という名前が出たのを確認してから前回の締めをしたんじゃが、一年後に奥斯曼(オスマン)帝国・莫斯科(モスクワ)連合軍に袋叩きに遭うという大惨事が起きたのじゃ・・・

z.png 結局うまくいった世界線では、鄭でも和でもない、そもそも人名らしくもない謎外交官とやっていくことになった、しかし前章の画像を差し替えるわけにも行かずと・・・

w.png はい、その話はもうおしまい!朝貢・改革担当の熊くんが中華帝国改革を解説するよ!

t.png あ、もうその名前で押し通していくのね。

Make China Great Again

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w.png 現段階で開放しているCelestial Reformは2段階。Meritocracyを上昇させる「改土帰流(Introduce Gaituguiliu)」と、貿易効率を上昇させ外交官を追加する「海禁改革(Reform Seaban)*3」だよ。

t.png それで新外交官として熊が来たってわけか。

w.png 三帝冠プレイでは今後も外交官の数が結構変動するらしいよ。それはそうと、この改革はHRE改革と違って皇帝にしか効果が無いし、開放のために重い代償を払わなきゃいけないんだ。

z.png 天命(Mandate)-50と安定度-1ですか。改革のたびに帝国がぐらつくのは面白いシステムですね。

g.png こちらとしてはたまったもんじゃないが、まあ様々な特典を享受してもおるから仕方ないのう。

w.png 後々はコア化コスト削減とか「新皇帝の統治力+1」とか美味しい効果がそろっているけど、全部開放しても何か起こるわけではないよ。

Great Chinaとは一体

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g.png リセマラの混乱のおかげで7年ほど記録が消し飛んでおる。この第三次奥斯曼(オスマン)戦(1510年1月13日終結)も何時始まったのかとんと見当がつかぬ。何でも帖木儿帝国(ティムール朝)の半分撒馬爾罕(サマルカンド)ノードを吹き飛ばし、必死に莫斯科(モスクワ)と関係改善して居た事丈は記憶して居る。

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g.png 埃迪爾內(エディルネ)を占領したうえで土下座じゃ。

z.png 今は覇権争いとかしている場合じゃありませんからね。波蘭立陶宛(ポーランド・リトアニア)戦線はどうですか?

t.png こっちはもう慣れたもんだ。mothballしていた要塞群に強襲を仕掛け続けて、ほんの5か月でこの有様。

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z.png 一回壊滅させられてリセマラを覚悟したり、奥斯曼(オスマン)に攻められて泣きついてきた馬木留克(マムルーク)を蹴ったりと色々ありましたが、何とか目当てのプロビは確保しました。(1511年1月3日 - 1513年12月2日)

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w.png ん?これで計画通りってことは、正統帝は条顿(チュートン)骑士团を食うつもりなの?

g.png うむ。ここまで来て今回の方針が定まったらしい。前回プレイでは非洲(アフリカ)葡萄牙(ポルトガル)を殴って伊比利亚(イベリア)半岛上陸、法国(フランス)に変態した*4が、海軍の弱い今回は地中海を渡るのは難しい。*5早々に‘'普魯士''(プロイセン)に変態し、陸軍で殴る筋書きで行くぞい。

z.png ではそのように。瑞典(スウェーデン)独立戦争のおかげで丹麦(デンマーク)莫斯科(モスクワ)が封じられていますから、とっとと併合しちゃいましょう。

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w.png 敵と同盟している朝貢国(立窝尼亚(リヴォニア)骑士团)って、宣戦布告では×が付いているのに大抵裏切ってくるんだよね。

t.png 実際裏切るかどうかは内訳を見れば確認できるし、どちらにしろ大した違いじゃねぇな。一気にバルト海まで突っ切って立窝尼亚(リヴォニア)骑士团は早々に金で解決、‘'普魯士''(プロイセン)化に必要だという柯尼斯堡(ケーニヒスベルク)瓦爾米亞(ヴァルミア)エルムラント(Ermland))、但澤(ダンツィヒ)を獲得したぞ。(1514年3月20日 - 1515年11月11日)

