オランダの侵攻を受け、幕府はオランダに対して全面降伏の姿勢を見せていたが、幕府諸藩の多くは鉄蹄抗戦の意を示していた。これを平定すべく1750年オランダは再度の日本侵攻を決定した。この戦争の結果、日本は中部・東北地方のほぼ全てを失い、関東近隣を残すのみとなった。
日本列島のほぼ全域を直轄の統治下に収めたネーデルラント帝国であったが、北海道は未だにポルトガルの勢力下にあった。シャヤカ1世はポルトガルとの戦争と北海道の早期回収を望んでいたが、ポルトガルはオーストリアと強固な軍事同盟を結んでいたためこれは長く叶わなかった。しかし1757年、ポルトガルとペルシアの軍事同盟の締結の知らせを聞きつけたシャヤカ1世はホルムズの奪還を大義名分にペルシアに対して宣戦を布告した。この戦争はスペイン・フランス、オスマン=イエメン連合が両陣営に組する大戦争に発展したが、オランダ軍はホルムズへの強襲上陸を成功させたのち各所での戦闘で勝利を重ね、ついに1760年、ポルトガルから北海道全域の割譲とペルシアからホルムズの割譲を要求し和平した。
日本列島の統合に王手をかけたネーデルラント帝国であったが、立て続く対外戦争によりその軍事力は疲弊していた。さらにオランダ主力軍はインド洋・日本列島に展開されていたこともあり本国が手薄になっていた。この機会を見逃さなかったオーストリア・ロシア率いる神聖ローマ帝国連合軍は1761年オランダに対して宣戦を布告した。オランダ本国は瞬く間に帝国軍に占領され、1763年に神聖ローマ帝国に対して全面降伏することとなった。この戦争によりオランダはネーデルラント17州の内5州を残しオーストリアへ割譲、インド洋に持つ植民地の大半の放棄を義務付けられた。
北海道全域を勢力圏に加えたオランダは1774年残る日本領土全域のオランダへの統合を宣言した。極東での宗主国を冠する明はこれに反対し同年に蘭明戦争が勃発した。オランダは広州から明本土への侵攻を開始し明軍を各個撃破して着実に戦勝を重ねていった。そして1778年明はオランダに降伏し、ネーデルラント帝国は日本列島全域の直轄統治を実現した。シャヤカ1世は自身の植民地帝国を「太陽の沈まない国」と称賛したが、先の戦争での大敗からその植民地で確固たる統治を行えていたのは日本列島のみであったため各国には「太陽が昇りながら沈む国」と揶揄された。
極東政策を完遂したシャヤカ1世はオランダ国民たちの嘆きと自由への渇望に応え、ついに自ずから戦場に出向くことを決意した。1783年シャヤカ1世は全ネーデルラント帝国軍をユトレヒトに結集させこれを率いてオーストリアに対して宣戦を布告した。フランス・スペインは対ハプスブルクを名分に再びネーデルラントを支援し共闘した。
シャヤカ1世は実際に前線に立ち戦闘に参加することはなかったが、「我が国の皇帝陛下がこの戦場で共に敵兵と対峙している」という感情はネーデルラント帝国軍の士気を大いに上げた。ネーデルラント・フランス・スペイン連合軍は神聖ローマ帝国軍を神聖ローマ帝国国境の各所で撃破していった。そして1788年、ついにオーストリアは全面降伏し、オーストリアの持つネーデルラント州は全てネーデルラント帝国の下へと編入されることとなった。