外交のタイムリミットがたったの1日しかないことから
ゲーム終了直後よりFrance・Ottomansの熾烈な外交レースが始まった。
(9日目終了時~10日目までは時間にして約20時間足らずしかなかった。)
9日目のプレイ終了後の何気ない雑談の最中
敵対陣営の盟主たるOttomansに何気なく探りを入れてみるものの、はぐらかされてしまった。
「今回の最終戦争は続きが無いことからFranceとOttomansのどちらがより良いロマンを提供して
自陣営へ靡かせる事が出来るかが重要だ」というアドバイスをOttomansに託し
Franceは自身の外交フィールドへと頭を切り替えた。
そんな最中、外交を飛ばしていたMughalsが不穏な事を言い出した。
Mughals「まず先にOttomansさんからお話がありましたね」
Mughals「Franceならいけそう」
敵視点で戦力分析している時点でこちらに加わる気無いじゃないですか、やだぁー!
この後も話は進まず、Franceの中ではOttomans陣営に加わったものと解釈したが
なかなか先が思いやられる展開である。
前回の戦争でさんざんボコっておきながら頼るのもお門違いと思いつつも
恐る恐るRussiaへ外交を飛ばしてみた。
交渉材料は中央アジアと東アジア利権の奪還というロマンで話を持ちかけ
加えて積年のライバルOttomansと決戦の刻であると説いた所、まさかの快諾。
Ottomans戦でのFranceの介入やGermanyとの対Russia戦でかなりヘイトを買っていると思いきや
交渉開始3分で話がまとまりビックリしたほどであった。
RussiaのFrance陣営加盟は連携の問題上GermanyかCommonwelthのどちらか、或いは両方を味方に引き入れる必要が生じ
必然的にその2カ国の重要性が増したのであった。
早速Germanyの方から当ってみることにした。
話始めにRussiaの陣営加盟があったかどうかを訪ねてきたが
どことなくその敵方に回りたいという思惑があるようにも見て取れた。
参戦交渉を進める為、既に同盟関係にあると考えられていたOttomans=Mughalsのインド洋・太平洋の島々の対Germany割譲を盛り込んだ
新航路政策というロマンを掲げて陣営加入を呼びかけたもののたった一言で切り捨てられてしまった。
Germany「ロマンが足りない」
France 「ぐぬぬ...。」
Germany曰く、3B政策の実践というロマンならよし
そうでなくばParisを燃やすと言い出した。
France「いや...てっきり3B政策はOttomansとの同盟の大義名分にでもすると思っていましたよ。」
もちろん二つ返事で3B政策の支持をしたものの
「まだ外交時間もたっぷりあるし、あちらの話も聞いてみます」と言い残し
それ以降の音沙汰がなくなってしまった。
ゲーム終了時にOttomansも言っていたが、このGermanyは計算高く
最後までどちらに着くか本当に分からないのだ。
これはもしや脈無しか...などと悲嘆になりつつももう一方のCommonwelthに話を持ちかけることにした。
散々GermanyやOttomansに弄ばれて国力をそがれまくったCommonwelthであったが
意外と戦力は残っているのと、元々陸軍系の国家アイディアが満載な事からなかなか侮れない。
ただし収入面がボロボロであり、陸軍の維持だけで毎月マイナス10Dという悲惨な状況にあった。
こちらから挨拶するや否や「Ottomansさんからもお話を頂きました」と告げられた。やべぇ。
一体どういう案で誘われたかを聞いてみたところ
Commonwelth「主に経済面でのお話で、600Dの経済支援を約束して頂けました。」
France 「そうですか。Commonwelthさんの経済状況芳しくないからそれはなかなk...600D?」
Commonwelth「はい、600Dです」
France 「えっ」
Commonwelth「えっ」
耳を疑った。
てっきりOttomansの経済状況的に10万ドルポンっと10000Dポンっとくれたのだろうと思いきや
まさかの600Dである。
すかさず攻勢に出ることにした。
