さて、1689年5月。外交Lv.が23に到達し帝国主義戦争と民族主義戦争を仕掛けられるようになった。
我が国の総開発度は7000あまり。軍事力も資金も他国を圧倒しているゆえ、あとは時間との戦いと言ってよかろう。
果たして世界征服に間に合うのかどうか…常に焦りながらの進行となったな。
方面ごとの戦略も前回から変わりませんので、時間を追いながら大きな出来事だけ振り返っていきたいと思います。
以前外交属国化しておいたソンガイ領の再征服が名目。主交戦相手はカツィナです。
西アフリカ、北米の両岸、そして南米北岸と、あちこちで衝突するやや面倒な展開となりましたが、欧州が手薄になった隙を衝いて1691年に英国本土に上陸を果たしました。
英国とはここで分離和平し、ブリテン島南西部に橋頭保を奪いました。
この戦争と並行して、1690年からマムルークと民族主義戦争を戦いました。
素晴らしいCBで、一気に31州を獲得できました!
マムルークの次は明とデリーに宣戦。デリーからはパンジャーブの旧領を、明からは各地の要塞を奪いました。
これらの戦争がひと段落した1695年、初めてフランスに仕掛けます。
フランスは、なんと日本と同盟しておったのでユーラシア大陸の東西両端での戦争となったの。
日本とは主に朝鮮半島から満洲南部で追いかけっこを繰り広げつつ、隙を見て九州へ上陸した。
そこから中国地方を東進し、筑前を奪いつつフランスとの同盟を切らせて分離和平となった。
島国攻めで橋頭保は重要じゃな。
一方、フランスへはイベリア半島から侵攻。ピレネー両端の要塞を巡って攻防を繰り広げた後、じわりじわりと本土の要塞を落としてゆく展開となりました。
先方の士気の高さと要塞の堅さには苦しめられましたが、なんとかパリを落としまして、戦勝点41%で停戦。ピレネー両端の要塞とサヴォイの種地など13州を奪いました。
サヴォイ旧領は開発度や要塞レベルの高い州が多かったので、この国を解放できたのは良かったですね。
サヴォイには旧領を回復し終わった後も周辺の領土を引き受けてもらったので、結局最後まで存続した属国となりました。
さて、1700年に啓蒙思想が発生した。が、ここで誤算だったのは大学のある州をすべて足しても開発度の10%に届かなかったことだな。
豊かな州には建てていたつもりだったんですが、まだ全然足りませんでしたね…。
どうせお金は余っていたんですから、しらみつぶしに建ててしまうべきでした。
18世紀に入ってまず最初は、英国と2度目の戦争がありました。今回は直接宣戦で、先方の同盟国は北米先住民のみ。
前回得た橋頭保からブリテン島を蹂躙するのはもちろん、西アフリカや新大陸でも激戦を繰り広げました。
結果、戦勝点67%で停戦。各地の海外領土のほか、ブリテン島の領土も拡大しました。
西アフリカで奪った領土はどんどんソンガイに渡したんですが、過剰拡大が増えた結果、ソンガイの各地で反乱が起きるようになってしまいました。
自国の過剰拡大が100%を超えるよりはよほどマシというものじゃの。
適宜叩き潰しておくがよい。
宗主国の歪みを属国に引き受けてもらうのは世の習いですね。。。
さて、1703年になってだいぶ外交点が貯まってきました。そろそろ「宗教」アイディアを取り消して「外交」アイディアに切り替えますね。
狙いは6番目の「自在な交渉(州獲得に必要な戦争点コスト-20%)」じゃが、さすがに一気には届かん。獲得は1713年になったの。
とはいえ途中の外交関係枠増や外交評判増も終盤の拡大ラッシュを支えてくれて助かったの。
革命の時代を4年後に控えた1706年、満を持して発動させました。
1712年 マムルークを全土併合。
マムルークは前回の戦いで、ついにスマトラ島の国となっていました。
その後しばらくは各地で転戦が続きまして、次なる主要国の全土併合は1745年、英国となりました。
新大陸に残っている植民地国家はフランス配下。あとはアラスカにネーデルランド領と、あと少しだけ先住民領があるだけです。
そして1750年、日本全土併合。
その結果、なんだかおかしなイベントメッセージに…。
以前奪った土地のハンガリーコアが消えていることに気づいていなかったので、直前までクロアチアとかを解放しようと思っていました。
36州も一度に開放したのは初めてです。
これまでの戦争で段階的にシベリア方面などを回収しておりました。結果最期の絵面は地味なので省略いたします。
そして1756年。フランスを全土併合。
上の図のうち、ハンガリー、ナポリ、サヴォイ、ブルゴーニュ、プファルツ、それからノヴゴロドがぼくたちの属国です。
1761年、ネーデルランド全土併合。これで新大陸を完全制覇しました。
太平洋の小島にちょこちょこっと小部隊がいて、併合後反乱軍になったのが面倒でしたね。
1767年、ベンガルおよびマー・ワラー・アンナフルを全土併合。
これでインド亜大陸とチベット・シルクロード周辺の征服が終わりました。
インド亜大陸は実質、デリー併合時点で制圧していたので、中国およびインドシナ方面軍をちょっと戻して制圧した感じです。
この後すぐにオイラトも併合して、東アジアの統一が終わりました。
1777年、カツィナと停戦。過剰拡大を100以下に抑えるため、首都だけを残しました。
アフリカで残すのはここだけなので、停戦が明けたらアフリカ制覇も完了ですね。
1779年、チャンパを全土併合。島嶼部も含め、東南アジア制覇が完了いたしました。
次いで1781年、ケルンを全土併合。神聖ローマ帝国は解散いたしました。
ケルンはカトリックの擁護者として欧州での大半の戦いに口を挟んできた相手でした。
欧州に最後に残った大物がついに消えたと言っていいですよね、ライオンさん!
カツィナになるとは思いませんでしたね。停戦が明けるのは1790年6月です。