西暦1534年。
イングランド王ジェームズは即位してすぐに5万の兵を伴ってバチカンを来訪した。
ローマの人々は歓喜した。
信仰の守護者であるカトリックの王が邪教の輩を成敗する為に訪れたのだ!
帝国諸侯が次々とプロテスタントに改宗し、真なる信仰の危機に喘いでいたカトリックは後見人たる偉大な王国が主を取り戻したことに期待していたのだ。
若き王はシスティーナ礼拝堂を訪れ、時の教皇クレメンス7世に拝謁した。
「若き王よ、何故震えているのですか?」
クレメンス7世は足に口付けをしている王が小刻みに震えているのを感じ取っていた。
ジェームズは教皇に跪いたまま、激しい想いに心を掻き毟られるが如く腕を交差して胸を抱えた。
「神の代理人たる教皇の徳と神性が私を激しく打つのです。貴方が書かせた礼拝堂の絵画が私を見つめ、神の前に跪く喜び……これに打ち震えぬものがどこにいましょうか」
クレメンス7世はこの若者の言葉に感激した。
思えば教皇としてクレメンス7世は辛い人生を送ってきた。
ドイツ皇帝オーストリアとの対立、宗教対立、カステラ王国からの援助を受けたナポリとの戦争。
全てがこの教皇の逆境となって襲い掛かり、枕を高くして眠れた日などなかったといっていいだろう。
「立ちなさい、偉大なるイングランドの王よ」
「はい」
「此度の出兵は邪教の徒を打つ為と聞き及んでおります。…私は此処に聖戦を宣言したいと思うがどうだろうか」
「…それはなりません。まずは私が邪教の軍とあたり、神の意思を確かめてまいります。神が邪教を打てと仰られるならば私は勝利いたしましょう。しかし神がまだその時でないと仰られれば時を待たねばなりません。神の意志がどこにあるかわからぬ内から聖戦を宣言し、神の意にそぐわねば教皇の権威が失墜しかねません」
教皇はますます感激した。
まだ16歳の王がそこまでカトリックのことを考えていたとは。
あるいは周囲の側近の入れ知恵なのかもしれないが、苦難に喘ぐ教皇にとっては関係の無いことだった。
「私はすぐに東の地へ立ちます。…祝福をいただけますか?」
「……真なる信仰の守護者に神の祝福を。アーメン」
ジェームズが教皇から祝福を受けローマを発ち、2週間後のことであった。
一人の枢機卿が慌しくバチカン宮殿のクレメンス7世の元へ走りこんできたのである。
「イングランド王国が……宣戦布告いたしました!!」
「神の御許で騒がしいぞ。かの国の王が神の信仰を確かめる為に出兵したことは卿も知っておろう」
「それが……オスマン帝国のほうに向かっていたイングランド海軍はアルバニアで上陸せずに突如方向を転換。先日我々の援助でマムルークからキプロスで独立を宣言したばかりのビザンチン帝国に宣戦布告したのです」
「ビザンチンだと!?どういうことだ……」
「それもローマ法王に祝福を受けビザンチン帝国を保護したと喧伝しております…まさか猊下はこのことをご存知だったのですか?」
謀られた……。
邪教とはイスラムではなく、正教のことだったのか。
クレメンス7世はあの若者がとんでもない役者だという事を思い知らされ憤死したと噂されている。
イングランド王ジェームズ1世が即位してまず最初にしたことは東の冠を脇に抱えることだった。
「あれは悔しさのあまりに震えていたのですか?」
私は昨日クレメンス7世に謁見したときのことを主に尋ねていた。
「まさか」
微笑王と綽名されることになるジェームズは綽名の通り、常に薄い笑みを顔に貼り付けていた。
「微笑みが人を油断させ、調子を狂わせるらしいよ」
王は過去に出会った得体の知れない道化師にアドバイスされたことを実践していたと聞いたことがある。
「あの茶番劇が可笑しくってさ。噴出さないように堪えていたらああなってしまっただけのことさ……そんなことよりもボルジア枢機卿との話はついたのかい?」
「カステラ王国侵略の件、了承させました」
「さすがヨーク公。レスター伯に認められた武勇に加えて政も卒なくこなすなんて…生まれの尊さというものを痛感するよ」
「恐れ入ります」
その手の皮肉に慣れていた私は軽く受け流す。
ジェームズ王は自らが偉大なる女王の直系でないことを意識していた。
私が幼い頃に見た女王は年老いてもなお咲き誇る薔薇のように華やかで揺るがぬ自信を常に身に纏っていた覚えがある。
