1445年4月5日、プロヴァンス公国が教皇領を攻撃。フランスのシャルル王もこれに続く。
アナトリア半島に興った新興の遊牧民トルコのオスマン朝は当時バルカンとアナトリアにまたがる地域を支配し、かつてこれらを支配していたビザンティン帝国を圧迫していた。ビザンティンはかつては地中海を支配し、東ローマ帝国を名乗るほどだったが、イスラーム勢力の台頭とともにその権威と領土を大きく損失していた。今や彼らに残された領土は首都コンスタンティノポリスとその近郊、ペロポネソス半島のモレアス専制皇国とエーゲ海諸島部にしか残っていなかった。このオスマン朝に対する対抗と帝国の援助を目的として開催されたのが、バーゼル公会議である。
このバーゼル公会議こそが、教会闘争の原因である。
この公会議はビザンティンの援助とオスマン帝国に対する十字軍が目的であった。しかし当時援助と十字軍に興味を示した世俗の君主は一人もいなかった。
フランス王シャルル7世はブルゴーニュ公国のシャルル突進公をはじめとした反フランス王派の諸侯たちとイングランドとの百年戦争が続行中。
イングランド王国はフランス王国との戦いのほかに国王ヘンリー6世の悪政に伴い王の王朝であるランカスター家とヨーク家が互いに争う状況。
カスティリア王国、アラゴン王国とナバーラ王国は、いち早くイスラームに征服されたイベリア半島の再征服レコンキスタを終わらせたポルトガルに負けじと共通の王ファン2世のもと、グラナダのナスル朝を倒すのに夢中。
神聖ローマ帝国皇帝にしてオーストリア大公フリードリヒ3世は自分のハプスブルク家の権威を増そうと婚約政策に熱中する毎日。
東欧でもリトアニア大公国のミガミシュ、モスクワ大公国のヴァシリー2世(盲目公)、デンマークのクリストファ王とクリム・ハン国を中心としたタタール人(モンゴル人)諸国が互いに戦乱と対立に明け暮れる日々。
イアリアは言うまでもない。彼らは根っからの商人の国である。彼らはすでにマムルーク朝の支配するアレクサンドリアに海外交易の拠点を設けていたし、イスラーム諸国にも友人を多く持っていた。教皇の十字軍は商売の邪魔でしかないのだ。
ハンガリー王国とヴェネツィア共和国だけが唯一オスマン帝国に対して行動を起こしていた。防戦手いっぱいの状況ではあったが。
このような状況でも教皇エウゲニウスは公会議の開催と十字軍を実行しようとヨーロッパ各地を巡り諸侯に訴えかけていた。
そしてビザンティン皇帝ヨハネス8世の準備が整ったことでかなり強引だが1431年7月23日にバーゼルで開会した。しかしほとんど参加者が集まらず、東方正教会の司祭がほとんどであったため、カトリックと正教会の合同という機運が見られ、教皇はイタリアのフェッラーラに公会議を移そうとした。これが諸侯を刺激した。フランス王はエウゲニウスを教皇には値しないと宣言し、バーゼルに公会議が残ることを主張し、サヴォイア伯アメーデオを対立教皇として即位させる。
対立教皇に先を越されアヴィニョンに入城されたエウゲニウスは一時,フィレンツェに逃げる。こうして2人の教皇が存在することになった。
そんな中でも教皇エウゲニウスはめげることなく、進んで諸侯と対立した。
シャルルとは真っ向から対立し、イタリア、ひいては地中海世界一の銀行メディチの総裁コジモにも教皇お抱え銀行の役目を解き、イタリア共和国と嫌悪な関係になった。
自らの実力を示そうとしたのか、1444年1月にハンガリー王兼ポーランド王ラースロー1世に十字軍を組織させた。
ハンガリー軍を主力にワラキア公国、リトアニア大公国、クロアチア王国、ボヘミア王国、ボスニア王国、セルビア公国、教皇庁と神聖ローマの傭兵が加わった。
ムラト3世が治めるオスマン帝国がこれに対した。
この戦いは最初から勝敗は見えていた。オスマン帝国が6万の軍勢を従えていたのに対し、十字軍は2万だったからだ。
ヴァルナ湖で両軍は相まみえた。ボヘミアしか歩兵がいなかった十字軍の騎兵部隊は沼地に足を取られ、トルコ軍に虐殺された。唯一クロアチアの軍隊が本陣へ戻ることができた。王の舞台は取り残され、孤立した。王は最後の望みをかけ、ポーランド騎士500を引き連れ、敵中央を突進した。ムラト3世の首が目的だった。攻撃に集中していたトルコのイェニチェリは王の舞台の通過を許し、もう少しでムラト3世の首をとれそうだったラースロー王だったが、突然王の馬が足を取られ、王は落馬とともにその場でイェニチェリに殺害された。ハンガリーの摂政にして元帥フニャディ・ヤノーシュは王の遺体を取り返そうと本陣から出たが、結局撤退する部隊の援助しかできなかった。ラースロー亡きあと、ハンガリーの政治はフニャディが継いだが、ポーランドでは混乱が起こった。十字軍は大失敗に終わった。エウゲニウスの体面と権威は地に落ちた。
そして、とうとう1445年4月5日、ソルボンヌ大学の神学者たちがフランス王の圧力で教皇領アヴィニョン征服は合法であるという論議結果を公表、対立教皇アメーデオもこれを承認。王の代わりにプロヴァンス公ルネが教皇領アヴィニョンに侵攻した。
アヴィニョンは1っ週間持たず陥落し、エウゲニウス4世は様々な教書を認めさせられた。教書の中にはカトリックと正教会の合同も取り消しとなることが明記されていた。
ペストの兆候が見られたため、銀行家で富豪のコジモ・デ・メディチがフィレンツェに招いていた公会議も皇帝ヨハネス8世があきれ果て、ビザンティン・ローマ風の芸術と詩や哲学思想をイタリア全土にまき散らせて帰ってしまったため自然消滅した。
1446年11月3日、共和国元首ピエトロ・レオポルド・ボルゲーゼが死去。
ローマのボルゲーゼ家という枢機卿や教皇を輩出した名家の生まれで、芸術活動と人文学を発展させた。イタリアにおけるルネサンスは彼の活躍が一翼を担った。
1446年11月20日、イシドロ・マラスピーナ(先ドージェピエトロ・レオポルド・ボルゲーゼのシニョリーアの国務長官。)ジュリアーノ・ダッラ・ローザ(コンスタンティノープル大使)エルメス・オルシーニ(元海軍総司令官)の中からエルメス・オルシーニが選出される。
エルメス・オルシーニは海賊行為を行い、イタリア沿岸を荒らすチュニス、トレムセン、フェザーン、モロッコに対して徹底した海賊狩りを行い、民衆の人気を集めた。しかしカスティリア王国の開始したナスル朝に対するレコンキスタで、それに参加し、軍事費が増した。
1448年11月5日、カスティリア王国はナスル朝とチュニスに宣戦を布告し、レコンキスタを再開した。イタリアは同盟国であったため、エルメス・オルシーニはチュニスの海軍をつぶすいい機会ととらえ、戦争に参加。ボン岬の海戦とリグーリアの海戦で勝利し、スルト湾の海戦でブトゥルス・バドラ率いるチュニスの主力艦隊を撃退した。陸軍でもアルフォンソ・オルシーニ率いるナポリ軍団がチュニスを包囲していた。しかし民衆の間で戦争税に対する反発が強まり、議会でも国家収入がひどく下がったため1449年11月20日に行われた信任投票で不信任となった。
同日ピエモンテ出身のイシドロ・カブール、ジェノヴァの豪商マッシミリアーノ・ドーリア、同じくジェノヴァの元イタリア海軍司令官でチュニスとの海戦で大勝利を挙げていたジャン・カルロ・ジュスティツィアーニの中から、マッシミリアーノ・ドーリアが選出された。
彼はチュニスとの戦争は継続したが、戦争税はあげず、貿易を促進すると約束した。
1449年12月3日、アルフォンソ・オルシーニ率いるナポリ軍団は対チュニス戦争を一刻も早く終わらせたいという政府の意向によってパレルモに向かい、そこから海を渡りチュニス領に上陸した。チュニスのスルタン、ウスマン・ハフシードは慌てて首都チュニスを捨てて逃亡した。
1449年12月15日、ナポリ軍はスーサを陥落させる。18日にはビゼルトを包囲した。
ウスマン・ハフシードは1万4千もの兵力を集結させ、国土復活のため北上した。ナポリ軍もこれに対処すべくビゼルトを早々に陥落させ待ち受ける。
両軍は1449年12月22日、ビゼルト近郊で戦った。
アルフォンソ・オルシーニの率いるイタリア南部方面軍の総数は1万3千、対してチュニス軍は1万4千。数では劣った。
