AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興

暗君凡君凡君アンド名君

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g.png 1466年6月、(1, 1, 1)が崩御。皇太后となった占城(チャンパー)王女嘉部羅(Bo La Gia Cham)*1(5, 1, 0)による1年の摂政期間を経て、景泰帝朱楠(3, 4, 1)が即位(1467年9月22日)。

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t.png まだ立后もしてないのに弟君の朱瞻墉(せんよう)(0, 6, 1)が立太子か。楠は父の能力を順調に伸ばし、母后の元で育った瞻墉は極端な性格を受け継いだらしい。

z.png これは裏で血なまぐさい闘争が起こる予感が・・・(適当)

12年後

g.png 起こった。(1479年10月1日)

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t.png 瞻墉くんは君子の器ではなかったのかー(棒)

z.png 小人(Xiaoren)?は、成人済みで統治もしくは外交が3以下のHeirがいるときに有能な貴族へ挿げ替えられる儒教イベントですね。MTTHは500月≒40年。

g.png MTTH(Mean time to happen)とはEU4の場合「その間に発生している確率が50%となる期間」を指す。12年で来たのは幸運と言えるのう。

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参考:MTTH=365 daysのイベントの発生率(英Wikiより)

g.png 明プレイではイベントをコントロールするのが非常に重要になる。今回は特に重要な3つの明固有イベントを紹介していくぞい。

t.png しかしこの済煥(4, 5, 6)は今までと比べるととんでもなく有能だな。 *2EU4クオリティで夭折しなきゃいいが。

z.png この子は長生きしますよ、多分。(予言者ポジ)

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g.png 順番が逆になってしもうたが、嘉皇后の摂政期間中に最初の改革「改土帰流(Introduce Gaituguiliu)」を通しておる。もうスペースが無いので、中華帝国改革の詳しい説明は次回に回すぞ。

幻のCoalition War

z.png 景泰帝即位から1年たっていませんが、帖木儿帝国(ティムール朝)からお手紙がつきましたよ。

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g.png 景泰帝たら読まずに食べた♪

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t.png ふざけてる場合じゃねえぞ!気休めに同盟結んだ波斯(ペルシア)にも逃げられたし、どうするつもりなんだ?

g.png ふざげてはおらんぞ。尚瞻塏よ、ちょいと耳貸せい。

z.png え・・・えぇ・・・(困惑)








z.png えー、ワクワクドキドキ北京周回キャンプツアーにお申込みいただいた包囲網の皆様、誠に勝手ではございますが、まだ庚戌の時間ではないので、大明の降伏をもってツアーを中止させていただきます。


( ゚Д゚) 我ら成吉思(チンギス)の子孫の力に恐れをなしたか!

( `―´)ノ 河中地区(マー・ワラー・アンナフル)*3の兄弟、そして我らのもとに集いし対明包囲網の結束は崩れぬ!今はお前らの肝を冷やすだけだが、我々の血と刀は停戦明けまで燃え続けるぞ!

(-“-)(-“-)(-“-)… ←他各国

z.png (そうか、帖木儿帝国(ティムール朝)察合台汗国(チャガタイ)*4以外のAEは50を少し超える程度・・・)

z.png (首謀2国の頭は煮えていても、AEは停戦中に十分冷めるという事か・・・)

z.png ともかく、この交渉の席についてくれるようで何よりです。こちらから出す講和案は、大越、蘭納(ラーンナー)東吁(タウングー)萨地亚(サディヤ)蒂魯特(ティルフト)、以上5カ国の属国開放でございます。

(^q^)(^q^)(^q^) イイヨー

z.png (!?)

