1466年6月、(1, 1, 1)が崩御。皇太后となった
まだ立后もしてないのに弟君の朱
12年後
MTTH(Mean time to happen)とはEU4の場合「その間に発生している確率が50%となる期間」を指す。12年で来たのは幸運と言えるのう。
参考:MTTH=365 daysのイベントの発生率(英Wikiより)
明プレイではイベントをコントロールするのが非常に重要になる。今回は特に重要な3つの明固有イベントを紹介していくぞい。
しかしこの済煥(4, 5, 6)は今までと比べるととんでもなく有能だな。 *2EU4クオリティで夭折しなきゃいいが。
順番が逆になってしもうたが、嘉皇后の摂政期間中に最初の改革「改土帰流(Introduce Gaituguiliu)」を通しておる。もうスペースが無いので、中華帝国改革の詳しい説明は次回に回すぞ。
景泰帝即位から1年たっていませんが、
ふざけてる場合じゃねえぞ!気休めに同盟結んだ
え・・・えぇ・・・(困惑)
えー、ワクワクドキドキ北京周回キャンプツアーにお申込みいただいた包囲網の皆様、誠に勝手ではございますが、まだ庚戌の時間ではないので、大明の降伏をもってツアーを中止させていただきます。
( ゚Д゚) 我ら
( `―´)ノ
(-“-)(-“-)(-“-)… ←他各国
(そうか、
(首謀2国の頭は煮えていても、AEは停戦中に十分冷めるという事か・・・)
ともかく、この交渉の席についてくれるようで何よりです。こちらから出す講和案は、大越、
(^q^)(^q^)(^q^) イイヨー
かくして初めての包囲網戦争は、わずか1日で終結したのじゃ。めでたしめでたし*5(1468年6月22日 – 1468年6月23日)
(これ絶対読者から「期待外れ」つって卵投げられるやつだ・・・)
「属国開放」と言いましたけど、要するに5つの朝貢関係を破棄したってことですよね。Vassal等よりはずっとましですけど、少しずつでも貢いでくれる国を失うのは結果的に大損なのでは?
敵からすれば軽すぎるし、自分から見れば重すぎる講和ということか?
いやいや、これは我々にとっても非常に楽な「抜け道」じゃ。解放したうち3国は1年以内に朝貢再開し、講和の目玉だった大越との関係も6年後に復活したわい。
気づいたら(同年10月)朝貢OKしてくれてるLan Naさん
今回の包囲網戦争での損害は、概算すると君主点-24、人的資源-7400、威信-41.2・・・威信は朝貢国から搾れるから、ほぼ無傷と言っていいな、これ。
いくら金を恵んでも靡かない不届き者がいる一方で、捨てられてさえ*6主を頼らなければならないカワユイ国々もおる。1プロビの小国と、同盟国を持たない大越のことじゃの。
これは酷すぎる。しかもさっきまで包囲網にいたはずの
ここからしばらく
・・・
まあそう急かさないで。地中海を
地中海進出の下ごしらえとして、まずはおなじみ地図獲得。前に言い忘れていましたが、数ある地図の中でも相手が強い関心を持っておらず(≒相手が領土を持つ領域ではない)、自国の軍が隣の地図領域にいる場合に貸してくれるようです。
同じ朝貢国でも、同盟を結び関係を確定させてから朝貢した国からは貸してくれるが、直接朝貢したことで態度がUnknownのままになっている国からは貸してくれぬ。面倒くさいのう。
可視領域を広げつつ、
こっちは特にすることが無いから、地中海艦隊の建設でも始めるか。自前の海が無くとも、
小型船が出来たら地中海へ回してくださいね。これで欧州沿岸は丸裸ですよ!