しかしアルフォンソ将軍は高地に陣取り、被害は大きかったもののチュニス軍に勝利する。死者は多く、1万3千の軍勢がけが人と使者を除くと6千になっていた。イタリア軍はそのまま逃亡するチュニス兵を追い回しながら南下し、25日にはチュニスを包囲、同日陥落させた。
そのころレコンキスタの戦場ではカスティリア軍がナスル朝のすべての領土を占領していた。カスティリアの強大な陸軍、ポルトガルの海軍によりナスルの陸と海はほぼ解散していた。
1450年1月1日、アブー・アブドゥッラー・ムハンマド11世がグラナダから部下を連れ撤退したことによりグラナダが陥落した。
そしてグラナダ陥落とともにナスル朝は滅亡し、800年にわたるレコンキスタは完全に終結した。
カスティリア王国とナスル朝との戦争が終わり、イタリアとチュニスとの戦いも終わりを告げた。ナポリ軍はイタリアに撤退した。
このことに気をよくしたのか、マッシミリアーノ・ドーリアはアルフォンソ・オルシーをイタリア共和国の本軍であるローマ軍の総司令官に任命し、ローマ軍に軍事訓練を行わせる。と同時に国民に約束した貿易の拡大を実行するため、オリエントのシャハーンギールの治める白羊朝とシャージャハーンの治める黒羊朝に接触し航路の発見に努める。また、ラグーザの交易を支配するため、ラグーザ侵攻まで計画し始めた。
政府もこれを支持し、にわかに農村部への負担が増した。兵糧とチュニス戦で傷ついたナポリ軍の補修、ローマ軍の訓練費用などで、財政が圧迫されたからだ。
1451年3月5日、とうとうロンバルディアの農村部で暴動が起きた。辞任を要求する農村部に根負けし、農民たちに金銭的補助を与えひとまず7月に暴動は沈せかした。
しかし政府への威信はがた落ちし、1452年11月20日の定期選挙でマッシミリアーノ・ドーリアは不信任となり、カルロ・フェリーチェ・スピノラ、ベネデット・ブスカ、フランチェスコ・ディ・サヴォイアの中から元首が選出されることとなった。
熱心な討議の後に行われた選挙の結果、ベネデット・ブスカが選出された。
彼の父親はカスティリア王国首都トレドとイングランドのロンドン、マムルーク朝のカーヒラの駐在大使を歴任し、当時嫌悪な関係であったマムルーク朝と通商関係をまとめ、その当時のスルタンムハンマド2世と親友となって、現スルタンであるムハンマド3で務めたガレアッツォ・ブスカである。
39歳という異例の若さで選出されたベネデット・ブスカだが、議会には人気があった。
まずマムルークのスルタンとの友好関係が望めたことである。アレクサンドリアへの進出を狙っていたイタリアにはスルタンとの友好関係は大切だ。
それ以外にも彼の目立ちたがらない温厚な性格や息子がいないのが考慮された。
1452年12月3日ヴェネツィア共和国、イタリアの強大な交易力に認められるため、イストリアに新交易所を新設。18日にはキプロスが参加し、主に交易というよりはアドリア海から東地中海までの諸国の貿易船団(特にイタリア)を護衛する。
同日、クリム・ハン国、キプチャクとの戦争中に配色が濃いのに罰を悪くしたのか、オスマンの特使を迎える宴会の席で、王であるハジー・ハンがセルビアを口頭で非難、セルビア専制公ドゥラド1世ブランコヴィクを敵に回す。
1452年12月、オスマン朝のメフメト征服王の数々の要求と圧力に屈し、ドゥルガディル侯国のスレイマン・ベグが屈服し、属国化する。オスマン朝の拡大は勢いを失わない。
1453年1月4日、新年の習慣にしたがい教皇が新枢機卿を幾人か任命する。その中にマントヴァ出身のフェルディナンド・ゴンザーガが枢機卿となる。温厚な老人で、甥であるマントヴァ候爵家当主ルドヴィーコ3世とは友好的で、イタリアの更なる教皇への影響力が増す。
1453年2月19日、イングランドがフランドルへ禁輸処置をとる。
イングランド国内ではすでにヨーク家とランカスター家の対立が激化し、貴族議会でヨーク派が国内への権威を高めようと、フランドルへの禁輸処置を議決させたと思われる。
3月2日、アナトリア半島のラマザン侯国のドゥンダル1世は、宿敵カラマン公国のイヴらヒム2世に宣戦を布告した。ラマザンはカラマンを征服しようと試みるオスマン朝と手を組んだ。それに対し、カラマン公国はオスマンとは宿敵のマムルーク朝を味方につけた。
3月5日、イタリア共和国、フランス王国との軍事同盟を結ぶ。
これは教皇領復帰のため、プロヴァンス公国内のアヴィニョンを征服する際、フランスに介入してきてほしくないという意思表示であったが、フランスはその意志はない。
1453年、バーゼル公会議の際に東ローマ帝国の連れてきた詩人や、古代ギリシア・ローマ風潮が広まり、人文主義が全イタリアで起こる。大変な勢いで、思想や絵画・彫刻、音楽に至るまで、まったく革新的なものが続々と生み出された。
5月9日、フランスで新国王ルイの開催した馬上鉾試合で、貴族たちの騎士道精神に火が付き、それを聞いたフランス商人が任地先のアレクサンドリアでキリスト教を布教したとして、マムルークとフランスの関係が嫌悪になる。
同日、ブルゴーニュ公国がプロヴァンス公国と和平を結ぶ。お互いただの傷つけ合いで終わった戦争だった。
5月13日、黒羊朝のスンナ派商人がティムール朝の首都ヘラートでシーア派のティムール商人と喧嘩をし、相手を殺害した。黒羊朝の商人は処刑されたが、両国の関係は嫌悪となった。11月12日には両国互いに禁輸処置をとる。
・コンスタンティノポリスの陥落
5月29日、とうとう東ローマ帝国最後の都コンスタンティノポリスが陥落した。
コンスタンティノポリスはギリシア人だけが守っていた。教皇庁が傭兵を派遣するという約束があったが、プロヴァンスによるアヴィニョン侵攻でそれはないこととなっていた。ヴェネツィアもオスマンに立ち向かえる状況ではなく、コンスタンティノポリスには兵は向かわなかった。わずか1000のギリシア部隊を率い、皇帝自らが陣頭指揮を行った。前述のバーゼル公会議で述べたように、かつて地中海を支配したビザンティンももはや後影も残していなかった。
オスマン朝トルコ帝国のスルタン・メフメト2世(征服帝)の能力はは曾祖父にあたる雷帝バヤズィトがあともう少しで果たすことのできなかったコンスタンティノポリスの攻略を成し遂げるのに十分であった。トルコ帝国のスルタンの宮廷では最初、まさかメフメト2世がコンスタンティノポリスを攻略しようなどとは考えないであろうと予想していたし、また実行できないと確信していた。我々西欧諸国もそう思っていた。
まずもってコンスタンティノポリスを攻略すること自体、トルコには利益をもたらさないし、逆に害になると思われていたからだ。コンスタンティノポリスはさすがはローマを名乗る国の首都だけあり、とても規模が大きい。地中海最強の都市であり、最大の規模を誇る。ビザンティンの最盛期には人口は50万を超え、天然の良港と黒海貿易の中継地点で通らざるを得ない町のため、各国の商人、特にイタリアやスペイン、ジェノヴァ、ヴェネツィアの商人でにぎわった。ジェノヴァの商人などはコンスタンティノポリス市街に金角湾をはさんだ対岸に城壁と要塞を築き、そこで自分たちだけの自治と商売を行うことまでした。世にいう‘‘ガラタ地区‘‘だ。
トルコの商人もまたトルコ領となったバルカン半島のギリシア商人やユダヤ商人も十二分にこの‘‘黄金の都‘‘の恩恵を受けていた。ゆえにこの都は長くオスマン・トルコの支配から逃れてきたのだ。皇帝はトルコのスルタンに年貢金を払ってはいたのだが。
当時のスルタン、メフメト2世の高祖父であるバヤズィト1世は雷帝とあだ名された男で、オスマン朝の中で初めて本格的にビザンティンと戦った。1444年当時の支配領域も、基礎を形作ったのは彼である。彼はセルビアの王ラザルをコソボの戦いで破り、欧州における帝国領を確立、セルジューク・トルコ以来のアナトリアの諸侯も従え、1393年9月25年日には教皇ボニファティウス8世の招集した神聖ローマ皇帝シギスムント率いる十字軍にニコポリスで勝利し、スルタンの称号をいただく。
そしてコンスタンティノポリスを包囲したが、さすがはコンスタンティノポリス、三重壁はびくともせず、多くのトルコ人兵士が死んだ。
