グランド・アルメは世界最強ォォ

安定度-1

Q1.何でタイトルが八・九日目なんですか?
 A.何かの拍子でSSを消してしまい、ついでに脳ミソからその日のプレイ内容が消失してしまいました。
  他のプレイヤーにも聞いたところ、何も覚えていないほど何も起きなかった日のようです。

Q2.手抜きですよね?
 A.いいえ、違います。
  プレイ時間も1時間30分と実質20年しか進まなかったこともあり、本当に何も起きませんでした。

Q3.手抜きですよね?(威圧)
 A. ...。(死んだ魚の目)

Q4.あっ
 A.(察し)

八日目のダイジェスト

・旧大陸で主力が壊滅したIroquoisがUSAに戦争を吹っかけられ、あわや大惨事寸前にまで発展した。
・前Ottomans戦の条約内容通りの領土割譲が行われた。
・VCに謎のオーストラリア人が訪れ、Great Britainが「オーストリア植民待ったなし」と発言し『Send an Insult』を行った。

以下、九日目の内容

クールタイム

狂犬Franceと野心に燃えるGermanyが仲良く執政期間中な為、しばしの平和な時が流れた。

AAR801.jpg

Franceは八日のプレイ終了時にTuscanyがVeniceに対して戦争を吹っかけていたので
それに便乗参戦している状態からスタート。

颯爽と陸軍をVenice領に流し込み、屍の山を築いてさっさと帰国した。

最早この時期になると苦戦するほどのAI国家が残されておらず
ただの塗り絵に成りがちなのだ。

その間、Iroquoisが全世界に向けて対France包囲網を呼びかけていたが
先のOttomans戦の影響で陣営が定まった為に、康応する動きは最早皆無だ。

AAR802.jpg

この時の教皇庁がIroquoisによってコントロールされているのも合わさり
宗教の時代から帝国主義へと移行しつつあるというささやかな皮肉にも見て取れた。

「一時の平和は最も精力的に外交が繰り広げられる期間だ」とどこかの偉人が言っていたがまさにその通りで
この時、水面下ではフラグの回収をしに戦端を開こうとする動きがあった。

サンクトペテルブルグ燃えゆ

この年のSt.Petersburgは8月だというのに、記録的な大雪に見舞われた。

公会場ではツァーの慈愛により炊き出しが行われ
下級貴族の子らや地方から農作物を運び入れに来た商人でごった返していた。

普段販路を行きかう馬車が積雪を前に立ち往生しているのを目撃した通行人らは
力を合わせやっとの思いで窮地から救い出した。

いつもと違う生活、そして風景。

だが、今年はあまりにも違いすぎた。

遠くで誰かが叫んでいる。

市民「おいあれを見ろ、屯田兵のコサック達が息を上げて入城してくるぞ。あいつらはいつもせかせかしているな」
守衛「いや、あれは...。」

AAR803.jpg

数刻もしない内にSt.PetersburgはGermany強襲軍により制圧され
クレムリンに住まうツァーもあわや捕縛されるすんでであったと後年の歴史書物では記載されていた。

強襲作戦

参戦国
アーリア同盟ロシア帝国
GermanyRussia
FranceGreat Britain
MugharlsIroquois

一体何が起きたのか、恐らくそれはRussia自身が一番理解できていなかったに違いない。

事前に手に入れておいたIngermanlandを橋頭堡として
宣誓無しにGermany軍がSt.Petersburgに侵攻、即時陥落させてしまったのだ。

AAR804.jpg

それに加え、当初の計画通り背後からはFrance軍が続き
ウラル=アルタイ地方ではMugharls軍がヨーロッパ側とアジア側の補給戦を分断させた。

計画との大きな違いは、当日のCommonwelthにはプレイヤーが不在であり
前戦力をRussiaにぶつけることが適った点か。

AAR805.jpg

完全な奇襲にする為に、RussiaとGreat Britainらが同盟を結んでいたCommonwelthや
Russiaの保護国であるChagatai付近1プロビには近づかない形で軍を潜ませ
戦端が開かれてから前線に駆けつけるというスタイルをとった。

Great Britainが何故Russia側で参戦したのかは条約関係のようだが
戦闘には参加する気配は無く、観戦に終始していた。

この事態にRussiaとの同盟関係にあったIroquoisが遅れて参戦をしたものの
もはや大局を覆す要因にはならなかった。

理由は2つ、1つは大西洋への入り口のSt.MartinがFrance領の為
2つ目は単純にIroquois陸軍はまだまだ未成熟であるばかりか
下手に本国から兵力を運び出せば、FranceはUSAを使ってIroquois本土をボコボコに出来たのだ。

虐め反対!

対Russia戦は起こるべくして起きたと言っても過言ではない。

前回のOttomans戦の際、対Russiaに対する講和内容が甘かったのは
Germanyの中ではスカンディナビア利権を巡って「もう一戦やる気」だったからだ。

それに加え、Mugharlsは明の利権を巡って未だ解答を得れておらず
FranceとしてみればRussiaはIroquoisサイドの対Franceの重要なファクターなのだ。

これら3国が抱える対Russia構想が合致し、今回の包囲網が形成され
今回の戦争が引き起こされた形だ。

バルバロッサの恩恵

再び戦況に話を戻してみる。

今回の作戦では、主な戦闘はGermanyが請け負い
Mugharlsはウラル=アルタイラインの構築によるRussiaのアジア方面軍との寸断
FranceはMugharlsのサポートと一番ド底辺の占領が主な仕事であった。

AAR806.jpg

Russiaの貧しい土地でFranceが占領作業を行う点に関しては
過去にGermanyに助けられた恩があったのでその役目を求められた時に快諾した背景があった。

無論、予想通りManpowerとTresuryがゴリゴリ減っていくがこれで恩が返せるなら安い物だと思っていた。

AAR807.jpg

元々ヨーロッパ側に居たRussia陸軍の大部分は開幕の戦闘で壊滅していたが
残存兵力が封鎖に加わっていたFrance軍を突破してアジア側に逃げ込む場面も見られた。

AAR808.jpg

しかし、既に封鎖は完了しており
Mugharlsがよそうよりも多いほぼ全軍を投入してくれたことでRussiaのヨーロッパ方面奪還は厳しい状況であった。

Iroqupoisはというと、本国の兵力をRussiaのアジア側の港には運ばず
本土でじっと戦況を見つめている様子。

AAR809.jpg

途中、あまりに仕事が無かったFrance艦隊で貿易艦隊を襲って見せたりしたが、一向に動きが見られない。

海軍モラルが低いのは賃金をケチったままになっていたからで
この海戦は勝利しているのでご安心ください。

筆者はこの手のミスを頻繁に犯す。

恐らくIroquoisはOttomansの参戦を促していたに違いないが
実は参戦のトリガーを既にFranceは把握しており、事前に芽を潰すことに成功していたのだ。

Mugharlsの本気

鋭意執筆中...。

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