これこれ、発見というと原住民に失礼じゃぞ。彼らはずっと昔からそこにいたんじゃから。
うーむ・・・鉤カッコつけていわゆる「発見」とでもしとけばいいんじゃなかろうか。(適当)
まだこの時点で1478年。やろうと思えばヨーロッパ全土・北アフリカの霧もすぐに晴らせられる。
元気だったころのKazakhくんをお楽しみください。最後のHがぶっ飛んでるせいでウズベキスタンが発生しているように見える。
ここで明の方針に関わる大きな出来事があったが、それは後回し。Serica Universalisの項で紹介するぞ。
包囲網でもなければ簡単ですね。
北京ノードは現状数少ない明の貿易収入の生命線じゃからの。終戦と同時に内政も動いたぞい。即位20年をもって景泰帝(3, 4, 1)が退位、成化帝(4, 5, 6)が即位された。皇太子朱載基はまた偏った脳筋のようじゃが、まあ良君の範囲じゃろうな。
手始めに
さあ一緒に始めよう、
少し前に2chスレで「朝貢システムにはタタールのくびきの要素が含まれている」という解釈が上がっていたのを思い出して色々吹っ切れました。
あまり好きなやり方じゃないが、第一次オスマン戦が不完全燃焼で終わった腹いせに、黒旗連隊を使って
全要塞を制圧して講和。
この後
今回の標的は
もちろん彼らに対するCBは持っとらんのじゃが、周辺にある明の朝貢国
計8カ国を解放し、すべて朝貢国にした。(1501年1月13日 - 1503年4月12日)
これなら下手にAEを溜めず、朝貢国増加で人的資源の補給も大幅アップできよう。解放した
さて、政治史がひと段落ついたところで時間を巻き戻し、前々回からの問題を一つ種明かししよう。
ノード内の取り分はかなり小さいのに、所有権は明が握っているのですね。
その結果として発生するイベントがThe closure of Chinaじゃ!明*11が保有するノードに、欧州SuperRegionに首都を持つ国家が商人を送ると発生する。
技術・アイデアコストが共に1割引になる強力な補正だな。強引な
しかし各プロビのTP-25%というのはかなり痛手だと思うのですけど、ここまでしてこの早期にポップさせる必要はないのでは?
いやいや、このThe Closure of Chinaは大きな目標にも見えるが、実は「明としての最終目標」への第一歩なのじゃ。一旦1490年3月12日まで時を進めるぞ。
The arrival of the Jesuits。明領の海岸プロビのうち一つが
ん?対象プロビ(青州)の
えっ・・・あー・・・うむ。*15ともかく残り半分なら、今この場で受容できるぞ。名君のおかげで外交点と軍事点が有り余っとるからのう。
宗教はどうしましょうかね。せっかくだから宗教反乱が起こるような土地にしてみたいのですが、斉のコアなので相変わらず分離主義者のプロビのままです。
非国教プロビなら宗教反乱を起こす条件を満たすんじゃが、分離主義の方が優先度が高い状況じゃな。
一つのプレイヤーチートじゃが、一旦Unrestを-6以下に下げ(下げすぎてはいけない)、宣教師を送ると・・・
なぜかアイコンが変わっておらんが、数年後に見直したところ、しっかり十字架のマークになっておった。この方法は他の国でも使えるが、考えなしに宣教し続けとると国教に改宗されてしまうから注意せねばの。
1503年7月21日、聖
迷っておる。すごーく迷っておる。国教改宗には宗教反乱を使うオーソドックスな方法ともう一つ、イベント・・・Open China系列イベント第四弾を使う方法があるんじゃ。
コメ返で「もう一つ」の方を使うとカッコつけてしもうたんじゃが、よくよく考えると今回の内陸ルートでは「もう一つ」を使うのはかなり難しいことに気づいての・・・
・・・仕方がない。期待してくれていた読者には本当に申し訳ないが、今回は素直に反乱改宗で行くことにしよう。その代わり、前回プレイで「もう一つ」を使った時のSSが残っておるから、後の回で紹介するとしよう。高逖よ、もう「獲得プロビを最低限に抑える」縛りは無くなったぞ。AEには気を付けつつ、好きなだけ切り取って来い。
億歳!*16ところで天命がそろそろ満杯になりそうだが、2つ目の改革はしないのか?*17
海禁の改革じゃな。天命を無駄にするのも勿体ないのう。ポチっとな・・・(1503年9月27日)
第三章 了
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これ明らかに日本じゃないか!枯山水じゃなくて本物の池を造れよ!