しかしあのまま包囲されればコンスタンティノポリスは陥落していただろう。だがバヤズィトは陥落を見ることはなかった。その時、東より大きなる脅威がオスマンに迫っていたからだ。ティムール大帝の率いるティムール朝である。ティムールはエジプトのマムルークをたたき、インド北部を荒らしまわったのち、とうとうオスマン帝国へその野心を向けた。コンスタンティノポリスの包囲の途中であったバヤズィト雷帝は急ぎ引き返した。
両軍は1402年7月20日、アンカラで対した。戦闘はオスマン側は12万、ティムール朝は20万。戦闘は朝方から夜まで続き、激戦を極めるがティムール朝が圧勝する。雷帝バヤズィトはとらえられ、捕虜として一年後に獄死する。
亡き雷帝の息子たちは権力を争い、内紛を興し、オスマン帝国の権威は地に落ちた。属国も勢いを取り戻し、次々に独立。こうして1回目のコンスタンティノポリス攻略は大失敗に終わったのだ。
内紛に勝ち、スルタンとして即位したメフメト1世はやっと回復したバヤズィト雷帝以来の領土再興と属国の再支配で統治を終わらせる。その子ムラト2世は、ヴァルナの十字軍を撃退したり、短期間コンスタンティンポリスを包囲してみたりと優秀だったが、やはり帝国の再建期が幼少期であったため、家臣に至るまで親ビザンティン派で、コンスタンティノポリスに対しても独立を認めていた。息子のメフメト2世も父や祖父のような帝国の再建で治世を終える器だと思われていた。(一度ムラト2世が退位し、メフメトが帝位を継いだことがあったが、メフメト2世は内気で何を考えているかわからず残忍であったので兵士たちの人気が取れず、狩に言っている間に父帝に復位され、蟄居を命ぜられる場面があった。また実際は次々と夭折したメフメトの兄たちが継ぐはずで、彼は兄弟の中では最も継承権が下だった。)
しかしメフメト2世はそうではなかった。まずサガノス・パシャをはじめとした反欧州派の宰相たちを任命した。そしてもともとバヤズィト雷帝が築いていたコンスタンティノポリスに向かう黒海貿易の商船が通るダーダネルス海峡の岸にあった要塞アナドール・ヒサーリ(アジア側にあったため、アジアの城という意味)に続き、すぐ対岸にもルメーリ・ヒサーリ(ヨーロッパ側にあったため欧州の城といういみ)を築かせ、商船に通行金をとることによって黒海貿易を衰退させ、コンスタンティノポリスを締め上げる。
そして有名なあの場面でコンスタンティノポリスの運命は決まったのだ。
先代のムラト2世の治世で親欧州・ビザンティン派の頭目とされていたハリル・パシャが真夜中突然スルタンに召集命令を受ける。真夜中の呼び出しに、とうとう邪魔になった自分が暗殺されると思ったハリル・パシャは覚悟を決め、習慣に従い山金貨を銀の盆にのせて参上した。それを見たメフメトは実に穏やかな声で尋ねた
‘‘これはどういう意味ですか、ラーラ‘‘
ラーラとはトルコ語で先生という意味である。3代前のメフメト1世より使えているハリル・パシャは純潔トルコ人であるということも考慮してかなりの厚遇を受けていた。先代のムラト2世も幼少期のメフメト2世に彼をラーラと呼びなさいと言っていたため、公式の関以外ではメフメト2世は彼をラーラと呼んでいた。
ハリル・パシャは重々しい丁寧な口調で答えた。
‘‘我がスルタン、習慣として真夜中に主人に謁見する際、何も持参しないでの参上というのは礼儀に欠く行為でございます‘‘
それを聞いたメフメト2世はしばらくひざまずくハリル・パシャを見ていたが、金貨の盆をハリルのほうに押しやるといった。
‘‘あなたの持つ富は私にはすでに必要ありません。逆に私はあなた方にあなた方の持つ富よりもずっと大きな富を与えることもできるのです。私があなた方に望むことはただ一つ、あの町をください‘‘
こうしてコンスタンティノポリス1190年の歴史にも終わりが来た。
コンスタンティノポリス包囲戦で特徴づけられたのは火器。特に大砲である。メフメト2世は攻略戦のずいぶん前からとある大砲の開発を進めていた。ハンガリー人のウルバンが開発したウルバンの巨砲である。8メートルの全長を誇り、直系75センチ、砲弾は500キログラムを超え実験では轟音とともに1.6キロ飛び、さらに地中に2メートルめり込んで止まったそうである。
トルコの精鋭部隊イェニチェリやセルビアをはじめとした属国の兵士、傭兵を合わせた6万もの軍勢とともにエディルネを出たメフメト2世は初戦は苦戦する。ウルバンの巨砲は砲丸の材料となる石材が不足し、膨張による爆発の恐れがあるため、頻繁には打てなかった。小さな大砲はそれこそたくさんあったが、3重壁を崩すのには不足だった。
しかし金角湾を占拠したオスマン海軍は1204年の、コンスタンティノポリスが1000年の歴史の中唯一陥落したヴェネツィアとイタリアが行った第四次十字軍を模倣し、1453年5月29日なんとガレー船のマストから梯子を伸ばし城壁に侵入。
その混乱とともに一斉に陸から攻撃を仕掛けた。城壁は防衛できていたが、海側は陥落し、占拠された。陸側も皇帝が自ら陣頭指揮にあたってよく持ちこたえたが、総司令官エマノエル・カサヴェテスが戦死したのを皮切りに、ロマノス軍門が陥落、それと同時にトルコ人が海側と陸から同時に侵入、1000年続いたビザンティンひいてはローマ帝国の最後の皇帝となったコンスタンティヌス11世は‘‘私の胸に剣を突き付けてくれる一人のキリスト教徒もいないのか‘‘と言い残し、怒涛の如く押し寄せたトルコ兵に身を投じて壮絶な戦死を遂げたといわれている。
コンスタンティノポリスは3日艦略奪がなされ、栄光ある聖堂ハギャ・ソフィアはモスクに変わり、帝国宰相ノタラスら重鎮はオスマンに従属を申し入れ、貴族から修道士に至るまで、ありとあらゆる市民が奴隷としてつながれ連行されたため無人の都とかした。こうしてローマ帝国最後の帝都は双頭の鷲に紅のマントをたなびかせながら白馬をかける皇帝とともに永久に消滅した。
またこれによりコンスタンティノポリスに拠点を置いていた商業国家も大打撃をこうむり、特にガラタ地区陥落によるジェノヴァの衰退は著しく、イタリアやヴェネツィアの商人も相当な打撃をこうむった。
6月17日、アナトリアで起こったラマザンとカラマンの戦争で、配色が濃いと見たマムルーク朝は単独でラマザンと和平を結ぼうとするが、カラマンからイチェルを落としていたラマザンとオスマン連合軍はこれを完全に拒否。コンスタンティノポリス陥落で手が空いたイェニチェリ・オスマン正規軍が加わり、カラマン公国はさらに不利な状況を迎えていた。
8月2日リトアニアがモスクワ大公国に禁輸処置。いつもの争いである。
9月13日、イタリア、ジョルジュ・ボスコのラグーザ共和国についに宣戦を布告。世にいうラグーザ交易戦争である。
元首ベネデット・ディ・ブスカと元老院はプロヴァンスにおける教皇領の解放が限りなく難しいと悟ると、ラグーザ共和国の攻略を優先した。
商業戦争という名目で戦ったため、欧州諸国もあまり関心を示さず、またイタリアが圧勝すると予想していた。本来は小規模な戦争で終結するはずであった。
しかし元老院と元首の予想ををずれ、戦争は思いもよらぬ拡大を遂げる。
9月13日深夜、ハンガリー王国の摂政フニャディ・ヤノーシュからの書簡が元首官邸にもたらされる。そこにはハンガリーのイタリア側での参戦を要望するものであった。ラグーザ共和国の併合の暁にはハンガリーにラグーザ市が持つ交易圏に一枚かませろ、その代わり今回の戦争では陸軍をハンガリーが持つ故、イタリアは海軍活動を行ってくれ、という内容だ。
元首ベネデット・ブスカはこれをその場で独断で承諾。これがのちに大きな問題となる。
9月14日、早くも戦争は拡大する。ザルツブルク司教国のベルンハルト1世とアーヘン自由都市のゲオルク・フォン・ケルンハウゼン市長がラグーザ共和国側で参戦、イタリア共和国に宣戦を布告。
この2国はどれも神聖ローマ帝国を構成する国だ。参戦した主な要因は両国ともラグーザの交易圏で収入の大半を得ていたからだ。ザルツブルクはまだ自国内でもやってはいけたが、アーヘンはこのラグーザ貿易路にかけていた。
しかしまだ今の段階ではハンガリーとイタリアという大国に対抗するには少ない戦力だった。ではなぜこの2国は参戦したのか?
