お初にお目にかかる。外交アイデアにより加入した
は、はじめまして。言語が変わればもう異国にきた気分になりますねぇ。*2・・・あれ、「お三方」、とは?
おう、実はさっきから熊が見当たらなくなったんだ。お前、何か知ってるのか?
熊なら、もうここにはおらんぞ。彼奴は明が
ふむ、余の前任の外交官のことじゃな。彼がいなくなったことを含め、ポーランド化で起こったことを纏めることにしよう。それとそこのジジイよ、固有名詞をchińskiで書いてルビを載せるのはもう止めにせよ。これからはPolskiが、この帝国の公用語じゃ。*3
(いちいち偉そうでシャクにさわる奴じゃのう。キャラも被っとるし・・・)
ポーランド化しても朱戴基が中華皇帝位にとどまっているな。しかし・・・今までの改革がすべてリセットされている。そのせいでReform Seabanで入ってきた熊は里に返されたのか。
実のところ、Reform Seabanなど諸改革・効果の開放と喪失で入れ替わる外交官は必ずしも一致するわけではない。消える外交官は、待機中の者、次に帰還中の者が優先的に選ばれるようになっておる。
そういや、ポーランド化の直前にスウェーデンに派遣されていた熊が呼び戻され、代わりに私が送られたんでしたね。
最初から名前と顔が一致しとらんかった熊を、正統帝は早々に弾きたかったんじゃのう。
変態から5日が過ぎて(1659年9月2日)、皆もそろそろポーランドの暮らしに慣れてきたであろう。ここで重大発表だ。ポーランド帝国は本日をもって消滅する!
この帝国は既に
しかしこの年代でこの領土というのは厳しいですねぇ。それに収入に結びつかない征服が続いたせいで、借金は合計30000ダカット以上に膨らんでいます。
三人にとっては口にし難いことじゃろうから、新参の余からはっきり言わせてもらおう。このペースでこの運営レベルでは、WCはおろかローマ帝国再興も無理ではなかろうか。
もうこの章は大きなおまけページみたいなものだ。最後に明→ポーランドという変遷に似合う一大イベントが起こったので、駆け足で紹介するぞ。
実はポーランドに変態した時点(1659年)で、我々の最大の攻撃目標だったロシアが継承危機に陥っていたのです。
リューリク朝のアンナ女帝が嗣子なくして60歳を超えたのじゃな。王朝を共有しているのはかつてロシアと同盟関係にあり、いまは我々と手を組んでロシアを蚕食しているスウェーデンしかおらん。
ならスウェーデンが未だ大国のままのロシアを同君連合下に置くのを指をくわえて眺めてろってか?いくら同盟国でも見過ごすわけにはいかないな!
というわけで3年後の1662年、アンア女帝が死去してスウェーデンがロシアを継承。コモンウェルスも以前からロシアをライバル視していたことからこの連合成立に異議を唱えて同盟を破棄、スウェーデンvsコモンウェルスのロシア継承戦争が圧倒的スケールで勃発したのだ。
ところで、1661年にオスマンとの戦端を開いたばかりなんじゃが、こちらは白紙でもなんでも講和しておくべきではないのかの?