負けて、勝つ

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g.png かくして初めての包囲網戦争は、わずか1日で終結したのじゃ。めでたしめでたし*5(1468年6月22日 – 1468年6月23日)

t.png (これ絶対読者から「期待外れ」つって卵投げられるやつだ・・・)

z.png 「属国開放」と言いましたけど、要するに5つの朝貢関係を破棄したってことですよね。Vassal等よりはずっとましですけど、少しずつでも貢いでくれる国を失うのは結果的に大損なのでは?

t.png 敵からすれば軽すぎるし、自分から見れば重すぎる講和ということか?

g.png いやいや、これは我々にとっても非常に楽な「抜け道」じゃ。解放したうち3国は1年以内に朝貢再開し、講和の目玉だった大越との関係も6年後に復活したわい。蒂魯特(ティルフト)を取り戻すのだけは大分先じゃが、小国1つじゃから痛手でもない。

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気づいたら(同年10月)朝貢OKしてくれてるLan Naさん

t.png 今回の包囲網戦争での損害は、概算すると君主点-24、人的資源-7400、威信-41.2・・・威信は朝貢国から搾れるから、ほぼ無傷と言っていいな、これ。

g.png いくら金を恵んでも靡かない不届き者がいる一方で、捨てられてさえ*6主を頼らなければならないカワユイ国々もおる。1プロビの小国と、同盟国を持たない大越のことじゃの。

g.png そういう者らこそ捨てがいがあるというもんじゃ。

z.png これは酷すぎる。しかもさっきまで包囲網にいたはずの冈瓦那(ゴンドワナ)など印度(インド)の数か国が新たに朝貢してきました。

g.png ここからしばらく亚洲(アジア)で派手な拡張はせぬゆえ、次に包囲網を組む可能性があるのは成吉思(チンギス)の次男坊と婿だけじゃ。結果的に、包囲戦の大敗北はプラスとなったのう。

歐洲(ヨーロッパ)大陸の「発見」

z.png 亞速(アゾフ)海にいる热那亚(ジェノヴァ)を朝貢させるのに成功しました。そういや正統帝は「西洋化」システム廃止前に非ヨーロッパで遊んだことが無いからよく分からないと言ってましたけど*7、前の克里米亞(クリミア)戦で少しでもプロビを取って亞速(アゾフ)隣接していれば、西洋化の大きな条件を一つ満たしたことになるんでしたよね。

t.png ・・・克里米亞(クリミア)政策に関しては、今このプレイでも後悔している点がある。地中海沿いに領土を広げる策を一つの案として持っていたんだが、朝貢国化のみで講和してしまったために海へ出られず、遠方の占領地をコア化できなくなってしまった。

z.png まあそう急かさないで。地中海を我们的海(マーレ・ノストゥルム)にするのはまだまだ先ですよ。

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z.png 地中海進出の下ごしらえとして、まずはおなじみ地図獲得。前に言い忘れていましたが、数ある地図の中でも相手が強い関心を持っておらず(≒相手が領土を持つ領域ではない)、自国の軍が隣の地図領域にいる場合に貸してくれるようです。

g.png 同じ朝貢国でも、同盟を結び関係を確定させてから朝貢した国からは貸してくれるが、直接朝貢したことで態度がUnknownのままになっている国からは貸してくれぬ。面倒くさいのう。

z.png 可視領域を広げつつ、喀山(カザン)诺夫哥罗德(ノヴゴロド)*8立窝尼亚骑士团(リヴォニア騎士団)を朝貢させて莫斯科(モスクワ)を封じ込めました。また摩爾達維亞(モルダヴィア)から比薩拉比亞(ベッサラビア)が独立していたので、これも朝貢させることが出来ました。

t.png こっちは特にすることが無いから、地中海艦隊の建設でも始めるか。自前の海が無くとも、 热那亚(ジェノヴァ)本国の造船所や克里米亞(クリミア)沿岸で明籍の船を作ることは出来る。

z.png 小型船が出来たら地中海へ回してくださいね。これで欧州沿岸は丸裸ですよ!

t.png この世界線では中国が欧州大陸を発見するんだな。

g.png これこれ、発見というと原住民に失礼じゃぞ。彼らはずっと昔からそこにいたんじゃから。

t.png じゃあ何て言えば?