9月15日、オスマン帝国ラグーザ側でイタリア・ハンガリー両国に宣戦を布告。
これには元老院も元首ベネデット・ディ・ブスカも相当焦った。まさかオスマン帝国が参戦するとは夢にも思わなかったのだ。
第一に、オスマン帝国は1453年5月29日のコンスタンティノポリス陥落で第一陸軍の体力を大きく消耗していたと思われていたし、残りの陸軍もカラマン侯国との戦いでアナトリア半島南部で活動中であったからだ。オスマンの主力はあくまで陸にあり、それが満足に使えない状況で参戦するとは元首ブスカは思えなかったのだ。
しかし少し考えればわかったはずである。コンスタンティノポリス陥落でも海軍は存在し、その海軍は多くの国を凌駕する規模であったということ。オスマン帝国がラグーザ貿易圏で利益の何割かを得ていて、同共和国に独立保障していたこと。
にわかにイタリア共和国の政界が2分される。一方は新たに国政に参加することを許された商業を生業として発展した新貴族の勢力、もう一方は元首ブスカを筆頭としたイタリア半島に古くから存在した旧貴族たちだ。
新貴族は独断でハンガリーと同盟を結んだ元首を非難し、国内防衛と商業で航海をする商船に追加の護衛戦をつけることを主張、旧貴族は率先的な攻撃を主張し海軍の第2主力艦隊を海路で、新たにコンスタンティニーエと名前を変えたトルコ帝国の首都コンスタンティノポリスに向かわせ、オスマン海軍の主力をたたくという計画を立てる。
結局旧家が勝ち、全元首エルメス・オルシーニが率いる第2主力艦隊が出航する。
その後、イタリア海軍とハンガリー陸軍は快調に戦役を進める。
9月20日アドリア海でラグーザの艦隊にイタリア主力艦隊が勝利する。
9月21日、ボンバ湾でラグーザの商船団をイタリアの商船団が破る。
9月22日、アレクサンドリア航路を守る船団が、オスマンの主力海軍と遭遇、3隻撃沈という敗北を期す。しかしイタリア元老院は逆に盛り上がり、オスマンの主力艦隊の出現に奮い立つ。
10月5日、ハンガリーの軍団1万がザルツブルクに攻撃を仕掛け、1000のザルツブルク兵に勝つ。
オスマン帝国陸軍はやはり一向に攻めてこず、ハンガリーとイタリアが敵を圧倒する状況だった。しかし、11月、イタリアを震撼させる事件が起きた。
11月1日、エルメス・オルシーニ率いる31隻の第2艦隊、マルマラ海でムラト・シャイーフ率いるオスマン帝国海軍21隻に敗北。司令官エルメス・オルシーニは戦死した。
この知らせを聞いたとき、元老院は静まり返ったという。まさか、イタリアの海軍が、地中海最強とうたわれた海軍がオスマンという陸地型の国に、数で押されたならともかく量でも圧していたのに14隻もの損害を出して大敗したなど、信じられるものではなかった。実に100年ぶりの大規模海戦での敗北である。元首ブスカはこのことを国民に知らせまいと努力したが、努力もむなしく、7日後にはイタリア半島全域、20日後には欧州中に広まった。
イタリア中の交易所や銀行では暗い顔をしたイタリア商人たちが話し合う姿が見られた。にわかに戦争に対する、もしくは政府や元首に対する不満が募る。
欧州諸国の宮廷でもイタリア海軍の敗北を知り、多くの驚きとオスマンへの恐怖が生まれた。ルネサンスのブームを迎えていたイタリアでは大げさに誇張された詩や絵画が多く発表された。
実際の海戦はどうであったか。確かに決定的敗北といっていい結果だったが、現実はそう単純ではない。
戦闘が起こったのは朝方早くだったそうである。その日、マルマラ海は霧が立ち込め、北西風(マエストラーレ)が吹いていた。オスマン艦隊を見止めたイタリア艦隊司令官エルメス・オルシーニは小型快速船に乗り移り、小型帆船を下がらせた。実はこの時の艦隊編成は実に雑で非戦闘的であったのだ。ベネデット・ディ・ブスカが急いで編成をさせたために、もともとはジェノヴァ航路の保護を行っていた艦艇がほとんどであった。つまり商船と小型快速船だ。なぜ比較的大きい商業用の小型帆船に乗らず、後ろに下がらせたかというと、北西風ではこちらに向かい風なので、帆船では動きが満足に取れないのだ。小型快速船はオールでこぐので、風がなくとも向かい風でも動くことが可能なのだ。
戦闘は最初イタリア艦隊が有利に進めた。快速船とイタリア人の天性の航海能力でオスマン側は追い風にもかかわらず、決定的な勝利があげられなかった。
しかし3時間経過したとき、突然海流が変わったのだ。オスマン艦隊側に流されまいと必死にオールをこぐエルメス・オルシーニはじめ14隻は海流とオールの力が重なり、海中にほぼ静止する。その間に回り込んだオスマンのガレー船が一気に襲い掛かる。
包囲はどんどん縮められ船は沈むか航行不能となっていった。最後に残ったエルメス・オルシーニはのろしを上げ、後方に撤退させていた残りの艦隊に撤退を命令し、部下に海中に飛び込むよう命令し、船長室にこもり、大量の火薬に火をつけ、オスマンのガレー船5隻をまき沿いに爆沈した。
エルメス・オルシーニは実に大胆で部下との絆を重んじ、また賢明な男だった。
1401年6月4日ローマのオルシーニ家の一家流グラヴィーナ家に父フランチェスコとチェザリーニ家出身の母クラリーチェの間に生まれる。元首に就任したのは45歳。チュニスの海賊相手に戦果を挙げて、彼が救ったオスティア出身のローマ貴族にして当時の元首ピエトロ・レオポルド・ボルゲーゼが死去する間際にエルメス・オルシーニを次期元首として推薦していたので、ほかの対立候補に元首になられるよりはと、元老院が選出した。
対海賊と海軍強化を進めたが、あいにく元首としての在位は短く、チュニス戦役で戦費が増したことをベネデット・ディ・ブスカに指摘され彼の取り巻きの議員によって不信任投票となった。オスマン海軍の強大化を早くに予想していたが、だれも信じなかったのだ。
彼がオスマンに降伏しなかったのは、単に命が惜しくないとか、壮絶な戦死を望んだからではない。もし自信が捕虜になり、イタリア政府が身代金を払えばイタリアの敗戦はさらに誇張され、権威が失落すると思ったからだ。死ぬにしても遺体、特に首級はとられてはならなかった。さらし者になる可能性がある。
彼の死は部下たちによって本国に伝えられ、彼の望んだガレー船の主力艦隊への導入は実現する。
11月5日、イタリア共和国元老院で旧貴族が戦争終結後にベネデット・ディ・ブスカが退陣すると宣言。それまでの間は旧家と新貴族が結び付く必要があると説き、コジモ・デ・メディチ主導の新貴族もこれを受けた。イタリアは危機に瀕し、一つになった。
11月11日、キプチャク・ハン国のクチュク・ムハンマド、カザン・ハン国のクルグ・ムハンマドに宣戦を布告。クリム・ハン国とジェノヴァを破り、かつてのキプチャクの栄光を取り戻したいと見える。
11月29日、リトアニア大公国(ガジミシュ大公)、エウフィーミー2世のノヴゴロド大公国と和平。リトアニアに有利な条件で、リトアニアは戦争に勝ったといえる。
同日、コンラート・フォン・エルリヒ団長率いるチュートン騎士団、カジミール1世のダンツィヒ共和国との戦いに敗れ首都をオステローデに移す。それと同時に和平。
12月26日、イタリア海軍のマルマラ海戦敗北のほうを聞き、ブワディスワフ4世のポーランド王国、オスマンを宴会の席で侮辱し、敵視する。
1454年1月4日、ファン2世のカスティリア王国とアラゴン王国に対抗するため、アブド・アル=ハック2世のモロッコとムハンマド・ヒンタータのマラケシュが盛大な宴会を催す。その際アブド・アル=ハックがヒンタータに送った大量の金が話題になり、逆にファン2世の野望を強める。
2月3日、冬季のため鎮静化していたラグーザ戦争もにわかに波が立ち始める。トレヴーゾがアーヘン自由都市の傭兵エドゥアルド・ファルケンベルクの軍勢に包囲される。
イタリア陸軍はナポリ軍が療養中、アルフォンソ・オルシーニのフェッラーラ―軍はラグーザ攻略のためアドリア海の対岸、マントヴァ軍はハンガリー軍と協力してトルコ領ヴィディンとセヴェリンを占領したばかりなのでバルカン半島。
焦った元首ブスカはローマ本軍を派遣。しかも将軍なし。
3月9日、ドゥルスン・ゼンダル率いるオスマン海軍第2艦隊15隻がカリアリの海岸を封鎖。これをチャンスと見た新貴族の筆頭メディチ家のコジモは元首ブスカに半場強制的にセヴァスティアーノ・ロレダン率いるイタリア主力艦隊34隻を向かわせる。イタリア海軍の力を思い知らせる機会である。マルマラの海戦の艦隊とは違い、ほとんどが大型帆船で大砲も積んでいる。戦闘に特化したイタリアの切り札だ。
同日、フランスで大規模な反乱がおこる。農民反乱で、フランスボルドーでブノワ・ペテューヌとニコラ=アンリ・ド・ボンヌフォワが同時に反乱。フランス軍はこれを撃滅。
3月14日、ヴァシリー2世のモスクワ大国国とウラジーミル・リューリコヴィチ大公のロストフ侯国が大規模な宴会を催す。少し前から両人の関係の良さは知られており、王家同士で結婚もしている。
