1520年の間に
序盤戦略として早い時期にCivil Warを勃発させる手も考えておったが*2、普通に天命貯める方が楽じゃったのう。
それから10年後の1534年には改土帰流を通せるまでになった。
天命はHREのIAと比較して増えやすく、減りやすい。つまり、増えるときには一気に増えるが、考えなしに改革を進めて天命不足に陥ることもあるから、使い方が難しいのじゃ。
今回は改革よりも天命を高水準に保つことを第一に考え、天命が100の状態で十分な増加量があり、さらに天命ボーナスイベントが発生*3したときに改革を進めるようにしたぞい。
その後も隣接する大国
この序盤から中盤にかけては外交官が忙しくなるから2つ目の改革は急ぎ足でとっておきたいところじゃ。この後は天命100を維持し、反乱の芽をつぶす方を優先するのじゃ。
海禁の解禁でやってきた牛慈照(Cizhao Niu)なのだ。よろしくお願いするのだ*4。
今のところ朝貢関係は取り上げるものもないから、牛くんには植民状況を担当してもらおうか。
はいな!新大陸上陸後は6k部隊に征服者をつけ、原住民制圧政策をとって猛スピードで植民していったのだ。当然原住民は文明の武器で浄化されるべきなのだ*5。
そういやずっと前ですけど、アラスカに最初の植民地国家ができたんでしたね(1523年)。名前は何と?
もう何度目の三帝冠プレイか知らない正統帝は、もう最初から植民地国家名を決めていたのだ!この新国家の名は「Terra Arcticae(北極の大地)」なのだ!
て、てっら・あるくてぃかえ?今まで一つ一つルビふってまでこだわってた中国語を捨てて何処の言葉を持ってきたんじゃ?
そりゃもちろん
そうじゃ、一つテクニック面で付け加えておくと、植民地国家は収支が+2.00(乳直地1つ分の維持費)以上でないと自分で植民してくれないのじゃ。
そう、だから属国管理画面で収支状況を確認しつつ、補助金を出して入植を進めてもらったのだ!*6
さらに南下して、本国から砲兵の増援も加えて入植したり征服したりして、1532年にカリフォルニア植民地が自立した。ここの名前はどうする?
うーん、Wikipediaによると、カリフォルニアという地名は伝説の女王カリフィアから来ていて、そのカリフィアは
欧州人にとっての
欧州にとっての
史実じゃここにはNew Spain*7があったところなのだ。それに関連して、ここは
ちなみに画像で巨大化している
1543年にコロンビア植民地が自立。史実ではNew Granadaがおかれたところですけど、これをアレンジするのは難問ですよ?
たしかGranadaといえば、Spainが陸続きの土地としては最後に併合した、南方の国の名じゃな。
「陸続き」で「南方」で「最後に併合した」土地?明で言えば
だからどうするってんだ、言っちゃ悪いがこんな地域名の
・・・あったのだ*9。これで新植民地国家の名前はNova Mongnaiに決定なのだ!
この際ですから、もう一つ植民地国家を紹介したところで区切りとしましょうか。1562年、ペルー植民地が自立。
どこで読んだか覚えてないけど*10、ある説ではペルーとは太古にあった偉大な国の国名だそうなのだ。だからこの国の名はいにしえの王国・商にちなんでNova Shangとするのだ!*11
話を西方に戻そう。1527年から
たしかにこの戦争で起きた戦闘は、1k2kの泡沫連隊を吹き飛ばしているのを除けば2勝6敗*12という散々な状態だったが、城塞を優先的に攻略していった結果・・・
やっぱり
1548年までに
属国と言えば、いつの間にか中央
前回プレイで荒ぶる
では印度方面はどうなっておる?西欧に盗られたり下手に統一国家ができたりするまえに旨い金づるは押さえておきたいところじゃが。
まず北西の
どうしてもこの地域での侵攻速度は遅くなりますね。AEが溜まりやすい彼らはもう包囲網常連です。
ここまでくればあとはどうとでもなる。まず南印度をほぼ手中に収めている
征服地のほとんどを属国
あとあとで続出する反乱軍ラッシュの後始末のことも考えてほしいのう・・・一戦中とはいえ
最後に、手の空いた時にちょこちょこ進めた
しかしここまでくると、もう
お、どうやら
よし、その線でいきましょう。まずは
1559年世界地図 属国ペルシア・ノヴゴロド・カザン・カシミール(緑)・ヴィジャヤナガル・ヒジャーズ(白)
1526年、ふと
可視域だけ見るとそんな不思議世界線の香りは(東端を除いて)しないんですけどねぇ。どういうカラクリになっているんでしょう・・・?
遡ること40年前、1484年に波蘭・立陶宛が崩壊。それだけなら珍しくないですけど・・・
しかもこの
何と!これはAIによるDraculas Revenge*15も夢ではないのでは・・・!
