AAR/Exploration Way of Byzantium
Ioannes10世(3/2/5)期の「正教徒革命」の進行は東ローマ帝国にとって一つの時代の画期となるものであった。
それは一時期西アフリカ・新大陸の小国に成り果てた東ローマ帝国が、再び世界に大きな影響力を持ちうる大国となる一つのきっかけだったのだ。
ちょうど第四回十字軍*1で断絶した東ローマがパレオロゴス朝の成立により再び息を吹き返したように、滅亡しかけた「不死鳥」が生き返った。
拡大し続ける東ローマ帝国だが、拡張の終着点は一つに定められていた。そう、それはオスマン帝国に支配されて250年にもなる「ヘラス」*2の奪還である。15世紀以来圧倒的な国力を誇り東欧やメソポタミア、はたまた紅海や北アフリカにまで勢力を拡大したオスマン帝国は、歴代の有能なスルタンのもとこの大帝国を維持し繁栄を謳歌してきたが、いまだに衰退の陰りすら見せず世界最大の国として君臨し続けていた。この帝国は我々の祖先にあたる古代ギリシア人と幾度にも争った大帝国「アケメネス朝ペルシア」*3のように異教には極めて寛容で、当時のオスマン側の資料によると支配されていたギリシア人は正教からイスラーム教への改修は強要されなかった*4ため懐柔されてしまったかのように見えたが、東ローマ帝国の伸長により徐々に現地でも「解放」・「全ギリシア人の統一」の意識が高まっていった。一般的に、現在意識されている「ナショナリズム」の始まりはちょうどこの時期だったと定義されている*5。
さて、当時の東ローマの皇帝達もこのナショナリズムの高揚を受けヘラスの奪還を目指して国力の増強に励んでいたが、突然パレオロゴス朝始まって以来の大危機が訪れた。
1653年、大拡張を推進してきたIoannes10世が崩御し、Ioannes11世(6/4/4)が即位すると、帝国は大きな衝撃に包まれた。
この皇帝は歴代のパレオロゴス王家の人物を総合してもトップクラスに優秀な人物で、特に行政能力にすぐれ前帝が征服した領域に確固たる支配秩序を敷き、法典の整備も行い帝国の安定に努めたため、「パレオロゴスのスレイマン*6」と例えられるが、即位してから数年、驚くべき情報がもたらされた。
なんと、この皇帝はIoannes10世の実の子ではなかったのだ。
もともと子供に恵まれず後継者に困っていたIoannes10世は、ある日運命の出会いをした。
「宮廷から外を眺めていると庭の草木が不自然に揺れ動いているのが分かった。私は最初何かしらの小動物の仕業だと思い無視を決めていたが、どうも気になってしょうがない。木と木の間から動物の鳴き声がする。いや、これは人間の声だ。間違いない。しかしなぜ?何と言っているのか?『・・・バシ...ウス』」
「私はそれが歴代の皇帝の称号であるバシレウスの名に聞こえ、何か運命のようなものを感じた。察するに草木の向こう側に隠れているのは間違いなく人間である。急いで庭に駆け込み、そして声の主を突き止めた。やはり人間であったが、まぎれもなくただの赤子であった。なぜここに赤子がいるのであろうか?いや、それよりも彼は先ほど『バシレウス』と言ったがあれは聞き間違いではない。赤子にそんなことが言えるか?」
「私はこの純朴な赤子に何かの才能を感じ取り、自分の子供として育てることにした。もちろん誰かの捨て子ではあろうがそんなことは関係ない。親とは育て親のことであって捨てた人間は親としての資格はないのだ。・・・しかしあの時『バシレウス』と聞こえたのはやはり聞き間違いだったのだろうか?」
「私はこの子に自分と同じIoannesの名前を与え最高の教育を施した。みるみるうちに成長し6歳の時には宮廷の図書館にあったギリシア語訳のカエサルの「ガリア戦記」を読破するほどになった。この子は間違いなく神の子に違いない。そしてあの時の声は神のお告げであったのだ。」
「私は自分の死期が近いことを悟った。結局あれから自分の子供は生まれず、安心して後を継がせられるのはこのIoannesだけとなった。もう彼も立派な大人であるし問題もあるまい。次の皇帝は彼に決定だ」
(Ioannes10世自伝『続・神の国』*7より引用)
