ダルマの世界には、物質世界から完全に離れて、悟りを得るために手付かずの田園地帯で孤立して生活している男性と女性が同じようにいます。 シク教徒であるということは、学生であることを意味します。これらの賢者から学び、シク教の偉大な教祖の作品を研究することで、私たちは啓発されたビジョンを世界中に広めることができます。
(面倒だったので和訳をそのまま突っ込みました)
人的資源が回復した1610年、華南の越に明の再征服CBで宣戦します。明の中華文化グループに属する州のコアは1606年に消えているのですが、チベット文化グループに属する州のコアはまだ残っています。
ついに絶対主義が解放されました。現在の最大絶対値は4だそうです。
4ですか...
政府改革はTier8に到達し、布教強度+3%を得られるThe Guru’s Wisdomを制定します。
シク教専用の改革で、1.34以前からありました。これを選択するためだけに神権シクを選んだといっても過言ではない。
そろそろ詳細に説明する必要がなくなってきたかもしれませんね。これ以降は説明あまり入れません。
越が独立保障していました。
サマルカンドエリアの開発度よ。
神グル&神個性
第二次アユタヤ戦
なんと全土併合できない!!!
アユタヤはマレー半島を超えスマトラ島まで進出しているようです。
マラッカ/Malaccaに接続するよう割譲します。
アヴァを完全併合し、朝貢国一つを引き継ぎました。
西アフリカに進出します。橋頭保確保の意味合いが強いです。
越領はほとんど自国で管理します。
中枢は削ったので後は簡単でしょう。
世界交易を受容します。グジャラートノードではないところがミソ(ガバ)。
中華の富を流すためにマラッカノード支配を狙います。
戦中属国マドゥライを併合、交易収入が15ダカット近く増えました。
第三次アユタヤ戦です。同様にマラッカ半島を中心に割譲をしました。
1630年、第9代グルに推挙されその地位についたグル兼ミスルダーのNusrat III Abbasiは、比較的原始シク教の信奉者でした。シク教がGuru Nanakによってはじまったのは1483年のことですが、150年たった今、その形は少しずつ変わってきていたのです。シク教の人々は度重なる勝利と拡大を続けるグルを崇めるようになり、グルと神を同一視する者まで現れるようになりました。彼はそのような信仰は元来のシク教とかけ離れていると痛烈に批判し、1636年、自身が亡くなる前に次のグルに経典『グラント・サーヒブ』を指名、同時にミスルダーの地位も降り、デリー・シク連邦の指導者を任期のある選挙制による決定とする大改革を断行しました。この改革は国内で大きな反乱をもたらしましたが、宮廷においては長年グルが支持集めに奔走していたこと・先代グルの弟子らが支持を表明したことにより大きな混乱は起きることなく、無事一回目の選挙が執り行われました。
1636年、第二回モスクワ戦です。神聖ローマ帝国諸侯が来ないことをねがいます。
神権制Tier9 『一般選挙の解放』を選択します。Tier8から約25年です。Tier12に到達するのはいつになるでしょうか。1750年くらいかな。
コモンウェルスとの壁をつくります。
1642年、長年の同盟国オスマンと共に長年のライバル国コモンウェルス攻撃を始めます。
こちらはすべて合わせて900k近く、対して相手は約360k。
一見すると圧勝しそうですが、
など不安定な要素もあります。
こちらは欧州にまわせる32k×5=160kをバルカン半島に派遣し、こちら側からオスマンと共闘していきます。
二年後ミラノを追い出すことに成功。敵首都ワルシャワはまだ占領していないので600kで襲いにいきます。
1646年、コモンウェルスと講和します。モスクワがお残しした要塞を中心に、OEぎりぎりまで割譲させました。
OEを一定以上確保し国難の誘発を狙います。
