AAR/コルシーニ家の人びと

その子どもはイタリアのトスカナ共和国のフィレンツェで生まれた。戦火絶えぬイタリアでのこと、彼はすぐに孤児になった。
孤児院の院長はその子どもを、ジアムバティスタ・バルベリーニ Giambattista Barberini と名付けた。
なんとも長ったらしい名前である。孤児院の子どもたちは皆、そういう長い名前を持っていた。
院長は、名前がこのようであれば、その人生もまた長命であろうと信じていた。
だから彼は、その子どもに、ジアムバティスタ・バルベリーニという長い長い名前を付けたのだった。

フィレンツェ時代

ss2.png

トスカナ共和国の元首コジモ・メディチ

トスカナ共和国の元首はコジモ・メディチ Cosimo de Medici という男だった。
コジモは元首としての活動のおり、たまたまある孤児院を視察に訪れた。
そこでコジモは利発そうな少年が彼に訪問歓迎の意を読み上げるのを聞いた。
コジモはこの少年の祝辞に大いに感嘆し、彼を孤児院から引き取り、教会できちんとした教育を受けさせようと思い立った。
孤児院の院長にはもちろん異論はなかった。コジモは院長に、「この少年の名前はなんというのだね」と尋ねた。
「ジアムバティスタ・バルベリーニです。」
コジモはちょっと面食らって、こう言った。「長いな。バチスタと呼ぼう。」

バチスタのこの逸話から、彼をコジモの庶子であるという噂がバチスタの生前から絶え間なく流布されている。
真相はわからない。
いずれにせよ、バチスタがフィレンツェの教会で正規の教育を受けることになったのは、彼の人生にとってコジモの気まぐれが大きな転換点になったことを指し示している。

枢機卿

コジモの死後、トスカナ共和国は血で血を洗う内乱の時代を迎えた。
農民蜂起、貴族の反乱、そして無数の王位僭称者が内乱をおこし、15世紀後半のトスカナ共和国は疲弊していた。

いまや教会の若き司祭となっていたバチスタは、このような疲弊したフィレンツェを脱出して、もっと自分の才覚をいかせる場に身を置きたいと望んでいた。
彼がコジモ・メディチの隠し子だという噂はこの場合、バチスタにとって有利に働いた。
メディチ家の財産に食指を伸ばしていたときのローマ教皇が、バチスタを枢機卿に取り立て、教皇領の財産にそれを加えようとしたのだった。
バチスタは枢機卿となり、フィレンツェを亡命してローマへ向かった。トスカナ共和国におけるメディチ家の支配は既に終焉を迎えていた。

教皇庁の将軍

バチスタは軍事の才能があった。
彼はいわば天才的な軍事指導者(注:のちに記すが、彼は陸軍伝統100の将軍である)で、教皇庁のローマ方面軍を任され、「教皇の剣Sword of the Papa」と呼ばれていた。

ローマ教皇はたびたび彼に囁いた。「私はアンコーナが欲しい。」

アンコーナを支配しているのはウルビノ公爵のモンテフェルトロ家である。
ウルビノ公爵は狡猾で、いちプロビ国家である自分たちの身の丈をよく知っていた。
そのためアラゴン王国の独立保証とミラノ公国との同盟によって外敵の侵略を牽制し、この戦火絶えぬイタリア半島での生き残りを図っていた。
1456年、フェデリコ3世モンフェルトロ公爵の死後、9歳の息子が母親の摂政のもとに公爵位に就いた。
この母親の名前をマリア・コルシーニという。もとはアンコーナの田舎貴族で、その美貌からフェデリコ3世に見初められて公爵夫人と相成った。
彼女は彼女の若き弟とともにアンコーナを統治し、引き続きアラゴンとミラノの庇護のもと、独立不羈を保っていた。

ローマ教皇はバチスタに囁く。「だが私はアンコーナの請求権をもっていない。」
教皇の話はこういうことだった。だからバチスタをウルビノ公国のアンコーナに派遣し、教皇領の請求権を捏造してもらいたい。
当惑していたバチスタは、結局アンコーナ行きを了承した。いかんせん彼は野心家だった。
教皇庁の剣というだけの自分に満足せず、これを機会に、自分がアンコーナの領主になってやろうと考えていた。

バチスタはわずかな供回りの者を連れてアンコーナに向かった。1458年のことだった。

ウルビノ公爵

ss3.png

foreign military expert.

