AAR/オラニエの交易自習室
前回:第五話 アジア貿易会社の拡大
ネーデルラント帝国は混乱していた。一都市国家であるユトレヒトからネーデルラント北部を統一し、低地地方民たちのナショナリズムを高揚させたシャヤカ皇帝であったが、植民地政策に重視しすぎるあまり本国の統治をおろそかにしていた。このような状況をみてオランダ国民のなかには最早皇帝を支持しないものまで現れていた。皇帝による専制政治は陰りを見せオラニエ家による議会が政治的発言力を増してきていた。
この本国での混乱はインド洋各地に点在する植民地の経営を困難とした。オスマン帝国は17世紀末からイエメン王国の同君連合かに置かれており、宗主国イエメンの旧領奪還を名分にアデンへ侵攻を開始した。オランダインド洋部隊はアラビア半島への強襲上陸を決行したがいずれも失敗に終わり、オスマン帝国主力海軍がインド洋に到着するとその制海権すら失った。1710年、シャヤカ皇帝は遂にアデンを諦め戦争は終結した。
立て続く対外政策の失敗から皇帝の威厳は揺らいでいた。シャヤカ1世は名声を取り戻すべく再びネーデルラント国民としてのナショナリズムを煽り、1714年ホラントに侵攻を開始した。フランスの軍事支援とロシア帝国の不参加があり、この戦争は終始オランダ優勢に進み、1717年ホラントを再度ネーデルラント帝国に編入することに成功した。
ホラント征服の成功から再び支持を高めたシャヤカ1世は極東貿易の拡大を狙い1719年明に対して宣戦を布告した。当時明は北部で対ロシアの戦争を繰り広げており、オランダはほぼ無償で南部一帯を占領し、1723年に広州一帯を割譲させることで和平した。これによりオランダは極東貿易を支配するに至ったが、アジア貿易の支配はフランスの利益との衝突を招き、翌年フランスはオランダとの同盟の破棄を宣言した。
室町幕府を滅ぼした斯波氏は1734年新たな幕府の発足を宣言した。日本列島での勢力圏を主張するオランダは新たな幕府の発足に反対し、1736年これに対し軍事侵攻を開始した。新幕府軍は皇国の興廃を懸けオランダ極東軍に果敢に挑んだものの、圧倒的軍事技術の差から1736年3月27日の出雲の戦いで主力軍を壊滅させられ、オランダ軍に占領させるのを待つだけとなった。1738年、オランダは西日本一帯の割譲を要求し和平した。日本は東日本に広い領土を残してはいたものの、幕府主力軍の壊滅から事実上オランダ勢力に下ったに等しい状態であったといえる。