g.png うーむ・・・鉤カッコつけていわゆる「発見」とでもしとけばいいんじゃなかろうか。(適当)

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まだこの時点で1478年。やろうと思えばヨーロッパ全土・北アフリカの霧もすぐに晴らせられる。

z.png 1484年10月、哈萨克(カザフ)の併合が完了しました。

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t.png 実際に全部明領となってみると気持ち悪い地図だな。

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元気だったころのKazakhくんをお楽しみください。最後のHがぶっ飛んでるせいでウズベキスタンが発生しているように見える。

t.png ここで明の方針に関わる大きな出来事があったが、それは後回し。Serica Universalisの項で紹介するぞ。

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t.png 暇だったので瓦剌(オイラト)に宣戦布告、帖木儿帝国(ティムール朝)を釣った。

z.png 包囲網でもなければ簡単ですね。喀山(カザン)は大部分を莫斯科(モスクワ)に食われてしまいましたが残りを3国に分割して朝貢国を増やし、帖木儿帝国(ティムール朝)からは北東部を奪い、属国として復活させた阿富汗(アフガニスタン)に押し付けました。瓦剌(オイラト)および鞑靼(タタール)からは北京ノードと西安ノードを回収し、両ノードを統一しました。*9(1485年3月4日 - 1487年11月1日)

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g.png 北京ノードは現状数少ない明の貿易収入の生命線じゃからの。終戦と同時に内政も動いたぞい。即位20年をもって景泰帝(3, 4, 1)が退位、成化帝(4, 5, 6)が即位された。皇太子朱載基はまた偏った脳筋のようじゃが、まあ良君の範囲じゃろうな。

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z.png 手始めに馬木留克(マムルーク)朝と組んで奥斯曼(オスマン)帝国に挑戦しましたが、まともに交戦する前に馬木留克(マムルーク)朝が降伏してしまいました。(1488年3月3日 – 1488年12月24日)

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Вы знаeтe Батыа(バトゥってご存知)?

z.png さあ一緒に始めよう、中華(キタイ)のくびき。いよいよ欧州への本格侵攻ですよ!

g.png お主ちいっと雰囲気が変わったのう。

z.png 少し前に2chスレで「朝貢システムにはタタールのくびきの要素が含まれている」という解釈が上がっていたのを思い出して色々吹っ切れました。

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z.png 波蘭立陶宛(ポーランド・リトアニア)に宣戦布告。勃兰登堡(ブランデンブルク)もくっついてきましたね。神圣罗马帝国(HRE)とは初接触です。

t.png あまり好きなやり方じゃないが、第一次オスマン戦が不完全燃焼で終わった腹いせに、黒旗連隊を使って立窝尼亚(リヴォニア)比薩拉比亞(ベッサラビア)に軍団を展開した。

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t.png 全要塞を制圧して講和。天主教會(カトリック)プロビを中心に獲得。地中海への出口も手に入れたぞ。(1489年8月15日 - 1492年4月4日)

t.png この後奥斯曼(オスマン)帝国が明の朝貢国亞美尼亞(アルメニア)に攻め込んだので介入したんだが、耶尼切里(イェニチェリ)未発動の相手に敗北した。(1494年4月23日 – 1495年8月23日)瓦拉幾亞(ワラキア)への独立支援も不発だったし、しばらく奥斯曼(オスマン)帝国には触らないようにしよう。

z.png 講和で解放させられた青海の裕固(サリ・ユグル)は適当に併合しておいて・・・

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g.png 波蘭立陶宛(ポーランド・リトアニア)との停戦が切れるまで、印度(インド)で少し遊んでみようかの。朝貢国を利用して、遠方の非朝貢国を解放する手口を紹介しよう。

z.png 今回の標的は乔恩普尔(ジャウンプル)奥里萨(オリッサ)。同盟を組む両国は北・東印度(インド)の中国家で、多数の小国コアを抱えています。

g.png もちろん彼らに対するCBは持っとらんのじゃが、周辺にある明の朝貢国巴克爾根德(バハイルカンド)乔恩普尔(ジャウンプル)にコアを持っておる。これを使ってThreaten Warを行い、拒否されることで戦争に引きずり込めるのじゃ。*10