朝貢国にはInfluence系の外交コマンドが使えないはずなんじゃが、外交マクロを通すとうまくいくぞい。*18おいたな
後で見たら全然気にせず隣国に宣戦布告して拡張してたけど、なんだったんだこれは・・・
1478年時点のHREインターフェースですね。
前回プレイではHRE皇帝即位時に1つしか改革が進んでおらず、苦労したのう。いずれ我らのものとなるまで、彼らにはしっかりIAを溜めてもらわにゃならん。
ところでThe arrival of the Jesuitsのフレーバーテキストの冒頭を見てくれ。こいつをどう思う?
「1581年、
つまり市舶提挙司設置区でも、西域の民が長逗留するような大都市でもないこの
そうこうして下の「あらすじ」に至るころには、凄まじく意味不明な補完ストーリーが誕生した。*20
正統帝は以前にも挑んだ三位一体などのキリスト教狭義の理解を試み、半日を費やした末に不完全燃焼に終わったのである。(ヤケクソの独り言)
正統帝崩御。その報は瞬く間に全土に広まり、中華は歓喜に包まれた。北京では至る所で民衆が祝賀したために酒と肉が高騰し、南京では興奮した群衆の重みで秦淮河の橋が崩落した。幸い死者は出なかったが、南京の人々はこれを洪熙帝*21の加護と考えて宮城予定地に碑を建て祭りを催す有様であり、先帝を悼む者はだれ一人いなかった。
政務を継いだ嘉太后は、正統帝の代で溜まった内政の塵と対外の膿の排除に辣腕を振るった。遠方の世襲土司を排して科挙官人を通した直接統治への改革を推し進め王朝の権威を高める一方で、明への反発を募らせてきた諸外国が景泰帝の即位に乗じて侵攻する構えを見せると、瞬く間に外交工作網を動かして
南国出身で中国の伝統を若干無視するような諸政策は、旧体制下で抑圧されてきた民衆からむしろ支持を集めた。
景泰帝と、一線を引いた後も皇帝をよく補佐した嘉太后の治世は、中国本土が脅かされることなく平穏だったと言われる。しかし嘉太后の唯一の汚点は、皇太弟朱瞻墉を溺愛したことであった。病弱な景泰帝よりも母の血を濃く受け継いでいた彼は、口達者なだけの放蕩息子であった。
嘉太后が崩ずると朱瞻墉はクーデターを起こしたが、一部貴族の支持しか集まらず失敗し庶人に落とされた。一方景泰帝自身は、自らにも流れる無能の血に絶望し、晋王朱済煥を立太子した。
永楽帝の孫である彼は美髯をたくわえ威厳のある知勇兼備の名士であった。かつては粗暴であったが、正統期に謀反の嫌疑をかけられたところを朱楠(景泰帝)のとりなしで助かったところから改心して温厚になり、封地では名君と称えられていた。
西域総督に任じられた朱済煥は、本格的な
おりしも
朱済煥は、みずからを大
即位後も、成化帝の関心は西域にあった。彼の派遣した遠征軍は瞬く間に宿敵
一方
さて、明の西方進出は、文化面でも大きな意味を持っていた。
唐代に最初の宣教師・阿羅本が到来して以降、景教と称する、天主と基督を崇める西域の教えが流行した時期があった。廃仏の巻き添えで一度は滅んだものの、元朝期に蒙古人によって再来する。これもまた短期間で廃れたが、弥勒と同一視された基督の下生を待ち望むとする新教義は山東の白蓮教団に衝撃を与え、福建の明教徒内でも基督を神と可分とする密的教義が否定されるなどの変化が起きた。
明代の初期から中期にかけて
教皇国出身の僧
かつて
ここに欧州の
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