AAR/シャヤカ帝国興隆史
前回:第二話 大植民時代の幕開け
第一次紗葡戦争において大きな成功を収めたシャヤカ帝国はポルトガルの属国化のため再度のポルトガル侵攻を計画していた。ポルトガルとの和平期間が終了した1606年、シャヤカ帝国は再びポルトガル王国に宣戦布告した。この14年の戦間期にポルトガルは北アメリカでの更なる植民活動を続けていたためその主な戦闘は、ヨーロッパではフランス対カスティーリャ、北アメリカではシャヤカ帝国対植民地国家の体を成した。
その戦域は大西洋沿岸全域に及んだためこの戦争を差して大西洋戦争と呼ぶ時もある。戦局はその軍事力の差から終始シャヤカ帝国有利に進み戦争はわずか2年半で終結した。この戦争の結果シャヤカ帝国はポルトガルを属国化し、北アメリカ大陸に侵出している欧州勢力の一つを削ぐことに成功した。なおシャヤカ帝国はフランスとの外交関係維持のためフランスが領有権を主張していたカスティーリャの州を譲渡した。
交戦勢力 | |
シャヤカ帝国 | ポルトガル王国 |
フランス王国 | カスティーリャ王国 |
イングランド王国 | |
戦力比較 | |
170,000 | 104,000 |
第二次紗葡戦争によりイベリア半島での勢力圏の拡大に成功したフランス王国は1616年更なる勢力圏拡大のためアラゴン王国に宣戦を布告した。フランスの参戦要求を受けたシャヤカ帝国はこの戦争に参加したが、その参戦はあくまでフランスとの同盟を維持するための形式的なものであった。フランス軍は瞬く間にアラゴン王国全土を占領し、この戦争はわずか1年で終結した。
第二次紗葡戦争の結果北アメリカに残る勢力はシャヤカ帝国、フランス王国、イングランド王国、カスティーリャ王国の欧州勢力とインディアン諸部族のみとなっていた。シャヤカ帝国は北アメリカ統一に向けて残るインディアン諸部族の集落を順次併合していき、1629年までにはイロコイ族を除く全ての先住民族集落を征服した。ここでは第二次紗葡戦争終結から1629年までのシャヤカ帝国によるインディアン諸部族の征服活動を列挙する。
第二次紗葡戦争によりポルトガルを属国化したシャヤカ帝国は1620年にその外交併合を開始し、1621年にはポルトガルの全土はシャヤカ帝国に併合された。これによりシャヤカ帝国は本土からアステカ帝国を隔てて中部アメリカ一帯を直轄統治することとなった。シャヤカ1世はこの飛び地と本土を直結させるべく更なるアステカ帝国への侵攻を模索したといわれている。
ポルトガルを併合したことによりポルトガルが北アメリカに有していた植民地国家はシャヤカ帝国に移譲されることとなった。この植民地国家が1626年、同じく北アメリカに位置するカスティーリャの植民地国家に対して宣戦を布告。これを援助すべくシャヤカ帝国、カスティーリャ王国両国が介入し、第一次シャヤカ=カスティーリャ戦争が勃発した。シャヤカ帝国は北アメリカ戦線では圧勝したものの、大西洋の制海権は未だカスティーリャにあったために本土上陸は敵わなかった。しかしシャヤカ帝国との同盟を執行したフランス王国の参戦により戦況はシャヤカ帝国優勢に傾き、カスティーリャは北アメリカに持つ植民地国家の領土の大半を割譲することで降伏した。
第一シャヤカ=カスティーリャ戦争の最中、フランスは対オスマン帝国の戦争に巻き込まれていた。この参戦要求を受けたシャヤカ帝国はフランスと共にオスマン帝国との戦争に乗り出すこととなる。当初戦局はオスマンの優位に傾いていたが、シャヤカ=カスティーリャ戦争の終結によりフランス全軍がバルカン半島に集結し、オスマン帝国軍はフランス軍の高い士気の下に敗れた。フランス王国はこの戦争の勝利により地中海世界における最強の陸軍国家の立ち位置を確固たるものとした。
北アメリカに存在したインディアン諸部族の集落をイロコイ族を除いて全て征服したシャヤカ帝国はその矛先を南部国境へと向けた。1639年、シャヤカ帝国は中部アメリカに持つその飛び地と本土を連結させるべくアステカ帝国に対して宣戦を布告。ここに第二次アステカ戦争が勃発した。
この戦争はシャヤカ帝国の圧勝に終わりシャヤカ帝国の