同日、ヒスン・カイファのアル=シャイフ・サラーフ・アッディーンが白羊朝のシャハーンギールを侮辱、敵対関係となる。
4月3日、ミュンスター司教国で新司教フランツ1世ファン・エフモント就任
4月7日、デンマーク王クリストファ3世、ハインリヒ3世フォン・バルデリクのリヴォニア騎士団に宣戦を布告。大陸への進出が狙いと思われる。
同日、セヴァスティアーノ・ロレダンのイタリア主力艦隊、メッシーナ沖の海戦でオスマンの第二主力艦隊を完膚なきまでに破る。
イタリア中が歓喜に満ち溢れた。庶民から金持ち、元老院に至るまでが喜びに包まれた。
昼近く、セヴァスティアーノ・ロレダンはイタリア主力艦隊接近を聞いて逃げる途中のオスマン第二主力艦隊15隻に遭遇、そのまま先頭に入った。
風はシロッコ南風。イタリア海軍には向かい風だったが、セヴァスティアーノ・ロレダはマストをたたませ、大砲を打つはずの砲門からオールを出させ漕がせた。オスマンは大砲と小型船にかく乱され、7席以上の損害を受けた。司令官ゼンダルの旗艦も拿捕され、メッシーナ港に歓声に包まれイタリア艦隊は凱旋する。
コジモ・デ・メディチと新貴族派閥はさらに名声を高めた。なぜならこの計画はコジモが提案したものだからである。
逆に旧貴族は元首ブスカの派遣したローマ軍が4月30日フリウリで行われたラグーザのアメーデオ・サラカ率いる5000に戦いを挑み、勝てたはものの、5000の死傷者を出し大損害を被ったのをきっかけに、名誉をさらに損失していた。
1454年5月22日、スイスのパウル・オイクスターに対抗するため、サヴォイア公国のルドヴィーコ1世とラーフェンスブルクのエルンスト・オルトリーブと軍事同盟を結ぶ。
6月4日、ニュルンベルク自由都市のヴィリーハラー・フォン・ハラーシュタインとトーリア自由都市のヤコプ・フォン・シルクが中央集権を進めるプファルツ公国のルートヴィヒに対抗し軍事同盟を結ぶ。
同日、フランドルとイングランドの交易戦争は終わりを知らず、またもやフランドルが羊毛に輸出禁止処置をとる。
6月12日、ボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトがポーランドの王位を要求。
6月19日、ルネサス巻き起こるイタリアで技術爆発。さらに経済はよくなる。
6月29日、技術爆発とともにイタリアに歴史的ブドウの豊作。世界一のワイン産出国となる。
1454年7月4日、トーリアとニュルンベルクに対抗すべくプファルツ公ルートヴィヒ4世、アウクスブルクのペーター・フォン・シウムベルクと軍事同盟。
1453年7月20日、セヴァスティアーノ・ロレダン率いるイタリア第一艦隊、ムラト・パシャ率いるオスマンの艦隊にエーゲ海で圧勝。
やはりイタリアの主力艦隊に勝る海軍は地中海の波が洗う土地には存在しなかった。34隻の艦隊は一隻も傷を負うことなく15隻を撃退した。イタリア本国でもガレー船22隻の建造が完成間近だった。
1454年8月26日、セルビア専制公ドゥラド1世死去。
ドゥラド1世は悲劇の君主であった。父公スチェパンの跡を1427年に継いだが、オスマンとの戦いに敗れナーンドルフェヘールヴァル州を失い、首都をブラニチェヴォに移した。専制公は息子ラザル2世が即位。この男は33歳で父とは違い非常におしゃべりで道化とあだ名されていた。
9月1日、アブド・アル=ハック2世のモロッコは親友であるヒンタータの治めていたマラケシュをこの日、ヒンタータの死とともに併合。モロッコは拡大した。
9月8日、リガの司教にヨハン4世アルランブルクが就く。
1454年9月12日、オスマン領征服部隊であるイタリア・ハンガリー合同軍、セヴェリン近郊でオスマン帝国に大敗。
セヴェリン陥落させていたイタリア・ハンガリー軍はぬかっていた。マムルークの支援を受けたカラマン侯国が帝国に反旗を翻し、アナトリアを次々と占領していた状況でまさか辺境の地を占領されたくらいで来るとは思えなかった。しかしオスマンの陸軍は膨大な数を抱えている。
武勇で誉れ高いアラジン・アマシャーリ率いるオスマン軍1万6千は2万6千のイタリア・ハンガリー軍に勝った。オスマン側は3313、イタリア・ハンガリー側は1577の死傷者を出した。この戦いでベネデット・ディ・ブスカの計画していた和平交渉は台無しとなり、新貴族はさらにその勢いを増した。
10月10日、スイスのパウル・オイクスター、スイスでの熱心な布教に感謝し、ザルツブルク司教ベルンハルト1世に贈り物。この金は対イタリアへの軍資金として使われた。
10月29日、ボスニア国王スチェパン・トマオストイクが死去。彼もまた非元気の君主であった。オスマン帝国との戦いでヴァルナで負けて以来、欝を患った国王は悲劇の中に死んだ。新国王にはスチェパン・トマエコヴィク・ユトロマニッチが就いた。彼は優秀な軍人で、幾分か王国の名誉を取り返してくれるだろうと予想されている。
10月31日、ローマ本軍がミラノに攻撃を仕掛けていたエドゥアルド・ファルケンベルク率いるニュルンベルク軍と戦い、なんと惨敗。1万6000のイタリア軍は8197の損害を出し、撤退。またもベネデット・ディ・ブスカの名誉は傷ついた。
しかしミラノは占領されることはなかった。12月1日、フニャディ・ヤノーシュ率いるハンガリーの軍勢が彼らを破り、敗退させたからだ。総司令官エドゥアルド・ファルケンベルクは撤退中にハンガリー兵に殺された。
エドゥアルド・ファルケンベルクは1412年ニュルンベルクに生まれた。父親はコンラートといい、母は地元の有力地主の娘であるらしい。もともとはニュルンベルク司教の伝令役を職としていたが今回の戦争で人手不足により戦地に赴いたのである。傭兵に対する正確な支払いと伝令役の時に知り合った多くの農村出身の兵たちが軍の大半を占めていたため軍の指揮を高く保ち、イタリア軍主力に勝利するなど並々ならぬ指導力を発揮した。
名称フニャディ・ヤノーシュ率いいるハンガリーとの戦いで敗走中にハンガリー兵に周りを囲まれ殺された。しかし彼の首はハンガリー軍側には渡らなかったようで、実際死んだのかはわかっていない。ひとえに彼の兵装が司令官にしては貧しいものであったということが主な要因だ。
1454年12月1日、リトアニアで大規模な貴族反乱がおこる。モージリウスではアジュオラス・ライスケヴェシス伯爵、トゥルヴァス・ヴォイルネ両州では2万3千もの反乱兵を従えリナス・リエトヴィス辺境伯が立ち上がる。
寒害の影響で収入が低下したのもあるが、やはりノヴゴロドとの戦争が後を引いているらしい。公の右腕ともいわれたリトアニア東部辺境伯リエトヴィスの反乱に、事の重さを悟ったリトアニア大公ガジミシュ自らが出陣する。
1454年12月13日、ファン2世のカスティーリャ王国、勢力を拡大するアブド・アル=ハック2世のモロッコに対して禁輸処置。
1454年12月13日、イングランドがフランスへ禁輸処置。
1455年1月15日、チュニスの海賊にシラクーザが襲われる。
先のチュニス戦役で休戦を結んでいたチュニスをはじめとしたフェザーンやトレムセンだが、休戦協定が切れたと同時に大挙して海賊が押し寄せた。シラクーザはまだ軽度で済んだが、29日、フェザーンに襲われたサッサリとカリアリはひどいもので、故エルメス・オルシーニの要望で新設されたイタリア海軍ガレー船艦隊22隻の最初の仕事は海賊狩りとなった。
1455年1月21日、永久に続くブルターニュ・プロヴァンス公国戦争でプロヴァンスはユトレヒトと休戦までこぎつけた。ブルターニュとの戦いは続行された。
同日、モスクワ大公ヴァシリー盲目公はベロオーゼロ大公ミハイルと友好を宣言、ロシア諸国の団結を強める。
1455年、2月17日ユトレヒトのフィリップ・ファン・ヘーネゴウエン司教はリューベック自由都市のヴィルフリート・ヴィックに対抗するため、フェルデン侯国のヨハン・アドルフ4世を見方につける。
1455年3月12日、ラグーザ近郊でハンガリー軍フニャディ・ヤノーシュ率いる1万3千とアラジン・アマシャーリ率いるオスマン軍が衝突。大規模な戦闘となる。
最初、オスマンは高台を取り戦いを優位に進めるが、中盤になって総司令官アマシャーリの騎兵隊は勝利を確固たるものにしようと高台を捨て突進する。それを見たフニャディ・ヤノーシュも騎馬隊を従え突撃。両司令官が戦うという詩的な戦場となる。一騎打ちという形だった。激しく馬上で歯を交えた両司令官だったが、最終的にフニャディ・ヤノーシュの放った石弓がアラジン・アマシャーリの肩に刺さり、落馬。命は何とか彼の近衛騎馬隊が助けたが、司令官の負傷をど真ん中で見せられたオスマン軍はひるんだ。そのすきを突きハンガリーは猛攻。援軍であるアルフォンソ・オルシーに将軍が到着したときはすでにオスマン軍は撤退していた。
