AAR/最北の共和国のススメ

~1519 再興の時代

ノヴゴロド公国について

資料0

 ノヴゴロド公国は、首都をノヴゴロドに置いた中世のルーシの国家である。15世紀初頭から力を弱めたジョチ・ウルスに代わって台頭し、のちにロシア大共和国となった。特殊な貴族共和制を敷いていたことからノヴゴロド共和国とも呼ばれる。

 ノヴゴロド公国は当時としては珍しい共和制の国家として知られている。名目上の公は他のルーシ諸国家から推戴する形で存在したものの、権力はほとんど与えられず、貴族の利権にそぐわなければ罷免されることもあった。実際、13世紀の間には実に約30人もの人が公となった(再任を含む)。実際に国家の運営を担ったのは民会(ヴェーチェ/veche/вече)であり、公の選出・罷免、官吏の任免などがここで決定された。民会には貴族だけではなく商人や市民などあらゆる階級の人々も参加することができた。

 公国内における実質的な権力者は、民会の議長を務めたポサードニク/Posadnik/посадникであった。ポサードニクは公と国家を共同統治し、国家の様々な問題に対処した。ポサードニクは当初一人であったが、のちに権力闘争を緩和するために10人を民会は選出するようになり、そのうちの一人が筆頭のポサードニクとされた。その任期ははじめ一年であったが、のちに四年に改められた。再任も認められたが、長い間その地位にいた者はほんの一部であった。

 ノヴゴロド公国が栄えた理由として、交易上重要な地であったことが挙げられる。都市ノヴゴロドはイリメニ湖からヴォルホフ川へ流れ出る場所に立てられており、そこはバルト海(及び北欧)と地中海(及びギリシア世界)をつなぐ交易路(ヴァリャーグからギリシアへの道)の北端であった。莫大な貨物がここノヴゴロドで購入されたり、交換された。北欧諸国の商人やドイツ商人が商館を築き、ハンザ同盟の商館も置かれた。

 13世紀に入り交易路が衰退した後も、ノヴゴロドはしばらくの間ルーシの中心都市であった。1240年にモンゴル帝国がルーシの地に侵攻し、当時の中心都市であったキエフなどが荒廃する中で、ノヴゴロドは奇跡的に侵攻を免れたためである。またノヴゴロド公国が支配する地は資源に恵まれており、生産される作物や、採掘される鉄が市場を賑わせた。

 ノヴゴロド公国の富の大部分を占めたのが毛皮の輸出である。毛皮は中世以降高級品として貢納品や貨幣となり、特に黒貂の毛皮はヨーロッパ各地の貴族らを魅了した。ノヴゴロドの毛皮商人は毛皮を求め領内を探検し、その行動範囲はウラル山脈を越えオビ川にいたるほどであった。毛皮の交易は長い間ノヴゴロドで行われていたが、北極航路が開発されるにつれ次第に交易地はアルハンゲリスクに移っていくことになる。

NI、ミッションと政府改革「民会共和国/Veche Republic」

~1444 衰退するノヴゴロド公国

資料1

 13世紀に入りノヴゴロドの交易が衰退し始めるのと同時に、ノヴゴロドは西からの脅威にさらされるようになった。スウェーデンやドイツ人の十字軍が幾多もの戦争を挑んできたが、これは11世紀の東西教会の分裂による影響が大きい。これらの戦争はノヴゴロド公国の財政を圧迫し、公国は徐々に弱体化していった。
 14世紀にはいると、ルーシの中心はノヴゴロドからモスクワに移っていった。モスクワはモンゴル軍によって一度は徹底的に破壊されたものの、この頃になるとタタールの影響力は弱まり、モスクワは交通の要所として栄えるようになった。14世紀後半から両国は度重なる戦争を繰り返したが、ノヴゴロド公国はモスクワ大公国の勢いを抑えることはできなかった。公国はしだいに領土を失い、主権を制限されるようになった。