Ioannes10世の死後、捨て子だったIoannes11世が即位したが、当時この事実を知っていたのはごく一部の宮廷関係者に過ぎなかった。しかし宮廷関係者のミスにより上記の自伝が帝国内に流通し始めると、Ioannes11世が実の子ではないことが世界に知れ渡ってしまったのだ。
王朝の正当性が極端に低下し、東ローマ帝国は内戦の危機に陥った。Ioannes11世は持ち前の卓越した行政能力で何とか内戦を防いだものの、対外的な戦争を行う余裕は失われてしまったため国力の拡張は一時的に停止する。威信も極端に下がり*8、Ioannes11世は自分が生きているうちは内戦の危機がやまないことを悟り、妻のMaria(0/0/3)*9に政権を託した後自ら服毒して崩御した。彼の晩年は相当暗いもので、若い時の才能溢れる様子とは打って変わってアルコールに依存していたようである*10。
行政を託されたMariaは能力的にはIoannes11世に大きく劣っていたのだが、彼女には大きな強みがあった。
彼女は、あの由緒ただしきハプスブルク家の出身だったのだ。
ハプスブルク家はユリウス一門*11の末裔と言われ、一時期西ローマ帝国の後継者を自称する神聖ローマ帝国の支配者でもあった*12ため、Mariaはすぐさま東ローマ帝国民にとっての憧れの的となった。そのためがた落ちしたパレオロゴス朝の支配の正当性はMariaの手によってふたたび高められ、次の皇帝のTheodora3世が即位するまでには完全に回復した。厳密にいうと、Theodora3世はIoannes10世までのパレオロゴス王家の血を継いでいないことになるため、現在の学者はこのころの王朝を便宜上「パレオロゴス=ハプスブルク朝」と呼んでいる。
Mariaによって国内の秩序が安定し、Ioannes11世の子供のTheodora3世(4/3/2)が即位すると、東ローマ帝国は再び拡張を始めた。彼女は西アフリカ一体をほとんどすべて手中に収め、またサハラ砂漠から北アフリカに向けて北上するルートを開拓し、東アフリカからも紅海に向けて領土を広げ、北アフリカ・東アフリカ両方でオスマン帝国と接した。
この時期、それまで関係が比較的温厚であったオスマン帝国と幾たびも国境紛争が起きるようになった。東ローマ帝国では高揚するナショナリズムが対オスマン戦争の開始を煽り、誰の目から見ても戦争開始は避けられない状態になった。ここまでくるともはや時間の問題だ。戦争の準備は整った。あの「Ioannes8世の聖遷」から250年、ついに戦争の火ぶたが切られようとしていた。世界最強の帝国・オスマン帝国と東ローマ帝国。覇権をかけた2国の決戦が今始まる・・・!
このAARもついに終盤に入ってきました。ここから100年はバシレウス実績獲得に向けて対オスマン戦争に専念することとなります。
ここで戦争に入る前に一度この時期の戦力や勢力図を確認しておきましょう。
※画像はすべて1706年のもの
黄色がビザンツ陣営、赤がオスマン陣営。ムガルを白で囲ってありますが、これはビザンツがムガルと同盟したのはいいもののムガルとオスマンの関係が良好で戦争に参戦させられなかったためです。
対オスマン戦争と関係ないところでいくと、南米の「Frisian Brazil」が若干レアでしょうか。これは北ドイツのEast Frisiaの植民国家で、思えば第0話でビザンツの初期の拡張先の候補に挙がった国の一つです。HREに入ってないのにこの時期まで生き延びたのはなかなかですね。
さすがはオスマン。Force Limitは圧巻の492で堂々の世界第二位です。トップは明ですがこれはさすがにしょうがない。
しかしよく見るとオスマンはManpowerが枯渇し、Force Limit上限まで軍を雇えていません。ただこれはビザンツの同盟国のスペイン、ロシアも同じことですからあまり不利要素にはならないでしょう。またよく見るとロシアの軍編成が極端に歩兵に偏っており、砲兵がほとんどいません。これ軍として大丈夫なのか・・・?
ビザンツ一国の軍量はオスマンの2/3ほどですが、マンパワーは10万ほどあり、傭兵もいないので健全な状態にあると言えますね。砲兵の数もおそらく世界一位です。
びざんつちゃん収入低すぎぃ!