1534年から始まる崩壊により1560年にデリーの従属国になって以降、デリーの拡大に伴い明朝は中華におけるデリー支配地域の統治を委託されていました。中華は戦火に陥ったといえども非常に豊かな地域であり、一時拡大途中の宗主国に大きな影響力を持てるほどの国家になっていました。しかしながらその内部は崩壊しており、国王がかつての中華貴族を重用せず密教を信仰するチベット貴族を優遇し続けたため定期的に反乱が発生。明朝は時に反乱対処に宗主国の力を必要とし、次第にデリー宮廷における明朝の発言力は小さくなっていきました。
1652年、密かに明朝宮廷のチベット貴族を懐柔したデリー・シク連邦統治者は明朝の併合を宣言。ここに1368年から始まった漢民族による中華支配は再び終焉を迎えました。
1652年、約50年続いた明の併合が終了しました。
これにより多くの国家と隣接し聖戦CBを使えるようになりましたが、外交関係がなかなか複雑で一筋縄にはいかなさそうです。
1652年、デリー・シク連邦の統治者Bahlul Langaは先のコモンウェルス戦からさらなる富国強兵を決意、シク教を世界へと広める目標のもとあらたな税制令を施行しようと画策します。しかしながら、デリー国の侵略により富を失った地方の豪族たちにとってこれ以上の搾取は面白くないものであり、ついに彼らは共闘して宮廷に大規模な反発を起こしました。ここに10年内紛と呼ばれる内戦が始まり、デリー・シク連邦の勢いはしばし弱まることになります。
同年、国難『宮廷と国家』を発動させます。どう計算してもこれなしに最大絶対主義値が100に届かないのでやむ無しです。実はこの国難発生させるの初めて...
宣教師を得られるモニュメントを確保したのでダカットを確保次第つぎ込んでいきます。優秀なダルマ向けモニュメントを使えるのいいですよね、まあヒンドゥーもですが。
1634年にセイロン島にかろうじて残っていたヴィジャヤナガル王国が併合されたことにより、紀元前2600年にインダス文明が興って以降、マウリヤ朝のアショーカ王、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジー、トゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクなど名だたる君主でさえ完全には成されなかったインド統一の夢はここにピリオドが打たれたのでした。
統一後宮廷はシク教の布教と反乱鎮圧に努め、一定の治安を確保した1652年、デリー・シク連邦の統治者Bahlul Langaは伝説の王バラタ/Bharataにちなんでバーラト/Bharat建国を宣言、ここにバーラト・シク連邦の歴史が幕を開けました。
イベントで安定度が3になりバーラト建国デシジョンの条件を満たしたので、まずパンジャーブに変態。
その後バーラトを建国します。
なかなかこちらも自然豊かな緑色ですね。デリーは草原色でバーラトは森林色っていう感じです。
ただし国旗は不満です。真ん中にある意匠ヒンドゥー教のシンボル的なものじゃないですか。
どうせなら
これのほうがよくないですか
すげぇ!!!天然のキタラ/Kitaraだ!!!
このあたりだともう誰がラスボスになるかなんとなく分かりますね。ただ顔をのぞかせているオーストリアだけはどうなるか分かりませんが...
とりあえずアジア側の小国を片付けつつ欧州への入り方を探します。コモンウェルス側でもいいのですがスペイン及び新大陸が最後に残るのはできるだけ避けたいところ。
同盟国:オスマン
属国:カツィナ/Katsina・ホラーサーン(辺境伯)・ウズベク・モンヤン/Mong Yang(朝貢国)
属国の数は減らし気味、OEが100を超えそうなときのみ属国作成で乗り切ります。
朝貢国はアヴァからの引継ぎ、まあ確かアユタヤと同盟していたのですぐ滅ぼすでしょう。
まだ宣教師数が5人なのが問題かもしれません。ただそろそろ宣教師数はそろってきます、問題は改宗する州...
ダルマ宗教系はモニュメントが強力という話は有名ですがその分強化にお金もかかります。
なかなか工場建設にお金を回せないところが辛い。
要塞維持費がかなり重いんでしょうか、思い切って壊しまくってもいいのかな。