開始前の状況

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 皆さんご存じだと思いますが地図上ではこの位置。カルマル同盟・リヴォニア騎士団/Livonian Order・リトアニア大公国/Lithuania・トヴェリ大公国/Tver・モスクワと隣接しています。初期国力131はポルトガル/Portugalやアユタヤ/Ayutthayaに匹敵し、なかなかの大国です。
 信仰宗教は正教、国内の宗教統一度は安心の100%となっております。最強宗教を使える点は非常に役立つでしょう。
 統治者はポサードニクEvfimy II、ロシア版Wikipediaまで探しに行きましたが見つかりませんでした。3,4,2と能力を盛る価値がありますが、高齢なのが少々ネックです。

 さて、国内の状況はかなり恵まれていますが、実際のところノヴゴロド公国はなかなか難易度の高い国家となります。理由はいたって簡単で、周辺国家のほうが国力が高いためです。カルマル同盟とモスクワという強大な国家に挟まれ、身動きを取ることができません。特にモスクワは大量の属国の影響で扶養限界/Force Limitが多く、単純な国力差以上の差が兵力に出てきます。AI国家は、史実でそうであったように、いつもモスクワに滅ぼされてしまいます。
 もちろんプレイヤーが入ると何とかすることができます。では早速開始していきましょうか。

1444~ ノヴゴロド公国の再興とロシアの支配者

資料2

 モスクワからの圧力に抵抗するため、ノヴゴロドはポーランド・リトアニア共和国と同盟を結ぶことを試みた。1444年にポサードニクとなったEvfimy IIは、ポーランド・リトアニア共和国の統治者であったKazimierz IV Jagiellonのもとに自ら赴き、密かに同盟を結ぶことに成功した。かつては領土を争いあったノヴゴロドとリトアニアの両国ではあるが、Kazimierz IV Jagiellonはポーランド王位を手に入れるとより西方への拡大を画策するようになる。彼にとって東方のノヴゴロド公国とモスクワ大公国が戦争を続け互いに疲弊しあうことは、東方を安全にするという面で望ましい形だったのである。

 1448年、ノヴゴロドとモスクワの間にあったトヴェリの統治権をめぐって両国は再び戦火を交えることとなった。モスクワ大公国は総勢3万を超える軍勢でトヴェリを包囲するが、西方から急襲してきたノヴゴロド公国とポーランド・リトアニア共和国の軍に敗れることとなる。1450年には連合軍は激しい抵抗を抑えモスクワを陥落させ、街を徹底的に破壊した。1451年にモスクワ大公国の公がトヴェリ公の請求権を放棄することで戦争は終結し、ノヴゴロド公国は過去100年で失った地を回復した。首都ノヴゴロドは再び交易で盛況となり、ルーシの中心が再び北方に戻っていくきっかけとなった。

 ノヴゴロド公国とモスクワ大公国はこの後も度重なる戦争を行ったが、モスクワ大公国は支配地を失っていく一方であった。南方の遊牧民やデンマークとの同盟で抵抗を試みるもののついに1468年にはモスクワを失い、モスクワ公の地位はノヴゴロド公に吸収されることとなる。

初動の解説

目標:モスクワ撃破

さて、対モスクワですが、
① 独力でなんとかする
② PLCと同盟して対処する
が主な方法となります。別解としては遊牧民と手を組むとかでしょうか?

① 独力でなんとかする
オスマン/Ottomansに相対するビザンツ/Byzantiumほど絶望的ではなく、多少傭兵で軍量を盛るだけで勝てるようになります。ロシア特有のプロビ間の移動時間が長いことも味方し、各個撃破の難易度はかなり低いです。しかしながら要塞州が首都要塞を含めると(おそらく)9つも存在するため、100点講和をするためには8年近く戦う必要が出てくるでしょう。西からカルマル同盟が横やりを入れてくる可能性もありますので、スウェーデンSwedenが独立するように仕込んでおくのがおすすめです。

② PLCと同盟して対処する

2-1.同盟後好感度を貯めて攻撃
2-2.防衛戦争を用いてPLCを呼ぶ

今回は2-2の方法を用いましたのでこちらを紹介したいと思います。

さて、本プレイでは統治者の個性にStrict(規律+5%)があったのでSave&Loadをリセマラの替わりに用います。なおポーランドのライバルはチュートン騎士団・ボヘミア・ハンガリーなのでいばらの道です。