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長きにわたる自己との闘争の始まり(またの名を自作自演)

バーンヒューヒュー

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w.png お、早速瓦爾米亞(ヴァルミア)信義宗(プロテスタント)に改宗したって。

z.png ふう・・・びっくりしました・・・てっきり青州に放置していた宣教師が改宗に成功してしまったのかと。

t.png そういや基督教に改宗する話はどうなったんだ?

g.png それがじゃな、第3章で得意顔で紹介した「Catholic Zealotsを生成する方法」がなぜか使えなくなっての。何をしてもQi Separatistが消えなくなりおった・・・リセマラの中では1550年代まで行っても解決できなかったこともあったんじゃ。仕方がないのでOpen China系列イベント第四弾の発動を待つことに・・・

w.png あれ、言ってるそばから青洲にCatholic Zealotsが出てるよ?

g.png え・・・ええっ!?

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t.png あ、分かったかも知れねぇ。調べてもそれらしい記述がさっぱり無いんだが*6、実のところ「天命が50を下回ると反乱タイプが固定される」仕組みになっているんじゃないか。おそらく反乱タイプを変えて進行度をリセットする手を封じ、反乱を起こしやすくしているんだろう。

z.png そういやイベントで天命+5が入ったばかりでしたね。

g.png ならば今が好機じゃ。プロビのUnrestは宣教師派遣で+6、不忠な聖職(Shizu)Estate管理下で+5が入る。周りに戦争を吹っかけて戦争疲弊やOEを上げ、National Unrestを稼ぐのも手じゃ。

アジアの覇者、ヨーロッパの聖人(またの名を財布)

z.png こちら東アジア戦線。察合台(チャガタイ)葉爾羌(ヤルカンド)を2度の戦争で滅ぼし(1517年2月14日 - 1518年4月15日、1531年12月2日 – 1532年7月27日)、小部族に転落していた韃靼(モンゴル)(1517年11月11日 – 1518年3月26日)、康區(カム)(1527年6月15日 – 1530年1月17日)も併合しました。瓦剌(オイラト)も併合を考えましたが、手っ取り早く朝貢させることにしました。

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t.png こちら西アジア戦線。帖木儿(ティムール朝)(1519年11月3日 – 1520年7月19日、1535年1月2日 – 1535年8月7日)は無事に消滅した。*7西半分を朝貢国の波斯(ペルシャ)に、南部を俾路支斯坦(バルーチスターン)に取られたが仕方ない。

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w.png こちら欧州!第二次対明包囲網戦争だよ!(1530年1月16日)

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g.png ん?この面子でかかって来おるのか?1516年に奥斯曼(オスマン)対策として奥地利(オーストリア)*8と組んでおるゆえ、数では負けん。11万対9万5000、これなら正統帝でも十分勝てるわ!

z.png ・・・列強の数が偏っています。こちらが明奥の2国、敵は波1国。これでは敵側に介入される恐れがあります。(RoM要素)

w.png あ、奥斯曼(オスマン)が飛び入り参戦してきた。(1530年4月10日)

g.png グッバイまた14年後!!!

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t.png まあポジティブに考えれば、奥斯曼(オスマン)が参加してくれたおかげで敵対国を丸ごと停戦期間の彼方に追いやったことになるな。奥斯曼(オスマン)については朝貢国を攻められる場合があるが。

g.png 朝貢国攻めの対策はリセマラ中に確立済みじゃ。あらかじめ奥斯曼(オスマン)に100近いスパイ網を張っておくと、下画像のように近々侵攻する先が把握できるので対象国を朝貢破棄すればよい。スパイが露見して巻き込まれるのを防げなかったならば、参戦したうえで即刻土下座。貴重な天命を無駄にせずに済む。

z.png 毎度ながらチキン戦法の連続ですね。しかしこれ以降の明の改宗運動期間中、なぜか奥斯曼(オスマン)は静寂を保ってくれました

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w.png もう戦力にならない奥地利(オーストリア)は用済みだね。未だに俄罗斯(ロシア)になれない莫斯科(モスクワ)*9、そして珍しく奥斯曼(オスマン)をEnemy扱いしている法国(フランス)と同盟を組み直したよ。

z.png 最終的に欧州征服する際には、この両国がラスボスになるでしょう。その前にいつ俄罗斯(ロシア)を生み出して西伯利亚(シベリア)植民させるかが一つの問題ですがね・・・

