ドイツを犠牲にした偽りの世界平和…それに一人のドイツ人が抗議した
1741年12月4日、オマーン領フォアポンメルン、ロストックにて
オマーン帝国皇位継承者Muhanna Nabhanが銃撃、暗殺された。
問題だったのは暗殺者がオマーン臣民ではなくドイツ人でドイツ臣民だったことだ。
これを現行犯逮捕した後、その支援者の捜査協力・反オマーン的な言論の規制を
ドイツ政府に要求するにつき、オスマン帝国に相談したところ
"イスタンブールはマスカットの全てに協力する"と返答を得た。
オスマン帝国は去年のドイツのハンガリーへの拡大を快く思っておらず
今回の問題が仮に戦争に発展しても都合が良いとすら考えていた。
しかしドイツ三十年戦争を経て西欧のパワーバランスが変化した18世紀に
嘗てのようなオスマン帝国の拡大を座視する三国同盟ではなかった。
12月11日スペイン・スカンディナヴィア・トスカーナ三国同盟は
オスマン帝国にドイツの保護を通告
12月18日ドイツは動員準備開始
12月23日三国同盟との戦争を見据え地中海にオマーン海軍が結集
12月25日英国はオスマン帝国へ支持を約束
12月26日三国同盟・オスマン・英国は総動員を発令
12月30日オマーンより最後通牒、ドイツ政府は黙殺
1742年1月1日オマーン・オスマン両帝国はドイツに宣戦布告
これに対して三国同盟、オスマン帝国に宣戦布告
英国、オスマン帝国との同盟に基づき三国同盟に宣戦布告
世界平和は一世代も持たず、若者たちは父や祖父と同じように戦いに向かうのだった
プレーが長引き3ヶ月に入ろうとしていたため1821年まで完走するのではなく
2回のプレー、それぞれにつき戦争を行うことで終了することに投票で決定した。
最終戦争については以前揉めたことが合ったので、てっきりGMが陣営を決めるものかと思いきや
各国の自由外交で・陣営主すら決めないという戦争そのものが流れかねない条件になっていた。
また、条件として最終戦争以前の条約・外交関係に関して全て無効になるというものがあり
争う理由が全くない中で国と国が同盟することは不可能に思われた。
…ともあれOmanとしては、諜報アイデアを持ってるGermanyと同じ陣営に入ることは必ず避けることと
接する国境が長く、ランドパワーに圧倒的差のあるOttomansとは戦いたくない程度に
陣営分けへの下地は一応あった。
Ottomansも同様に圧倒的な海軍力のOmanを敵に回すとアジアで延々嫌がらせ的
上陸を喰らうため、Oman・Ottomans間では比較的早い段階で同盟を再締結
上の理由でGermanyとは相容れないことをOttomansに伝えたところ、Germanyを主敵とし
その上で他の国へ味方につくか敵につくか判断させることにした。
結果SpainがOttomansと戦ってみたいと表明しそれにTuscany・Scandinaviaが続き
Great Britainは対してOttomans側で戦うと表明
Ottomans・Oman・Great Britain VS Germany・Spain・Scandinavia・Tuscany
という陣営分けに至る。
前者の盟主がOttomansなのは疑いようが無いが、後者の実質的盟主は
最も国力に優れるSpainだろう。
Great Britainがこちら側に来たのは意外であり、海上覇権はより強固ものになった。
一方で大陸領フランスは完全にSpain・Germany・Scandinaviaに囲まれることになる。
ロシアを失ってしまったのは本当にでかい…あぁ…
ロシアが残っていれば戦場はより分散しただろうが
このチーム分けだとバルカン・フランスにしか戦場が発生しないだろう…
戦争開始日を当日プレイ開始からゲーム内で15年後の1742年1月1日に設定
それまで各国はそれぞれの戦略を練りながら必要となる動員を済ませた
陣営分けは暗黙の了解となっていたが正式に公表されたわけではなく
VCでは敵味方関係ない会話が進められた
事後操作が面倒なので宣戦布告前に地中海に隙無く
封鎖用の海軍ユニットを配置しているとさすがに見つかり煽られてしまった。
Spain「お前オレと戦争する気なのか…?」 Oman「え…演習だから…(震え声)」
Ottomansはバルカン半島に軍を集中させ、Great Britainも海上輸送でそれに続いていた。
Great Britainは完全にフランスを放棄する形となっており
バルカンに兵が集中することはいささか不満を覚えたが
単独でフランスを守ることもできないだろうし、敵となるGermanyに
事前に通行権を得てOttomans軍をそちらに移動させることも無理な話だろう。
この世界大戦を遂行するにあたり、まず「対欧州戦原初プラン」に触れておきたい
これはRussiaが崩壊した時、対Ottomans十字軍が秒読みかと危惧し
仮に宣戦された時にどう動くかについて話し合ったものだ
原初プラン まず地中海の制海権をOmanが握ってることを前提として バルカン半島を防御し、不利なら首尾よく撤退後 キプチャク草原で再配置しここにて決戦 勝ったならバルカンを取り戻し 負けたらコーカサスで再度決戦を待つ
何時宣戦されても問題無いようシンプルで、動員・配置に
無理のないプランを想定した
バルカン半島は占領されても(CB点を除いて)せいぜい戦勝点+5点程度にしかならないこと
Ottomans経済にただちに影響を与えないことをOttomansも認め
早期に焦土化し撤退することも視野に入れた
さて、1742年の戦争はどうするべきだろうか?