初日
→スコットランド/Scotlandと同盟
→トヴェリ・デンマーク・モスクワをライバル指定
→キエフノードの商人の交易方針をEstablish Communitiesに変更
→階級特権の設定、顧問採用など。
二日目:リャザン/Ryazanと同盟
1444/12:トヴェリへ諜報網作成開始、ポーランドと関係改善開始
1445:ノイマルク購入イベント・モルダヴィア辺境伯化イベント・モスクワがトヴェリに請求権捏造・こちらもトヴェリに請求権捏造

1447/2:PLC成立
1447/4/16:モスクワ、トヴェリに宣戦
1447/4/17:ポーランドとの同盟成立、直後トヴェリに宣戦

ここまでリセマラ20回以上、大変でした。モスクワ軍がトヴェリ軍と戦っている間に軍隊をトヴェリ首都に滑り込ませます。
こちらが首都を落とししばらくすると無条件降伏をしてきましたので、トヴェリは属国化で講和します。
なお無条件降伏をしてこなかったらモスクワが先に講和してしまうのでまたまたリセットです。油断ならないですね。

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戦争引継ぎによりモスクワ戦の開始です。

第一次モスクワ戦

 正直なところ、ここまでくるとヌルゲーでございます。各個撃破をされないように同盟国軍と連携しつつ、モスクワ領土を占領していきましょう。
 注意点ですが、リトアニアとモスクワが隣接している3州は自国軍で占領しましょう。あらかじめ関心を付けておくことも重要です(今回は見事に忘れていました)。ポーランドにモスクワ領を渡してしまうと、そこを起点にタタール遊牧民の征服を始めてしまいます。ロシア変態後にミッションを進めるうえで邪魔になりますので、信頼を減らしてでも死守すべきです。

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 1450年、政府改革Tier2を制定します。共和制国家は共和的伝統値が政府改革進捗度/ Reform Progress獲得量にバフを与えますので、サクサクと政府改革が進んでいきます。
 共和制Tier2ですが、おすすめは『Political Dynasties』です。選挙における候補者数が増え、新任時ランダムに能力が+1されます。共和制はやはり統治者の能力が問題であり、特に再選を重ねる前段階の初期能力の低さはどうしようもないので、多少ましになる程度でもありがたいものです。
 今回のプレイにおいては宣教師数を+1する『Religious Values』を選択しました。君主制には存在しない、宣教師+1の汎用政府改革です(何とかして共和制をポジろうとする私)。布教強度はたいして強くないですが、懸命に正教を布教していきます。

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 プロビ間の移動自体に時間がかかる都合上、初期の戦争期間は長くなりがちです。あまり気にしなくていいと思います。
 1451年に100点講和を通せるようになったので上のように領土を要求しました。旧領は必須、追加でリトアニアとモスクワの間の領土を中心に割譲させています。ポーランド君がかなりお怒りの様子で、信頼が-10されましたがありがたいことに同盟は切られなかったので後で好感度を使って戻しておきました。

その後の動き

 今回はリャザンとの同盟を切っただけで、その後10年間何もしませんでした。何もできなかったといった方がいいかもしれません。極地に近づくほど国家が大きくなるのは動物と一緒なのでしょうか?
 もし本気でWCなどを目指す場合はアイルランド諸国へのNOCBをお勧めします。幸いスコットランドと同盟を結んでいますので、場合によっては参戦させることができ、容易にブリテン島への足掛かりを作ることができます。もし植民を考えていない場合でも、イングランド/Englandを早期に下しておくことは結構いろいろな面で有効です。

