1550年頃から"そろそろユダヤの種地を確保しておきたい"と思っていたが
通り道にあたるHormuzがMamluksと同盟していたこともあり、なかなか攻める口実(CB)を作れなかった
"Bohemiaに続きNo_CBで攻めるしかないか"と考えていたところ
以上の流れによりNo_CBを回避できた
ゲーム開始時にユダヤ教の州はDEMBIYA(画像の赤矢印)・SEMIEN(その右上)の2州存在していたが、
開戦前にはSEMIEN州の方はコプト教に改宗されていた
Ethiopiaは初期の超優秀(6.5.5)君主が"狂信的(布教強度+1%)"な性格の持ち主なので
この君主が長生きしたり宗教アイデアを早期に取得してしまうと、ユダヤの2州が両方とも改宗されてしまうことがある*1
1574年10月 宣戦布告(Medri_BahriはFunjに攻め込まれていて裏切った)
1577年5月 (3.3.3)の後継者死亡。新しい後継者は(3.1.6)*2
1578年10月 終戦。無事ユダヤ教のDEMBIYA州を獲得
"遊牧民族アゼルバイジャン人によるイスラム世界実現のための聖戦司令部"NAJD*3
としては、このような不届きな邪教を信奉する州が国内にあるなど耐え難い
ということで維持費0で*4改宗開始(後から思えばコア化が済んでからでも良かった)
1579年5月 Jaunpurと同盟("外交"アイデア②で追加された外交枠を埋め忘れていた)
ピクニックのお誘い2回目。Mamluksは3国全て(Tunisは属国)に裏切られ哀れだった
後に発生予定の狂信者反乱部隊が迷子になると大変なので、通り道の整備を開始
1580年3月 Hormuzに宣戦布告(Yemenの同盟Ajuuraanも参戦)
1580年8月 Yemen個別講和(2州+金銭)
1581年1月 Warsangariに宣戦布告(援軍はHadramutのみ)
1581年5月 Hadramut個別講和(2州+同盟破棄+金銭)
1582年2月 Ajuuraan個別講和(4州+金銭)
1582年12月 Mamluks戦終了(又も内陸飛び地の不要な州BURAYDAHが返還され、Favorは2しか稼げなかった)
1584年4月 DEMBIYA州においてユダヤ教の狂信者反乱が発生(当初は僅か10kの小規模反乱だった)
1584年9月 Hormuz戦終了。11州を獲得し、首都とNajd領アフリカが地続き(海峡含む)になった
1585年1月 (3.1.6)の新族長が即位。新後継者は(1.0.4)とAq_Qoyunlu王朝で初のイマイチ能力の持ち主だった
1585年8月 Warsangari戦終了(10州+金銭)→旧Ajuuraan領とも地続きに
1585年8月 Transoxianaをライバル指定
Ethiopia戦以降の獲得領土
交易経路的に必要だったのはホルムズノードに属するHORMUZ州、MUSCAT州くらいで他の州は道路*5
1585年の領土
チリ並みに細長い。南半球からサンクトペテルブルクまで伸びた糸*6
前回図らずも敵対することとなったSilesiaと再び誼を結ぶことができたので、(外交枠超過+1)
早速Hungary戦で活躍の機会を設けることにした
(元)皇帝の力を発揮してもらうために敵に不足があってはいけないと思い
Austria・Riga・Ragusaも共戦国に指定した(FlorenceはSpainと同盟していた)
固い絆で結ばれた仲間たちの力を信じて、Najdは更なる戦いに身を投じることにした
(そろそろインド方面への進出も果たしたかった)
半年後に1州(QUHISTAN)+金銭で終戦
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Hungary戦で快進撃を続ける友軍の奮闘を見て"Najd軍も休んでいる場合ではない"と感じたので宣戦布告
(ペルシアノードでのシェア拡大とライバルに屈辱を与えてのPP稼ぎが狙いだった)
1588年9月 Ragusa個別講和(同盟・ライバル破棄+金銭)
1589年3月 Nogai個別講和(Ottomansとの同盟破棄+金銭)
1590年1月 外交アイデアコンプリート、経済・軍質とのポリシー採択*7
1590年6月 Transoxiana個別講和(同盟破棄+屈辱+金銭)賠償金は960ducatsで"意外と金持ちだな"と思った
Ajam戦終了。包囲網入りしそうな国の多くとは停戦期間が設けられているため、幾許かの余裕はある
狂信者反乱の発生から6年、反乱軍の規模がOttomans軍を上回り世界最大の軍事集団となっていた
折角道路を整備しておいたのに、反乱部隊はMamluks領を通り陸路でアラビア半島入りした*8
1591年8月 イマイチな後継者が成人してしまったため廃嫡
1592年5月 Saxony個別講和(同盟・ライバル破棄+戦後補償)
1593年1月 Riga個別講和(完全併合)
