AAR/Gott Mit Uns/第六章 革命の時代 中編

東征

さて、名将たちの死の感傷に浸ってばかりも居られない。次にレオポルトが戦争相手として目を向けたのはボヘミア=オスマン帝国=リトアニア大公の同盟であった。
オスマン帝国はもちろん、リトアニアもやや後進とはいえ軍事大国、彼らならばドイツの好敵手足りえるのではないかと踏んだのである。

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しかし結果はひどいものであった。あまりにも敵軍の軍質が酷く、最も規模の大きかったカイロ会戦では、戦力比が1:3でありながらキルレシオが5:1という始末。

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東欧・オスマン連合軍のあまりの弱体っぷりに失望した皇帝は早々に和平を結び、新たな戦争に着手しようというところで頓死した。彼の遺志は皇后オータン、および二人の間の子、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって引き継がれることとなる。

大ムガル戦争

欧州諸国がはた迷惑なドイツの戦争に巻き込まれる中、東方ではティムールの末裔がデリーを占領、新たにムガル帝国を建国し強勢を誇っていた。
これに目を付けた摂政皇后オータンはムガルの同盟国であるキプチャク・ハン国に宣戦、ここに世界を巻き込んだ大戦争の戦端が開かれた。

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こちらの軍はドイツ帝国陸軍のみ、一方の敵方はムガル帝国軍を中心に、カスティーリャとその植民地、アユタヤ朝等々の大連合軍である。
戦力比を見るに敵方がこちらの1.5倍程度といった所か。

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開戦時の地図はこのようになっているが、暫くしてデリーなど新たに参戦した敵国も増えており、またオスマン帝国のように敵方に傭兵を派遣したものもある。
いずれにせよ数の上ではやや不利であるが、そんなことはドイツ軍の前には全く関係がない。
地中海でアルマダを、デリーやコラでムガル陸軍を破るなど快勝を重ねてゆく。

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そしてフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が十五歳となり親政を行うようになると、彼の勇敢な性格により士気が向上する。

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この勢いに乗ってセレン将軍率いる五万が新大陸に侵攻、リオ・グランデの戦いで寡兵ながら植民地軍を破った。

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今や長引く戦乱にムガル帝国の民心はムガル皇帝を離れ、各地で革命軍が蜂起するようになった。一方のドイツ軍も幾ら軍質が優れているとはいえ消耗により人的資源は残り僅か。和平の時である。
和平から三か月ほど前の損害比は下のようになった。

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そして和平画面。戦争のあまりの凄惨さに表示がおかしくなってしまったが、ともあれ十年以上(1806~1818)続いた戦争はここに完結した。
なお和平においてはホルムズ海峡とペルシア南部がドイツ帝国に割譲されている。

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終幕

これで当初の目的としていた実績は解除された。皇帝はその後、オスマン帝国領エジプトへ親征し、同地で没した。
しかし彼の遠征によりドイツはエジプト全域を確保することとなった。

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広東植民地とホルムズを除くドイツ帝国領土はこのようなもの。代々、軍事国家性を維持すべく拡張を控えめにしてきたので、少し手狭に感じるのは致し方ない。


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