ドナウ川中・下流域から黒海沿岸にかけて築かれたリーメスはローマ帝国の防衛線をなしていたが、フン族に圧迫された西ゴート族、東ゴート族のパンノニア(ハンガリー西部)とダキア(ルーマニア)の侵入と定着を契機に徐々に浸食されていく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%A7%BB%E5%8B%95%E6%99%82%E4%BB%A3より引用、一部加工
その後ヴァンダル族、フン族、ロンゴバルド族がこの国境地帯より帝国に襲来し、帝国の安全はもはや神話上のものとなっていた。その後帝国首都コンスタンティノープルに近づけまいとする皇帝が西ローマ帝国領土を切り売りしていったことが、476年の西ローマ帝国崩壊と800年の神聖ローマ皇帝戴冠による完全分離を引き起こし、帝国の維持を困難なものにしていくことになる。
後年には東ローマ帝国側にもマジャール人、クロアチア人、セルビア人、ブルガール人がかつての防衛線を越えて侵入し、のちにビザンツ帝国と領土を争うことになる王国を築いていくことになる。
1444年時点の東ヨーロッパはモンゴル人の侵入を乗り越えた後、Bohemia、Hungary、Poland、Lithuaniaを中心とした国家で構成されています。
この世界線ではAustriaやPolandによる支配を受けなかったHangary、Lithuaniaが独自に勢力の拡大を開始し、1468年にはそれぞれ領土の拡張を果たします。
その後Byzantiumの懲罰戦争に巻き込まれたHangaryが衰退、バルト海沿岸の領土を手に入れたPolandが拡張を開始したかに見えました。
ところが、その後40年もたたぬうちにPolandとLithuaniaが自壊し、Russiaの拡張とPolotsk、Chernigov、Galicia-Volhyniaといったキエフ大公国末裔の復活が果たされます。
最近このパターンが特に増えた気がします。崩壊自体は歴史通りですが宗教戦争まで持たないのはちょっと問題です。
その後北アフリカ再征服を進めていたByzantiumの影でリーメスの向こう側の再編成が行われ、HangaryはAustriaとWallachiaに分割され、PolandとLithuaniaはBohemia、Prussia(旧Pomerania)、Russiaの新規領土と緩衝地帯Galicia-Volhyniaへと姿を変えました。
実際Galiciaの同盟相手はBohemia、Prussia、Russiaだった。この国は外交がうまい。
再征服に定評のあるByzantiumはここでも北アフリカと同じ手法を取り、種を蒔いていたHangaryの復興を通してパンノニアの回収を開始します。
2年後の1647年にはWallachiaから中核をすべて回収しAustriaとの停戦明けを待っていると...
びっくりしすぎてSS取り忘れ
1655年、中欧最大で列強第8位、開発度800を越えるBohemiaとの同君連合が突如として形成されました。
同君形成時のBohemia。直前にAustriaに勝利し隣接している(Wien取られなくてホントによかった)
さらに1681年、
ボヘミアとの同君後、ほかの君主を確認しているとGaliciaも後継者がいないことが判明。同盟は組まず婚姻関係だけ結んでいると、計画通り王位が滑り込んできました。(Russiaも後継者なし/高齢でFrance-Byzantiumの継承権戦争のはずだったが、長期の戦争状態でだめだった)
こうしてByzantiumは、争いではなく権威と外交の力を持ってスラヴ人が居住する東欧の安定を確保し、数多の民族が流れ込んできたバルカン半島に安寧を取り戻すに至るのでした。
※Basileus自体は1608年にAlbania併合をもってひっそりと達成いたしました。