1593年3月 Salzburg個別講和(同盟・ライバル破棄+金銭)
1593年6月 Mantua個別講和(同盟・ライバル破棄+戦後補償)
いつの間にか世界4位の軍事力を持っていた(注:世界一の軍事力の持ち主は狂信者)
1594年1月 OttomansがHungaryと個別講和(2州+金銭)
1594年1月 Florence個別講和(同盟・ライバル破棄+金銭)←Spainとの同盟は無事に破棄できた
1595年3月 SilesiaがHungaryと個別講和(3州+金銭)←Austria/Hungaryの国境にあたる州を取られてしまった
1595年5月 経済基盤のアジア地域が反乱軍に占領され、貯金箱(賠償金)も底を尽いた結果再び借金生活へ
1595年7月 Austria個別講和(1州+同盟・ライバル破棄+金銭)地中海沿岸のGORZ州を失いAustriaは内陸国になった
Hungary戦終了。Spainが包囲網に加わるギリギリまで領土を奪った。
この結果DEV合計が1000を超え、Najdは帝国級国家に昇格した
約半年後に狂信者反乱が領有する州の過半数を占領しそうになったので
Baluchistanに宣戦布告。Ottomansが原因不明の借金*9と疲弊*10、人的資源*11、関係性*12を理由に参戦拒否
左が1595年10月、右が1596年1月*13
戦争中でも首都(画像の赤矢印)の占領が2年間続くと強制的な要求を飲まされてしまうため、
Ottomans領の安全地帯(画像の赤丸)に砲兵部隊を配置しておき*14隙を見て適宜解放した
1598年6月 同盟国JaunpurがDelhi(旧)を完全併合し、Delhi(新)に変態した*15
終戦。Multanは共戦国ではなかったが、少しでもDELHI州に近づいておきたかったので気にせず割譲させた。
そろそろ包囲網が危険水準に入りかけている
終戦後にBrandenburg・Veniceと同盟(外交枠超過+3)
既に領有する州の過半数を反乱軍に占領されているため、月末までに開戦が必要だった
ライバルDenmarkが同君下位Bavariaから独立戦争を起こされ劣勢だったので、この機会にLithuaniaのコアを返してもらうことにした
(SilesiaはBavariaと共に既に交戦中)
自国領を通過するのは危険だったためBaluchistanとの終戦時に部隊を"Exile"状態になる州へ配置しておき、
自国領に進入しないように注意しながらパンジャブ→中央アジア→ウラルと迂回して、
サンクトペテルブルク経由で安全な敵国への避難に成功した
Estonia個別講和(3州+金銭)。ここでSpainが包囲網に加わってくれたお陰でDenmarkからも思い切って領土を奪うことができ、
その後の欧州侵攻に弾みがついた(決して注意不足の作者がAE管理を怠ったわけではない)
突然反乱成功のダイアログが出て驚いた。
Muscovyかどこかで発生したGreat_Horde分離独立反乱部隊がLAKIA州を占領して5年経過したらしい。
狂信者反乱部隊に占領された州と見分けがつかず、反乱一覧にも表示されなかったため気付かなかった
1602年1月 LONDONにて"Global_Trade"発生
1602年11月 Mikhalfの属国取り止め*16外交枠超過は+2に改善
1602年12月 Great_Hordeに宣戦布告。敵同盟はPermのみ
1603年10月 (5.3.3)の新しい後継者誕生。やはりAq_Qoyunlu王朝は凄かった*17
1606年10月 Perm個別講和(朝貢国化)。Najd初の朝貢国。何故これまでは朝貢国を作らなかったのか?自明の理である*18
1606年10月 Great_Horde完全併合(4州)で終戦
1607年1月 統治技術17解禁。先行取得だったが"統治効率+10%"と"次の時代開始までに5大学設立"のため必要だった
終戦。ドイツ侵攻の橋頭堡とNorway,Sweden,Finlandの種地を確保。借金に苦しんでいたので賠償金も満額請求した。
1607年1月 Astrakhan・Galicia-Volhynia・Medri_Bahriが朝貢国になることに同意
1607年1月 Denmarkからの賠償金で各地に大学設立開始
1607年1月 Circassiaに宣戦布告。他に同盟の居なかったKharabakhも共戦国に指定
1608年1月 反乱軍の規模が374kに増大し、兵数的にはOttomans・Ming・Spain・Franceを同時に相手取ることが可能になる
1608年3月 Kharabakh完全併合(MELIKATES州)で個別講和
1609年2月 なんと反乱軍がOttomans軍との会戦に勝利。反乱軍は味方扱いらしい(規律も当時のNajd軍と同じ115%だった)*19
1609年2月 Multan本国から分断され、独立を果たしたばかりのSindhに宣戦布告(当然同盟なし)。