France 「こちらに付いてくださればFranceから2000D、他の陣営参加国より追加で経済支援を行います。」
France 「それに加え、パン=スラブ主義の実践と題してバルカン半島のOttomans領をCommonwelthさんへの割譲をお約束しましょう。」
Commonwelth「それでしたら、私はFrance陣営への加入をお約束できそうです。」
もしこの時Ottomansが万単位での経済支援をしていれば、恐らくFranceは競り負けていたに違いない。
諸手続きをCommonwelthと済ませ、
この合意を引き合いに出してGreat BritainとPortugalとの交渉を有利に運ぶ事にした。
早速Portugalから話を持ちかけてみると、どうもGreat Britainがどちらに参戦するかが気に掛かっている様子であった。
前項でも触れたとおり、Great BritainとPortugalは同一の貿易レーンを抱えており
もし敵対することがあればそれらが寸断の危機にさらされ、自慢の海軍の運用すらままならなくなってしまうのだ。
そんなこんなでGreat Britainの方に当ってみるが、これまたPortugalと行動を共にすると言い出した。
さすがにこれではらちが明かないと考え勝負に出る事にした。
France 「Great Britainさんはこちら側で参戦をしてくださると合意してくださいました。」
Portugal「ピクッ」
France 「Portugalさんを信頼してお話させて頂きますが、CommonwelthとRussiaもこちらサイドに付いています。」
France 「Great Britain=France=Portugal海軍が合わされば外洋の制海権は揺ぎ無いものになr...」
Portugal「入ります、やらせてください。」
France 「Good Boy」
もちろん、Great Britainが合意した事実は無い。
すぐさまPortugalの合意を得れた事とRussia=Commonwelthの参戦が決定している事を伝えると
Great BritainもFrance陣営での参戦を約束してくれた。
France「圧倒的ではないか我が軍は...!」
その後、5カ国合同の会議チャットを作成し合意を取りまとめ
戦略の打ち合わせへと移行して行ったのであった。
プランはこうである。
OttomansとMughalsのリンクがほぼ確実な事から、消耗の激しいRussiaではなくCommonwelthが前線になると考えられていた。
Germanyが敵方に付く事になればCommonwelth前線説はほぼ確実となるであろう。
何故ならばGermanyとOttomans=Mughalsが連携するには該当地域を通過する必要があるし
仮にCommonwelth領をスルーしてどちらか一方に兵力を集中させた場合
戦闘に負けでもすれば撤退不能判定に陥り即壊滅なんて事もありうるのだ。
Germanyがこちら側に付けば6カ国合同での攻勢をと考えてはいたものの
バランス的にGermanyプレイヤーはこちらに靡く事は無さそうだと薄々感じていた。
Germany=Ottomans=Mughalsの3カ国連合が成立していたという最悪のケースを想定した
具体的な戦略に話を移すと、まずは孤立しているGermanyと連携を取り易くする為に
Commonwelthへの侵攻が考えられる。
そうなった場合、Commonwelth=Russiaは対Ottomans=Mughalsをカルパティアラインで防ぎ止め
残るGermanyはFrance=Portugal+その他余剰戦力で片付ける事で各個撃破を目指すのがベストだ。
その間France海軍は北海を、Portugalは西ヨーロッパ・アフリカ沿岸の守備を
Great Britainはアジア方面の制海権の奪取と強襲上陸によるゲリラ作戦を依頼した。
France・Portuhal方面への攻勢の可能性についても指摘はあったものの
FranceのFort Deffence 33%UP 国家アイディアの効果とマジノ線よろしく要塞スパムが完成していたので
恐らくそれは無いだろうと踏んでいた。
そればかりかフリーになったCommonwelth=Russiaに攻勢に出てもらえればいいだけの話で