ウルビノ公爵の摂政であるマリア・コルシーニとその弟オッドアントニオ・コルシーニは「教皇の剣」が自分たちの懐刀になってくれるということをお人好しにも歓迎した。
わずか6万ダカットの支度金で、陸軍伝統値100の将軍が自分たちのものになるのである。受け入れない理由はなかった。

バチスタはすぐさまウルビノ公国の陸軍不要限界まで達した全兵力、5連隊5000人の軍隊を掌握した。
未成年のモンフェルトロ家の公爵は、わけもわからず、この逞しい身体つきをした客将にたいして丁重に礼を尽くした。
「ローマよりの長旅、大儀であった。」
バチスタはこの子どもの前で跪き、宮廷の面子を値踏みした。
ウルビノ公国の宮廷にはこの子どもの公爵と、摂政の母マリア・コルシーニしかいなかった。
ヨーロッパの中堅国以上の国ならどこでも擁しているであろう、顧問はこの国にはいない。毎月の給金が支払えないためだという。
だからバチスタはすぐにこのウルビノ公国における重要人物の一人になった。陸軍伝統値100の将軍は、公国の暴力装置を一手におさめていまかいまかと機会を窺った。

バチスタは魅力的な男だったから、すぐにマリア・コルシーニと懇ろになった。
マリアはビロートークでバチスタに囁いた。「私はこのウルビノ公国の支配者よ。」
「だから私は、この権力を永遠に私たちのものにしたいの。手放したくないのよ。あなたがここに来たのは私たちにとって幸運だったわ。私たちにちからを貸して頂戴。」

マリアがバチスタの子どもを身籠った頃、バチスタは彼女の弟のオッドアントニオと語らってモンテフェルトロ家にたいしてクーデタをおこした。

ss4.png

Local Pretender Rises!

幼いモンテフェルトロ家の公爵は、オッドアントニオの反乱を知ると哀れにもバチスタに非常呼集をかけた。
だが当然、バチスタはいない。彼は事象eventの勃発を知ると、ナポリ公国に陸軍通行許可をもらってナポリ領に指揮下の陸軍とともに退避していたのだ。

1461年、アンコーナ城は陥落した。

ss5.png

コルシーニ家の支配、はじまる

オッドアントニオはいまやウルビノ公爵を称し、姉のマリアとともにアンコーナを支配し始めた。

バチスタの野心はとどまるところを知らず、 今度は自分自身がウルビノ公爵になりたいと考えた。
そのためにはオッドアントニオとマリアが邪魔である。彼は乱暴にも手勢を率いてアンコーナ城に押し入り、この二人を弑してしまった。
マリアは生まれたばかりのバチスタとの赤子を抱いて、バチスタに懇願した。「この子だけはどうか、命を助けてください。」
バチスタはせせら笑って言った。「ぼくは孤児の出で、きみはまがりなりにも貴族の出だ。」
「この国の貴族たちを納得させるにはきみの血縁の後継者が必要だ。そうとも、ぼくはこの子を生かすよ。きみたちの後継者としてね。そしてぼくがこの子の摂政となるのだ。」

オッドアントニオとマリアは死んだ。
バチスタはマリアの子の後見人として、摂政として、ウルビノ公爵を自称し、アンコーナを支配するに至ったのである。

ss6.png

当時のウルビノ公国の宮廷タブ。摂政としてバチスタが支配している。

いまやバチスタは得意の絶頂だった。

イタリア戦争

1462年に権力を掌握したバチスタは、摂政兼将軍としてウルビノ公国をじつに気持ちよく支配した。
1464年には7000人の文盲の農民が徒党を組んで反乱を起こした(農民反乱のイベント)。これをバチスタは騎兵1000を含む5000の寡兵でもって鎮圧する。
「お前だって孤児の出じゃねえか。なぜおれたちに重税を課し、支配者づらをしてそうやってそこでふんぞりかえってやがるんだ」
農民たちは口々にこう言ってバチスタを難詰した。バチスタは打ち破った農民指導者たちを処刑してこれに報いた。