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t.png 計8カ国を解放し、すべて朝貢国にした。(1501年1月13日 - 1503年4月12日)

g.png これなら下手にAEを溜めず、朝貢国増加で人的資源の補給も大幅アップできよう。解放した案達羅(アーンドラ)を使って南の大国巴赫曼尼(バフマニー)も解体しようとしたんじゃが、Threaten Warを承諾されてしまうために断念した。聞き分けのいい子はツマランのう。

Serica Universalis

g.png さて、政治史がひと段落ついたところで時間を巻き戻し、前々回からの問題を一つ種明かししよう。哈萨克(カザフ)併合直後(1484年)の阿斯特拉罕(アストラハン)ノード画面と台帳のトレードノード一覧じゃ。

z.png ノード内の取り分はかなり小さいのに、所有権は明が握っているのですね。

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g.png その結果として発生するイベントがThe closure of Chinaじゃ!明*11が保有するノードに、欧州SuperRegionに首都を持つ国家が商人を送ると発生する。阿斯特拉罕(アストラハン)ノードは欧州の最東端じゃから問答無用で条件を満たす。*12 *13ここでイベント名とは逆に開国を選択することで、永久にOpen China補正を獲得できるのじゃ。(1485年6月21日)

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t.png 技術・アイデアコストが共に1割引になる強力な補正だな。強引な阿斯特拉罕(アストラハン)推しはそのためか・・・

z.png しかし各プロビのTP-25%というのはかなり痛手だと思うのですけど、ここまでしてこの早期にポップさせる必要はないのでは?

g.png いやいや、このThe Closure of Chinaは大きな目標にも見えるが、実は「明としての最終目標」への第一歩なのじゃ。一旦1490年3月12日まで時を進めるぞ。

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g.png The arrival of the Jesuits。明領の海岸プロビのうち一つが天主教會(カトリック)に変わるイベントじゃ。*14大明のキリスト教化のためにも特に重要なイベントなんじゃが、実はThe closure of ChinaイベントでClosed ChinaかOpen Chinaの補正を獲得することがトリガーになっとるんじゃな。

t.png ん?対象プロビ(青州)の文艺复兴(Renaissance)が50%進行するとも書いてあるな。この好立地でInstitutionを根付かせられれば、北京にも江南にもあっというまに浸透する・・・!もしかして最初に文艺复兴(Renaissance)を自力受容しなかったのは、これを見込んでいたのか!

g.png えっ・・・あー・・・うむ。*15ともかく残り半分なら、今この場で受容できるぞ。名君のおかげで外交点と軍事点が有り余っとるからのう。

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z.png 宗教はどうしましょうかね。せっかくだから宗教反乱が起こるような土地にしてみたいのですが、斉のコアなので相変わらず分離主義者のプロビのままです。

g.png 非国教プロビなら宗教反乱を起こす条件を満たすんじゃが、分離主義の方が優先度が高い状況じゃな。

g.png 一つのプレイヤーチートじゃが、一旦Unrestを-6以下に下げ(下げすぎてはいけない)、宣教師を送ると・・・

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t.png おっ、反乱タイプがCatholic Zealotsに!

g.png なぜかアイコンが変わっておらんが、数年後に見直したところ、しっかり十字架のマークになっておった。この方法は他の国でも使えるが、考えなしに宣教し続けとると国教に改宗されてしまうから注意せねばの。

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z.png 1503年7月21日、聖保祿(パウロ)學院イベントが発生。Open China系列イベント第三弾で、澳門(マカオ)天主教會(カトリック)文艺复兴(Renaissance)が到来しました。・・・ところで、結局天主教會(カトリック)への国教改宗はどうするんですか?