宮廷のドロドロ

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t.png 時代遡って1518年6月。おなじみXiaoren?がポップしたぞ。

g.png 戴基(0, 4, 6)に代えて(3, 5, 1)じゃと・・・?なぜ合計値をわざわざ下げねばならん、ということで却下じゃ。

2年後

w.png 名君成化帝が身罷られたよ。(1520年9月20日)この能力で享年59歳、在位32年ってのは驚異的だね。

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z.png 次の帝は弘治帝戴基ですね。・・・あれ?この皇太子、見覚えがありますね。

g.png (3, 5, 1)が(3, 4, 1)に落ちたとはいえ、この似方は同一人物としか思えんのう。朱雄英、この子こそ嗣子でありながら反朱戴基派に担ぎ上げられた「貴族」だったというのか・・・!

z.png Xiaoren?イベントは脳内補完のためには素晴らしい要素ですよね。

この会話は「おまけ」に入るものだと誰もが思っていた。
そう、あの衝撃的な事件(RP的に)が起こるまでは・・・

第一次泰平楽土の乱

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g.png よぉし!ついに青洲でCatholic Zealot蜂起じゃ!(1531年4月)

w.png たった2プロビの康區(カム)戦に3年かけ厭戦を溜めたり、進行度を高めるためだけに基輔(キエフ)をState化したりした甲斐があったね!

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z.png 現段階で天主教會(カトリック)の割合はわずか2.5%。ここから一つずつプロビを塗り替えて、支配的宗教に持ち上げなければいけません。

t.png 北京を占領されてしばらくすると反乱が「成功」してしまい、占領地域のAutonomyが上がるだけで終わってしまう。近郊に軍を待機しておいて、反乱軍占領後すぐに取り返せるように準備しておかなけれb

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g.png 弘治帝崩御・・・(1533年5月7日)

w.png えっうそ・・・絶賛北京包囲中じゃない。

t.png 禁軍ハ君ヲ守ル能ハザル己ガ身ヲ恥ジ・・・何もしない。

z.png デスヨネー

g.png 正徳帝雄英(3, 4, 1)が即位し、朱瞻埏(4, 4, 4)を立太子。年からして子ではないが、正徳帝立太子の経緯から弟とも考えられんのう。能力が正徳帝の祖父成化帝に似ておるし、従弟ということにしよう。成化帝には及ばぬが、バランスの取れた名君の登場が期待できるのう。

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t.png 北京は城壁破壊・強襲ですぐに奪還したが、肝心の反乱軍が突然瓦剌(オイラト)方面に走り出したぞ。*10明領の外は占領しないようだが、何をするつもりだ?

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w.png あっ・・・兵士の画像が消えた!

g.png それは当章から導入した軽量化Mod“Fast Universalis”の仕業じゃ。*11それよりも大変なことをしてくれたのう・・・このままではCatholic Zealotが消滅してもう一度沸かせるのが困難になるんじゃ。

z.png 残っている反乱軍の占領地を放置すればそのうち新手が沸くのでは?

g.png 中華帝国において、それはなかなか難しい問題なんじゃ。こういう時に限って朝貢国が従属国家面して反乱鎮圧にやってくるからの。

w.png 手下に鎮圧されたくなかったら、親分が鎮圧するふりをしていればいいんじゃない?

g.png ふむ。一理あるのう。高歓、特務命令じゃ。残っている反乱軍占領地域3プロビに軍を置き、「占領しそうになったら一瞬離脱するそぶりを見せ、また元に戻る」のを繰り返し、一か月弱ごとにひたすら占領進行度をリセットしつつ占領行動をし続けるのじゃ!