むしろバルカン半島に首都を構えているOttomansからすればその作戦はリスキー過ぎると言える。
それに加え、対Mughals CoalitionにJoinして宣戦を行えばアジア方面の国々がMughals領に雪崩れ込み
実質2:5というリンチに近い構図にまで持ち込むことも可能であったのだ。
ここにAI TuscanyやAustriaも引き込んでゲームセットに持ち込みたい思いもあったが
残念ながらルールでAIとの同盟は禁止と釘を刺されてしまっている為に利用は出来ない。
遂に最終日のプレイ時刻となった。
RussiaとCommonwelthにはOttomans=France両国に関係改善を行って
さも未だにどちらの陣営にも就いていないかの如く振る舞って貰い、Ottomans陣営にプランを組ませないようにした。
これはRussiaの動向を気にかけていたGermanyに対して
さもFrance陣営にRussiaが参加していないように見せかけて呼び込もうという汚い作戦でもあった。
VCでは最終戦争を前にした"こうどなじようほうせん"が繰り広げられ
予想通りOttomansはRussiaとCommonwelthの陣営勧誘を活発化させていた。
一方で戦争解禁まで8年間ある事から
Rome開放ミッションでもやって時間を潰すことにしたFrance。しかも結構おいしい。
しかし、この判断が大きな過ちを起こす結果になろうとは...。
国境線に200k以上の大軍を配備して優越感に浸りつつ、Sweizerlandに即宣戦を行う。
なんでSweizerlandなのかというと、Tuscanyの同盟国である為にほぼ確実に付いて来くるし
両国まとめて踏み潰してArmy Traditionを稼ぎまくろうとしていたのだ。
France「いい余興だ、Ottomans陣営を震撼させやろう」
France「あっ」
France「...。」
開戦から僅か2ヶ月でFrance陸軍はピレネー以南に追いやられてしまった。
まずい、非常にまずい。
Ottomans陣営を震撼させるどころかヘボったFranceを見限って陣営参加国が逃げて行きそうではないか。
あまりの事態にGreat Britainが「あーぁ、知らない。」やMughalsが「これじゃ戦争にならないよー」と
遺憾砲を撃ち込んでくるが当のFranceは一体何が起きているかすら理解出来ていない。
次々出てくる軍団消滅のポップアップを前にFranceは「あうあうあー(^q^)」状態に陥り
もはや思考停止寸前であった。
落ち着いてMoralの欄を見てみるとまさかの賃金上げ忘れが原因だと発覚。
「SSなんて撮ってないではよ気づけよ」と感じる方もいらっしゃるかと思うが
Kiokuという自動撮影ツールで勝手にパシャパシャ撮ってくれていたのをサルベージしただけで
その頃、中の人はレジオンドヌール勲章がヤフオクで流れているとCommonwelthから聞きつけURLを張って貰い
画面を戻して連戦連敗のポップアップを目にするまで、まじまじと観覧していた。
手元に残された69kの陸軍を休み無くこき使った結果、どうにか白紙和平に持ち込むことが出来たものの
最早Manpowerは底を尽き、最終戦争所の話ではなくなってしまった、なんてこった。
最終戦争間近(戦争解禁約5年前)にしてFranceが自爆した事で世界情勢が大きく動くかと思われた。
OttomansのCommonwelth=Russiaへのラブコールは尚も続き
こりゃダメかなとFranceの中の人も軽く諦めていた...が、誰一人として離反者が出なかった。
年間36kものManpowerを算出する国力と、実はちゃっかりArmy TraditionがMAXになって
負けてなお強勢を誇るFranceだったからなのかもしれない。
さすがFrance、初心者にはうってつけの国(?)である。
ぶっちゃけ外交戦争の時点で優劣決まってて
「今更France如きが弱ったところで大局に影響ないわ」とか思われていたのはないだろうか。
1689年も僅か1ヶ月を残すところとなった時、恐らくすべてのプレイヤーが身構えたに違いない。
その頃にはFrance陸軍も傭兵交じりでLimit+20連隊まで配備し終えていたものの