1609年3月 Circassia完全併合(ALANIA州)で終戦
1609年5月 Denmarkで構築したスパイ網を消費してSwedish_Separatistsの反乱支援開始
1611年8月 イベント"Steady_Boys!"で10年間規律+2.5%の効果を獲得
Veniceが新たにBrandenburgをライバル指定した結果、このままでは同盟破棄されそうになる
幸いBrandenburg(当時のFavorは11か12前後だったと思う)が参戦してくれそうだったので、まずHamburgに宣戦布告
次にSindhと終戦(完全併合)→Brandenburgに参戦要請
最後にBrandenburgとの同盟破棄*20
これらにより①Veniceとの同盟関係を維持できた(②外交枠超過も+1まで戻った)*21
③宮廷と地方国難を起こすために安定度を下げておく必要もあった為一石三鳥の悲劇だった。
彼我戦力比。*22Najd軍は砲兵くらいしか残していないのでバランスが無茶苦茶
1612年2月 絶対主義の時代突入
1612年2月 Najd領北欧BOHUSLAN州にてNorwayの分離独立反乱が発生。Denmarkへ広がることを期待
1612年2月 イベント"Strong_Military_Leadership"発生。宮廷と地方国難を早めるため安定度-1を選択
1613年1月 SLESVIG州にてDenmarkの分離独立反乱が発生
→度量の広いBrandenburgが「(元)友達のシマだから」と鎮圧(Crash_revolted_Separatists)を代行してくれた。*23
今更になってNajdに同盟破棄されたBrandenburgのツライ*24思いを想像して涙した
5年後にFree_to_join_coAlitions権を行使し、ツライさんBrandenburgは残念ながら敵チームの一員になりフアンがおこった*25
1613年2月 Lubeck個別講和(LUBECK州をNajd、WISMAR州をBrandenburgに割譲しLubeck滅亡)
1613年3月 ELFSBORG州にてSwedenの分離独立反乱が発生するも、Hamburg軍に鎮圧されてしまう
1613年7月 前回から5年が経過して再び可能になった"Enforcing_faithful_Adherence"の実行で汚職-2
サーボルちゃん「あなたは"へんたい"のにがてなのけものなんだね!大丈夫だよ、フ0ンズによって得意なことは違うから!*26
すっごーい、へーきへーき、たーのしー♪*27なかまもいるんだしね(笑)*28」
1613年7月 欧州の飛び地を除く殆どの州がユダヤ教になったので狂信者の要求を受諾、Najdはユダヤ教国家への変身を果たした*29
この瞬間"積年夢見たMughalsへの変態資格を失った"ことにダメッコ作者*30は未だ気付いていない*31
ちなみに最終的な狂信者反乱軍の規模は430kだった。兵数的にはOttomansを除いた列強の合計と同程度だった
ただしこれはNajdが陸軍戦力を縮小していたことも一因となった。要求受諾で反乱軍の一部がNajd軍に統合されるので、
砲兵を10連隊ほど残して残りは解雇していた。
統合の結果Najdの兵力は121連隊となり、一時的にOttomansに次ぐ世界2位の陸軍大国となった。
扶養限界(94連隊;受諾時に自治度が上がったため)を超過した陸軍を整理し、落ち着いた頃の収支
多重債務による利子の支払いと(必要のない*32)汚職対策のせいで陸軍維持費を最低にしていても赤字だった
この後包囲網解除戦を予定していたので、要塞をMathballしていなかった点も一因となっている
1613年8月 Luneburg個別講和(同盟・ライバル破棄+金銭)
1613年9月 ザンジバルノードで貿易会社を設立しKISMAYO州を組み込む
1614年2月 イベント"Poor_Government_Policies"発生。暫く(実際には永遠に)政府改革の予定はないので 政府改革進捗度-25を選択
1615年2月 Somaliを受容文化に昇格。Mughals化すれば必要なくなる(と当時は思っていた)がこの頃は君主点に困っていなかった
軍事点が溢れそうだったので将軍ガチャ。FireやShockの高い将軍は1人か2人居れば十分なのでSiegeの高い将軍が欲しかった
Siege5が出るまで粘るつもりだったが、4が複数出たので妥協。
結局Siege4の3人とFire+Shockの高い2人、追撃用に機動5(一番上の"Goal_Oriented"持ち)を残した*33
1616年5月 Bremen個別講和(完全併合)
終戦(ペンを握らなければ_平和は訪れない____ペンを握ったままでは_平和を噛み締められない_)
包囲網が広がりいつ懲罰戦争をしかけられてもおかしくない状況。BREACH!!(突破せよ!!)