この戦いは長らく戦役に苦しんでいたラグーザ市長ジョルジュ・ボスコに決定的な失望を埋め込んだ。
1455年3月16日、リトアニア、モスクワを敵視。
リトアニアでの貴族反乱はほぼ鎮圧され、ヴォイルネ近郊の戦いでガジミシュ大公がリエトヴィス辺境伯を破り、辺境伯が最後の抵抗を行ったヴォイルネの陥落で反乱は完全に終結した。とらえられた辺境伯の口から反乱はモスクワ大公国の支援があったからという証言が出たため、このようなこととなった。モスクワ大公ヴァシリーが関与を否定したのは言うまでもない。
1455年3月28日、カリャリを大規模な飢饉が襲い、死者が多数出る。政府は7万800ドゥカートもの金額を贈与した。
海賊行為はなくなったが、働き手である若い男が海賊にさらわれたため、もしくはイタリア南部方面軍に徴集されているため、主産業である牧畜ができないのだ。戦争の影響はすでにイタリア各地にみられた。これ以上戦争が長引けば経済や私生活にまで影響が出てくる可能性があった。イタリア政府はここで初めて外交的手段に転ずる。
1455年4月4日、ラグーザ交易戦争、終結。
1453年9月13日に始まったラグーザ交易船そうはついに終結した。ラグーザ市も、オスマン帝国も、イタリアも、ニュルンベルク司教国もアーヘン自由都市も戦争に疲弊していた。ハンガリーの摂政フニャディ・ヤノーシュだけはやる気十分で、この知らせを聞いたとき憤り、国王アルブレヒト2世の前にもかかわらず‘‘寝取られ女の息子め!‘‘とキリストを侮辱する言葉を漏らしたそうであるが、国王が下痢を起こしていたため、おとなしくラグーザ市の包囲を解いた。
ラグーザとの会談は元首ベネデット・ディ・ブスカの父親、ガレアッツォが取り次いだ。わざわざアレクサンドリアから出向いたのだ。和平条約の内容はこうである。
・アーヘン自由都市、ニュルンベルク司教国はその経済力をイタリアとハンガリーに提供する。
・ハンガリー・イタリア軍が占領したバルカン半島のオスマン帝国領は直ちに返還される。
・ラグーザ市は向こう10年間イタリア共和国に収入の1割を賠償金として払うこと。
・ラグーザ市は独立国家として認められる。
・ラグーザ市にイタリア軍が駐屯することを認める。またラグーザ港をイタリア海軍が使用する権利を与える。
以上である。ラグーザ市評議会と市長ジョルジュ・ボスコはこれを認めた。
結果としてラグーザ側、死傷者27661人、撃沈もしくは航行不能となった艦艇22隻、イタリア・ハンガリー側死傷者27544人、撃沈22隻となった。
イタリアはラグーザの交易市場をハンガリーと独占した。イタリア国会では戦争終結に安どの声が漏れ、会議をまとめたガレアッツォ・ディ・ブスカの功績をほめたたえた。元老院での報告でガレアッツォはこう報告している。
‘‘この度の戦争は、何も元首であり、我が息子ベネデット・ディ・ブスカだけの責任ではない。元首にも過ちがあったことは確かである。だが我々は建国以来共和制の国である。一人の人間を責めることはできない。我々の海軍はマルマラ海で敗北しました。建国以来我々の軍は敗北と本当の戦争になれていません。この敗北は後を引くでしょう。・・・・・・最後にこの度の無謀で、我が海軍の権威と士気を低下させ、多くの若いものや戦争に関係のない市民を死に至らしめた戦争は我が国の外交技術と元首制度の不敗、戦争というものの在り方が変わってきていることの証拠であり、我々がこの戦争に学ばなければ、我が国の共和制や存続そのものを脅かす原因となる恐れがあるということを、ここに意見具申させていただきます。‘‘
ガレアッツォ・ディ・ブスカはこの3か月後、1455年7月15日、アレクサンドリアで没した。彼はそののち伝説の外交大使として外務省のあるローマ・コンスルタ宮殿に石像が置かれる。ゆえに彼の人生をここに書き記したい。
ガレアッツォ・ディ・ブスカは1370年4月9日、ミラノで政治家の名門ブスカ伯爵家に生まれる。父は元老議員ダニエリ、母は名門ヴィスコンティ家の女。
パドヴァの法学部を卒業し、元老院時代は旧貴族派閥を率い、かなりの攻撃的口調で新貴族と争った。ニコポリス十字軍の時に教皇からの多額の費用と出兵を命じられた際、賛成派をこう一括した。有名な名言である。‘‘まずイタリア人、その次にキリスト教徒‘‘
息子ベネデットを34歳の時にトッレ家出身の妻ルクレツィアとの間に設けた。1444年には息子に勢力のリーダーを譲り、自信は外交大使として各地を来訪、各国の政治や歴史を見て回る。アレクサンドリアでスルタン・ムハンマドに気に入られ、イタリアの貿易独占権を認めさせた。
彼の名言‘‘まずイタリア人、その次にキリスト教徒‘‘は国会で議論が白熱すると必ず叫ばれるようになり、彼の名はイタリア外務省の、彫刻家アンドレア・ピサーノ作の石像とともに永久に残される。
1455年4月10日、イングランド、フランドルにまたもや追加禁輸処置。
1455年4月27日、チュートン騎士団のコンラート・フォン・エルリヒ団長、デンマーク王クリストファ3世に敗れ、賠償金を払うことで和平を結ぶ。
ケーニヒスベルクの戦いで惨敗を喫したチュートン騎士団は1453年の11月29日に首都であり本部のあるケーニヒスベルクを奪われていた。雪が降り注いでいたため、騎士団の主力の騎馬が足を取られたのだ。
この地にキリスト教を広め、北方十字軍や対モンゴルの戦いを生き残った騎士団にとってみれば屈辱であった。
1455年4月30日、フランス王国、イングランドに報復関税。
イギリス経済圏の覇権を狙うフランス、イングランド、フランドルの暴走は止まらない。
1455年5月17日、モスクワ大公国のウラジーミル盲目公、ペルミ地方の再征服の名目でウルグ・ムハンマドのカザン・ハン国に宣戦を布告。カザンはリトアニアとキプチャクとの争いで弱っている。
1455年5月20日、プーリア地方のバーリで兵士徴収名簿に偽りの名前が多数。政府処罰に踏み切り、プーリア州知事フェデリーコ・バディーロとバーリ農村部の住民13人が逮捕される。
プーリアは昔からなだらかな丘が広がる地方で、権力者や貴族が鷹を使った狩りをする定番の場所だった。主産業は農業と港町バーリでの交易。
このバーリをはじめとしたプーリア地方は収入と就業率がイタリアで最も低く、貧しい地方として知られていた。知事フェデリーコは徴兵の免除を申し出ていたが元首の耳には届かなかったようだ。
バーリの市民は政府のこの対応に不信感を募らせ、旧貴族派閥の南部での支持基盤の一つがなくなった。
1455年、モロッコのアブド・アル=ハック2世、タフィルラートを併合。
カスティリアの脅威に対抗するために、モロッコはさらに南へと領土を広げた。
1455年6月2日、リャザン公国のイヴァン・フョードロヴィチ・リューリョコヴィチはダンボフの征服を掲げ、キプチャク・ハン国に宣戦を布告した。すでにクリム・ハン国とカザンに大部分をキプチャクは占領されていたが。
1455年、盟友イングランドをランカスター朝とヨーク家の内部分裂で見限ったシャルル1世突進公のブルゴーニュ公国、対フランスへの協力を請うため、ヌヴェールのジャン2世に贈り物。
1455年6月26日、ブルターニュ公国のフランシス1世、教皇領アヴィニョンの独立を条件にプロヴァンスと和平。
アヴィニョンの包囲戦で敗れたプロヴァンスは財政と公ルネ1世の体調がさらに悪くなっていったためブルターニュの要求に屈し、教皇領アヴィニョンを返還した。
バーゼル公会議戦争またはアヴィニョン占領以降、教皇エウゲニウスはローマにも、アヴィニョンにも帰れなかったため、最初はフィレンツエのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、次いでアッシジのサン・フランチェスコ修道院、モンテカッシーノ修道院を転々としていた。ローマはフランス王の傀儡であるフランス人枢機卿に占拠されていたので戻れなかった。
フランス王の要求を呑んで、対立教皇アメーデオに教皇位を返還された後も、あまりの屈辱に怒っていた彼は、ローマには帰ろうとはしなかった。
アヴィニョン返還を聞いたときには、十字軍説を熱唱し、異教徒を悪魔と叫んでいた時が大昔のように思われるほど精神をすり減らしていた。それでもヴァティカンに入城した彼は何事もなかったようにいつも通りの生活に戻った。イタリア元老院の要求で住民の視線を避けるため、深夜の、しかも市街地を通ることのないトラステヴェレ地区からのローマ入城だった。
1455年6月30日、プロヴァンス公ルネ1世、財政悪化に伴い、フランス王にフォルキエを売却。
ブルターニュ公フランシスとの戦いに敗れたルネ公は善良王とあだ名されるだけあり、フランス王ルイ11世の真の野心を知らずに、ルイに領土を明け渡した。
フランス王の真の目的とは、すなわちプロヴァンス公国、そして同じルネが治めるロレーヌ、ヴァロワ、アンジュ―のフランス併合である。