この王はどうだろうか。
得体の知れぬ何かを秘めているものの、王としての覇気がまるで感じられない。
「ヨーク公はシスティナ礼拝堂を見てどう思った?」
「絵画が咲き乱れるような…まさしくルネッサンスの粋を集めた異質な空間でしたね」
「ははっ、実に君らしい表現だね」
王の台詞に頭に血が少しばかり昇った。
過去にも今は元帥のクソ野郎に同じことを言われた記憶が蘇ったからだ。
奴は常にこう言うのである。
……実にお前らしいつまらない表現だ、と。
「僕はね、あの礼拝堂とバチカン宮殿を見て思ったよ」
…認めよう。
私は次の言葉を聴くまで完全にこの王のことを無邪気なだけの子供だと思っていたことを。
「あの腐った内装に吐き気がするってね……だから丸ごとバチカンのインテリアを入れ替えてしまおうじゃないか。二度手間で悪いんだけどボルジア枢機卿に教皇選出もこっちの都合の良いのを選出するように話つけといてくれるかな」
「それに無知蒙昧な民は外装までぶっこわせっていうけどさ、僕は結構この建物は気に入っているんだよ。なんていうのかな、歴史の波に洗われた風土っていうの?色合い?……まあいいや、とにかく内装だけ僕好みにそっくり全部入れ替えたいんだ」
王は終止感情が見えぬよう微笑みの仮面を貼り付けたまま私に命を下した。
枢機卿の座をイングランド派によって独占。
そしてイングランド主導によってカトリックの改革を成せ、と。
「いずれ我々の王が内より教会を改革するであろう」
それはかつてオリバー・ダドリー卿がカトリックに絶望しプロテスタントに傾倒した民に幾度も語りかけていた予言の成就だった。
いいさ、ついていってやる。
折角苦労して一族を宥めすかして就かせた王だ。
精々楽しませてもらおうじゃないか。
私はその後、思い知らされることになる。
この自分より遥かに年下の王がとてつもない怪物だったということを…。
~ 外務長官ヨーク公ジョージの述懐 ~
さあ、十字軍だ!
イングランド派の枢機卿が長時間に渡るコンクラーベの末に選出したのはパウルス3世だった。
西暦1543年、パウルス3世は対オスマンの十字軍を提唱。
13世紀以来絶えて久しい第十次十字軍が始まろうとしていた。
「これに馳せ参じたのが我等が王ってな。そもそも自ら教皇をせっついたくせに見え透いた茶番がお好きなこった」
そう言って肩をすくめたのはデイビット・ハウ元帥だった。
天才的なまでの軍事的才能は異宗派の自国民相手にしか腕を振るう機会に恵まれていなかった事もあり世の中には知られていなかった。
しかし4年前に神聖ローマ帝国皇帝と矛を交わし、圧倒的な勝利を収めて世に名を知らしめたデイビットはイングランドで唯一人の元帥だった。
「卿は王のことをどう評価する?」
東欧の地図が置かれた机を挟み対峙していたのは元帥の長年の戦友(本人達はそう呼ばれるのを酷く嫌がるが)であるヨーク公ジョージ。
イングランドにおいて新設された国務長官(Secretaries of State)制度の初代外務大臣である。
「常に傍にいるお前のほうが王のことは良く知ってるだろう」
「それはそうだが……4年間お仕えして未だに人となりが掴めん」
デイビッドは器用な貴公子が珍しく溜息をついて途方に暮れている様を久方ぶりに見ていた。
「そうだな、前のオーストリアとの戦の時に俺は王に5万の援軍を要請したことがある。その時、王はどれだけの援軍を寄越したかわかるか?」
「あの王は軍事面ではお前に頼りきっているから要求通りの数を寄越したのだろう」
「……2万だ」
「どういう意味だ?」
「俺も処世術というものを心得ている。概ね援軍を要請した際、要求通りの数が来ないことはわかっているから大目に頼んだ」
ヨーク公は息を飲んだ。
元帥の言わんとしていることが飲み込めたからである。
「王は俺が本当に求めていた数丁度を寄越したってわけさ。アホは一兵も寄越さない。凡庸な奴は全体を見ずに要求どおりの数を寄越しただろう。賢明なる我が王は自身が一度も戦場に立ったことがないのに将が憧れて止まない鷹の目ってやつを持っていやがる」
年下の若き王が底知れぬ才覚を見せる。
これが神に選ばれた者に与えられる恩恵なのか…?