t.png 何だそれは!正統帝も「ここまでフラストレーションの溜まるEU4プレイはなかなかない」ってぼやいてたぞ。

z.png 一瞬でも目を離したらすべてが水の泡ですよ。頑張って。

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こうして明史上最大の偽装作戦(笑)が始まった。(1535年4月24日)

官製反乱

g.png さて、こちらもできる限り早く新手の反乱軍を出さねばならん。高歓と正統帝の集中力が切れる前にの。

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g.png 反乱進行度が40%以上になると、そのRebel Factionが活動しているプロビの反乱タイプは固定される。高Unrestの異教プロビに次々に宣教師を送り、反乱タイプをZealotに塗り替えることもできるんじゃ。

z.png Unrestを-6まで下げるという話は?

g.png よう分からんが、実際Unrest+17のプロビに宣教師を送ってもZealotsが発生したのう。謎じゃ。

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w.png Spread of Christianity発生。凌雲(Lingyun)貴陽(Guiyang)天主教會(カトリック)に改宗したって。(1537年10月19日)

g.png これじゃ。Open China系列イベント第4弾、これを待っていたんじゃ。

z.png The arrival of the Jesuitsで天主教會(カトリック)を容認した後、広西、西広東、東広東の中でランダムの2プロビに天主教會(カトリック)が発生するイベントですね。しかし今となっては天主教會(カトリック)が少し増えただけのような気もしますが。

g.png 重要なのは立地じゃ。前回の青洲のように北方のプロビに反乱軍が発生すると、北京を目指したり北方を彷徨って大国に潰されてしまったりする。南海に近い広西および澳門から反乱軍が発生すれば高確率で儒教プロビを占領してくれるし、高プロビの江南地域がひっくり返るのも期待できるからの。

第二次泰平楽土の乱

t.png うう・・・反乱はまだか・・・1か月ごとにピコピコ軍を動かす苦痛から救ってくれる反乱は・・・やった!ついに反乱軍第2弾だ!

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z.png ・・・武定(Wuding)に。(1538年11月)

g.png また北京周辺が荒らされるのを待つしかないのかの・・・

w.png この後の流れは年代記後半で詳しく述べるよ。ここまで反乱軍の動きを実況して応援するAARもなかなか無いだろうね。

g.png この頃は反乱軍の一挙一投足に一喜一憂して、本当に他の事に目を向けておらんかったからのう。

基督の勝利

10年以上の時が流れた。何だかんだで反乱軍は南海に到達、味方を増やしながら元気に中国を荒らしていた。

t.png 長々とワガママなZealotに振り回され続けてきたが、何となくその進軍する性格が分かったような気がするから箇条書きでまとめるぞ。ただ各項目の優先順位は分からなかった。

g.png ところで、第3章で「もう一つ」を断念する、と言ったの。あれは嘘じゃ。

t.png 前言撤回を撤回するのか・・・

g.png 正統帝いわく、そのもう一つ、Open China系列イベント第五弾が「存在している意味を理解していなかった」ことに気づいたそうじゃ。詳しくは次回に回すが、反乱改宗と「もう一つ」は両立する、というより本来組み合わせるべきものじゃったんじゃな。

z.png ※実のところ至極当たり前のことを言っているのですが、正統帝が受けたショックの大きさを鑑み無駄話を続けております。

g.png どちらにしろ、目指すのは天主教會(カトリック)をDominant Religionにする、という事に変わりない。既に儒教や伊斯兰(イスラーム)を抜いて3割近くのシェアに達しておるが、まだまだ道は遠・・・

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g.png ・・・ふぁっ!?

