1482年、共和国は機会を伺っていた。
先の戦争において、首都陥落の原因となったのは、オスマン帝国の参戦であったことをヴェネツィア人たちは忘れていなかった。
オスマン帝国こそが、自分たちの最大の敵であり、これを撃破し、国力を削がなければならない。そう元老院は考えた。
そして、オスマン帝国がマムルーク朝と戦争を起こし、主力をアジアへ向けているのを見て共和国は宣戦布告した。
共和国の艦隊は海峡を封鎖し、分断したヨーロッパのオスマン領全土を占領した。
そして、1486年。共和国に圧倒的有利な講和が締結された。
ヴェネツィアはモレアを除くギリシャの覇権を獲得した。
翌年以降、共和国はかねてから領有権を主張していたナポリ王国のアドリア海沿岸部の領有に向けて動き出す。
ナポリとの一年ほどの戦争で、ヴェネツィアはアドリア海沿岸の三州を手に入れた。
また、同時期、共和国は属国だったコルフ島を自国に編入した。
この結果、ヴェネツィアはアドリア海を内海とする国家になり、諸国にアドリア海の女王と称されることになった。
1502年、共和国は最大の危機を迎えた。
始まりは、オスマン帝国の攻撃だった。
帝国は初めから主力をヨーロッパ側に向けていた為、共和国はすぐさまギリシャの放棄を決定した。
ところが、ナポリが先に割譲した領土の奪還を求めて、共和国に宣戦した。
さらにはフィレンツェ、スイスの連合が、共和国のテッラ=フォルマの割譲を求めて宣戦した
この結果、共和国はヴェネツィア、コルフ、ナクソス、クレタ、キプロス、ロードス以外の全ての領土を敵に占領されてしまう事態に陥った。
共和国はほぼ全土を占領された。
今度こそ、共和国は滅亡の危機に立たされたように思えた。
ヴェネツィアにとって幸いだったのは、敵国がそれぞれ別個の戦争をしているという点であった。
敵国が獲得しているスコアの合計は85%に達しているものの、それぞれはせいぜい40%程度のスコアしかなく、彼らが過大な要求を押し通せるほどのスコアではなかった。
また、制海権を握っている以上、これ以上、領土を蹂躙されることはないということも強みだった。
共和国はダーダネルス=ボスフォラス海峡を封鎖し、以前と同様にオスマン帝国の小アジア領を占領。
1505年には帝国との白紙講和を達成した。
共和国は、解放されたギリシャで兵を集め、テッラ=フォルマへと兵を進め、フィレンツエ=スイス連合軍を撃破した。
そのままテッラ=フォルマを解放するがフィレンツェは講和拒否した。
彼らは旧ナポリのアドリア海都市を占拠しており、未だある程度のスコアを有しているだ。
一方、同時期、ナポリとの講和が成立する。
これは、海上封鎖に弱ったナポリが求めてきた講和であった。
共和国は、フィレンツェ=スイス連合との白紙講和を目指し、スイスへと進撃し、この大半を占領した。
1508年、フィレンツェは白紙講和を承諾した。
アドリア海の女王にとって、十年戦争以来の厳しい戦争だった。
厭戦感情を下げる為に再度、莫大な外交パワーが注ぎ込まれた。
しかし、ヴェネツィアは確信した。
ヴェネツィアの領土はテッラ=フォルマ、ナポリ、ギリシャ、地中海の諸島から成っており、海に分断されている。
それ故に制海権を握っている限り、負けることはない、と。
この戦争以後、ヴェネツィアは一つの政策を掲げることになった。
それは、ARR、「あえて」「領土を」「連結しない」政策である。
一円化されていない領土こそと制海権こそが、ヴェネツィアを史上類を見ない苦難から救ったのだった。
1508年、ヴェネツィアの領土
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