さて反乱の連続で10年を無為に過ごしてしまったブランデンブルク。
いまだマンパワーは回復せず、外に打って出るのは厳しいため、
しばらく足をためることにする。
雇っていた傭兵は解雇して順次自前の兵に入れ替え直すぞ。
できることがあまり無かったため、
以後5年間は君主パワーを使って技術やアイデアを買ったり
教皇庁への働きかけをしたりして時間を潰す・・・
とはいえ国の規模が小さいせいでPapal Influenceが大して得られないのでうまくいかなかった。
まあ小国は黙って免罪符でも買ってろということですな。
その間、北方では隣国ポンメルンが勢力を伸ばしてチュートン騎士団から
プロイセン地方の半分を奪い、バルト海沿岸部に長い領土を築いた。
ちょうど前々から狙っていたノイマルクに蓋をする形となっていたため、
チュートン騎士団の兵力は入って来れないはず!
今回は同盟国であるデンマークとオーストリアも参戦に応じる構えだったため、
早速宣戦布告し、ノイマルクへ侵攻。1477年8月のことである。
懸念は敵同盟の一員であるハンザ同盟の兵力だったが、これはデンマークが手早く排除してくれた。
ありがたいありがたい。
チュートン騎士団はそれまでのポンメルンやベーメンとの戦争で厭戦が蓄積されてたようで、
主力をオーストリア軍に破られ、港をデンマーク軍が封鎖するとそれだけで和平に応じた。
1477年12月、かくしてブランデンブルクはノイマルクを獲得した。
敵軍とは一度も剣を交えなかったため、マンパワー損害はゼロだった。
持つべきものは頼りになる同盟国だなあ。
チュートン騎士団は神聖ローマ帝国の諸侯ではないため、領土獲得によるペナルティは無し。
もともとコア州であるため、すぐに税収が入ってきておいしい。
そして今気付いたがいつの間にかホルシュタインがデンマークに併合されていた。
1478年、今度はデンマークからリヴォニア騎士団攻略のための参戦要請が届く。
承諾するも、戦力的にブランデンブルクの出る幕は無く、何より兵員を輸送する船が無い。
したがって、形だけの参戦となった。結局デンマークは独力で勝利していた。
さらに1479年にはオーストリアから参戦要請。
こちらはフランスのフランドル地方侵略に対抗するためのもので、
正直言って勝ち目は薄いと考えたのだが、まあフランス軍がドイツ奥地まで来ることも無いだろう
ということで参戦しておいた。その後フランドル地方では数万規模の軍勢が衝突する激戦が繰り広げられたが、
マンパワーの心許ないブランデンブルクがそんな場所に飛び込むのは自殺行為なので放置した。
なお、皇帝(オーストリア)と共同して戦争を行っているうちは帝国内での戦争行為は認められないため、
しばらくブランデンブルクは自ら戦争を起こすことが出来なくなった。
そのためこのAARに書くことが無くなってしまうと悩んでいたのだが、
オーストリアがフランドルで劣勢になるにしたがって帝国諸侯が皇帝に反旗を翻しだした。
まず1483年にザクセンがオーストリアに宣戦布告した。
ブランデンブルクとしては、ザクセンの領有するライプツィヒに請求権を持っていたため、
これはいい機会とばかりにザクセン領内へ侵攻した。
この頃にはマンパワーも充分に回復していたため、作戦行動に支障は無かった。
はたして1年半あまりで苦も無くザクセン全土を占領出来たため、ライプツィヒの割譲、
バンベルクのヴュルツブルクへの割譲、オーバープファルツのプファルツへの割譲といった条件を飲ませて
ザクセンを1州のみ国家になるまで身ぐるみ剥いでおくことにした。
次に1485年にテューリンゲンから直接宣戦布告を受ける。
テューリンゲンはブランデンブルクに対する包囲網に参加していたため、他に
ハンザ同盟、ベーメン、ザルツブルクといった国とも戦争状態に入ったが、
例によってハンザ同盟はデンマークに倒して頂き、こちらはテューリンゲンの首都である
ヴィッテンベルクの攻略に向かった。(請求権を予め持っていたため。)
この攻略戦の最中、さらに
ロレーヌ
フリースラント
トリール
ウルム
の各帝国諸侯がそれぞれの同盟国とともに連続してオーストリアに宣戦布告してきた。
どうやらフランドルでオーストリア軍が壊滅させられたようで、
その機に乗じて宣戦布告したようだ。
ここまで来たら参戦要請を断るのも変なので全て参戦しておいた。
まあ国としての頭数は多いけれど、いずれも小国なので、困ることはないだろうという判断もあったのだが。
交戦国大杉ィ!