ビザンツは世界6位の収入ですが、世界第5位のロシアと比べると毎月の収入が100ダカットも低いです。さらに金山由来の収入が結構あるのでインフレがどんどん進行していきます。
ビザンツの収入がこんなに低い理由は、「建物(特に工場)をほとんど建てていなかった」ことに由来します。国力に反して陸軍量がかなり多いため*13収入の大部分が陸軍維持費に持っていかれ、結局建物を建てるための金が足りず、TaxationやProductionを伸ばせませんでした。
変わったところでいえば、Lubeckの収入がえげつないですね。Taxationが9.63でTradeが99.46とは恐れ入った。
まあ当然オスマンが1位。2位のスペインと比べて600devほどの差があります。我らがビザンツは3位ですが、これはGC開始当初の国力を考えると凄まじい躍進をしてきたことが分かります。
もしかすると上の画像を見て、「スペインとロシアがいるならオスマンなんて楽勝じゃんwwwこんなの誰がやっても勝てるわwwww」と思う方もいるかと思いますが、全くそんなことはありません。
言うならば、「ビザンツ側の同盟国は誰一人としてタイマンでオスマンに勝てない」んです。これ、実は本当に危なくって、オスマン側は36万の兵力を一か所で運用できますが、ビザンツやスペイン、ロシアは各々の兵力をすべてぶつけてもこの36万の軍が仮にすべて一斉に襲ってきたとすると太刀打ちできないんです。つまり簡単に各個撃破される。
そんなことねーわと思うかもしれませんが、一国の陸軍量が多ければ多いほどその国の一部隊の軍量が多くできますからこの場合だとオスマンのほうが一部隊の量が多くなります。そうなると同盟国同士の連携が取れない限り*14野戦で勝てず、結局負けてしまうのです。経験上何回もこれでやられており、筆者は同盟国と合わせた総軍量を当てにしなくなりました。
さらにスペインは新大陸側に軍を回していますしロシアも極東や中央アジアに軍がいるので全ての軍量をこの戦争につぎ込むことはできません。対してオスマンはムガル側以外の国境すべてが敵国ですから全部隊を戦争に投入してきます。つまり見かけ上はビザンツ側が有利ですが、実際にはそうでもないということです。
1706年4月29日、ビザンツはオスマン帝国に宣戦布告。CBはNationalismで、Selanik(要塞がなく一番奪いやすそうに思えた)奪還を戦争目標とします。ちなみにコンスタンティノープルですが、オスマン側のイベントによりCultureがTurkishに変更されているためNationalism CBは適応できません。
なんだかんだ言ってNationalism CBを使うのはこれが初めてでした。Imperialism CBと同時期に開放されるこのCBですが、普通のプレイではそこまで使うことはないと思います。
CB | AE増加 | Prestige Modifier | War Cost Modifier | その他 |
Imperialism | 75% | 100% | 75% | どのプロビも無料で奪える 戦争目標は首都固定 |
Nationalism | 50% | 150% | 50% | 自国と同じCulture以外のプロビを奪うと追加で外交点が必要になる 戦争目標は指定できる |
一見するとNationalismのほうが優秀ですが、自国と同じCulture以外のプロビは奪いづらいので総合的にみるとImperialismのほうが使い勝手が良いです。
そもそも言ってしまえばDipレベル23でこの2つのCBが手に入るころには自国のCultureのプロビは大体回収し終わっていますから、Nationalismは適応範囲がかなり狭いですし。
しかし当プレイでは自国Cultureは国外に多数残っており、最初の戦争ではそれらを奪還するのが一番の目標となるため、NationalismがImperialismよりも優先されます。ロールプレイ的にも。
他にImperialismよりもNationalismを優先する場面としては、自国の(元)植民国家に宣戦布告するときでしょうか。こんなことするなんてOnetagを目指す場合に限られているでしょうが・・・*15
少数の部隊を派遣し地中海沿岸のプロビを占領しつつ北上していきます。
この付近にはオスマン側の同盟国がいるのでまずはそいつらを適当に個別和平した後、北上して北アフリカ方面に派遣した軍と合流させます。