重要なのは事前に十分な準備ができること、
そして味方としてGreat Britainの参戦が確約されていることである。
Ottomans精鋭150万をバルカンに集中できること、
そしてGreat Britainもバルカンに派兵する中で撤退戦をするのは政治的にマズい
そもそもバルカンに大して兵を派兵しないOmanが強く撤兵を主張できず
不利になったら即座に撤退すること、それを想定して
整然とした撤退を事前に想定しておくことを指摘するにとどまった
敵はアルプスに籠ることが推知され、ドナウ方面の前進はその程度に抑えるべきであり
ウクライナ・ポーランドまで横に前面を伸ばすことも主張した
結局のところ、こちらが質・量ともに劣勢のこの戦争において敵領内では
敵が一層に集中ポイントを選べ迅速に突破できるので、
わざとOttomans・Great Britain軍を分散させ(わざと相手に突破させ)
表立って主張できない撤退を侵攻作戦に内在化させようとした
また、海軍についてバルト海がGreat Britain、地中海をOmanが担当することで合意した
推奨BGM
1742年1月1日…外交官たちの平和に向けた努力は全て失敗し、最悪の日を迎えた。
直前にスパイアイデアで敵配置を確認しオーストリア方面に厚いことを確認した
そのためこちらから攻め込むのではなく敵軍の侵攻を待ち構えることに変更
事前海上封鎖を受けSpain海軍はダンツィヒに脱出していた
イギリス海軍単体では勝てない相手であり
Oman海軍を派遣してバルト海を封鎖する
なぜかScandinavia海軍はゴトランドに停泊しておりGreat Britain陸軍が強襲上陸
Scandinavia海軍を港から追い出しゴトランド沖で海戦
Scandinavia海軍は逃走しダンツィヒに逃げ込んだ
UK「ちっ…逃げられたか」
強襲上陸を恐れたのかScandinavia・Spain陸軍は海岸沿いに再配置された
(画像はScandinaviaにプレイ後に頂きました。ありがとう!画像作成の手間が減った!)
戦闘が起きないまま1年が経ったため戦闘を起こさない範囲での進軍に合意
オーストリア・スロバキアで前線は膠着した
Oman軍を右翼に配置し敵の攻撃を誘ったが、全く陸上戦闘が起こらず開始から2年を終えた
Oman「絶対に攻撃するなよ!」 Germany「絶対に攻撃するなよ!」
戦争目的がプロビンスの獲得でなく戦争に勝つことそのものである以上
純粋に有利な戦闘をひく(有利な地形で待ち続ける)ことが正しい戦争遂行になっていた
ハンガリーやポーランドをOttomans軍が包囲してる反面
Great Britain領フランスはSpainに包囲されていた
Spain軍はバルト海・アルプス・フランスに分散しており…あれ?