やっと戦争が終わったので各州の自治度を下げる
3年前に国中を占領した反乱軍の要求を受け入れた(自治度+20%、10年間州不穏度-100)ばかりなので
殆ど全ての州の自治度を下げることができ、絶対主義が一気に56まで上昇した
1616年5月 Beja・Jimma・Jangladesh・Mewar・RyazanがNajdの朝貢国になることに同意
1616年5月 Great_Britainと同盟。Spain(同君連合でPortugalを従えていた)やFranceなど植民国家との戦争時の活躍を期待
1616年5月 属国Lithuaniaにユダヤ教の2州を下賜し、Lithuaniaの国教であるカソリックへの改宗(維持費0)を試みる
前述のとおり属国内で狂信者反乱を起こす計画は失敗したため、この試みは無駄に終わった
領土
中東等で領土が広がった結果多少マシになって、糸から紐ぐらいにはなった*34
外交
同盟 Ottomans,Afghanistan,Chagatai,Delhi(元Jaunpur),Silesia,Venice,Great_Britain(外交枠超過+2)
属国 Lithuania
朝貢国 9国
宗教
カソリックを信仰する欧州国はSpain・Denmark・The_Papal_STATE(+Lithuania)の3国まで減少
よく見るとROMAもプロテスタントになってしまっている。実に恐ろしきは宗教改革なり*35
その他
いかにも 通 名 な 元 セガ 社員 が 5 ち ゃ ん ね る 運営 に 関わ ってい て
NG ワー卜.゛ など いたずらに 設定 して 私 物 化 している から という 噂 がある けど 本当 だろうか
また 南 人 彰 は PS2 で 出た セガエイジス 2500 版 ア 卜.゛ バ ン ス 卜.゛ 大 戦 略 の 開 発 時 に
「 警察 に 被害 届 を 出す 」と 最後 通告 を 言われ 観念 して ようやく 姿を 現した 時も
当時の セガエイジス 担当 に 逆恨み を し、彼に 恥を かかせる 目的で マスター ロムに ゲーム にならない 致命的な
欠陥 プログラム を 故意に 入れて 渡した 容疑も かけられている といった 社会人 以前に 人間的に モラル の 欠けた 人物 である。
極め つけ は 第 二 次 世界大戦 を 背景 にした 大戦略 「 大東亜興亡史 」 を 本家 本元 の システムソフト が 発売した 事 だろう。
大戦略 が システムソフト の 商標 である 事を 知りつつ、上記の 欠陥品 騒動 で 大戦略 の ブラン卜.゛ に 泥を 塗って おきながら
「 自分の 縄 張 り が 侵 さ れ た 」 「 裏切られた 」 など と 勝手に 逆 恨み を 覚え
ゲーム が 作れ なく なって から の 1 5 年 の 空白 を ろく に 働き も せず 2 ち ゃ ん ね る ( 現 5 ちゃ ん ね る ) で ずっと
システムソフト の 前田 と 呼ばれる 社員 や セガ 社員 を 攻撃 し 続 け、
実際 5 ち ゃ ん の ゲ ー ム 関 連 ス レ で
「 株式会社 チ キ ン ヘ ッ 卜.゛ の 南 人 彰 」や 共犯 と される「 すず き 卜.゛ イ ツ 」 これらの 名前を 書くと
一発 NG で B B Qされて 保護 されてしまう。
ところが、南 人 彰 は サンダーフォース6 の 開発者 だった岡野哲 という 人物 を 執拗 に 誹 謗 中 傷 している 事 でも 有名 で
「 岡野哲 」や それら に 関する 誹 謗 中 傷 文 は どんなに 書いても 決して NG にされたり はしないのである
犯人 は
と 断定 せ ざ る を 得 な い