1513年、共和国は弱体化したオスマン帝国に決着をつけるべく、宣戦布告する。
1508年の段階ではフィレンツェ等が中心となり、反ヴェネツィア同盟を構成していた。
しかし、戦後5年かけてヴェネツィアは外交官を派遣し、関係改善に努めた。
その結果、外交的にオスマン帝国は孤立していたのだ。
弱体化したオスマン帝国に、共和国の侵攻を妨げる力はなく、1517年に講和が結ばれた。
それは、オスマン帝国の首都エディルネ以外の欧州領土の割譲というものであった。
さらに、戦争中、オスマン帝国はマムルークやグルジアに宣戦布告され、領土を割譲しており、大国としてのオスマン帝国はこの講和を持って完全に終わったように思えた。
1527年、共和国はモルダヴィアを併合するべく宣戦布告した。ところが、この最中にマムルーク朝が宣戦布告してきた。
共和国はオスマン帝国の領土を得た、この大国との戦争に怖気づいたが、蓋を開けると、マムルーク朝の軍隊は想像以上に弱体であった。
共和国の軍隊は、マムルーク朝の1万5千の主力をコンスタンティノープルで破った。
共和国はこの勝利に沸いた。
元老院は、念願のアレキサンドリアの獲得の好機と捉え、アフリカへの共和国軍の上陸が行われた。
戦争は八年に渡って行われた。
マムルーク朝の領土の実に8割近くを占領し、ヴェネツィアはアレキサンドリアを含むエジプトの領土を割譲させた。
1535年、ヴェネツィアは東地中海の交易拠点、ヴェネツィア、ラグーサ、コンスタンティノープル、アレキサンドリアの全てを領有する、東地中海の女王となったのであった。
女王は、しかし、エジプト戦争の戦後処理に追われた。アレキサンドアで起こった2万3千人もの叛乱は、コア化の150もの外交パワーを浪費させた。
また、オーストリアとハンガリーで勃発したクロアチアの反乱軍は三万に迫り、ヴェネツィアのダルマチア、イストリアを占領した。
共和国は、反乱軍鎮圧に向けて動いたが、反乱軍はクロアチア王国の成立を宣言した。
これにより、共和国と反乱軍の戦いはクロアチア戦争と呼ばれる戦争になった。
共和国、クロアチア王国の軍隊を撃破し、1543年には旧ヴェネツィア領と旧ハンガリー領リカを割譲させた。
ちなみに、黒海沿岸の同色の領域はトレビゾンド帝国領である。
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