この農民反乱はかのイタリア戦争の契機となった。
農民戦争で疲弊したウルビノ公国に対して、ローマ教皇が宣戦布告を行ったのである。

教皇庁は騎兵3000を含む7000の軍勢をアンコーナに差し向けてきた。
対するウルビノ軍は5000の疲弊した軍勢で迎え撃つ。
バチスタは言った。「相手の将軍は誰だ?」
教皇庁の将軍は傭兵隊長"グレゴリウス"・グラドという男だった。
「あいつか。」バチスタは教皇庁時代を思い出してせせら笑った。「あんな無能に兵を任せるとは、教皇庁も随分人手不足らしい。」
バチスタ率いるウルビノ軍は、ナポリ公国の援軍を得て、教皇庁の軍隊を粉砕した。教皇庁の軍隊はロマーニャに退却し、そこで全滅している。

ss7.png

1465年3月12日のたたかい。

グレゴリウスの首級を傍で掲げさせ、バチスタは喝破した。「ローマ教皇のウルビノ征服という野心はここに打ち砕かれた。私たちはこれを機会にロマーニャを征服する。」
だが事態はバチスタの思惑を超えて進行していた。
ウルビノ公国は教皇庁の宣戦をうけて、自動的に同盟国であるアラゴンとミラノを参戦させた。
そこで戦争指導国はいちプロビ国家であるウルビノからミラノ公国に移譲され、しかもそのミラノ公国は彼らと同盟していたフランス王国に参戦依頼を提出した。
フランス王ルイ11世はこれがイタリアにフランスの覇権を確立する最初の機会であると踏んでいた。フランスが参戦し、戦争指導権はフランス王国にさらに移譲された。

ss8.png

イタリア戦争。

フランス王国とその傀儡であるフランス諸侯国の同盟軍10万がイタリア半島に雪崩れ込んできた。
1465年3月にはじまった戦争は、10月には勝敗が決した。教皇庁は降伏した。
ここでフランス王は、子分のミラノ公爵にモデナ市を与え、教皇庁はフランス王に敗北を認めることによって講和を認められた。

ウルビノ公爵バチスタはなにも得るところがなくイタリア戦争を終え、愕然としていた。

落日のとき

バチスタは将軍としての才覚はあったが、統治者としての才能はあまりなかったようである(摂政としての能力は2-0-3だった)。
他方、バチスタとマリアの子どもである継承者のフェデリゴFederigoは能力値5-2-6の優秀な君主としての才能の片鱗を、年齢をかさねるごとにウルビノ公国の貴族達に見せつけるのだった。

だから、若いフェデリゴが長ずるにしたがって貴族たちのバチスタに向ける視線が徐々に冷たくなっていくことは必然だった。
バチスタはフェデリゴが15歳になって元服すると同時に、自分が隠居させられることに恐怖をおぼえはじめていた。
農民反乱をまねいた苛烈な支配、教皇の侵略をさそった拙い外交、何も得るところがなく終わったイタリア戦争。
バチスタの治世の評価は芳しいものではない。だからバチスタはますます焦って、できればフェデリゴをすら除いて、空位時代を経て自分の権力が永遠に確立できないものかと考えていた。

1473年、アラゴン王が婚姻締結交渉妥結のすえ、正式にウルビノの従属化を要求してきた。
バチスタはアラゴン王女と結婚して、フェデリゴを除き、あたらしく(自分より無能な)継承者を生むなりなんなりして、自分の支配がすこしでも長くなるように画策した。
独立不羈をもとめるウルビノ貴族たちの逆鱗に、バチスタはこうして無遠慮に触ってしまったのだ。

ss9.png

バチスタは死んだ。

バチスタの首は独立派の貴族たちによってアラゴン王のもとに送り届けられ、アラゴン王はウルビノ公国がけっして他国に従属する意思をもっていないことを知ったのであった。
梟雄バチスタはその波乱の生涯をこうして終え、あたらしくコルシーニ家のフェデリゴの時代が始まる。

(続く)


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS