ラディスラフ一世が最初に着手したのはハプスブルク家の統合でした。
ハプスルブルク朝スペインが成立してから神聖ローマ帝国とスペインは一心同体となっていましたが、スペイン側で大きな問題が持ち上がっていたのです。
当時のスペインはドン・カルロス一世の治世でしたが、この国王は障害を持っていました。
その症状は重く、4歳まで話せず8歳まで歩けず、突発的な血尿と、吐き気・嘔吐に苦しんでいたのです。ドン・カルロス一世は子供を作るのにも支障がある有様でしたし、ハプスブルク朝スペインが断絶してしまう危険がありました。
王がこのような障害を持って生まれてきたのはプロテスタント諸侯が台頭して以降、婚姻相手の選択肢がますます狭まってしまい、多くの近親婚が繰り返されたからだと言われています。
当然国王としての執務に絶えられようはずもなく、実権は何人かの重臣たちの集団指導体制になっていました。
しかし、この重臣たちにアヴィシュ朝連合が巧みに取り入り、ハプスブルクとの連合を解消させようと動いていたのです。
スペイン王女イサベルを母に持つラディスラフ一世にとってはスペインは第二の故郷といってよく、それが家臣たちの専横を許しているというのは許しがたいことでした。
彼は神聖ローマ帝国皇帝とスペイン国王を兼任すると宣言しました。
このラディスラフ一世の宣言はスペインを大混乱に陥れました。
ドン・カルロスに代わる強大な国王の出現を歓迎するもの、アヴィシュ連合への回帰を望むもの、両勢力の干渉を排除して独自国家として歩むべしと主張するもの、三者三様であり一向にまとまる気配がありません。
無血で事を進めたかったラディスラフ一世でしたが、ついに軍事侵攻を決意し、皇帝軍は一斉にスペインに雪崩れ込みました。
ポルトガルはスペインとの同盟関係の履行を理由に介入しましたが、事態にあまり変化はありませんでした。
スペインのほぼ全土は瞬く間に皇帝軍に占領され、ラディスラフ一世はスペイン国王への即位を宣言します。
神聖ローマ帝国とスペイン王国の同君連合が成立した瞬間でした。
ラディスラフ一世は偉大な父の理想をしっかり受け継いでいました。
受け継いだというより、「より徹底した」という方が近いかもしれません。
フェルディナント一世はイギリスやポーランドといった新教徒の国と刃を交えることこそありましたが、全キリスト教徒を1つにするという団結の側面をより重視していました。
オスマン帝国への十字軍では新教徒と共闘することも厭いませんでしたし、理想の中にもリアリストとしての側面を強く持っていたと言えます。
しかし、ラディスラフ一世は「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど熱狂的なカトリック信者であり、カトリックによる国家統合を理想としていたのです。
ラディスラフ一世の時代になってからというもの、イギリスやスウェーデンといった新教徒の国々は積極的な征服対象と見做されました。
イギリスとスウェーデンはこれまで利益が一致することも利害が衝突することもありませんでしたが、ラディスラフ一世の脅威には共同で立ち向かうことを宣言します。
プロテスタントが帝国の支配地域からほぼ一掃された中で、プロテスタント最後の砦となるという決意の現れでした。
プロテスタント連合軍、特にスウェーデン軍の士気は高く、抵抗の激しさは想像を絶しました。
約4倍の帝国軍を相手にして、自軍の4倍への出血を強いることさえありました。
しかし、帝国軍はそれでも圧倒的な数の優位で徐々に優位に立ちます。
プロテスタント軍の5倍を優に超える兵力を導入できる帝国軍の前にじりじりと後退を余儀なくされたのです。
ラディスラフ一世は熱狂的なカトリック信者というだけではなく、統治者に必要とされる狡猾さもしっかりと備えていました。
それはプロテスタント連合との条件交渉の中で発揮されました。
帝国軍はデンマークを外交手段により属国化していましたが、盟主となっていたイギリスからは1州を割譲させるにとどめ、スウェーデンからはデンマークが領有権を主張する5州を返還させたのです。
これは帝国にとってはより脅威と見做されたスウェーデンを弱体化させる目的もありましたが、それ以上にイギリス・スウェーデン両国の関係に軋轢を生じさせる狙いがありました。
