AAR/ポーランドは未だ滅びず

第五章 アントワープ大戦

外交革命

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フランスが本領と位置付ける領土をオーストリアに割譲させられた事実は、フランス史上最大の屈辱として受け止められていました。
しかし、フランスはハプスブルク連合の前に単独で立ち向かうのは不可能だと認める冷静さも持ち合わせていました。

これまでフランスは相手から乞われて同盟に応じることはあっても、自分から同盟を求めることは一切せず、いわば「栄光ある孤立」を貫いていたのですが、ハプスブルク連合の結束を前に重大な方針転換をすることになります。
イングランドを同君連合を経て併合していたポルトガルと同盟を結んだのです。

ポルトガルはスペインと長い間同盟関係で結ばれ、フランスがスペインに襲い掛かった際にはスペインと共同で防衛にあたっていました。
つまりスペインを挟んでフランスとはずっと敵対関係にあったのですが、近年はスペインとポルトガルの植民国家間に抗争が絶えず、同盟も解消され、スペインとポルトガルの関係は冷え切っていました。

もはやポルトガルはスペインを歴史的盟友としては見ず、むしろ植民競争の最大の障壁と認識するにいたり、対スペインの同盟相手を探していたのです。
そして同じくスペインを敵視するフランスと利害を一致させたのでした。

フランスとポルトガル同盟締結の報はヨーロッパ中に衝撃をもって迎えられました。
これに飽き足らず、フランスは神聖ローマ帝国内の反皇帝派と結び、反ハプスブルク連合を形成します。

スペインはこの動きを見て、ハプスブルク連合に同盟を打診してきました。
フランスとポルトガルの同盟締結を機に、新たな国際関係が再編されていく様は、さながら外交革命と呼ぶべきものでした。

Aspiration for Liberty

ヨーロッパが2大陣営に再編されてからもすぐに衝突が起こったわけではありませんでした。
未曽有の規模の戦いが不可避であることを誰もが知っており、開戦に踏み切るのに誰もが躊躇していたのです。

コモンウェルスとしては直接フランスやポルトガルと国境を接しているわけでもなく、領土を拡張するには遠すぎるのもあって、自ら戦争の狼煙を上げる動機に欠けるのでした。

一方で国内では再び苦難の時を迎えていました。
リトアニアで疫病が大流行して、税収とマンパワーにダメージを負っていたのです。

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また、コモンウェルスは多民族国家として思想的に自由主義を掲げていたこともあって、世襲の王室の統治を認めず、人民の代表が国を統べるべきだという過激な思想が一部で流行しつつありました。

疫病の流行で苦しみを味わっていた人々の不満を吸収し、ついにはAspiration for Libertyという大規模な運動になっていきます。
安定度が-6され、全土で反乱率が上昇する苦難の時を迎えていたのです。

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それは、westernization、religious civil disorder、The struggle for royal powerに続く第四の国内の混乱期でした。
この時期のコモンウェルスは外征よりも国内の統治に地道を上げることを余儀なくされました。

アントワープ大戦

両陣営が一触即発でありながら戦闘が起こらない奇妙な平和はずっと続くかにも思われました。
しかし、均衡はついに破られます。血気にはやるフランスの同盟国ブラバントがフランダースのアントワープの領有権を求めて突然侵攻を始めたのです。
ブラバントとフランダースはそれぞれ同盟国に参戦を求め、一気に戦火がヨーロッパ中に広がりました。

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折悪く、コモンウェルスでは、Aspiration for Libertyの真っ最中でした。
広大な領土全てをharsh treatmentを使って抑えるわけにもいかず、全軍を前線に投入することは難しい状況でした。
バルカン半島の失地回復の機会をオスマン帝国が虎視眈々と狙っていることもあり、オスマン国境にも守備兵を配置せざるを得ません。

一方、フランス陣営はというと、ポルトガルは植民国家の加勢にかかりきりで、フランスを超える兵力を有するにも関わらず、最激戦地となっているフランス・オーストリアの国境にはほとんど兵を送りません。
結果として、両陣営の最大兵力を有する国が最前線に兵をあまり送らなかったのもあり、戦線は膠着状態に陥りました。

戦争開始から5年も経つと、激しい戦闘でフランス及びオーストリア両国の兵力は扶養限界の半分を下回り、人的資源もほぼ尽きた状態になっていました。
これを見て、Aspiration for Libertyの混乱を収束させたコモンウェルスはようやく重い腰を上げます。

コモンウェルス軍が本格的に参加したことでフランス陣営の戦線は一気に崩壊しました。
まずフランス側で参戦していたエノーの全土を占領して属国化を受諾させます。返す刀で残っていたフランス軍主力を撃破、オーストリアに割譲させていたシャンパーニュを前線基地にしつつパリを包囲します。

厭戦感情が爆発していた中で、度重なる敗走そして首都パリの陥落に心が折れ、ついにフランスが膝を屈します。
元はフランス側で参戦していながらコモンウェルスの属国になっていたエノーがフランスから3プロヴィデンスを獲得し、スペインにはオーストリアの飛び地を繋ぐ位置にあったfranche-conteが与えられ、最後にフランスとポルトガルの同盟を破棄するという条項が盛り込まれました。

大戦の後遺症

大戦でもっとも大きな傷を負ったのがフランスとHRE諸国であることは間違いありません。
最前線に位置したこれらの国々は人的資源が底をつき、厭戦感情が爆発し、反乱軍が各地で蜂起していました。
この痛手から回復するのにはゆうに10年はかかるでしょう。

コモンウェルスが比較的寛容な条件を出したこともあり、戦争に疲れていた両陣営による講和はすんなり進みました。
戦争後の不協和音は敵対陣営同士よりもむしろ同陣営内で見られました。

フランス大使はポルトガルがヨーロッパ戦線にろくに援軍を出さなかったことに激怒してポルトガル大使に詰め寄りましたが、ポルトガル大使は飄々と答えます。
ポルトガルとフランスの同盟はスペインを仮想敵国としたものであって、ハプスブルク連合と事を構えることは想定していない。
侵略戦争であったにも関わらず同盟を履行したことに、フランスはむしろ感謝すべきである、と。

利に聡い交易国家であえるポルトガルは一文の得にもならない戦争にまともに関わる気は一切ないのでした。
現に戦争直後にも関わらず、コモンウェルスの外交努力の甲斐もあって、ポルトガルのコモンウェルスに対する態度はfriendlyを維持しています。
フランスとポルトガルの溝は修復不可能なようにも思えました。

一方で、オーストリアもコモンウェルスに不満をぶつけていました。
なぜもっと早くに援軍を派遣してくれなかったのか、と。
これは特に最前線で闘い続けた兵士すべての心の声を代弁するものだったといえます。

コモンウェルスは国内の疫病及びAspiration for Libertyの混乱期にあったことを繰り返し説明しつつ、オーストリアで蜂起した反乱軍をことごとく鎮圧したのは誰か、と問います。
前線にほぼ全軍を投入していたオーストリアは反乱軍の鎮圧まで手が回らず、コモンウェルス軍に討伐を一任していたのでした。

それぞれの陣営に不穏な影を残しつつ、両陣営合わせて120万人以上が参加した未曽有の大戦は幕を閉じました。


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