頼みのManpowerは10kちょっとしかなかった。大丈夫かこの国。
いざプレイヤー間戦争解禁の1690年に差し掛かって見ると、お互いに宣戦布告はせず
冷戦の如くにらみ合いが続くだけであった。
それが1691年、1692年...1695年と静かに時間だけが過ぎて行き
さすがにFrance陸軍も編成を終え、Manpowerも30kまで回復し終えていた。
この間はてっきりFranceへの配慮からかと思っていたが、Franceはあることに気がついてしまった。
France「あ、やべぇ。OttomansのMil Lv今22だ」
そうだ、そうだった。
Ottomansの弱みであるMill Lvが23に達した時、こちらの優位性は恐らく完全に失われ
質と数を兼ね揃えた化け物国家に変貌してしまうのである。
当初の予定通り、MughalsのCoalitionにJoinするよう呼びかけ
すぐさま戦闘態勢には居る...が、ここで対Mughals CoalitionでAIを呼び込む事に
Ottomans陣営が異を唱える。
すかさず、前日のルール策定の時点ではその件に規定は無かったと話すも
それでは攻め側が有利になってしまうという理由で投票がなされることになった。
Ottomansは「プレイヤー間の最終戦争」であるからAIの介入は最小限に抑えるべきであると説き
Franceやその他プレイヤーもこれに同意したことで、空しくもアジア国の介入による
Mughals足止めのプランは頓挫してしまった。
代案として、France陣営がGermanyにCoalitionを組んだ後に宣戦を行う形で決が採られたが
MughalsはGermanyとの関係改善がまだ済んでおらず
『Call to Arms』を行えるまでの間、しばらくお留守番する羽目になった。
これはなかなか大きいかもしれない。
戦争開始直前、他のプレイヤーより「この大戦が起きた原因って一体何?」という
質問が飛び出していたので、何となくストーリーを作ってみた。
1693年11月19日
Germany国王に拡張主義の国王が即位したことを契機に
ヨーロッパには今までに経験した事の無い程の戦乱到来が予見された。
当時の歴史学者が皆口を揃えて書き記している。
「Germanyに野心に燃える世継ぎが誕生した事は天災であるが、その抑止力たるFranceの没落は人災に他ならない。」
Franceの国力低下は結果として周辺各国の拡張欲を燃え上がらせる事につながり
複雑に絡み合った欧州外交が暴発するのは時間の問題であった。
1694年4月3日
Commonwelth国王の死去とヤゲヴォー朝断絶の知らせは、Germanyの領土欲をかきたてるには十分であった。
婚姻を結んでいたRussiaは領土保全を大義名分に、遠戚に当たるミハイル・ヤノーシュをCommonwelth王に就かせ
正当性を疑う者は自身の軍をヤノーシュに貸し与え弾圧をさせた。
反目した貴族達は国外へ亡命を余儀なくされ、その多くはGermanyやOttomans、さらにはFranceへと散り散りとなった。
1694年11月27日
Germany国王はサンスーシ宮殿内にて元Commonwelth貴族達の帰還を手助けすると宣誓し
証人を外相、蔵相、陸相の3名らと書き綴った王印付きの証紙をCommonwelth=Russiaへ送りつけ
速やかにConstantinopolisへ密使を走らせた。
Ottomansのスルタンは2度目のOttomans戦争の盟を引合いにだし、何故あの時助けたのかと今一度尋ねた。
すると密使は
「世界は広がり続けるが束ねる者は未だに現れず、ただいがみ合うばかり。」
「人の世に思いを馳せるムハンマドの子らならば理解出来るはず、枢軸こそ世に安寧をもたらすものではないか。」
スルタンはヨーロッパへ領土の広まりに思いを馳せ
亡命中のCommonwelth貴族らをハギア・ソフィアに集め公文書に調印し、彼らを喜ばせて見せた。
1695年1月20日
事態を重く見たRussiaはシベリア出兵の際に規律を保ち整然と軍務をこなしていたFrance軍を思い起こし
St.Petersburgよりツァー自ら船に乗り交渉へと向かった。
ツァーが宮廷に向かっていると耳にしたFrance皇帝は、まるで古き間柄であるかのように迎え、そして接した。