NEXT










おまけ

リセマラに至った諸事情(自虐ネタ)

z.png 色々ありましたねぇ・・・(オスマン)(ロシア)連合戦から始まって、平均より5も低い軍事レベルのまま毎月-100ダカットの赤字に陥ったり・・・三下の巴赫曼尼(バフマニー)に各個撃破された上で包囲網結成コンボをくらったり・・・AE管理のために但澤(ダンツィヒ)を解放独立させたらHREに加入されて属国化できなくなったり・・・

t.png 天命0で奥斯曼(オスマン)帝国と正面衝突して国軍まで0になったり・・・查士丁尼(ユスティニアヌス)を気取って卡斯蒂利亚(カステラ)に全軍で遠征したら奥斯曼(オスマン)海軍に封じられて中国本土が緑色に染まったり・・・

g.png オオオ・・・やめい、やめるんじゃ・・・1 October 1503の日付を繰り返した記憶など思い出しとうない・・・

w.png さすがの正統帝クオリティ。世界線の潰し方が雑。

陽明学

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w.png 何これ。ネオ儒教だって。(1513年12月18日)

t.png 陽明学イベントだな。よく分からんが王陽明は超絶優秀な将軍(史実)だから、ぜひ受け入れようじゃないか。

z.png 残念ながらそういった効果は無いみたいですよ。異端寛容度が上がるようですけど、儒教にとっての異端って何です?

g.png 東方宗教グループ、すなわち仏教と神道じゃな。今はそこまで必要ないが、基督教に改宗した際にはお世話になる効果じゃろうの。

などと供述しており

z.png 奥斯曼(オスマン)波兰(ポーランド)に宣戦布告したようです。

t.png このままでは隣接されて天命に大きなペナルティが付いてしまうな。どうすればいい?

w.png はいはい!奪われちゃマズいところにInterestをつければ、明に睨まれるのを恐れて奥斯曼(オスマン)も取りに来ないと思います!

t.png (・・・?)

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その後

z.png Interestをつけていた2プロビだけ奥斯曼(オスマン)に取られました。

g.png そりゃライバルの目標をくじくのは基本じゃから当然じゃろ・・・もとより奥斯曼(オスマン)には舐められきっておるし。仕方ない、扎波羅熱(ザポロージャ)を属国作成して緩衝国にせん。

w.png ふえーん

天皇海山链*12

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z.png 今更になって気づいたんですけど、太平洋の一角、天皇海山链(Emperor Ridge)がぽつんと可視域になっているんですね。

g.png その海域とワープで行き来できるわけでもないんじゃがのう。おそらく、ネタとして日本(リーベン)の可視域になっているのを中国も共有しているんじゃろうな。

Institution

w.png 1533年5月24日、文艺复兴(Renaissance)殖民主义(Colonialism)を一気に受容したよ。

g.png 成化帝のおかげで君主点が余り過ぎて、結局殖民主义(Colonialism)も単独で自力受容してしもうた。行き当たりばったりで済まぬが、第2章冒頭の話は忘れておくれ。

t.png 1550年1月、時間通りに隆德(Lund)*13印刷机(Printing Press)が発生したぞ。最後の自力受容はどこに君主点をつぎ込もうか。

z.png 少しでも天主教會(カトリック)の割合を増やしたい所ですから、第二次泰平楽土の乱の発祥地武定(Wuding)を開発しましょう。1552年9月11日にプロビ受容が終わりました。

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t.png しかし天主教會(カトリック)地域で発祥とか、年代記のネタになりそうなことをその時点では無意識にやるのもまた正統帝クオリティだよな。

問題児

z.png 今回、2回ほどオスマンと無関係のところで朝貢国からの参戦要請を拒否しました。

t.png またなぜに?

w.png 米蘭(ミラノ)曼托瓦(マントヴァ)がやらかしたんだよ。

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g.png 勝手に拡張して包囲網組まれた・・・じゃと?んなもの朝貢国放棄するなりk単位で賠償金払うなりして自力で解決せんかい!

z.png それは無茶ですよ。しかし明が好き放題に食べまくっている一方で、一地方を統一しただけの中小国がフルボッコにされるのは少し可哀そうです。

w.png まあうちらには関係ないもんね。天命スタック増やしててよかった*14。(真顔)

