これは古代に西方から東方に伝えられ、数奇な運命をたどった「4つの長箱と1つの小箱」の物語である・・・
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦。後漢書曰「皆前世所不至」、而不必西人不至中国。
(97年、都護の班超が甘英を大秦に遣わした。後漢書には「これ以前には誰も到達したことの無い国だ」と書いているが、西洋人の方が中国に全く来ていないとは限らない。)
非至安息然後聞大秦、乃知然後求。
(甘英はパルティアまで来てからローマの噂を聞いたのではなく、元からその存在を知り最大の目的地としたうえで旅に出たのである。)
雖大秦人不来、可謂知大秦者不来中国乎。
(ローマ人そのものでないとしても、この国を良く知る者たちが漢帝国に至っていたことは想像に難くない。)
L. Vero M. Ummidio Quadrato consulibus tres naves fractae Rinanum advenit. nunti solverunt ex Suesia Aegypti. cogitare de technologia Romano antique, requireret IV menses.
(そして167年、日南郡にボロボロの船団が入港した。エジプト属州のスエシアからやってきた使節団である。当時の技術力を考えると、それは実に4か月もかかる長旅であった*1。)
Dixit se nuntios Romanos esse, sed praefectus Rinani, qui intellegebat bene de ultra mare, dubitabit se, quod se habuit tantum dona inda.
(彼らはローマ帝国の使節を名乗ったが、献上品がインドの物産しかないので、海の向こうの情報にも通じる日南郡の長官はこれを怪しんだ。)
In actu, very nunti tres pueri et quinque arcae eriunt. dederunt ingentes denarius mercatoribus romanis in indo, et petiverunt auxilium.
(実のところ、本来の使節はたった3人の少年と5つの箱であった。彼らは便乗を繰り返してインドに来てから現地のローマ商人に莫大な金を払い、無理に協力を頼みこんだのである。)
Amicos mercatores usus erunt sales. apportaverunt product inda, dissimulaverunt dona, solverunt Rinanum.
(親切な商人は気を利かせて、ローマに持ち帰るはずだったインドの物産を献上品のように取り繕い、日南に至った。)
Quamquam invenierunt mendacium, praefectus denique misit dona ad Luoyang. miserabile, non intellegebat de caput. pueri et uinque arcae mittebantur ad mansio eunuchi sicut largitiones.
(使節が半分嘘をついているのを見破ったものの、結局日南郡の役人は献上品を洛陽に送った。しかしこの役人は、中央政界の事情には暗かった。5つの箱は他の献上品と別の道をたどり、ある宦官の豪邸に向かった。中抜きされ、賄賂とされたのである。)
建寧元年、老宦官受五箱賂。雖好賂、素以仁厚称。
(翌168年、老宦官は5つの箱を受け取った。賄賂を好んだがそれ以上に仁に厚い名臣だったという。)
不能解、因招西域鬻人而問。
(中身を見たがそれが何かわからなかったので、密かに知り合いの西域商人を呼び寄せた。)
然後知而老宦官甚愕、喚子孫謂曰「是千二百年後皇帝持所者也。常秘、不可語。」
(品の正体を知ってひどく驚いて、子と孫を呼びつけて言うには、「これは丁度1200年後に皇帝のものとなり、さらにその後にあるべき所へ帰る品である。常に隠して語るな。」と。)
老宦官奏曰「大秦王安敦遣使自日南。」
(老宦官は朝廷に対しては、ただ「日南郡に来たのは大秦王安敦の使者でございます」とだけ奏上した。)
恒帝崩、太子即位。漢既失天命、将須臾滅。
(恒帝が亡くなり、霊帝が即位した。もはや天命は失われつつあり、滅亡の時が近づいていた。)
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MMCCCLXX rebellions complebant Imperium Xanum. incepit civile bellum horribile. nepos eunuchi fiebat unum diadochi.
(237万の反乱軍が漢帝国を覆い、中国は凄惨な内乱に突入した。その中であの宦官の孫は有力な群雄となっていた。)
Filius eunuchi, qui pater neporis, obivit ut eat nepoti, autem interfectus est a rectore provincia Xuzhoi.
(宦官の子、すなわち孫の父は、孫のもとに居を移すため旅に出たが、徐州の総督に殺され、財産を奪われた。)
Nepos furebat, conspixit furtum quinque arcarum, insanus fuit.
(孫は激しく怒ったが、奪われた財産の中に5つの箱があったことに気づき、我を失った。)
Aggressus est Xuzhoum, cecidit populos, profligavit rectorum. autem quinquae arcae revenerunt nequando.