この日、隣国のGermanyに脅威を覚えていたFrance皇帝はツァーと
互いの危機に駆けつけると盟約を交わし、亡命中のCommonwelth貴族達を国外追放してしまう。
1695年2月17日
GermanyとOttomansが共同でRussiaに対し最後通牒を送りつけ、関係各国は予備役の動員を発令した。
武装中立同盟を唱え、海洋国家同士の連携を保持していたGreat Britain=Portugalの議会でも
欧州大戦機運高まりを前に、大陸不干渉を打ち出すべきか否かを激しく議論されていた。
Russiaのツァーの呼びかけでヤルタにてヨーロッパ情勢を巡る会談が催されると
もちろんGreat BritainとPortugalにも招待状が送られていた。
彼らは悩んだ末、ヤルタの地へ赴く事にしたが、ホスト国がRussiaとあってGermanyとOttomansの2ヶ国は不参加を表明した。
この判断が結果として対Germany・Ottomans包囲網へと発展していくことになろうとは...。
1695年4月23日
Mingに向け歴史的大遠征を計画していたMughalsの皇帝の元に一通の親書が届いた。
そこには「ヨーロッパ大戦は不可避なものとなり、OttomansとGermanyが危機的状況にある」と綴られていた。
皇帝はただ一言「転進せよ」とだけ言い放ち、古き友が待つヨーロッパの地へと軍を差し向けるのであった。
そして、1695年5月2日........。
..........。
......。
..。
私は自由を憎んだわけではない。私はむしろ自由の観念で養われてきた。 私は自由と同時に平和を渇望する。だが、そのためには勝利の道を歩まねばならない。 ナポレオン・ボナパルト
Coalitionを組む段階になって、ついに各陣営の参加国が判明した。
参戦国 | |
France陣営 | Ottomans陣営 |
---|---|
France | Ottomans |
Russia | Germany |
Commonwelth | Mughals |
Great Britain | |
Portugal |
Germanyをこちらの陣営に招こうと声を掛けたものの
ついに応じる事はなかった。
RussiaとCommonwelthがFrance陣営に加わっている事を目の当たりにして
挟撃されることが確定したGermanyはかなり怯んだ様子であった。
Franceが万全の態勢ではないのにこちらから仕掛けても良いのかと指摘を受けたが
これ以上相手に時間を与えれば手遅れになると感じていた。
互いに健闘を祈りつつ陣営ごとのVCにそれぞれ分かれ、最後の作戦会議を行う。
Franceが独力ではGermanyを倒すことができなくなってしまい、またMughalsの足止めを目的とした
アジアAI国家の参戦が不発に終わってしまった為、計画の再編を行った。
Mughalsの介入がしばしの間遅れるとあって、まずはGermanyに全軍で進撃しこれを殲滅後Commonwelth領にて軍の再編
続けて北上してくるOttomans軍を撃退し、再度Commonwelth領で再編を行うミッドランド構想である。
常にこちらが先手を打ち、GermanyとOttomans=Mughalsの軍の合流を邪魔をし続け主導権を握る寸法だ。
もちろん、少しでも波長がずれれば確固撃破に陥るし
FranceやPortugalはCommonwelth領で戦う必要があるため兵站が伸びきり
不撤退に陥らない為にも会戦レベルの戦いでは勝ち続ける事が重要なのだ。
傭兵交じりのFrance軍ではあるが、態勢は整った。
まずはFrance=Portugalの全軍をCommonwelth両側に走らせ、Commonwelth=Russiaと合流を果たさねばならない。
敵の位置を見たいので敢えて通常歩行で東へ向かっていると、Germanyの主力を発見
どうやらドイツ中央部が本営になっているようだ。
軍を一まとめにし、こちらから仕掛ける事を決断する。
周囲の友軍にも援軍を求め、突撃を敢行...と後ろからどこからともなくOttomans軍が出現。
Commonwelthからは領土通過の知らせはなかったし、元々伏せてあったのか?