それはいけません。オスマンと講和などした瞬間、我々は軍量世界二位*4のフランスとも戦わされることになるからです。
戦争後の1671年時点での軍量。反乱鎮圧と財政再建に追われているうちにイギリスにまで抜かれた。スウェーデンは戦争前にはコモンウェルスに少し劣るほどだった。
俺たちとスウェーデン、それにフランスは、もともと巨大な三国同盟を形成していたんだ。その中でコモンウェルス・スウェーデン同盟が切れて継承戦争になったわけだが、ここでのコモンウェルスは攻撃側に立っている。つまり、この継承戦争が平時に起ったならば、フランスは我々と手を切り防衛側のスウェーデン陣営で参戦していたはずだ。そうなればもう勝ち目はない。
なるほど、それを防ぐため、直前にあえてオスマンに宣戦布告しフランスを一戦争の同じ陣営に引き込んでいたんじゃな。
しかしこの方法では、スウェーデンとフランスの同盟は切れるが援軍要請は消えぬらしい。継承戦争が始まったからといってすぐにフランスを対オスマン戦争から開放してしまうと、やはりフランスが敵方に飛び込んでしまうのだ。だからフランスには、いつまででもオスマンの相手をしてもらわねばならぬ。
かくしてインド植民地の大反乱を遠目に眺めつつ、ポーランド本土はスウェーデンとロシアに分割され消滅した。これが世にいう第0次ポーランド分割である・・・
勝手に終わらすな!ヨーロッパ領を占領されるのもインドが真っ黒になるのも最初から想定済みだ。オスマンは既にコンスタンティノープルを落とし、スカンディナヴィアではスウェーデン軍が出払っているうちに要塞群をすべて抑える。ここからゆっくりとロシアへ軍を戻し、モスクワを落とせば勝ちが見えてくるはずだ!インドは全部終わってから掃除に向かってもまだ間に合う。
今のコモンウェルスと史実で分割されたコモンウェルスの違いが分かるか?それは中央アジアと中国という、長大な回廊と巨大な
本土後背地を持っておるという事だ!何年かかろうと・・・
1669年9月1日。ついにスウェーデンが戦勝点以上の講和を受け入れ、ロシア継承戦争は終結した。かつてタタールのくびきから逃れ出て成長を遂げた超大国ロシアは、
タタールの後釜かつて同じくタタールに荒らされた西方のライバルの軍門に下った。
ついに、ついにあのにっくきロシアを従えたぞ!ザモイスキ、ジグムント、ウワディスワフ・・・ホトキェヴィチ、アウグスト、コシチューシコ・・・お前たちの夢は今かなったぞ!皆、そなたら東洋の英雄たちのおかげじゃ!今、余は深い感激のうちにおる!オォォ...
・・・いつの間にこれはポーランドの復讐AARになったんだ。
釈然としませんねぇ。まあ、我々も目標を見失ってしまったのは確かです。一応1714年までは時間を進めたのですが、オスマンとの終わりが見えない戦争。未だに同盟を切れないフランス、朝貢下でうごめくオイラート、ペグー、ペルシア。大内乱とLD50%越えを繰り返して使い物にならないロシア・・・こうした状況で、ついに正統帝の厭戦がオーバーフローしました。
最低目標のローマ再興すら難しくなったからのう。よし、尚に高よ、カジミェシュ殿を送った後で、もう一度反省会を開くぞ。
被占領地域や属国の補足が面倒なので王朝マップもご覧いただきましょう ドイツ北西部、イベリア南部、チュニジア、エチオピアに飛び地
→NEXT
ロシア継承戦争終結直前の1668年12月、フランスが独断でオスマンと白紙和平を結んでいました。
ここから継承戦争に絡んでくる、ということは無かったが、対オスマンでもまったく貢献してくれなかったんじゃのう。同盟国フランスの扱いはどの場面でも難しいもんじゃ・・・
1684年4月、遷都イベントが発生した。明以外の国が中華皇帝になると発生するらしく、首都を北京、南京、西安(選択すると長安に改名)、洛陽に移すか、元の首都を維持するかという5択が提示されるのである。
そもそも私たちが明そのものだったんですけどね。首都も北京から北京に遷都*5するので問題ないでしょう。
しかし「北方の前線を護る」と言ってみたところで久しぶりに存在を思い出したけど、朝貢国オイラートの存在感が半端じゃないな。後から潰そうにも、既に諸大国と同盟網が結ばれちまってる。朝貢を切れば天命はガタ落ちするだろうし、下手を打てば遊牧民Disaster(第1章参照)を抑えられなくなるかもしれない。
余は今回以降もう出番がないのだが、今後のそなたらの成功を祈って一つ助言してやろう。「西」は後回しでよい。まず「北」を平らげ、「東」を抑えることに力を注ぐのだぞ。心して次に備えるのだ・・・
→NEXT