(徐州に攻め込み大虐殺を繰り広げ、総督をうち破ったが、5つの箱は散逸してしまった。)
参考文献 司馬彪『続漢書』曹騰列伝ほか
その後この箱は、梁代に長箱1つ、唐代に長箱2つが発見され、それぞれ発見された南京、長安、洛陽で皇帝の秘宝として継承された。代々の王朝は「それを支配する者こそ皇帝であり、定められた時を前にしてその場から動かした者はたちまちにして天命-10/月のペナルティを食らう」という伝承を信じたため、落ち目になった皇帝に持ち去られることも無かった。
4つ目の長箱は遠く西方ホラズムで発見された。陸路で中国に至った無名の商人が掘り当て、ヨーロッパに持ち帰ろうとしたのだが、おり悪く戦乱に巻き込まれてモンゴル軍に奪われてしまったのだ。
後にこの長箱を手にしたモンゴルのハーンは、おりしも新たな都を造営中であった。箱とそれにまつわる物語の断片を聞いたハーンは、4つ目の長箱の座所をこの新たな都に定めた。
では5つ目の箱は?この他4つと異なる小箱の中身は、小さな羊皮紙片と植物の種だった。濠州の寺で植えられた不思議な樹と、羊皮紙に記された枝で作る冠の製法は、その寺の仏僧によってまじないのように細々と伝えられてきた。
そして、この冠をかぶって禿頭を隠していた托鉢僧が皇帝となり4つの長箱を手中に収めたとき、5つの秘宝の由来を知る者は残っていなかった・・・
前史でほとんどスペースを使ってしもうたゆえ、解説はほどほどに行くぞい。
次は北方を平らげる、つまり
1446年には両者ともに終結。建州戦では途中から朝鮮と海西が慌てて対建州宣戦していましたが、我々は朝鮮に取られる可能性のある東国境・海岸を最優先で抑えることができました。
対
1449年に
今後Timelineから画像を取った場合は右上に印をつけます(当時のTerra Incognita範囲などが分からないため)。
ここで少し重要なのは、野人の持つ樺太を早めに獲得しておくこと。植民距離計算の起点や
1460年代のうちに
Timuridの文字が異様に右に寄っていますねぇ。西方ではもう分裂が始まっている・・・とするとすこしまずい状況かも。
今回は
反乱祭りのおかげですぐに回廊を確保できたが、ヘラートは先客に持っていかれてしまった・・・おや、こいつ
こやつが先に出てくるとは珍しいのう。ともかく国境線は隣接しておるから、
ティムールに侵攻してからここまででわずか2年。国を傾けて
北方では
この
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前史をつくるにあたり有名Mod「Expand Timeline」を入れた。そして漢プレイをはじめ不穏度上げに勤しんでおったところ・・・
North Korean Separatistsが発生しましたね。しかも現代では中国領の遼東半島に。
その下に百済がついて、世界観の暴走が勢いを増しているな。残念だが朝鮮半島の分断は古代から定められた運命だったのか(えっ)*4
このModはゲーム本体にも増して勢力図の再現度が高く、国選択画面などは世界史教材にしてほしいくらいじゃ。じゃがまあ、二千年の時をカバーする中でこぼれ落ちるバグもある。まあそれも一つ一つぶっ飛んだ歴史を作るゆえ、面白みを増やしているともとれるのう。
満洲は征服すると反乱軍の巣窟になるな。以前のプレイでは下手に拡張した朝鮮や
このプレイでようやく気付いたんですが、即時に反乱鎮圧する体勢が出来ているなら、征服地の自治度は上げないほうが良いのですね。自治度を上げて不穏度を下げても10年たてば元通りになるだけで反乱を先延ばしにしているだけです。
それに反乱勃発時に不穏度が0未満だったプロビには不穏度-100がつかず、少しでも不穏度が上がればすぐに反乱が再発します。それなら征服地は一旦放置して反乱させ、次に反乱リスクが発生した時に自治度を上げて完全に抑え込む、という2段構えが望ましいんですね。
という、おそらく多くの読者にとっては常識であろう正統帝の気付きじゃった。
1435年1月31日 正統帝朱祁鎮(1,1,1) 即位(9歳、ただし公式には21歳と詐称*5)
1444年12月27日 皇太子朱祁鈺(1,1,2) 廃嫡(16歳)
1445年6月1日 荊州の郭氏から郭小元(2,4,0) 立后(31歳)
朱祐梈(3,3,4) 立太子(0歳)*6
1460年2月18日 彗星
1460年11月20日 正統帝 廃位(45歳)
景泰帝朱祐梈 即位(15歳)
朱耆英(4,4,2) 立太弟(13歳)
1464年11月8日 朱耆英 狩猟中の事故により薨去(16歳)
海州の白氏から白小冀(0,2,6) 立后(25歳)
朱載記 立太子(0歳)
11月9日 朱載記 廃太子(0歳)
1484年4月8日 天順帝朱簡体 即位(19歳)
1485年10月23日 安定の何氏から何慧明(3,3,4) 立后(30歳)
朱橚 立太子(0歳)※皇后弱体
廃太子
ごめんなさい、さすがに好き放題書きすぎてしまったので読まなくでいいです。本当に。
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明帝国は大きな転換点に立っている。幼少の正統帝を支えていた三人の名臣、いわゆる三楊が相次いで没し、政権は宦官の王振の手に渡った。この男は典型的な悪徳宦官であり、収賄で財をたくわえ独裁政治を行っていた。そんな王振が正統帝に「北征」を進言した時、密かに王振を厭う臣たちはため息をついた。王振は正統帝をかの成祖永楽帝になぞらえ、おだて取り入ることしか考えていないのだと。しかし皇帝が肯じたとあれば従うほかない。彼らも渋々親征に同行することとなった。しかし賢明な彼らであっても、この後に起ることは誰も想像していなかっただろう。
正統9年(1444年)、明軍の先遣1万2000人が東北の建州に侵攻した。これは明に対し曖昧な態度を取り続ける女真族を懲罰するとともに、不穏な動きを見せていた朝鮮を牽制するのが狙いであった。数で圧倒的に勝る明軍は、瞬く間に女真族を制圧し、沿海府を置いた。そのころ正統帝の本軍も百官を連れてゆるゆると北上していたが、世間知らずな官僚たちも何かがおかしいことに気付き始めていた。毎日、南中した太陽が右後方に見えるはずが、なぜか左方に見えるのである。目の前に長城の居庸関が現れるに至り、一人の官が叫んだ。「これは山西に向かう道ではないか!」
モンゴル高原の長エセンは、その知らせを受けて驚愕した。皇帝が東北へ親征するとあれば、明はその全力を同じ方面に傾けるであろう、今が好機と明との友好関係を踏みにじり北の長城を破ったばかりである。その横っ腹を突くように2万の明軍が押し寄せてきたとあっては迎え撃とうにも準備不足である。エセンは一旦退却しようとしたが、大同を略奪しただけで飽き足らない将兵がそれを許さなかった。彼らは明の親征軍と聞いて、それを宝の山のように思いこみ、渋るエセンを東方へと引きずっていった。
結末は、あっけないものだった。
エセン軍が土木堡にいる王振の明軍本隊を視認した直後、彼らは後方から明の騎兵の急襲を受けた。大軍を目の当たりにして動揺していたオイラト軍は、普段なら小手先で吹き飛ばせるような弱兵に手間取り、気づいた時には四方を取り囲まれていた。そう、最初に彼らが「大軍」と思った明軍本隊ですら、皇帝や文官、宦官がほとんどの囮であったのである。かつて大陸を制覇したモンゴル騎兵は、士気も戦闘力も低く結束があるわけでもない明軍の、ただ圧倒的な数の暴力の前に各個包囲され全滅した。エセンは捕らえられ、正統帝と王振の前に引き出された。正統11年(1446年)、いわゆる土木の変である。
王振は一介の宦官に過ぎず、それまで武官となった経験は無かった。若いころから軍学をたしなんでいたとはいえ、それも官人の趣味といえばそれまでであった。しかし彼はどこで学んだのか、遊牧民の戦闘法と、それに対する革新的な歩兵戦術の体系を編み、私兵を育てる中で確立していた。すなわち、段違いに長い槍を持たせた長槍歩兵*9の密集方陣を小分けにし、投射兵と組み合わせた部隊の柔軟な運用である*10。この戦術は各部隊の指揮官が理解し、麾下の兵を臨機応変に動かすまでに労を要するが、幸い初めての実践―土木堡の戦い―の楽な戦闘を通して、平和ボケしていた明軍にこの新たな戦法がしっかり刷り込まれたのである。この戦いで王振の、少なくとも戦略家・軍政家・軍事司令官としての名声は確立され、後の時代に評価が分かれる怪人物となった。彼がいなければ、後の巨大帝国が生まれなかったことは確かである。
そしてこの「西」方の戦場で結実した「斑」点模様を描き槍衾という「牙」を剥く戦法は西班牙大方陣*11と名付けられ、後の明の軍事戦略を支えるとともに、遥か西方の諸国にも衝撃を与えたのである*12*13。