年代記

成化帝の快進撃は止まらない。中華皇帝として自身2度目の华沙(ワルシャワ)入城を果たすと、勢いそのままに北進、かつて蒙古と戦った基督教騎士団を撃滅し、波罗的(バルト)海を睥睨する者となった。その一方では西の帝国を名乗る西戎とも誼を通じ、武一辺倒になることを防ぐ器量もわきまえていた。
とはいえ晩年になっても彼は常に戦場に居場所を求め、中央亚洲(アジア)・北辺の憂いを完全に断ち切った末、中華への帰途で崩じた。即位後ついに一度も北京を望むことなく、草原を駆け回った彼を、彼の先祖でもある英雄成吉思汗(チンギス・ハン)になぞらえぬ者はいなかった。

皇帝不在の北京は、陰謀の坩堝と化していた。粗暴な振る舞いが目立つ皇太子朱戴基が国政を代理していたが、各地に急速に広がる基督教の処遇について一切対策を講じることが無かった。そのうちに江南出身の官僚の間に基督教が広まり、ついに四川出身の将軍徐貫などは重臣の地位にあって信仰を口にすることを憚らなくなった。皇太子につく旧支配者階級と対立を深めた基督教徒勢力は皇太子の一人息子朱雄英の擁立を試み、一度は失敗するも、2年の潜伏を経て成化帝崩御と共に復活、朱雄英の立太子に成功して、新帝・弘治帝朱戴基の取り巻きに比肩する力を持った。

弘治帝の治世は、成化帝の遺産を食いつぶしたに過ぎないと酷評される。西方の超大国奥斯曼(オスマン)帝国の圧力に幾度も屈して威信を損ない、最終的に成化帝が築いた欧州政策は破綻する。最終的に青州で基督教徒の大反乱が発生すると、明軍は出動を拒否する。2万を超える、「泰平楽土」を名乗る反乱軍が北京を包囲した。その混乱の中で弘治帝は基督教徒の宦官に暗殺され、北京の城門は民衆の手で開けられた。紫禁城内では基督教徒弾圧を試みた大臣、官僚、宦官に対する大虐殺が繰り広げられる一方で、民衆は反乱兵をもてなし自発的に教会を建て洗礼を受けるなど、円満に新主を迎えた。その異常なほどの円滑さには、当然裏があったと考えて然るべきであろう。

皇太子朱雄英は、皇帝弑逆の報を副都南京で聞いた。立太子の経緯から父帝に疎まれ南方に飛ばされていた彼は、確かに名君ではなかったが、能臣を見抜き用いる術と、時局を見極める眼は持ち合わせていた。喪をすっ飛ばして正徳帝として即位すると、北京へ向かう途上で従弟の皇太子朱瞻埏と連名で淮安勅令を発布(弘治帝の元で中書省が復活していたが、この勅令における中華的体裁を無視した画期的な形式・書式に対応できず、再び形骸化した)、儒教・道教に次ぐ形で基督教を公認する。北京の民衆はこれを良しとして再び簡単に開城して泰平楽土の首領の洪禿全を追放、反乱軍中でも目的を失った農兵が次々と脱走して、泰平楽土は事実上崩壊した。洪禿全は絶望して「克烈(ケレイト)に帰る」と述べ蒙古高原に侵入、瓦剌(オイラト)の本営に遭遇して全滅した。瓦剌(オイラト)の長阿失帖木儿(オシュ・テムル)は、父が明に朝貢を始めたのを快く思っていなかった経緯もあり「漢人の垃圾堆(ゴミ捨て場)にされる謂れはない」と叫び、洪禿全らの遺灰を火砲に詰めて北京に向け発射したという。

確かに正徳帝は基督教徒に支配されていた。しかし後世発見された資料からは、陰謀家として重臣から下層民に至るあらゆる階級を操っていた恐るべき一面が明らかとなりつつある。儒学者を弾圧したうえで基督教徒と対立させ再蜂起を誘ったり、澳門の基督教結社にスパイを送って広西の正一教徒地域へ宣教するよう仕向け、成功させたりするなどといった策動は、正徳帝と僅かな近臣のみが認知していた。それでいて、亚洲(アジア)から欧州にいたる広大な大陸がすべて彼の思惑通りに動いたのは驚異と言える。
その目的は、不可避となった基督教革命を乗り切り、自らの地位を除くすべての体制の大変革を実現するという、今日から見ても狂気的な野望の賜物であった。