1486年にヴィッテンベルクを攻略出来たため、テューリンゲンにヴィッテンベルクの割譲、
ブレーメンの独立といった条件を飲ませて和平。
なおブレーメンはブレーメン州のコアを失っていたらしくブラウンシュヴァイク州で独立した。
テューリンゲンが片付いたので次はトリールへの攻撃に向かう。
トリールはオーストリアとフランスの戦争における前線地域に近く、
フランスの大軍があたりをうろうろしていて危険ではあったが、フランスはトリール領内への
通行権が無いので、襲撃される恐れはなかった。
首尾よく全土を占領し、1488年に属国化の要求を飲ませて和平。
トリールは選帝侯であるため、皇帝選挙では忠実な駒になってくれることを期待。
同年オーストリアとフランスとの戦争も終結した。
オーストリアはフランドル南部を割譲させられ、さらに莫大な賠償金を支払うことに。
帝国にとっては悲しい出来事であるが、長く続いた大戦争の終結にとりあえずは安堵。
残った反乱諸侯については、辺境諸侯が多く領土を得ても管理が大変なこと、
単独和平を結んでオーストリアとこじれるのも微妙なこともあって
野戦で叩きつつちょこちょこ州を攻略してスコアを上げ、オーストリアが和平を結ぶのを待つことにした。
フランスとの戦争が終結したあとも、オーストリア軍の再建に時間がかかっていたためか、
ヴュルテンブルクやクロアチアといった国がオーストリアに宣戦布告してきたが、
これもブランデンブルクが代わりに相手をしているうちオーストリアと白紙和平していった。
最後に、1491年になってケルンがオーストリアに宣戦布告してきたが、
ケルンはそれなりに大きい国なのでブランデンブルク軍総力をあげてつぶした。
具体的にはアーヘン以外の全土を占領した。(アーヘンはオーストリアが占領)
全土を占領されたケルンは降伏してアーヘンをオーストリアに割譲した。
なお、このケルン攻略戦の最中に君主ジークムント2世が死亡し、
アルブレヒト4世が立った。能力値は0/5/3・・・う~ん?
先代の能力値が高かったおかげでADMが上限近く溜まっていたので、
安定度を3つばかり上げておくことにした。
ADMが余るなんてことが現実にあるのか(感嘆)
オーストリアの戦争に付き合っている間に、ライプツィヒ、ヴィッテンベルクを獲得し、
トリールを属国化したが、いつもの皇帝からのお叱りが飛んでくることは無かった。
皇帝に味方している戦争の間で得た戦果は認められるということだろうか?
まさに皇帝の犬といった感じであるが、やってることは皇帝のためでもなんでもないワン。
また、長期にわたる戦争ではあったが基本的に激しい戦いは行わなかったため、
厭戦はほとんどあがっておらず、反乱率はほとんどゼロである。
また戦争の片手間に領内で施設の建設を行っていたこともあって、
ブランデンブルクはこの20年でそこそこ強くなった。
月次収入は倍以上に伸び、陸軍維持限界も2万人を超えた。
また、初の海軍部隊として5隻のバーク船を建造して、交易護衛に使っている。
他国の海軍とぶつけるには余りに心許ないので、戦時には港に引っ込めるくらいのものだが。
そろそろザクセン文化圏は統一できそうである。
続く
その頃世界は
・カスティーリャがスペインになり損なってる
・アイルランドがマンスターに統一されていたと思ったら今度はレンスターが統一しかけてた
・フランスがつよい
2つ目のIdeaはDefensiveにしておきました。