 1460年に共和制Tier3を制定しました。このTierは一長一短の政府改革が多く、無難なものがほぼないため制定する政府改革はずっと考えなければいけません。
おすすめは『Frequent Elections』、選挙周期が-1年されます。選挙の仕組み上選挙周期が短いほうが好ましいです。しかし問題点として絶対主義最大値が-10されます、共和制の絶対主義最大値に関しては絶対主義の時代が始まったら述べますが苦しいことは確かなので、自国の絶対主義最大値と相談しつつ、絶対主義の時代に入ったら変更することを考慮すべきでしょう。
Tier3での絶対主義最大値と言ったら『Consolidation of Power』により最大絶対主義値が+10されますが、選挙期間が+1されますのでどうしても絶対主義最大値を稼ぎたいときに限るでしょう。なお今プレイではこちらを選択していますが、後で後悔して変更しています。
 対抗馬は『Sortition』か『Consolidate Power in the Doge』、共に選挙システムを捨て、抽選システムを導入するかランダム君主になるかです。個人的には前者がおすすめ、抽選システムは割と使い勝手がいいです。ちなみに統治キャパシティ上限は『Great Veche Republic』による+300のおかげで、ありがたいことに1630年くらいまで一切気にしなくてよかったので+250はそこまで必要ではないと思います。
 無難なのとして『Disperse Power Across the Cities』、メインのバフは外交枠+1であり実に無難です。周りが個性的すぎてだいぶありがたい補正なのに無難です。

1463~ モンゴル支配からの脱却

資料3

 13世紀前半にモンゴル軍がルーシに侵入し、かつてのキエフ公国が徹底的に破壊されたのち、全ルーシはモンゴルの支配下となった。かつての中心都市は再興できないほど徹底的に破壊され、ルーシの人々はジョチ・ウルスへの貢納を強制された。モンゴル帝国が緩やかに分裂していくにつれ、帝国の影響力は弱まりつつあった。しかしながらいまだに軍隊は屈強であり、ルーシの人々を怯えさせ続けた。

 モンゴルはルーシ諸国への統治に対し、間接統治を選択した。貢納や軍役は強制されたが、ルーシの人々は従来通り農耕や商業に携わり、ルーシ諸国らは互いに敵対しあった。諸公の任免の決定権はジョチ・ウルスが握っていたため、諸公は頻繁にジョチ・ウルスの首都であるサライに赴き、他のルーシ諸国と権力闘争を行った。特にウラジーミル大公の地位はロシア諸公間の第一人者として認められたため、各公はその叙任令書を求めて互いに争いあった。この状況は80年ほど続くこととなる。

 ルーシ各諸国が争いあう中、台頭してきたのがモスクワ公国であった。時の公であったイヴァン一世はウズベク・ハンの信頼を勝ち取ることに成功し、以後ウラジーミル大公位はモスクワ公が独占するようになる。次第にその権力と領土を拡大させていったモスクワ公国は、モスクワ大公国と呼ばれるようになる。安定が訪れたモスクワには貴族を含め人々が集まるようになり、ついには長年の敵対国であったトヴェリ公国をついに屈服させることとなった。

 一方、ジョチ・ウルスは14世紀後半に入ってから、度重なる権力争いと内紛によって権力を失いつつあり、モスクワ公国の拡大を抑えることができなかった。1377年、ジョチ・ウルスを支配していたママイからの増税を公然と拒否したモスクワ大公ドミトリーは、ルーシに対する影響力を示し、国内での権威を高めたかったママイと正面からぶつかることとなる。1380年、クリコヴォの戦いである。この戦いにおけるモスクワ軍の勝利に対する影響力はすさまじく、ロシアが「タタールのくびき」から脱却する最初のきっかけになった出来事と評価されている。その後統一されたジョチ・ウルスにより一度は再び臣従したものの、これを機にジョチ・ウルスは衰退の一途をたどり、対してロシア人の間にはタタール支配の終焉への希望が灯されることとなった。

 1451年にモスクワ大公国がノヴゴロド大公国に大敗し、その力を弱めたことで、ジョチ・ウルスは再びロシアを支配することを試みた。当時ジョチ・ウルスからはカザン・ハン国・ノガイ・ハン国・クリミア・ハン国が分裂しており、サライを支配していたキプチャク・ハン国にとってルーシの支配はジョチ・ウルスの後継たる印ともなりえたのであった。キプチャク・ハン国は手始めにリャザン公国を支配下におさめると、ロシアの中心へとなりつつあったノヴゴロドへの侵攻を始める。1462年、モジャイスクの戦いである。ノヴゴロド軍はこの戦いでハン軍を打ち破ると、そのまま南下しリャザンを占領、さらにはサライにまで進出した。激しい抵抗はあったもののサライもノヴゴロド軍の手に落ち、キプチャク・ハン国はルーシ支配の再興への夢を完全に断たれる結果となった。ここにおいてロシアはタタールから完全に独立し、この時期を「タタールのくびき」の終わりとみる学者も多い。その後、モスクワ大公国がノヴゴロド公国に抵抗するため一時的にタタール遊牧民と手を結んだことはあったものの、タタールがロシアに影響力を持つことはなく、最終的にロシア大共和国に併合されることとなる。