Oman「Spain本国がら空きじゃないか…」
新規徴兵中の連隊規模のSpain軍を蹴散らし
マドリードへ100kで突撃、ただちに占領した
同時期にフランスを占領し終えたSpain軍は急ターンし
この討伐に来たがさっさとマドリードを放棄してバレンシアで回収した
この事態を重く見たのかSpain本国にも80k程警備兵が置かれるようになった
また、地中海にSpain船がいないのを見てGreat Britainは交易船を
セビリアノードに大量派遣し準海賊行為に出ていた
Spain軍が分散したのを受けOttomans軍はポーランド方面で攻勢にでるが
Tuscany・Germany・Scandinavia軍の激しい抵抗を受けた
前面の将軍がついていない部隊が逆に喰われる事態に発展し
撤退を忠告、ふたたび1743年の前線に戻った
世界一の将軍はアメリカにいた!(画像は講和時のもの)
しばらく睨み合っていると、Germany軍がアメリカで(開戦前に移動していたのだろう)
AI植民国家軍を食い荒らしているとGreat Britainから通報を受けた。
そのGermany軍の規模自体は大したことなかったので
Great Britainに討伐を期待したが(兵を向けたら恐らく自主解散する)
欧州事情がそれどころではなくなった。
オーストリア・スロバキア前線で敵軍は全面攻撃に反転
将軍のいない部隊は早々に破られ、前線は崩壊し始めた。
ボスニア・ドナウ川ラインで立て直すが既に戦闘による戦勝点はマイナス40点に達してしまう
敵は攻勢に出ているため兵の配備が甘くなっており
フランドルの孤立したSpain兵40kにOman兵100kをぶつけるが
地形ペナルティ無しで負けてしまうという悲劇も起こる
Ottomans・Oman・Great Britain陣営には敗戦ムードが流れ始めた
フランドルで敗れたOman海兵隊を再編成(現地解散&新規編成)し、今度はシェラン島に上陸させた
シェラン島・スウェーデンはサウンド海峡が完全に封鎖されているため
敵の最奥地と化し、Scandinavia軍は前線に貼付いてるためがら空だった。
ここでOttomansが奇妙なことを主張する
1.戦闘による戦勝点がマイナスに振り切っている 2.占領による戦勝点は勝負に多寡を与えない 3.よって無理をしてでも優位な戦闘を起こす必要がある 4.ポーランド・バルカン方面軍をスカンジナビア半島に移し敵の混乱を誘う
3まではその通りなのだが4は突拍子もなく
スカンジナビアに行っても自分の首を絞めるだけじゃ…(敗北主義者並感)
しかしこれ以上戦闘による戦勝点がマイナスにいかないのも事実だし
一番の損害を被るOttomansに覚悟ができているなら…と言葉を濁すと
Ottomans軍は北方へ大移動を開始した
これぞ余ったマンパワーの使いどころ!と通り道のベラルーシ・ロシア・フィンランドも
突撃で占領し、Ottomans軍はスカンジナビア半島に移動した
これには敵軍も混乱しなかなか追撃に出れない
一方バルカン方面で敵軍は大攻勢に出て、主力を北方にうつした状態では勝てず
Ottomans・Great Britainは粛々と撤退し遂にはバルカン半島から追い出されてしまった
Great Britainはイスタンブールに反転し攻勢を仕掛け、これにOttomans軍もつづくが
上陸ペナルティ-3を受けまともな戦闘が出来ず721kで481kに敗退する記録的惨敗に終わった
この動きに気づいていればアナトリアからキプチャクへ回って
ルーマニアから攻め込んだ方が上策だと静止したのだが、
取り返しのつかない失敗に一敗地に塗れんばかりで非常に落胆した
また、Omanはスパイ役として交戦国に観光客を常駐させていたのだが
一回ばれるごとにprestigeが-15され遂にprestige-100の魔境に到達した
そしてOttomans領内の各地で反乱が起き、Great Britain領フランスに至ってはSpainが
反乱支援したためほぼ全土が反乱軍に包囲されたいた
バルカン半島は完全に制圧され、Great Britain軍・Ottomans軍はアナトリア半島に撤退した
Great Britainはマンパワーが完全に切れ陸軍面では再帰不能に陥っていた
Germany・三国同盟軍も決心がついたのかスカンジナビア解放へ向けて
北に転進し始めた
Ottomans・Oman両軍は敵の進軍に合わせてジリジリと後退し
ヴェステルボッテンでGermany軍が突出すると攻撃を仕掛けた