さて、ここで宮廷を離れ、民草の間に生まれた英雄の話をしたい。先の第一次泰平楽土の乱の発生地・青洲の北、武定に、洪禿全の遺児とされる童がいた。この神童・・・洪秀は、姿かたち、声音、そして能力に至るまで父の生き写しのようであると宣伝された(実のところ洪禿全の顔を覚えているものは皆無であり、今に伝わる彼の肖像画は洪秀金の顔をもとにしている)。先の戦乱に敗れた過激派は、まだ十を過ぎたばかりの少年のもとに集まり、再決起の算段を始めた。そして僅か3年の空隙をおいて、1538年11月、第二次泰平楽土の乱が勃発する(この短期間に前回を上回る3万の反乱軍が結成された点、正徳帝らの暗躍があったことは疑いない)。

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泰平楽土軍は前回同様に北上するが、洪秀金はなぜか北京を避けて黄海を押し渡り、対岸の永平(Yongping)に上陸した。瓦剌(オイラト)の件を聞いていた朝鮮(コリア)は独自に討伐軍を派遣したが、毛文永将軍率いる明軍と合流した直後に撤退を始めた。

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この1542年11月の出来事は朝鮮史上最大の謎「寧遠(Ningyuan)回軍」として知られるが、近年の研究で、明から突然多額の軍税徴収を通告された朝鮮(コリア)政府が怒り、遠征軍に撤退命令を出していたことが判明している。

危機が去ったことで、泰平楽土軍の士気は上がった。父のように無駄に北京を攻めず、不敗を貫いたことで洪秀金のカリスマ性はいやがうえにも高まった。立ちふさがる那海(ノガイ)軍・克里米亞(クリミア)軍を撃破し、父の足跡を追って瓦剌(オイラト)に侵攻、そのまま当時哈萨克之路(カザフロード)と呼ばれていた中央アジアを西進し始めた。二代にわたるこの行動の理由は明らかになっていないが、遥か西方の基輔(キエフ)へ基督教の同胞を求めに行ったものだという説が有力である。

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そんな泰平楽土軍の大きな転機となったのが、1548年7月にもたらされた「北京周辺の泰平楽土が破壊され、基督教徒が弾圧されている」という情報だった。

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これをもって洪秀金は中国帰還を決意、蒙古高原を荒らしつつ阿拉善(アルシャー)に再侵入して内蒙古を東進する構えを見せた。しかし1549年12月、狼山(ハラ・ナリン・ウラ)まで進軍したところで、情報をもたらした使者が皇帝のスパイだったことが発覚する。北京周辺で泰平楽土の勢力が取り除かれたのは確かだが、基督教の弾圧については完全なデマだった。この不可解な事実に泰平楽土幹部は困惑しつつも北京進軍を主張したが、洪秀金は「皇帝が刈り取られる時は未だ来たらず」と述べ進路を変更、一路澳門(マカオ)への進軍を開始した。

洪秀金の名を世界に轟かせたのは、1553年10月から12月16日まで続いた「重慶(Chonqing)の戦い」である。邪教徒の大反乱軍が南方へ進軍中であるとの報を受けた大越と勃固(ペグー)は恐怖にかられてそれぞれ明領へ越境、泰平楽土に抑えられていた一大拠点重慶を落とし、反乱を分断しようとした。先に到達した大越軍1万5000が入城を果たした直後、沅陵(Yuanling)から引き返してきた泰平楽土軍3万1000が到着、甚大な被害を出しつつも、山岳にこもる正規軍を僅差で追い出すことに成功する。そしてその翌日、無傷の勃固(ペグー)軍17万が重慶に到着する。今度は山岳を背景にしているとはいえ、崩壊寸前のほぼ同数の反乱軍が勝てる見込みは無い・・・そこに、奇跡が起きた。