まずはFrance主力をGermanyにぶつけ、後続の部隊も方々より合流を急がせる。
France本土より遅れて出立した部隊が運よくOttomansの増援をキャッチ
Germany側の戦線とOttomans側の戦線で分断に成功した。
Germany側の戦線には続々とGermany,France,Commonwelth,Portgalが駆けつけみるみる内に規模が膨れ上がり
死傷者<援軍のペースで軍量表示がなかなか減らない。
対してOttomans戦線の方はFrance側が続々と本土より援軍を差し向け
さらにPortugalがこれに増援を差し向けたことで、Ottomans軍はついに崩壊した。
Ottomans戦線がFrance陣営側の勝利に終わった為、Germanyが単独で戦線を維持していたが
France陣営側が続々と援軍が流れ込むのに対し、奮戦空しく敗退した。
(画像は途中から駆けつけたのPortugalから貰ったものなので若干内容が異なる。)
追撃を進言するもCommonwelthとRussiaは南部のOttomansに気を取られ
Franceは元々Manpowerが枯渇していた為に補充が間に合わず、断念せざるを得なかった。
その間、Germany領の占領に従事していたPortugalがゲリラ攻勢により溶かされたり
南部でRussiaの軍団レベルが壊滅したりで尚も予断を許さない状況が続いた。
Franceの軍団の割合が歩兵3:砲兵:1まで回復した頃
Russiaが悲鳴に似た声を上げた。
Russia「Ottomansの210k軍団が北上してくる」
どうやら、バルカン半島側に配備されていたRussia・Commonwelthの防衛部隊をOttomans=Mughals軍が突破し
Germanyとの連絡を図ろうとしているようだ。
さすがにこれはまずいという事で散らばりつつあった軍がGermanyに確固撃破を受けないように
全軍をCommonwelth領へ戻すよう指示を出した。
Krakowに集結をさせていたFrance軍に対しOttomans軍は怯まず攻勢を掛け、あっと言う間に大会戦に発展していった。
元々こちらはCommonwelthを基軸にプランを立てていたこともあって友軍の増援もスムーズに行うことが叶い
200k,300k,400kとみるみる内に軍が膨れ上がっていく。
Ottomansの潰走が時間の問題になった時、遅れてGermanyも援軍に駆けつけてきた。
確固撃破に持ち込みたいので、短期決戦が望まれるも
壊滅寸前のOttomans戦線にGermanyが滑り込んできた...が、もはや勝敗は決しており直ぐに撤退を開始した。
(画像はOttomansから貰ったものなので若干内容が異なる。)
会戦レベルでは連勝し幸先好調である。
勝利はしたもの、Commonwelth=Russia両軍はOttomansの攻勢に備えたいという事で
GermanyをFrance=Portugalで抑え込む方針に変更。
尚も頑強に抵抗を続けるGermanyと睨み合いになり、Germany=Commonwelth間では中・小規模の争いが続いた。
北方のバルト海沿岸のプロビには、資金に余力のあるFrance=Portugal=Russiaが
続々と傭兵を送り込み占領を開始しており、徐々にGermanyの国力を削ぎつつあった。
一方、バルカン半島ではCommonwelth=RussiaがOttomans相手に徐々にではあるが押され始め
Ottomans主力が再び北上を開始した。
Germany=Ottomans=Mughalsの合流が時間の問題となった頃
France=PortugalはGermanyの主力の駆逐に成功し、ユトランド半島に追いやることに成功していた。
それを追撃しつつも道中で逃げ遅れた軍団を平らげ、着実にGermany軍を追い詰め連携を阻止する。
旧Hansa領に残るGermany軍の壊滅を狙うも、質と量が拮抗していて
少し削っただけでTirolのアルプス山岳プロビへ逃げ込まれてしまい、手が出せない状況に。
出口だけ塞いで身動きを取らせないようにRussia=Portugalにしばし封鎖を任せ
Franceは兵員回復の為に、一度本国に戻し補充を急がせた。
すると、またもどこからともなくOttomans軍が出現
今までもそうだがTuscanyから『Militaly Accese』を貰い、輸送船を使って上陸を果たしていたようだ。