g.png 迷っておる。すごーく迷っておる。国教改宗には宗教反乱を使うオーソドックスな方法ともう一つ、イベント・・・Open China系列イベント第五弾を使う方法があるんじゃ。

g.png コメ返で「もう一つ」の方を使うとカッコつけてしもうたんじゃが、よくよく考えると今回の内陸ルートでは「もう一つ」を使うのはかなり難しいことに気づいての・・・

g.png ・・・仕方がない。期待してくれていた読者には本当に申し訳ないが、今回は素直に反乱改宗で行くことにしよう。その代わり、前回プレイで「もう一つ」を使った時のSSが残っておるから、後の回で紹介するとしよう。高逖よ、もう「獲得プロビを最低限に抑える」縛りは無くなったぞ。AEには気を付けつつ、好きなだけ切り取って来い。

t.png 億歳!*16ところで天命がそろそろ満杯になりそうだが、2つ目の改革はしないのか?*17

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g.png 海禁の改革じゃな。天命を無駄にするのも勿体ないのう。ポチっとな・・・(1503年9月27日)

w.png はーい皆さん、お初でっす!

g.png 誰じゃお前!?

第三章 了
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おまけ

寺子屋

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z.png 1469年、Paganの需要が完了しました。

t.png これ明らかに日本じゃないか!枯山水じゃなくて本物の池を造れよ!

z.png え、そこ・・・?

g.png 舟遊びは楽しいからのう(小並感)

Warning!

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g.png 朝貢国にはInfluence系の外交コマンドが使えないはずなんじゃが、外交マクロを通すとうまくいくぞい。*18おいたな大城(アユタヤ)にお灸をすえておくのじゃ。

t.png 後で見たら全然気にせず隣国に宣戦布告して拡張してたけど、なんだったんだこれは・・・

神聖でもないしローマでもないし帝国でもない

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z.png 1478年時点のHREインターフェースですね。奥地利(オーストリア)波希米亚(ベーメン)の間で皇帝位が行き来していますが、順調に改革が進んでいるようです。

g.png 前回プレイではHRE皇帝即位時に1つしか改革が進んでおらず、苦労したのう。いずれ我らのものとなるまで、彼らにはしっかりIAを溜めてもらわにゃならん。

景教の宗教改革

t.png ところでThe arrival of the Jesuitsのフレーバーテキストの冒頭を見てくれ。こいつをどう思う?

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z.png 「1581年、耶稣(イエズス)会の最初の宣教師*19が中国に到達し、皇帝を欧州流のメカに改造して機動戦士バンレキに(嘘)」

z.png すごく・・・未来です・・・(1490年現在)

g.png つまり市舶提挙司設置区でも、西域の民が長逗留するような大都市でもないこの青洲(Qingzhou)天主教會(カトリック)が突然発生するための何かが必要ということか・・・

そうこうして下の「あらすじ」に至るころには、凄まじく意味不明な補完ストーリーが誕生した。*20
正統帝は以前にも挑んだ三位一体などのキリスト教狭義の理解を試み、半日を費やした末に不完全燃焼に終わったのである。(ヤケクソの独り言)

年代記

 正統帝崩御。その報は瞬く間に全土に広まり、中華は歓喜に包まれた。北京では至る所で民衆が祝賀したために酒と肉が高騰し、南京では興奮した群衆の重みで秦淮河の橋が崩落した。幸い死者は出なかったが、南京の人々はこれを洪熙帝*21の加護と考えて宮城予定地に碑を建て祭りを催す有様であり、先帝を悼む者はだれ一人いなかった。

 政務を継いだ嘉太后は、正統帝の代で溜まった内政の塵と対外の膿の排除に辣腕を振るった。遠方の世襲土司を排して科挙官人を通した直接統治への改革を推し進め王朝の権威を高める一方で、明への反発を募らせてきた諸外国が景泰帝の即位に乗じて侵攻する構えを見せると、瞬く間に外交工作網を動かして亚洲(アジア)の勢力図を整理し、衝突を未然に防いだ。
 南国出身で中国の伝統を若干無視するような諸政策は、旧体制下で抑圧されてきた民衆からむしろ支持を集めた。