キプチャク・ハン戦

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 ついに動ける機会がやってまいりました。リャザンとの同盟解消後、キプチャク・ハン国/Great Hordeがリャザンを属国化しており攻撃できなかったのですが、敵同盟国ティムール/Timuridsが参戦できないようなので急いでリャザンに宣戦します。軍量不利ですが、傭兵雇用をしつつ敵戦力をモスクワの西にある森林プロビにおびき寄せ、うまく戦ってみます。

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 一年ほどしか戦っていませんが、目的のリャザン属国化はできそうなので講和してしまいます。キプチャク・ハン国はこの後カザン・ハン国/Kazanとクリミア・ハン国/Crimeaに押しつぶされていました。逆にカザンが強大になってきており注意しておいた方がよさそうです。

第二次モスクワ戦

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 1466年、モスクワとの停戦が切れたので再びポーランドを連れて宣戦します。モスクワはノガイ・オルダ/Nogaiと同盟を結んでいるため、100点を求めるのは厳しそうです。
ついでにオドエフ公国/Odoyevを併合します。

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 1470年、要塞2州を中心に割譲させ、カザンと隣接させました。首都モスクワの割譲はもう少し後で、ポーランドとモスクワ大公国の距離を離さないためですがあまり効果はないかも。

 戦後すぐに政府改革がTier4に、こちらは汎用ですので紹介は割愛させていただきます。選択したのは『Grant Land to the Monasteries』です。

1471~ 騎士団十字軍の終焉

資料4

 北方十字軍は1193年に教皇クレメンス3世が呼びかけたことで始まった。その対象はまだキリスト教が広まっていなかったバルト海沿岸の地域であり、その中には現在エストニア・ラトビア・リトアニアと呼ばれる地域も含まれている。

 これらの地域においてキリスト教の布教を継続的に行うために、1202年に設立された組織がリヴォニア帯剣騎士団である。彼らはバルト人の征服とキリスト教化を武力を背景に行ったものの、1236年にザウレの戦いにて惨敗したことでドイツ騎士団に吸収合併されることとなる。その後の統治はリヴォニア騎士団がドイツ騎士団の分団として行うことになった。
騎士団はバルト人のキリスト教化に加えて、正教会地域であるノヴゴロド公国に対する征服を試みた。騎士団は13世紀から14世紀にかけてあわせて十数回の遠征をおこなったが、1242年の氷上の戦いなどに敗北したことにより征服することはついに叶わなかった。

 しだいにドイツ騎士団は同じキリスト教国であるポーランドやリトアニアと抗争を繰り返すようになり、正教会地域への征服活動は行われなくなる。ドイツ騎士団はバルト海における交易で栄えたが、しかしながらそれはバルト海支配を狙うノヴゴロド公国との再びの衝突を生む結果となった。1471年、ロシアでの地位を確立したノヴゴロド公国は、バルト海交易における権益確保のため交易都市・リガの征服を始める。ドイツ騎士団の敵対国であったポーランド・リトアニア共和国との連合軍の前にドイツ騎士団・リヴォニア騎士団は抵抗することができず、リヴォニア騎士団は1503年までは存続するものの最終的に滅亡し、リヴォニア地域は正教会化が進むこととなる。

リヴォニア騎士団戦

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 PLCのTrustを上げていたところリヴォニア騎士団戦に来てくれるようなのでリヴォニア騎士団に階級議会でもらった請求権で宣戦、ついでにリガの確保も狙っていきます。

 講和は合計7州を割譲させ、属国ラトガレ/Latgaliaに統治をすべて投げました。統治キャパシティに余裕がないので(一回目)、恒久的請求権をもらえる地域以外は積極的に属国を活用していきます。
 この世界戦のチュートン騎士団はHRE入りしており、またプロシア連合イベントは発生しませんでした。そのためポーランドは永遠にDANZIG州(ダンツィヒ)を手に入れることができず、コモンウェルスは成立できませんでした。