Scandinavia・Spain軍もこの救援に向かい
Ottomansも負けずに増援、最後の会戦が始まった
ここでSpain軍は士気切れの状態で撤退するというミスを犯し(ローテーションを意識したのだろう)
さらに、この辺りの州は全て占領未解放の州だったため1マス以上撤退できず
Lapplandに士気切れの80kを野晒してしまう
すぐさま殲滅し45点の戦勝点を獲得する…がそもそも-100点以上戦争で負けきっていたので
戦闘による戦勝点評価は-40点のまま変わらなかった
これを見てヴェステルボッテンのGermany・Scandinavia軍も撤退し
結果この地の会戦に勝利したが、大勢に影響を与えることはなかった
Ottomans「もはやここまでか…」
この後ボスニア湾・ダーダネルス海峡で両陣営は睨み合ったまま1年過ごし
1752年を迎え10年ルールにより停戦した
CBはconquest Krakowで宣戦したがCB点は戦勝点に含まないと事前に約束していたため
戦闘による戦勝点・占領点・封鎖点もろもろ-40点程度で講和した
Ottomans領カルパティアの割譲 Ottomans領ボスニアの割譲 Oman領フォアポンメルンの割譲
開戦当初はCB点を勘定しないならフォニーウォーにしかならない、と断言していたが
各地で攻撃・奇襲が行われたどころかスカンジナビア半島まで行くとは全く予想できなかった
異国の凍土で祖国を思うムスリム同胞が死んでいったと思うと涙が止まらない
二度とこのような戦争繰り返すまいと国際平和を皆で誓ったのだった(大嘘)
まず一つ目はOmanの用兵が甘かったことだ
開戦当初に動かせた兵は500k程、実際に運用したのは250k程で全く陸では役に立たなかった
戦闘したら負けるだけだったが、序盤にスカンジナビアに上陸していたら
敵軍は一層分散していただろう
同様にGreat BritainもOmanのように神出鬼没するべきだった
Spainの序盤のフランス包囲は明らかに甘く、300k程で上陸したら蹴散らせただろう
敵領内で分散させるだけでなくOttomansもバルカンから撤退し、自領内で敵軍を分散させ
そこに総力をもって集中し叩けば古典的ながらも神話的な勝利を見れたはずだ
…もっとも浸透を成功させられてるので分散自体が勝利に繋がるとは言い難い
どうしても一国の将軍保有量では前線全てを埋めることが出来ずウィークポイントが出来てしまう
対照的に敵4国は将軍を出し合い前線から極端な弱点を晒すことはなかった
また、陸軍だけでなく海軍ももっと強力にするべきだっただろう
これはOmanだけでなくGreat Britainも輸送船300程は持っておくべきだった
一方で艦隊決戦が起きなかったことも驚きだ
思えば艦隊決戦の経験は一度しか無く、それは凡ミスによるもので
通常のプレイヤーなら海戦で戦勝点を献上するぐらいなら港に泊めておくのだろう
とはいえその港(今回はダンツィヒ)に防御兵200k程を釘付けにさせた
イスタンブール戦だけは本当に勿体ない…なんであんなことをしたのか…
ガリポリ…うっ、頭が……
最後に、意思決定に問題が合った点も留意しておきたい
敵軍監視役Omanと陸軍操作役Ottomansの間で共に主導権を握ろうとしなかったため
目的のため(優位な戦闘を起こすこと)に統一・首尾一貫した行動が取れなかったため
外国派遣部隊のGreat Britainも混乱し、それぞれ無為な戦闘を起こしてしまった
この手の問題はある種解決できないものなのだろう
別の世界線で圧倒的兵力を持った上で陣営の指揮に臨んだが
全ての戦局を把握することは出来ず、いくつか大きなミスを犯した
事前にこの区域の戦闘をこの国に任せるといった分担をしておくことが大事なのだろうか?
いやそれでも全体を俯瞰するプレーヤーも必要だ
では責任の分岐点はどこに設定すべきなのだろう?
第二次Scandinavia-Germany戦争の数で圧倒的な三国同盟の敗北をすでに見ていたが
実際に体験してみるまで連携の難しさは分からなかった
皆がすっかり忘れているもの…あるいは意図的に口に出さないもの…
それはスコア制…
1位を狙えた4つの国、その誰も第一次世界大戦で実質的戦果を得なかった
Ottomansは大きな痛手を負わなかったものの領土の一部を失った
Great Britainは領土は守ったがマンパワーをロストし陸軍が壊滅した
Spainは陣営勝利したが海上封鎖に苦しめられた
Omanは陸軍の脆弱さを見せつけその名誉は地に落ちた