本来なら仕える王が優秀なことは喜ばしいことなのに、ヨーク公にとっては不気味に思えてならなかった。
「話は変わるが俺は憤慨している。この前これを使った新戦術を王に考案したんだが…」
そういってデイビッドは壁に立てかけてあった一丁の筒をヨーク公に放って寄越した。
ヨーク公の太い右腕が感じ取った長く重い筒はいわゆる火薬銃(マスケット)と呼ばれるものであり、英国元帥がシャルルヴィル=メジエール兵器廠で量産させている新兵器だった。
「同席していたネーデルラント総督が横槍を入れやがった」
「オラニエ公が?まだ彼も20歳になって家督を継いだばかりだったな」
「ウィレムは俺様の考案した戦術案は元帥にしか扱えない代物だと文句を垂れやがった」
この時、元帥が王に考案して火薬銃の量産を迫ったのは前年に成立したスペイン帝国ではテルシオと呼ばれている陣形だった。
火薬筒と共に放られた羊皮紙を覗き込んだヨーク公は一目でその陣形の概要を見て取った。
今は政治畑のヨーク公も元帥と共にオリバー伯陣営で戦った騎士なのである。
「確かにこの陣形は追撃戦に欠けるように見受けられるが?」
「そうだ。俺様のような天才なら状況に応じて騎兵で追撃をかけれるんだが凡人には無理だといいやがった」
「彼の意見ももっともだな。……それで?」
「自分がこの戦術に機動性を加えて汎用性を作ると提案してきた。そんで後日纏めて来た書類を見て驚いたよ。……兵の教練、火薬銃の更なる量産と課題はあるものの、確かに動きやすくなっていたってわけだ」
ネーデルラントの若き息吹が芽吹いている。
政治軍事の中心に居る彼らにとって首都アントワープにいる若き才能はロンドンの若者より身近な存在だった。
「ムカつくからイチャモンつけてもっと研究して再提出しろって言ってやったぜ。奴らは俺たちから<これだから若いもんは…>という特権を奪い去ろうとしているのさ。非常に腹立たしいと思わないか?」
「……遺憾ながら同感だな」
長きに渡る宗教内乱は王の圧倒的な勝利、レスター伯の努力とその後を継いだハウ元帥の才能で終わろうとしていた。
そして少しずつではあるが長年に渡る内乱によって枯渇していた若い才能が再び世に出ようとしていたのである。
「そういえば卿が叩きのめしたオーストリアだが…」
―神聖ローマ帝国領邦を巡って不幸な行き違いがあったが我らの心は一つ、再び手を取り合っていこうではないか。
「といった具合に戦が終わり次第、同盟の再締結を申し出てきた。全くもって度し難い」
「王というのも難儀な生き物だな」
~ フランソワ・ラブレー著「ジョージとハウ」より ~
アッラーフ・アクバル
私は神の偉大さを讃え馬を走らせる。
周囲はあの偉大な征服を思い出させるウルバン砲の火薬のような臭いに満ちていた。
アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー
ラマダーン月に西から神を騙る背教者が懲りずに過去の遺物「十字軍」を提唱。
そして時を置かずに聖戦の名の元に我等がスルタンの征服せし土地に侵略を始めた。
卑劣なる異教徒は手薄になったイスタンブールの包囲を開始。
すでにアッラーの加護の元、海上では当然の勝利を収めた。
その勢いの元、首都包囲を破る為にスルタンが率いる精鋭軍団隊長である私は先行してイスタンブールに上陸した。
アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー
歳は老いたもののアッラーに恥じぬよう肉体の鍛錬、装備の手入れは怠ったことはなかった。
周囲で私と共に駆ける騎士達も同様だ。
ハイヤー・アラルファラー
なのにどうしたことだろう。
白煙に包まれて姿が見えない敵の陣を前にして、誇りが平伏していく。
一発の鉛弾が易々と私の鎖帷子を貫き、耳をつんざく愛馬の悲鳴と同時に鈍い身体は地に堕ちた。
「イスタン…が陥落し……らしい…!」
誰かの声が聞こえる。
騎士の魂を怒号と共に奪い去る忌まわしき兵器め。
私は時代の変遷に取り残されているのだろうか…いや、奴らが早すぎたのか?