 またまた余談ですが今回はチュートン騎士団の土地を要求しませんでした。割譲させるとポーランドに絶対同盟を切られると思っていたのですが、他のAARなどを見る限りどうやら切られないようですね。チュートンはノヴゴロドノードのシェアを3~4%ほど占めていたのでCOTは奪っておけばよかった。

第一次カザン戦

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 なぜか同盟国がいなくなっているようなので一度殴っておきます。まあ相手14kしかいないから余裕でしょ。

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 会戦で一度大敗しました、はい。フラグは立てるもんじゃないですね。要塞のある首都と、アストラハン/Astrakhanの種地をいただいていきます。統治キャパシティの余裕が(略)。

 1480年にルネサンスを受容しました。確かノヴゴロド首都を開発して発生させたと思います。

第三次モスクワ戦

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 時が経つのは早いですね、もう第三次モスクワ戦です。モスクワはデンマークと同盟を結んで抵抗してきましたので、こちらも新たに同盟していたブランデンブルク/Brandenburg含めて全同盟国で相手していきます。
 デンマークの同盟関係も少々崩しておきたいので、講和までかなり時間がかかりそうです、さて何年かかるかな。

戦中に政府改革はTier5に到達しました。今回私は『Administrative Divisions』を選択、統治キャパシティ上限が+250されます。他の政府改革よりは役に立ちそうだったのと、何より統治キャパシティがオーバーしていたので選択しました、他の共和制国家でも無難にこれでいいと思います。

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案外ましな期間で終わりました。首都モスクワ含む8州を割譲させ、モスクワをウラル山脈に追い込みました。ここを自国で領有したかったので、統治キャパシティに余裕を持っておきたかったんですね。まあ先に政府改革が進んだので余裕分が少し生まれたんですが。

 1490年にCOTを育てたことで黄金時代を発動できるようになったので発動させました。最近は早めに黄金時代を打つことが多いです。

1491~ 北方十字軍の終焉とロシアの北欧支配

資料5

 ノヴゴロド公国とスウェーデンとの衝突は12世紀ごろから始まった。当時フィンランドでは多神教の信仰が存在していたが、12世紀になるとキリスト教化をしたスウェーデンが、北方十字軍としてフィンランドの征服を始めた。対してノヴゴロド公国も正教会の布教のためフィンランドに進出しており、征服地の人々を改宗させたうえで貢納を求めていた。スウェーデン軍とノヴゴロド軍の衝突は100年以上続いたが、1323年のノーテボリ条約によってカレリア地峡を分割する形で国境線を定め、一旦の終結を見せた。

 15世紀の終わりになると、ノヴゴロド公国と北欧を統一したカルマル同盟はバルト海における交易で再び衝突するようになる。カルマル同盟は海上を支配することで優位を作るも、陸上においてはスカンディナヴィア半島にまで進出してきたノヴゴロド連合軍に敗北を重ね、最終的にアルハンゲリスク条約によってカルマル同盟は分解されることとなる。デンマークやスウェーデンは北欧支配を強めるロシア大共和国に共闘できず、1550年までに両国は地図上から名前を消すこととなる。

第一次北方戦争

(問題です、この戦争に何年かかるでしょうか?)

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 1491年、デンマークとの停戦が切れましたのでデンマークに宣戦します。複雑な戦線となっているためポーランド・リトアニアの動きが心配です。

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8年もかかりましたが、ノルウェー/Norwayの属国化とミッション達成のための土地、フィンランド/Finlandの種地をもらっていきます。

 ノルウェー属国化の目的は単に属国化が時代能力のおかげでしやすいから、というよりは新大陸への進出のためにあります。ご存じのとおりノルウェーのNIには3番目に植民者+1があります。今回植民系のアイデアを取らない関係で自国は新大陸にノータッチとなるのですが、後で新大陸に進出するとき足掛かりが有ると無いとでは大きな違いとなります。特に植民地国家があると商人数の点で有利ですから、今バージョンでは西欧勢の植民の勢いがすさまじいとは言ってもせめてハドソン湾沿岸に植民地国家くらい作ってほしいですね。