ルネ公はブルターニュ公フランシスにアヴィニョンの戦いで捕虜にされたときの病が悪化し、療養のため宮廷とともに南フランス・プロヴァンスに移った。
1455年7月1日、猛烈な元老院の反対を押し切り、シニョリーア(内閣)と元首ベネデット・ブスカ、教皇庁に独立保障。
新たに独立した教皇領アヴィニョンに次の教皇もイタリア人を据えるため、影響力を行使しておこうと考えたのだ。
1455年7月8日、イングランド王国、デンマーク王国に禁輸処置。
イギリス海峡経済圏をめぐる争いに、フランドル側についてデンマークが参加したためと思われる。
1455年7月19日、バイエルン選帝侯アルブレヒト3世、イタリアとの戦争で疲弊したにザルツブルク司教国のベルンハルトに宣戦布告。勝敗は明らかである。バイエルンは神聖ローマ皇帝を選ぶことのできる選帝侯国である。バイエルンにニュルンベルクのヴィリーハラー・フォン・ハラーシュタイン、マインツのアルブレヒト2世、メミンゲンのオットーシェンクがバイエルンについた。
だがことはそう簡単には決しなかった。1455年7月20日にはオーストリア大公にして神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がザルツブルク側で参戦した。
バイエルン選帝侯アルブレヒト3世の目的はこれであった。神聖ローマ皇帝を退位させれば、次の皇帝は彼のものだからである。帝国は明後日の方向に向かって戦乱を突き進んでいた。
1455年7月20日、マクデブルクでルドルフ1世即位。46
ギュンター2世司教が井戸に落ちて73歳で溺死したため、彼の右腕とマクデブルクで言われた修道院長である彼が後継者として即位した。
1455年8月6日、プロヴァンス公国、スイスと敵対。
宮廷内でルネ公の会計係であったスイス人が多額の金を着服をしていたのが発覚し、そのスイス人がスイス内に逃亡した。スイス人の引き渡しを要求したプロヴァンス公国の要求をスイスが拒否したため、両国は嫌悪な関係となった。
1355年7月23日、オーストリア大公フリードリヒ3世、スイスから傭兵部隊を2370ドゥカートを払い雇う。
スイス兵の強さは欧州の国々の知るところで、その傭兵部隊はバイエルン公アルブレヒト3世の軍を撃退した。
1455年8月7日、メルケンブルク大公国のハインリヒ4世に敗れたハンブルク自由都市のハートヴィン・ティーデマン、賠償金を引き換えに和平。北ドイツも戦乱が続く。
1455年8月25日、サヴォイア公国で幼き公爵フィリッポ2世(4)を助けるため、母親であるアリーチェ・アルチンゴッリが摂政として政治を執り行う、アリーチェは美人として知られているが、夫亡きあとは貞淑を保っているらしい。
1455年、9月11日、教皇庁内で教皇エウゲニウス、自信の力を強めるため、聖職者の権限を一部抑制すると発表。
これはイタリア元老院の教皇庁に対する影響力増強と深く結びついている。教皇エウゲニウス4世と元老院はイタリア人枢機卿を利用し、当時教皇領を牛耳るフランス人枢機卿に対抗するため、枢機卿会議を開いた。議題はヴァティカン宮殿のカギを誰に預けるか、ということである。
ヴァティカン宮殿は教皇の住まいとして使われるだけではなく、緊急時の避難回路や当時はフランス人のパリの枢機卿アンリ・ド・ヴァロワが持っていた。名の通り、フランス王家ヴァロワ出身である。
白熱した議論の結果、翌12日に鍵の持ち主はイタリア人のジェノヴァの枢機卿アレッサンドロ・ドーリアと可決され、フランス人枢機卿の影響力は薄れた。
ジェノヴァの枢機卿は時期イタリア共和国元首最有力候補セヴェリーノ・ドーリアの甥である。
1455年9月14日、摂政アリーチェ・アルチンゴッリの治めるサヴォイア公国、フランシス1世の治めるブルターニュと同盟。ブルターニュのフランシス1世は以前からアリーチェに好感を抱いており、摂政アリーチェはそれを利用して不安定な摂政政治国家サヴォイアを安定させたいと考えていると思われる。
1455年9月15日、フェルデンのヨハン・アドルフ1世司教、リューベック共和国のジルフリート・ヴェックに敗北し、賠償金を払い和平。
9月20日、白羊朝のシャハーンギール、トレビゾンド皇国のヨハネス4世コムネノスと白紙和平。
1455年9月25日、プロヴァンス公ルネ、オルデンブルクのクリスティアン6世と同盟。
1455年10月1日、モスクワ大公国のヴァシリー盲目公、ロストフ大公国の内乱に介入し、ロストフを併合。
ロシア諸国の中ではモスクワ大公国が最も力ある国家として台頭した。
1455年10月23日、イメレティ王国のジョルジョ2世、グルジア王国を征服。
コーカサス地方で長く続いていたコーカサス2大大国グルジアとイメレティの戦いは、イメレティのグルジア征服で終結した。
1455年11月10日、イングランド王国、フランドルに追加の禁輸処置。
フランドルはブルゴーニュ公シャルル突進公の治める同君連合の国である。ここには欧州でも有数の羊の産地があり、イギリス海峡貿易でもかなりの利益と割合を占めているものである。
イングランドのヨーク家はランカスター朝に対抗するため、ブルゴーニュとランカスター朝時代の王たちの関係を解消するため、このようにわざと貴族評議会でブルゴーニュに損になることをしているのだろう。
あるいはただただ単純にイギリス海峡貿易を独占したいのか。
11月14日、勢力を拡大したジョルジョ2世のイメレティ王国、白羊朝を牽制、敵対。
グルジア王国を征服したイメレティ王ジョルジョはさらなる野心を中東に向けた。カフカスに沿う形で広がる国土では農業はうまくいかない。ほかの土地を征服するしかなかった。
1455年11月20日、冬の議会総選挙、ダシリエレ開催に伴い、ラグーザ交易戦争時の約束に基づき、元首ベネデット・ブスカ退陣。
新たな元首が選ばれることとなった。戦争時のような、新貴族と旧貴族派閥は解消していた。しかし、1442年のイタリア共和国建国以来、元首が死を迎えるまで務めた事例は初代のピエトロ・レオポルド・ディ・ボルゲーゼしかない。ほかの元首はみな任期途中で退陣した。
ここで一度イタリア統一について話すことにする。
イタリアは西ローマ帝国崩壊以来、北からのロンゴバルド人の建てたロンゴバルド王国、教皇領、ビザンティン領が縞模様に支配されていた。
のちに南イタリアにはノルマンディア出身のノルマン人の王朝ホーエンシュタウヘンがアラヴ人に征服されたシチリア島とビザンティン領南イタリアを平定し、中部イタリアにはフランク王ピピンの献上した多くの領土を加えたローマ教皇庁、北中部と北部にはフランク王国(神聖ローマ帝国)に支配された。
しかしカール大帝の死後、帝国は急速に分裂し、イタリアに対する影響力は減った。これを機に、イタリアの諸都市が国家として台頭する。大変な数だ。のちに神聖ローマ帝国がこれらの都市を奪還しに来るが、教皇との争いやロンバルディア同盟など、処暑の障害でイタリアの諸都市国家を従えることはなかった。
次第に3つの都市国家が群立状態のイタリア北部をまとめ上げた。海洋貿易でイスラームとの貿易から莫大な富と強大な海軍を保有するようになったヴェネツィア共和国、鉄鋼業とその強大な軍事力で北イタリアロンバルディア地方を支配したミラノ公国、金融業とメディチ家によってトスカーナ地方に台頭したフィレンツェ共和国である。
これに教皇庁と、教皇との争いに敗れてホーエンシュタウヘン長が倒れ、新たにフランス人の王を迎え入れていたナポリ王国を加えて5大国という。
5大国はそれぞれイタリアの覇権をめぐって戦争を繰り返した。このままではイタリアは永久に統一されなかったであろう。だが機会が訪れる。
1442年、アラゴン王アルフォンソ5世がナポリ王国の利権を主張し、当時の王朝の王であったルネ1世と戦争を始めたのだ。結果はアルフォンソが勝ち、アルフォンソ5世はアルフォンソ1世としてナポリ王に君臨しそうになった。
だがこれをナポリと南イタリアの市民は受け入れなかった。ルネ王(現在はプロヴァンス公ルネ)は‘‘ル・ボン‘‘(善良)とあだ名されるほど民に寄り添い、無理のない税制や兵役をナポリ全土に敷いていた。外国人が王国を統治する際には当然のこととルネ王は考えていた。しかし、アルフォンソ王はそうではなかった。まるで征服者のように入城し、即位式での過酷な統治とアラゴンの属国になるという宣言をした。これでイタリアは第二次シチリアの晩鐘(シャルル・ダンジューがホーエンシュタウヘン長を倒してシチリア王となった際、その統治に不満があったシチリアの住民が晩鐘を合図に蜂起し、ダンジュ―朝を追い出した事件)といわれたナポリ蜂起を実行し、アルフォンソ王は這う這うの体で逃げ帰った。
こうしてナポリでは共和制が採用され、暫定政府が仕切ることとなった。
これに教皇庁他イタリアの大国が注目した。誰しもが不安定なナポリを手に入れたがった。