Russia軍が体を張って進路を阻むも、Germany=Swedenの加勢もあってもはや全滅寸前かと思われたが
続々と西から援軍を派遣し、Russiaを助けにかかる。
この会戦でFrance陣営が勝利を収めたことでOttomansは再びバルカン方面に軍が潰走し
Germanyは再び孤立をしてしまった。
しかし、キルレシオが半端ないことに
これが将軍パワーなのだろうか。
Germanyの息もかなり荒くなってきた、持って後一回分の会戦を行えるかどうかの戦力だ。
Ottomans軍の救援も空しく、Germany軍はFrance=PortugalとCommonwelth=Russiaにサンドイッチにされたまま
孤軍奮闘をする他になくなってしまった。
途中、占領に従事していたPortugal軍に対して奇襲を行い
戦力を削ごうとする動きを見せたものの、この頃には西・東で動きが固まっており、直ぐに援軍が駆けつけれる体制に整っていた為
直ぐに撃退をされてしまった。
撤退をしたGermanyに止めを指すべきと提案し、France軍単独で追跡をするとMughalsの軍がスタンバイしていた。
瀕死のGermany軍を庇わんとばかり軍を重ねて牽制してみせるが
GermanyとMughalsが一か所に重ねすぎて消耗していたのを目撃したので
後続の友軍をその場でゆっくり待つことに。
Russia=Commonwelth=Portugalの軍が到着したのを見計らって合図をし、攻撃を開始する。
この時何故かCommonwelthの国王が司令官になってしまい(政治的圧力?)、思いのほか接戦にもつれ込んだ。
しかし、南より追加でPortugal軍が合流したことが最後の一撃になり
Germany軍は撤退を開始、Mughals軍が線上に取り残され逃げ遅れてしまった。
目の前に転がるおいしそうなPrestigeとArmy Traditionを前に
参戦していた軍団が血みどろの大運動会に興じ、全滅していくMughals軍。
それを目の前に何もできずに居るOttomans軍団が涙を誘う。
彼らを助ける事は叶わずOttomans軍は不本意ながら撤退を開始するが
そんな事を許す訳が無く、Russiaが行く手を遮る。
すぐさま周辺各軍が援軍に駆けつける。
そして見慣れた光景に。
北では取り残された一部のGermany軍が包囲され、お亡くなりに。
これの仕返しかどうか分からないが、西から順次出発しつつあった占領部隊に向け
突如Germany軍が突進を掛けてきた。
質でなら勝てると踏んで勝負に出たようだが、残念ながらその読みは完全に外れており(理由は後述)
結局押しきれないと悟ってかしばらくした後撤退をしていった。
Ottomansの主力が流れ着いたバルカン半島でもCommonwelth=Russiaが攻勢に出ており
流れは完全にFrance陣営側に傾きつつある。
一方でGreat Britainも各所で海上封鎖と強襲上陸を繰り返し
相手の収入を締め付けつつあった。
ヨーロッパ方面でOttomansの主力が敗れ
イスラム圏に控えてあったらしき遊撃部隊が増援の為か北上していくのを目撃したらしく
すぐさまカイロへ強襲上陸してゆさぶりを仕掛ける。
France「勝ったな...。」
バルカン半島では南へ反転攻勢を始めたCommonwelth=Russiaに対してOttomans=Mugalsが必死の抵抗を見せていた。
前回のRussia戦で活躍したMughalsも同伴していることもあって、ややも危うしと思われたものの
Germany戦線が安定してそちらから引き抜かれた軍団を援軍に差し向けた結果、押し返しに成功した模様。
この戦いでOttomansのManpowerも完全に枯渇し、巻き返しはより一層厳しい状況に。
Germany戦線では各国の占領軍が展開を開始し、Germany軍はただそれをうな垂れて見ている他になかった。
Ottomansもウラル=アルタイ地域を占領しかえしてみせるが、もはや大局には影響は無い。
そしてIstanbul陥落のお知らせ、そしてMughals軍が孤立してかわいそうな状況に...。
万策尽きたか、ついにGermanyが「Blitzkrieg!!!」と叫びながらParisに進撃し、最後の華を飾ろうとした。
そして空気の読めないFranceは軍を差し向けこれを殲滅に掛かる。
溶けた...。
1704年10月29日。 これを最後にOttomans陣営の抵抗は止み、無条件降伏を申し込んだ。
戦いは9年と5カ月、27日に及んだ。
鋭意執筆中...。