ここに至って
戦場ではたびたび
1541年1月17日 弘治帝朱戴基 即位(23歳)
朱治(1,3,2) 立太弟(21歳)
1月20日 朱治 廃太子
1545年5月1日 波斯国からハイファ・ネリマー*16(Hayfa Narima)(4,4,4) 立后(24歳)
朱基業(3,1,2) 立太子(0歳) 皇后弱体
5月2日 朱基業 廃太子
1548年10月1日 朱慈烺(5,3,4) 立太子
ハイル・アルニサーの悲劇から僅か2年での朱戴基誕生・立太子に、人々は動揺と成化帝朱莫への反感を隠せなかった。宮廷に新風を吹き込もうとした彼女に好感を持っていた者は特に中級下級官僚に多く、一部は過激化して2年遅れで集団殉死したり、成化帝に直訴して投獄されたり、明をほったらかしてブリタニア帝国を建国していた正統帝を暗殺*17したりしていたが、谭皇后がハイル・アルニサーに深く敬意を表し弔ったこともあり、次第に事態は沈静化していった。
ペルシアの女王の死が原因なのか結果なのかは定かでないが、この頃から成化帝は遠い製法よりも東方の海に関心を向けるようになる。国家視点から見た理由としては、エセン・シャーの金銭的・政治的・戦略的遺産を水泡に帰さしめたペルシアの後継者たちは恐れるに足らず、西方戦線の従順な手駒として放任できると判断したこと(この頃のペルシアは慢性的な財政難を抱えており、さらにエセン・シャーが征服王朝運営を柔軟にするために定めていた国教儒教を放棄、さらには自らの手駒であったはずのカザフをやすやすと明本国に明け渡してしまうなど、安易な道ばかり選ぶようになっていた。これ以降ペルシアは西方前線の矢面に立たされ消耗した挙句、消滅への道をたどることになる。)、インド方面の進出にめどがついたこと、そして何より、明朝自身が危機的な財政状況に陥っていたことであった。大規模な強制国債の発行は10度を超え、信用を失った債権の利率上昇は留まることを知らず、その総額は銀240万両(約30000ドゥカート) *18を越えたともいわれる*19。
実のところ、これまでの征西は明の国庫にさほど恩恵をもたらさなかった。かつて絹の道と呼ばれていた西方交易路は商人や周辺勢力の利害関係がほとんど確定しており、これを明朝が整理し保護したところで利潤を吸い上げる余地はなく、ただただ軍事費が浪費されるばかりだったのである。
そこで成化帝が目を付けたのが、先代天順帝の御代に発見されていた、東の海の彼方に浮かぶ極北の島であった。ここに何らかの産業を興し、これを政府が独占する。このような中華皇帝としては妙に優れた経済感覚は、天順帝から莫大な負債を押し付けられて育った成化帝ならではのものであった。
「極北島」と名付けられたこの地の入植には、明に服従した女真族やブリヤート人、カムチャツカ人が投入され、次第に彼らから極寒の地での生き抜き方を学んだ漢人商人や技術者もわたり始めた。彼らは原住民の村を見ると徹底的にこれを破壊し、建築適地を奪って入植地を広げていった。陸路で東方に進んだ遠征隊が立て続けに3つの巨大金山を発見したという報が中国に届くと、流浪者を中心に入植運動が加速し、ついに明本国からの総督付ではあるが自治政府を経営するまでになった。
これを拠点に、中国人は海岸沿いにさらに歩を進めた。この頃になると、国費で探検家を派遣する朝廷も私費で縄張りを広げようとする入植商人も、この東海の土地が島と呼べるようなものではないことに気づき始めていた。人々はこの新天地を、非公式に「新中華」と呼び始めていた。
彼らが南に進路を変えて大規模な部族と遭遇し始めるころには、新中華の商人たちは莫大な富を手にして、本国でも開発されたばかりの新兵器「火縄槍」を大量に買い集め始めていた。明本国もこの動きに乗じて有能な指揮官や行政官を派遣、植民地の統制に心を砕いた。
こうして「新中華」の辺境に、紅巾の乱以降改良が重ねられた大砲と銃兵・長槍兵が組み合わさった改良型西班牙大方陣による現時点で世界最強最先端の精鋭軍1万2000が出現した。原住民への拷問の末に「金が溢れ薄桃色の真珠を産する、女王が統治する大王国」の存在を聞き出した新中華軍は
その後、ややおとなしくなった新中華の遠征隊は、これまでにない一大文明圏と遭遇する。意思疎通の手掛かりを得ようとフィールドワークを繰り返すうちに、遠征隊はこの
3年の年月が流れたのちに遠征隊は
遠征隊の平和的で粘り強い交渉、そして中華帝国圏の拡大の報告を、成化帝は死の床で受けた。彼は己の方針が正しかったという深い満足を味わい、今後の新中華における末永い平和と原住民国家との滑らかな共生を願い、遠征隊に「新絹国」の国名を賜った。その夜、成化帝は安らかな眠りにつき、そのまま30年の治世の幕を閉じた。
なお、
さて、かつて官軍から放逐された旧「新中華」軍の残党がより南方の大陸に上陸し、
この時期の年代記を編ずるにあたって史料を整理していた筆者は、大変なことに気づいてしまった。前巻の締めくくりとして「弘治帝朱戴基の治世が明激動の時代の始まりとなると述べたが、これは次代の正徳帝朱慈烺についての評とするべきであった。
では、この23歳で即位した弘治帝については何を語るべきだろうか。答えは簡単、なにも特筆することが無い。強いて言えば弘治四年(1545年)にペルシアからハイファ・ネリマーを皇后に迎えたことだろうが、これは父の成化帝と代わり映えがしない。なお彼女は誇り高い女性で自身の名を漢字表記することを拒み、その結果自身の基盤を持てず、実子朱基業の立太子即廃位を招いた。
外政面ではインドでの覇権をほぼ確立し
ハイファ・ネリマーは特に廃后されるようなこともなく、弘治七年(1548年)に朱慈烺を産んだ。この朱慈烺こそが明帝国最長の在位期間を誇り、その間に数々の大変革を成し遂げた名君となるのである。今度こそ。
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