一応この地域に山要塞を2つ作ったのでオスマンが来てもおそらく容易に撃退できるでしょう。
オスマン軍がロシア領やアフリカ方面に気を取られている間に西ヨーロッパ側から侵攻し、バルカン半島まで一気に進出し、目標プロビを占領しに行きます。
スペイン領とも近いためスペインの援軍も期待できるでしょう。
戦略も糞もねえ!と思われるかもしれませんが、実際のところそうではありません。
Nationalism CBやAbsolutismなどのおかげで1プロビを奪うのに必要な戦勝点をかなり低く抑えられるため、「多少たりとも勝っていれば少しであればプロビを奪える」んです。
これを利用すると、最初の戦争で少しだけプロビを奪い、それを足掛かりとして次回以降の戦争で一気に領土を拡大できます。
また、Ver1.24からAIが要塞維持費をちゃんと払うようになった*16ためAI領土に高レベル要塞が少なく、ほとんどの要塞はレベル2になっています。
これが極めて重要で、少し隙があれば簡単に要塞を落とせることとなるんです。ゲーム終盤になるとレベル1・2要塞はほとんど意味を成さず*17、さらにMil点50を払えば要塞の壁を壊せる*18のでまさにナポレオンのように速攻が決められます。
つまり、
「オスマン軍を足止めさせる」→「隙を見て主戦線から主力軍を投下」→「速攻で必要プロビを占領」→「少し戦勝点が稼げる」→「バルカン半島のプロビを低戦勝点で割譲させる」→「次回以降の足掛かりに」
します。よって、初回の戦争はそれほど戦勝点は必要なく、いかにして隙を見出せるかがポイントとなるのです。
以前のバージョンではAI領土に大量にレベル8要塞があったため占領に苦慮し、1要塞を落とすのに1年2年かかるのがざらでしたが、なんと今バージョンでは1~2カ月程度で落とすことが可能です。まあプレイヤーだってそんなに高レベル要塞は建てないしAIが建てないのも無理はないですね。マルチプレイ?知らないですねそんな子・・・
とりあえずオスマンの同盟国を適当に蹴落とす。
初会戦はイタリア半島にて、スペインvsオスマン。
オスマン側が孤立していたスペイン軍に攻撃を仕掛けますが、スペイン側の援軍が間に合い結局オスマンが戦略的退却。幸先が明るいですね。
これで分かったのがオスマンがMoral5.4、Discipline117%。対してスペインがMoral6.1、Discipline120%。スペインのほうが質が良いことがわかります。
オスマンの主力軍はロシア方面に引き付けられているためこれは大チャンス。主戦線から一気に進行できます。下手するとロシアが個別和平で離脱する可能性もあるのでなるべく速攻を決めたいところ。
あれ・・・?
※ふらかす君が通行券を認めてくれない図
正直これが起きたときは本気で終わったと思った。なんでこんなミスをやらかしたかというと戦争の最序盤はフランスはオスマンに通行券を認めていたためビザンツ側も通れるようになっていたからです(現に1部隊はプロヴァンス領までいけている)。
しかしなぜかオスマンの通行券を取り消し、ビザンツが再び通れなくなってしまいました。陸路で軍派遣できねえじゃねえか!お前後でHoi4でぼこぼこにしてやる!
この時本気でフランスに宣戦布告して無理やり軍事通行券を獲得しようと思いましたが、さすがにこれ以上戦線を増やすのはきついので断念。海軍を急遽増築し海路で運輸することに・・・
海軍全然つくってないのばれちゃった!てへぺろ
とかやってるうちに再びフランスが通行券を認めたため通れることになりました。お前ゲーム序盤では大量に献金してきたりこんな時に弄んできたりほんと分かんねえな・・・
さて、気を取り直して再び進軍します。幸いにもまだオスマン軍はロシア領に引き付けられているため無事に占領できそうです。ビザンツ主力軍70kがバルカン半島まで進出します。
強行軍をONにし移動速度を上げ、手早く要塞を占領します。前述のとおりレベル2要塞がほとんどなので壁破壊と合わせて簡単に占領できますね。
アフリカ戦線は順調。こちらの予想に反してスペイン軍がアフリカに多くいるためここではあまり苦労はしなさそうです。
バルカン半島の要塞を次々と落としていった70Kのビザンツ側主力軍ですが、ここでオスマンの主力がロシアから引き始めたためいったん撤退します。ここで戦闘がおこるとオスマン軍が応援に駆け付けなだれ込んでくるため、この70Kの主力軍が壊滅しかねないためです。
