AAR/オラニエの交易自習室

第一話 早すぎたオランダ独立戦争 (1444-1500年)

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もくじ

はじめに

y.jpg はーい。朕のゆっくり交易教室始まるよー。朕みたいな天才目指して頑張ってってねー。

w.jpg 知らないネタは使うものではありませんぞ閣下。存じ上げない方のために、私はネーデルラント連邦共和国の初代総督でありますオラニエ公ウィレムと申すものです。

y.jpg 今回のプレイはオランダプレイでしか解除できない2つの実績と、ついでに植民地帝国らしい実績をできるだけ取ろうって感じのプレイだよー。朕は交易については未だによくわかってないからもっぱら読者の皆様からの意見を聞きたいがためのAARだよー。

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図の水色線を境に北部7州、南部10州と分けます

y.jpg あとそれからこれは少し大事な話。実際のネーデルラント17州の名前とこのゲームでのプロヴィンスの名前が若干違うけど17州という数は同じだよ。そこで数に重きを置いた朕は史実では南部10州に含まれるけどアントウェルペンを北部に含めて無理やり便宜上7、10に分けてるよー。北部6州、南部11州とかいう言葉を使いたくないがためです。許してちょー

w.jpg もうメタいとかメタくないとか関係なさそうですね・・・

y.jpg そんなこと気にしてたら生きていけないよー。あと文語というか説明文的な書き方は受けが良かったのか悪かったのかよくわからないからもう少し砕けた書き方をしていこうかなーとか思ってたりーしてー。それじゃあ早速やっていこうか。ゆっくりしていってね!

ユトレヒトの台頭

ユトレヒト=ゲルデルン戦争(1445-1446)

 1444年11月11日、かの生き物は突如として現れた。ここはベネルクス地域の小さな都市の一つユトレヒト。かの生物は皇帝を自称しユトレヒトの教会に登りこう叫んだと言われている。

y.jpg 「朕の植民地帝国実現の夢の第一歩として東隣のゲルデルン公国に宣戦するよー」

 ユトレヒトの市民は困惑した。だがいつの世にも無謀な愚か者はいるものだ。初めはごく少数の者たちが賛同するのみであったが、フリースラントとの同盟締結も後を押して次第にこれはユトレヒト中に波及し、1445年には5000人の志願兵を募るに至った。そしてついにユトレヒトの市民はゲルデルン公国領の旧領奪還をその名分としフリースラントと共にゲルデルン公国に攻め入ったのであった。

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交戦勢力
ユトレヒトゲルデルン公国
フリースラント
戦力比較
8,0003,000
105
戦争の結果
・ユトレヒトがゲルデルン公国を併合

第一次ブルゴーニュ侵攻(1451-1454)

 ユトレヒトの民衆は白熱していた。ゲルデルン公国に対する勝利は全ユトレヒト市民を歓喜させ、やがて低地地方の統一を謳う者も増えてきた。しかしこのシャヤカ=ハーンと名乗る生き物は狡猾であった。

y.jpg まだ朕のユトレヒト一国でブルゴーニュと戦うことはできないよー。同じくブルゴーニュを敵対視する南の大陸軍国フランス様と同盟するよー。

 ユトレヒト市民はまだこの不思議な生き物を完全に信頼しきってはいなかったが、ベネルクス統一へと向けてフランス王国との同盟をこぎつけたのであった。そして時は流れ1451年。フランスがイングランドとの百年戦争を終結させたとの知らせを受けたユトレヒト市民は直ちにフランスと共にブルゴーニュ公国へと宣戦を布告した。長くブルゴーニュ公との関係を保ってきたフリースラントはこのユトレヒトの動向を見るとユトレヒトとの同盟を破棄しブルゴーニュを擁立した。しかしこれもシャヤカ=ハーンにとっては計算の内であったのだろう。1452年にフリースラントを占領するとこの地域一帯をユトレヒトへと組み込んだのであった。一方そのころフランス軍は次第に北上を始め、ブルゴーニュ軍を敗走させ続けていた。シャヤカ=ハーンはこの勝利をあたかもユトレヒト軍のものと言わんばかりに言い広め、ユトレヒト軍の士気を高めて無人となったブルゴーニュ領を着々と占領していった。そして1454年、ユトレヒトはブルゴーニュからホラントとブレダの2州を割譲させ和平したのであった。この戦争は低地地方で最も強大な勢力であったブルゴーニュ公国を破ったことからユトレヒト市民の低地地方統一の信念を確かなものとしたが、同時にこの拡大を恐れた周辺国が警戒を始めるようになったきっかけでもあった。

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交戦勢力
ユトレヒトブルゴーニュ公国
フランス王国フリースラント
ハンガリー王国
アーヘン
クリーヴズ
戦力比較
49,00082,400
93
戦争の結果
・ユトレヒトがフリースラントを併合
・ブルゴーニュ公国がユトレヒトにHolandとBredaを割譲
・ハンザ同盟、リガ、ミュンスターによる対ユトレヒト同盟の形成

第一次ユトレヒト懲罰戦争(1456-1459)

 ユトレヒト市民は彼らの勝利に酔っていた。当然ではあった。何故なら当時低地地方で最大の勢力を誇っていたブルゴーニュ公国を打倒したのであるのだから。しかしこの勝利はフランス軍の活躍ありきであったことを知る者はほとんどいなかった。1456年、このユトレヒト市民の甘い幻想を打壊す出来事が起こった。ハンザ同盟とリガがユトレヒト懲罰を掲げ侵攻を始めたのである。当初ユトレヒト軍はリガ軍、ミュンスター軍を殲滅しその領土を占領する勢いを見せたが、ハンザ同盟軍が越境を始めるとその優勢も次第に崩れていった。ブルゴーニュ公国がフランス軍の通行権を許可しなかったためにユトレヒト軍は単身でハンザ同盟軍と対峙しなければならなかったからである。さらにこの戦争の主導権がフランスにあったのも災いした。フランスはリガ、ミュンスターと個別に和平しそれぞれの領土をユトレヒトに割譲させたのであった。このことはさらに周辺国の警戒心を強めついにはオーストリア、ベーメン、ファルツまでもが対ユトレヒト大同盟に加わった。この戦争はフランスが敗北を認めることで終結した。

交戦勢力
フランス王国ハンザ同盟
ユトレヒトリガ
ミュンスター
戦力比較
59,00019,500
93
戦争の結果
・ユトレヒトがリガを獲得
・オーストリア、ベーメン、ファルツが対ユトレヒト大同盟に加入

第二次ユトレヒト懲罰戦争(1463-1465)

 しかしユトレヒトの苦難はまだほんの始まりに過ぎなかった。1463年、時の神聖ローマ皇帝であるオーストリア大公国が対同盟を率いてユトレヒトに宣戦を布告したのである。ユトレヒト市民は大きく動揺した。神より戴冠されし神聖ローマ皇帝の怒りを買ってしまったからだ。しかしシャヤカ=ハーンは言い放った。

y.jpg フランスに任せよう

 ユトレヒト軍は一切の戦闘を行うことなくこの戦争は1465年にオーストリアが負けを認めることで終結した。この戦争でのオーストリアの敗北を見てユトレヒト市民は神聖ローマ皇帝に代わる新たな権力者を自国に求めるようになった。

交戦勢力
フランス王国オーストリア大公国
ユトレヒトベーメン
ミュンスター
ファルツ
CENTE:戦力比較
59,30049,800
149
戦争の結果
・オーストリア大公国の敗北

第二次ブルゴーニュ侵攻(1466-1469)


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