 景泰帝と、一線を引いた後も皇帝をよく補佐した嘉太后の治世は、中国本土が脅かされることなく平穏だったと言われる。しかし嘉太后の唯一の汚点は、皇太弟朱瞻墉を溺愛したことであった。病弱な景泰帝よりも母の血を濃く受け継いでいた彼は、口達者なだけの放蕩息子であった。
 嘉太后が崩ずると朱瞻墉はクーデターを起こしたが、一部貴族の支持しか集まらず失敗し庶人に落とされた。一方景泰帝自身は、自らにも流れる無能の血に絶望し、晋王朱済煥を立太子した。
 永楽帝の孫である彼は美髯をたくわえ威厳のある知勇兼備の名士であった。かつては粗暴であったが、正統期に謀反の嫌疑をかけられたところを朱楠(景泰帝)のとりなしで助かったところから改心して温厚になり、封地では名君と称えられていた。

 西域総督に任じられた朱済煥は、本格的な歐亞(ユーラシア)制覇を計画し始めた。
 おりしも哈萨克(カザフ)で王統が絶えたため、彼が元順帝(トゴン・テムル)の男系三代目の子孫とみなされ(ハン)位の継承を認められた。このことから、後の非中国系歴史家の中には成化帝(朱済煥)以降、あるいは永楽帝以降の明朝を後元朝と称する者もいる。
 朱済煥は、みずからを大(ハン)景泰帝に属する者と位置付け、国境(黒い道)などの概念を持ち込んで中華化を進めた後に国体を廃し、領土を景泰帝に献上。対する景泰帝は周囲の反対を押し切って退位を強行し、朱済煥は成化帝となった。

 即位後も、成化帝の関心は西域にあった。彼の派遣した遠征軍は瞬く間に宿敵瓦剌(オイラト)帖木儿帝国(ティムール朝)を蹂躙して印度(インド)を席巻、ついには热那亚(ジェノヴァ)の商人の手引きで华沙(ワルシャワ)柏林(ベルリン)への入城を果たす。2世紀前の抜都(バトゥ)とは違い、圧倒的な数で整然と行進してくる歩兵軍団と臼砲の集中運用戦術の前に、欧州世界は本物の世界の終わりだと大混乱に陥った。
 一方奥斯曼(オスマン)帝国は、高加索(コーカサス)山中において2度にわたり明軍を撃退。東方の脅威をうち破り西方の脅威となる姿は、伊斯兰(イスラーム)世界で拜巴尔(バイバルス)になぞらえられた。

 さて、明の西方進出は、文化面でも大きな意味を持っていた。文艺复兴(Renaissance)により技術の遅れを取り戻し始めていた欧州は、熾烈な内部闘争を通して、中国から伝来した三大発明の改良を急速に進めていた。彼らとの接触が容易となった明人は技術の逆輸入を始めたが、同時に中国社会の一部における劇的な変化を刺激することになる。

 唐代に最初の宣教師・阿羅本が到来して以降、景教と称する、天主と基督を崇める西域の教えが流行した時期があった。廃仏の巻き添えで一度は滅んだものの、元朝期に蒙古人によって再来する。これもまた短期間で廃れたが、弥勒と同一視された基督の下生を待ち望むとする新教義は山東の白蓮教団に衝撃を与え、福建の明教徒内でも基督を神と可分とする密的教義が否定されるなどの変化が起きた。
 明代の初期から中期にかけて克烈(ケレイト)嘉宾(カルピニ)ら潜伏宣教師が彼らに接触し合同した結果、1431年の「済南老会議」において驚くべきことに「受肉時に人性を得た神の子である基督(キリスト)」を信仰する教義が決議され、伝統的な聶斯脫里主義(ネストリウス派)と決別した統一宗教「景督教」が誕生した。この宗教は民間では先述の通り弥勒信仰の下地によって、学者や上流階級へは「神学」研究の対象として、沿岸部を中心にするすると広まっていた。ここに再び動揺が走るきっかけとなったのが、明帝国による草原の道の再整備と1485年の「通蕃の禁」の撤廃であった。