エセンを失ったことでオイラトの勢力は急速に衰退し、傀儡に過ぎなかったモンゴル正統のトクトア・ブハはその独立を回復した。しかし彼はモンゴル全土を治めきれなかった。明は中小規模の遠征を繰り返し、32年後の景泰18年(1478年)に最後のオイラト・チョロース部の王がアルタイ山中で戦死したことで、モンゴル高原は完全に明の手に落ちた。その少し前の景泰13年(1473年)には、東北の鎮定も終わっている。しかし、その時すでに王振はこの世にいなかった。
偉大な軍事改革者・王振も、先述の通り宮廷では正統帝に阿り暴政を敷く奸臣であることに変わりは無かった。彼により引き起こされた朝廷内の権力争いはすさまじく、成功裏に終わったオイラト親征もその直前に反対派の皇太弟の暗殺に成功したことでようやく実現したものだった。彼の貪欲さと度重なる遠征により国家財政は傾き始め、民も怨嗟の声を上げていた。
土木堡への遠征中に北京で生まれた皇太子を反王振派に染める謀略は、着々と進んでいた。
正統25年(1460年)、大彗星が観測され、人々は大凶の兆であると噂した。政府の史料にはそう書かれているが、4年前の1456年に来たはずの大彗星*14の記録がないため、記録の混同や改竄の疑いがある。何しろ、この正統25年には土木堡を再訪した正統帝の失踪をきっかけに東北遠征中の王振が自身の行末を悲観し自害、その一派が一掃されるという大政変(第二次土木の変)が発生したからである。
結局正統帝の行方は分からず、皇太子朱祐梈が即位して景泰帝となった。
政権を取った反王振派は、しかし、王振が生前に練り上げた綿密な軍事計画の進行を止められなかった。また15歳で即位した景泰帝も人格的な破綻の見られる人物だった。温厚で人気の高い皇太弟朱耆英を妬み、彼をモンゴル遠征に追い出した上、狩猟中の事故と見せかけ暗殺した。これにより寵妃白氏が生んだ新生児の朱載記が立太子されるはずだったが、景泰帝は今頃になって弟を殺めたことを悔い、自ら息子を絞め殺してしまった。白氏は精神を病み、景泰帝も3か月後に別の妃が生んだ朱簡体を虚ろな声で皇太子に指名し、以後19年間の在位のほとんどを部屋に引きこもって過ごした。
その間、王振が遺した優秀な軍事部門により、対外拡張だけが活発にすすめられた。明軍の中には、かつて土木堡の戦いで捕らえられたエセンの姿もあった。敗北の後オイラトがすぐに後継を立てたため帰る場所を失ったエセンは、対モンゴル・オイラト遠征に投入されないこと、将来的に征服地を自らの領国とすることを条件に王振に取り込まれたのである。西方の司令官となったエセンは西班牙大方陣とモンゴル騎兵を組み合わせて才覚を開花させ、王振をして「土木堡の戦いが3年遅ければ、我々が全滅させられていただろう」と言わしめた。モグーリスタン*15を破ったエセンはさらに西進し、自らと同じキュレゲン(婿)の家系であるティムール朝の内乱に乗じ、景泰14年(1474年)にヘラートを征服した。老いて思慮深くなり、視野も広がったエセンは、かつてオイラト時代に熱烈に欲していた「ハーン」の位に執着しなくなっていた。その代わりとして、エセンは新天地にかつて存在していた国の名を取り、その国の「ハーン」に相当する名を名乗った。エセン・シャーの誕生である*16。
彼はシャーの名と明の威光を巧みに使い分け、混沌の西アジアに3代目のモンゴル政権「ペルシア・シャー朝」を打ち立てていくのである。
景泰25年(1485年)、景泰帝は一人寂しく没した。跡を継いだ天順帝朱簡体は内政に力を入れ、明としての軍事行動は休眠期に入った。
しかし、エセンは老いてなお精力的であった。ペルシアの「旧領」を回収し領土を拡張しつつ、北方の草原に遠征してシャイバーニー朝*17を討伐、属国としてカザフ=ハン国を建設した。シャーとなったエセンにとって、もはやチンギス統は羨望、反骨、討滅の対象ではなかった。このように彼は外交面でも巧みに各方面をさばき、十数回におよんだ暗殺未遂を乗り切った。
天順2年(1486年)、エセン・シャーは生地から遠く離れた土地で没した。
彼は死に際し、2つの書簡を発した。北京に向かった一通は若い天順帝を諫めるもの。彼は「ロッテファンの陰謀をうち砕く」などと意味不明な言葉を発しながら息子を殺害、皇后(3, 3, 4)も殺めかけるという、景泰帝と同じ暴挙を犯していた。
そしてもう一通は、はるか北方のウラル山脈に待機する明・ペルシア・カザフ連合軍に、秘されてきた作戦の始動を命じるものだった。
Q 長い 三行で
A 何故か知らないけどテルシオは中国で生まれたの
同じように明は最後まで軍事技術の先端を走り続けたの
だから世界征服できたの
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