第四次モスクワ戦

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 ついにモスクワは完全併合。強大なライバル国家であるモスクワも初戦のための準備さえしっかりできれば楽な相手です。

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 政府改革はついにTier6に到達、政体を変更できるTierですね、共和制は爆速でここまで到達します。今回はもちろん政体は共和制を維持、政府改革は無難に最大絶対主義値が+5される『Presidential System』を制定しました。議会制が好みの方には『Parliamentarism』がおすすめです、私は苦手なので選択しませんでした。

第二次カザン戦

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 まーだカザンには同盟国がいないのか、攻めてくださいと言っているようなものではないか。

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 10州ほど割譲させて講和します。カザンはPLCを呼ばずとも対処できる国力差になったと思います。

1509~ 黒海とオスマン帝国

 

資料6

 1462年のモジャイスクの戦いにおける勝利をきっかけとして、ノヴゴロド公国は遊牧民が支配してきたポントス平原への征服を始めた。支配地域を南方に推し進めたノヴゴロド公国の影響力は、1509年についには黒海にまで至った。ノヴゴロド公国及びロシア大共和国は黒海北岸の支配を強めることでロシア商人の黒海における活動を保護しようとするが、オスマン帝国との領土問題を生むこととなる。

 対して1449年にコンスタンティノープルを陥落させビザンツ帝国を滅亡させたオスマン帝国は、その圧倒的な軍事力を背景に、当時ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国が保有していたエーゲ海や黒海沿岸の領土を次々に征服していた。その中にはケルチ海峡の両岸やアゾフ要塞など、後に両国の衝突の原因となる黒海北岸の地域も含まれていた。

 両国は黒海北岸の支配権及び黒海交易における利益をめぐって対立するようになる。16世紀の間はオスマン帝国が全盛期を迎えており、また両国の関心が別の地域に向けられていたこともあり目立った紛争は行われなかった。しかしながら17世紀にはいりオスマン帝国の勢いにも陰りが見え始めると、正教とイスラム教の宗教対立を発端とする両国間の問題も相まって、両国間に長く連続的な戦争が幕開けすることとなる。

チェルケシア戦

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 クリミア・ハン国が滅亡していたため、属国アストラハンから州を没収し解放させました。オスマン帝国との衝突は避けられませんが、なるべく怒らせたくないので黒海まで征服するのは博打ではあったりします。たださすがにコーカサス山脈より北の地域までは自国側で押さえておきたいので先に征服していきます。
 オスマン帝国はすでに二番目のアイデアグループで軍量アイデアを選択しており、軍量的にもノヴゴロド公国+PLC<オスマン帝国という状態です。序盤でオスマンを叩くという割と王道な作戦は(そうとうな犠牲を払わない限り)厳しそうなので、歩兵ユニットの能力が追いつく1590年あたりで第一次オスマン戦を仕掛けることを狙いとし、それまでに相応の国力を付けていきましょう。

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 宣言通りコーカサス山脈の北側を割譲させました。サムツヘ/Samtskhe解放に深い意味はありませんでした、後で少し活用するのですが。

 1510年には宗教改革の時代に入り、我がノヴゴロド公国も将来首都となるNEVA州を開発し、植民地主義を受容しました。

第二次北方戦争

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 どこかのタイミングでスウェーデンがデンマークから離脱していました。解放させた属国フィンランドの再征服CBで宣戦します。

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 余裕な戦争にも2年かかるのが北部の戦争です。要塞州と道を整備しました。 

第三次北方戦争

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 そのまま流れでデンマークに宣戦。敵同盟国のネーデルラント諸侯は突進公が善良公よりも先にあの世に突進した同盟国・ブルゴーニュ/Burgundyに任せます。海軍はそろっていませんが首都に乗る算段はついています。

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 敵の全軍がブルゴーニュに行って苦しそうだったので途中でPLCを参戦させました。カトリック国家へのAEの関係で領土割譲は押さえておきます、そのあと確認したらデンマークはプロテスタントだったんですけどね。


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