 教皇国出身の僧李西斯都(シスト・リッチ) *22は北京に至って宣教を試みたが失敗、南京に移ったところ、自らが奉じる基督(キリスト)教に酷似する信仰が広まっていることに気づき、さらにこれが半ば伝説と化した孟高维诺(モンテコルヴィノ)の影響すら受けていないと知り仰天した。景督教徒側も李西斯都(シスト・リッチ)を熱狂的に迎えたが、当然ながら両者の間には避けようのない認識の相違があった。「教宗」(教皇)の存在である。
 かつて以弗所(エフェソス)で追放された聶斯脫里主義(ネストリウス派)のみに起源をもつ景督教徒は、当然ながら「全世界の天主教會(カトリック)の領袖」など知らない。この概念を素直に受け入れて李西斯都(シスト・リッチ)に従った多数派は「基督教徒」を名乗り、上流階級の神学家ら景督教徒と対立、これを1490年の臨沂老会議および1503年の澳門老会議で追放した。
 ここに欧州の羅馬(ローマ)教會に属する「中国基督教會」が成立したが、その勢力は明帝国にとって内なる脅威となりつつあった・・・

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*1 チャンパーの女性名とかもうお手上げ・・・そもそも本当にチャム人の名前なのかさえ分からない。
*2 史実の朱済煥は、洪武帝の三男・永楽帝の同母兄である名将、晋王朱棡の息子。面白いから家系図に反映したいけど、さすがに年齢的に無理がある。
*3 さすがに「河中」は笑える。
*4 なんでWikipediaのスロベニア語版だけ秀逸な記事入りしてるんですか・・・
*5 なおその1日で双方計174人が戦死している。
*6 朝貢関係を破棄するとOpinion-200というデカいペナルティが付く。それを乗り越えてでも慕える明って国はよっぽど徳の高い帝国なんだろうね(ニッコリ)
*7 お前それでも中華皇帝か(自分への突っ込み)
*8 内陸に縮こまっている、しがない1プロビ国家。ネフスキー?ありゃバトゥの使い走りさ。ビルイェル・ヤール万z(以下略)
*9 実はかなり前に科尔沁(ホルチン)をミッション宣戦で滅ぼし、北京ノードのプロビを回収している。
*10 「訴訟を起こし、和解することで」
*11 満洲、清には技術コスト-20%のThe Expulsion of the Jesuitsが用意されているが、後ろに続くイベント群は無い。
*12 フォーラムではアレッポノードが並んで紹介されていたが、オスマンを突き破ってシリアに行く力があるならアナトリアを征服したほうが速いのでは・・・
*13 英Wikiには「プロビを保有しているノード」に商人が来ればいいと書いてあるが、前回プレイと今回の結果および明イベントの内部プログラムから「ノードの保有」が条件であることは確実。しかしノードの保有が何を基準にしているのか、未だにさっぱり分からない。どなたかご教示いただけませんか。
*14 アフリカ周りだと海岸プロビが増えすぎてイベントの価値が落ちる・・・と書こうとしてふと気づいた。やっぱりクリミア征服しなくて正解だったんだ。
*15 イベント発生して英Wikiを読み直すまで、その一文の重要性に全く気付いてなかった。
*16 魏忠賢のパクリ
*17 改革については次回詳しく。
*18 3回目くらいの帝冠プレイで同盟+朝貢のテクニックに独立保障を組み合わせてみた。しかしいざ朝貢しても保障が無くならず、マクロから破棄することもできなくなり、外交関係枠の1つを100年近くネパールに占拠される事態となった。気を付けよう。
*19 マテオ・リッチ
*20 この項の対話をきちんと完成させる気力まで尽きてしまった。悲しい。
*21 東洋の提圖斯(ティトゥス)。明の良心。
*22 同時期の教皇シクストゥス4世より

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