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泰平楽土軍は2か月にわたり戦い続け、ついに2つの大国の本軍を撃退した。
正徳帝は、この報告を受けた日の隠し日記に一言こう記している。
「我祈了、他克了。」
すなわち、正徳帝の人為すら、この天命がもたらした奇跡に一切かかわっていなかったのである。

1555年1月、ついに泰平楽土は青洲に次ぐ聖地、澳門(マカオ)に入城する。そこから一旦西に転じて貴陽(Guiyang)の同胞を解放してから澳門に帰還する。この間に恵州(Waichow)の道士勢力*15が澳門を落としていたのだが、1556年5月、洪秀金軍が近づくと澳門市内で新たな泰平楽土軍が決起、反乱は総勢5万強の大軍勢となった。

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その後の泰平楽土軍は縦横無尽に中華を駆け巡り、孔子像を打ち壊しては教会を建てていった。

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洪秀金の進路

・・・しかし、この大騒乱第二次泰平楽土の乱は、たった2通の「同時に発された」文書によって終焉を迎える。その結末を最初から心中に思い描いていた人間は、全世界に2人しかいなかった。

1通は、1560年8月1日に正徳帝が発した 雄英勅令(ジェンデ勅令)である。「中華皇帝の基督教洗礼」「基督教の『国教』化」をうたったこの勅令は、基督教徒の重臣ですら発布を知らされていなかったが、既に泰平楽土軍の元で改宗していた多くの人民からの歓迎が非難を上回った。
もう1通の武定発の文書は、「中国最初の活版印刷物」とも呼ばれるが、それはたった一文が記された「ビラ」だった。「臣秀金」という書き出しに始まり、執筆時には知られていないはずの皇帝改宗を寿ぎ、終わりに「常洛(Changluo)」と署名されているという、怪文書そのものである。しかしこのビラが数万枚、黄海沿岸の各市にばら撒かれた3日後、泰平楽土の首領・洪秀金失踪の報が流れた。

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*1 本AARはIronmanであるが、3か月ごとに生成されるオートセーブを使えば一瞬の操作ミスなどを取り消すことができる。その上ゲーム中断時点のデータも残るシステムを悪用すると、オートセーブから1日進めて中断、またオートセーブをロードというのを繰り返すと大量のセーブデータを内部ファイルをいじらずに確保できる。今回は上記のアホな理由により図らずもコンティニューポイントが生まれ、正直助かった。
*2 ほめられた行為じゃないことは分かってます・・・低スペックマシンで一回のリセットに5分くらいかかるから、無制限に使おうとは思っていません・・・申し訳ありません
*3 海禁を緩めていく方向の改革
*4 次回、当時の状況を掲載する予定。
*5 リセマラ中に一度試したが、オスマンの妨害で悲惨な目に遭った。おまけ参照
*6 こんな重要なことが書かれていないはずがない。どこかでまた見落としてるに違いない。
*7 大部分を属国アフガニスタンに食べさせた。本来のアフガンの領域が最後の戦争でやっと回収できたのはご愛敬。
*8 同盟後に単独でオスマンを攻めて負け、ハンガリーを放棄した上に皇帝位まで奪われた残念なエスターライヒ君
*9 朝貢国にすると勝手に朝貢国リャザンを食べてロシア化するが、同盟国にすれば枷にはめられる。ロシア化させたければ、好きな時にリャザンを朝貢破棄すればよい。
*10 訓練された明プレイヤーは、たとえ上の画像にプロビ名が無くとも甘粛回廊を見ただけで位置を特定できる。
*11 海や首都をはじめとしてグラフィックを簡素化するMod。筆者のPCは常時5速でプレイするような低スぺで、少しでも改善しようと導入してみた。効果は無いわけではないくらいのレベル。
*12 天皇海山列
*13 まだ見えない範囲だが、多分もうスウェーデン領になっている。
*14 朝貢国からの参戦要請を拒否すると対象国からのOpinionが暴落し、天命-10のペナルティが付く。
*15 傭兵1連隊

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