アッラーフ・アクバル
ラー・イラーハ・イラーッラー……。
アッラーは偉大なり。アッラーの他に神はなし……。
~ とあるオスマン騎兵の述懐 ~
7人の選定侯達はそれぞれ複雑な思いで若者を見つめていた。
自身の立場の危うさと宗教的混乱から僅か15年で立ち直り、今新たな冠を抱こうとしている王がいる。
王の右にはヨーク公ジョージ・プランタジネットがいる。
もはや彼の策謀により枢機卿に成るにはイングランドに媚を売らねばならぬとまで言われるようになっていた。
王の左にはデイビット・ハウ元帥がいる。
元帥は神聖ローマ帝国皇帝、オスマン・トルコのスルタン、スペイン帝国皇帝と3人の皇帝を打ち破り、自らを戦神マルスと名乗っていると聞く。
キリスト教徒がマルスを名乗るとは何事かと糾弾されそうだが、元帥の眩いばかりの才能は周囲を黙らせた。
「大体マルスなんて名乗っちまったもんだから、王に自らの住処をスルタンから取り返して来いなんて無理難題を言われちまった…ま、それをやってのけるのが俺様なんだけどな」
王は周囲が見守る中、一つ歩を進めた。
数々の皇帝の即位を見つめてきたアーヘン大聖堂。
その壇上には自ら赴いて来た教皇パウルス3世が宝冠を手にしていた。
西暦1551年、イングランド王ジェームズ1世は神聖ローマ帝国皇帝に選ばれる。
外つ国の王が初めて神聖ローマ帝国の皇帝となった瞬間であった。
1554年、ジェームズ1世は帝国に改革を及ぼすことを宣言。
ドイツ諸邦が帝位を巡る争いは外つ国の強大な力によってひとまずの休息を得たのである。
かつては女王の直系の子孫でないことから軽んじられ、様々な屈辱を強いられてきた若き王。
しかし今は全ての民からイングランドに更なる繁栄をもたらした名誉ある皇帝として崇められている。
そして長きに渡るイベリア遠征に一区切りをつけようとポルトガル征伐の準備をしていた1560年のことだった。
イングランドを立て直した二人の将の後を追うように皇帝は床に伏せた。
自らの寿命を悟った皇帝は同じ名を持つ後継者を呼び寄せた。
「ジェームズ…いや、次なる皇帝よ」
「何を気弱なことをおっしゃりますか。早く元気になって政を行ってください」
「すでに回顧録も記録させた。……しかし皇帝に伝えておかねばならぬことがある」
ジェームズ1世と6つしか歳の違わないジェームズ2世の関係は複雑である。
ジェームズ2世はヨーク家とランカスター家の末裔であり、ジェームズ1世の王位を手助けする代わりにヨーク公ジョージがプリンスオブウェールズに指名するように要求した人物だった。
彼らの血の繋がりを求めるならば狂王ヘンリー6世にまで遡らなければならないのである。
それでもジェームズ2世は1世を王として、兄として慕いその治世を支えた。
そしてイングランドが誇りを取り戻すのを傍らで共に喜んでいたのだ。
「貴殿の子供はマリー姫しかいなかったな。だが女王は許さぬ。もはやイングランドに女王はいらぬのだ。男児が生まれぬ場合は別に後継者を立てよ」
「……はい、確かに承りました」
この遺言は後のイングランドに混乱を招くことになる。
それはジェームズ1世の出自があやふやなのに対し、ジェームズ2世は完全なる貴種であることに起因していた。
ジェームズ2世は家の繋がり、血の繋がりを重視する大貴族の家長なのである。
あらゆる慣習に頓着せず破壊し続けた病に伏せる皇帝はそのことを充分に理解していた。
(……ま、こいつが言うこと守るなんてこれっぽちも思っちゃいないけどやるべきことはやったさ。後はどうなろうと知ったこっちゃないね)
こうして怪物と称された皇帝は崩御した。
運命の悪戯が彼の人生を揺るがしたが、皇帝がその人生をおおいに楽しんでいたことは疑いようも無かった。
~ 宮廷歴史家 リチャード・ギボン著「ジェームズ1世治世録」 ~
第四話 ~西の冠を頭上に抱き、東の冠を抱えし者~ 完
次回 第五話 ~大英帝国誕生~ に続く。