戦争主導国はイギリスでしたが、スウェーデン人からすれば、義理堅く同盟参戦した上により激しく抵抗して戦火を上げたにも関わらず、足を引っ張ったイギリスのせいで不当に苛烈な条件を呑まされたということになります。
イギリスは自国の利益のためにスウェーデンを犠牲にしたという声が高まりました。
一方、イギリスからすれば、敗北が明らかになってからも頑強にスウェーデンが抵抗したせいで戦争が長引き、イギリスはより大きな被害を被ったということになります。
首都ロンドンを初めとしてブリテン島の諸都市はことごとく帝国軍の占領下におかれ、帝国軍の軍政下に置かれたことについて、頑なに講和を拒否し続けたスウェーデンを批判する声も少なくなかったのです。
スウェーデンがロシアに攻め込まれ息も絶え絶えになっていたときに帝国軍がスウェーデンに宣戦したときには全く逆のことが起こりました。
既に人的資源も尽きた状態だったスウェーデンは首都ストックホルムを始め主要都市が陥落しましたが、帝国軍が要求したのはカトリック国として復興されていたスコットランドへの領土返還が主でした。
これでお互い様だよね、とならないのが人間心理です。
スウェーデンからすれば、相手の前例に従ったに過ぎませんでしたが、イギリスからすれば散々自分たちを非難してきたやり方をそっくりそのままなぞることになったスウェーデンの行為は不信感を高めるに十分でした。
もともと戦略的には圧倒的な劣勢だった上にうまく連携が取れなくなると、イギリス・スウェーデン軍は一気に弱体化しました。
ポルトガルは当初はイギリスとの同盟を義理堅く履行していましたが、その度に全土を占領されイギリスとの条約破棄を呑まされたのもあり、わざわざプロテスタント信者たちのために自分たちが血を流す必要もないという主張が大きくなります。
ラディスラフ一世の狙い通り、反神聖ローマ帝国同盟は瓦解したのです。
絶対的な権限を持って君臨する君主としてはラディスラフ一世がが最後と言えるかもしれません。
ラディスラフ一世はマドリード郊外にエル・エスコリアル修道院を作り、この宮殿の中から広大な領土への命令を発する体制を創り上げました。
父フェルディナント一世とは違ってほとんど宮殿に籠って政務に専念したため、「書類王」とも言われています。
この書類決済システムは次第に官僚機構と呼んでもいいような統治システムに代わっていきます。
君主の資質に依存しなくても帝国が存続できるようにラディスラフ一世は少しずつ帝国機構を創り変えてきました。
ラディスラフ一世は帝国を存続させるための先見の明を発揮したという点で、フェルディナント一世にも劣らない功績を残したと主張するものも少なくないほどです。
帝国は彼の死後も拡大を続けていきます。そして、1797年に即位したフリードリヒ四世の治世でひとつの象徴的な出来事が起きます。
それは、オスマン帝国が神聖ローマ帝国の属国になるというものでした。
それまでに聖地エルサレムやメッカを割譲させられ、昔日の栄光もすっかり過去のものになっていましたが、イスラム世界の盟主が神聖ローマ帝国に完全に屈したのは、キリスト教世界のイスラム世界に対する勝利を象徴していました。
神聖ローマ帝国は30年近くをかけて同君連合下にあったスペインを併合し、その版図はトラヤヌス帝が実現した最大版図を再現しました。
アフリカ全土が神聖ローマ帝国の直轄領、もしくは保護領として影響下に入り、新大陸でも約3分の1が神聖ローマ帝国の植民地国家となっていました。
神聖ローマ帝国はこれ以上の領土拡大を無益とし、以後は圧倒的な国力を背景に平和を希求するようになります。
それは、神聖ローマ帝国による平和、いわば「パクス=ハプスブリカ」と言うべきものでした。
今となっては遠い昔の1440年に即位したフリードリヒ三世は事あるごとに「A.E.I.O.U.」という署名を残していました。
この文言の解釈については複数の説があります。
しかし、これが神に愛されたハプスブルクの将来を予言するものだったするならば、次の解釈が正しいことになるでしょう。
Austriae est imperare orbi universo (オーストリアは世界を統べる運命にある)
なぜなら、ハプスブルク家は400年の時をかけて、まさに世界を手にしたのですから。