このオスマン主力軍が向かった先は・・・あっ
まあ、当然数的に負けているので敗北。これがビザンツvsオスマンの最初の戦闘でした。
よく見るとMoralが結構負けていたのでPolicyを発動させてなるだけオスマン軍に質を近づけることにしました。(画像はRel-QuantityのPolicy)
しかし、およそ110Kの軍隊をシリア方面に引き付けることができたので陽動としては成功でした。ビザンツ主力軍はいよいよオスマンの首都コンスタンティノープルや戦争目標のSelanikに近づきます。北方ではロシアも第二次大戦末期の時のようにロードローラーをかましており、非常に頼もしいですね。
この時ちょうど東アフリカと北アフリカに派遣した軍が合流したため、ビザンツ単独でおよそ80Kの軍が結集しました。陽動されて来たオスマン軍をスペインと協力して返り討ちにします。
隙を見てビザンツ主力軍はGC開始時のオスマンの首都のEdirneを包囲。砲兵3万の前にレベル2要塞なんぞ機能はしません。
しかしコンスタンティノープルに向かおうとした瞬間、ついにオスマンの主力軍達と出くわしてしまいました。この段階では戦闘は起こらなかったものの、すぐに会戦が勃発しかねません。
首都を落とせる・・・落とせる・・・あっ(会戦開始)
オスマン側のEdirne包囲軍や援軍合わせて90Kがこの会戦に援軍として参加し、無事ビザンツはコンスタンティノープル包囲に失敗。しかしこのオスマン主力軍180Kはビザンツ主力軍を追撃することなくロシア方面に向かいました。これはチャンス!
そして、Edirneの隣で今回の戦争目標のSelanikを包囲完了。戦勝点がマイナスから一気に+16まで上がります。
さて、そろそろ講和に入りましょう。今回得られた戦勝点はたったの16ですが、この通り必要なプロビは結構奪えます。
1709年10月31日、講和。3年に及ぶ戦争でした。次の戦争のための橋頭保が確保でき、出だしは順調です。
無事にオスマン帝国との戦争に勝利した東ローマ帝国。辛勝とはいえ「ヘラス」の大部分を奪取することができた。
しかしオスマンの首都でもともとギリシア人の土地だったコンスタンティノープルはまだ奪うことはできていない。また一度勝てたとは言えまだまだオスマンのほうが戦力的には強く油断はできない。
この先も東ローマ帝国はオスマンとの戦争に勝つことができるのか?あなたの目でこの結果を見届けよう!
本当に申し訳ないのですが、あまりにもページ容量が多くなってしまうため、本来書くはずだった「東ローマ帝国の滅亡」まで書くことができませんでした。ごめんなさい。
シングルプレイでわずか3年の戦争に1ページ使うなんてかなりのことをしてますね・・・でもそれだけ重要な戦争でした。
プレイ感としてはやはり敵側の要塞のレベルが低くなっているのはかなりやりやすいです。本当にぽんぽん包囲完了できるので電撃戦みたいなこともできて楽しいです。ですがやっぱりレベル8要塞が恋しくなる場面も多少はありました。あの難攻不落感が・・・
今回の「第8話」ですが、書ききるのになんと5時間半もかかってしまいました。年数的には3年しか進んでないですから1年に1.6時間かけている計算となります。ここだけHoi4やってますね。あと土曜日つぶれた。。。
しかも回数を重ねていくにつれて文字だけの容量も徐々に増えていっています。参考までに、第5・6話は15Kb、第7話が17Kbのところが第8話は20Kbもあります。このあたりは全部記録をとっているので最後のほうでまとめて書く予定です。また「一度動画を撮ってそこからSSを抽出する」という独特(?)の方法を取っているため、今回使用したツール等も公開するかもしれません。本wikiにあるAAR用のツール紹介はEU3時代のものですからさすがに古すぎると思いますし。別の方がAARを書く際の目安になってくれたら幸いです。
ちなみに君主ですが、さすがにわずか3年では変化せず、Theodora3世(4/3/2)のままです。実はプレイ中は気づかなかったのですが、この皇帝、女帝でした。どうでもいいかもしれませんがロールプレイ的には結構重要な要素ですね!!
ところで、今回書く予定だった「東ローマ帝国の滅亡」とはいったい何だったのでしょうか?何だったんでしょうね。私、気になります。本当にどんな意味だったんでしょう?お願いします、筆者さん。教えてください。気になるんです!
おや、この影は・・・?