メディチ家のコジモとヴェネツィア共和国のフランチェスコ・フォスカリ、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの3か国同盟が1442年に教皇庁とナポリ暫定政府も含めたイタリアの将来について考える会議を招集を提案、教皇庁もそれに乗り、ナポリも参加した、イタリア5大国は北部イタリアの小都市ローディに終結した。
最初はナポリの王を誰とするかで議論がなされていたが、ナポリ代表アルフォンソ・クックルーロの演説で会議の雰囲気はがらりと変わった。それはイタリア統一構想であった。
以前からフィレンツェの僭主コジモとミラノのフィリッポ・マリーアはフィレンツェとミラノの合同を検討していた。オスマンに押され気味のヴェネツィア共和国の元首フランチェスコも、彼個人だけならば賛成していた。反対したのは教皇庁である。教皇庁はナポリ他3か国が統一に乗り気なのを察し、早々に会議自体から離脱し、ローマに帰った。だが教皇をローマで待ち受けていたのはサン・ピエトロ大寺院の大門周りの大崩落であった。ローマ市民は恐れおののき、枢機卿も幾人かなくなっていた。教皇エウゲニウスは一時フィレンツェのサンタマリアノヴェッラ教会に居を移した。だがことはそう単純ではなかった。ローマの市民は教皇が自分たちを見捨てたのではないかと疑心に駆られた。サンピエトロの修復も一向に行われなかった。直すだけの資金が教皇にはなかったのだ。これにローディの和平のメンバーが目を付けた。コジモ・デ・メディチは自信の莫大な資産とフィレンツエの腕利きの芸術家を送ると教皇に呼びかける。その代償は教皇領のローディ和平への参加である。だがそれでも教皇は参加を拒絶し、それに起こった市民とコロンナ家が反乱を起こしローマを占領しローディ同盟への参加を希望した。
こうして1442年イタリア全国が参加するローディ連合が成立する。完全な統一国家ではないが、連結体ではある。ローマには対立教皇フェニックスが入城した。
連合はヴェネツィアの案を採用し、元老院と元首が主席を務める。またミラノの意見を反映し、元首は終身制となり、フィレンツェの文化を基に、頻繁な信任投票と議会選挙が行われる。元首にはローマとナポリを尊重し両国の血を引く貴族、ピエトロ・レオポルド・ディ・ボルゲーゼが務める。
このままでは連合体ローディ連合という名前になるはずだったがさらなる機会が訪れる。
1443年5月6日、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが病死する。こうしてヴィスコンティ家は断絶し、彼の遺言からミラノ公領はローデイ同盟の直接の指揮下に置かれた。ミラノ公爵の称号は公に長く仕え、またアルフォンソとの戦いなどの功績でローディ連合の将軍となっていたフランチェスコ・スフォルツァが継いだ。
1443年10月3日にはヴェネツィアとフィレンツェの学者たちがイタリア統一時のイタリアの国力を計算し、その結果がかなりの大国、特に経済面では随一の国となることを公表し、ヴェネツィアやフィレンツェの商人の興味を集める。実はコジモとフランチェスコの流した噂なのだが。
1443年12月10日、ヴェネツィア共和国元老院、フィレンツェ共和国、ナポリ暫定政府フランスやアラゴンの大国に対抗するため、少数勢力の反対を押し切り政府を解体、ローディ連合に自主併合される。ヴェネツィアはクレタやイストリア、ダルマツィアを領土として残し、そこに政府を移した。ヴェネツィア商人はローディ連合かヴェネツィアかに分かれた。
1444年5月4日、各地で民衆のイタリア統一運動がおこる。ジェノヴァ共和国が参加を最初に申し入れ、貴族の称号と宮廷での暮らし、軍の指揮権と引き換えにフェッラーラのエステ家やボローニャのベンティヴォリオ家、マントヴァのゴンザーガ家が承諾、ルッカ、パルマ、モデナも共和政体を解体し、連合に入った。
最後まで参加しなかったサヴォイア公国では、イタリア半島にある領土で反乱がおき、独自に連合への自主併合を望んだ。
こうして1444年11月20日、最初のダシリエレ(総選挙)でピエトロ・レオポルドが初代元首としてローディ憲章を発表、と同時にイタリア共和国建国を宣言した。
1455年11月20日に戻ろう。建国から11年しかたっていない不安定なイタリア共和国をまとめ上げてるのにふさわしいのは王のような英雄である。例えばコジモ・デ・メディチやナポリのアルフォンソ・クックルーロ、イタリア共和国陸軍総司令官フランチェスコ・スフォルツァである。
しかしローディ憲章では元老院議員にダシリエれで選ばれたものしか元首にはなれない、と定められている。イタリアの共和政体を守るため、そこは徹底されていた。コジモ・デ・メディチは銀行家でトスカーナ州知事ではあったが、元老院議員には生涯選出されることはない。クックルーロもスフォルツァにしても同じことが言える。
ゆえに大貴族ではなく、平凡でなおかつ果断で指導力に富む男が求められた。
結果、上記の要項全てに当てはまる、先代の元首ドーリアの甥、ランディ伯セヴェリーノ・ドーリアが選出された。そして今季から元首の権限は縮小され、顧問2人が監視役につけられた。顧問は十人委員会から選ばれる。
シニョリーアはミランドラ伯ナポレオーネ・ピーコが外務長官、ブスカ元首のシニョリーアで内務長官を務めたラニエロ・デッラ・ウバルディーニが引き続き内務長官を、ヴェネツィアのカスパル・コンタリーニがサンマルコ長官、ローマのファブリッツィオ・コロンナが国防長官となった。
十人委員会はトスカーナ州知事コジモ・デ・メディチ、ピエロ・カッポーニ,ヤコポ・パッツィ、パチェントロ伯ジュリアーノ・オルシーニ、ガレアッツォ・トッレ、マッテオ・リドルフィ、アゴスティアーノ・ロンディ、元首補佐2名、マルコ・ファルネーゼ、バルトロメオ・アッチャイウォーリそれと元首ドーリアである。
ベネデット・ディ・ブスカは元老院議員には選ばれたが、それを辞退した。
ベネデット・ディ・ブスカは1404年、高名な外交官ガレアッツォとミラノの貴族トッレ家のルクレツィアとの間に生まれる。
1444年に父から旧貴族派閥の指導を任され、邁進するが、父の様にはうまくいかず元首に選出されるも失政が目立った。
ダシリエレの翌日、ひっそりとローマを出、ミラノの近郊のブスカ伯爵家の別荘にこもる。息子ロレンツォは元老院議員を務めるが、生涯歴史に名を残すことはなかった。1464年、60歳で同別荘で静かに息を引き取る。
1455年12月14日、冬季に伴い、キプチャク戦役終結。
キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)のクチュク・ムハンマドはハジ1世のクリム・ハン国とウルグ・ムハンマドのカザン・ハン国に大敗した。
マジャルをクリムに、タンボフ、サトラフ、ベルジャメン、エトカラ、ウチクという国土の大半をカザンに奪われ、首都をベルジャメンから草原の小都市リソグレースクに移す。
1455年12月19日、モスクワ大公ヴァシリー2世1世盲目公、死去。
ヴァシリー2世大公は1415年3月10日、先代のヴァシリー1世とリトアニア大公の娘ソフィヤの間に生まれる。
祖父ドミトリー・ドンスコイの遺言から叔父ユーリー・ドミトリエヴィチと父の死後戦い、内戦中に負け続けたものの、モスクワの諸氏族の支持を受け、ユーリーを退け、モスクワ大公となる。しかしカザン・ハン国の援軍とその代金で大貴族の不満を招き、1445年ユーリーの息子、ヴァシリー・コソイとドミトリー・シェミャーカにやぶれ、目をつぶだれたうえ、幽閉される。しかしシェミャーカの悪政により再び大貴族からの支援を受け、1450年にガーリチを陥落させ、1453年にシェミャーカを毒殺し勝利した。
そして40歳の時、病の治療で受けた焼けた木片を肌に受ける治療で、やけどが化膿し、それが元で死んだ。
大公位はのちに雷帝と評されることとなるイヴァン3世が15歳で継いだ。
1455年12月26日、ドイツのファルデンでバルドウィン3世が38歳で司教となる。
1456年1月10日、ケルン大司教国の選帝侯にして大司教マクシミリアン・フリードリッヒ3世が46歳でケルンで即位。
1456年2月8日、トレムセンのアフメド2世、ラグアット征服を掲げ、トゥーグラのムバラク・ベニ・ドクジェラブに宣戦布告。フェザーンもトレムセン側で参加する。
1456年5月2日、イングランド、フランドルに追加の禁輸処置
1456年5月5日、アナザのアブドゥッラー、ナジュドと同盟
1456年5月15日、ジャンダル侯国の首都スィノブ、アラジン・アマシャーリ率いるオスマン軍の猛攻についに陥落。
カラマン侯国の反乱、ラグーザ交易戦争、ワラキアの反乱でオスマンは危機的状況に立たされていたが、スィノブの陥落で一気に反撃に転ずる。
1456年5月19日、イタリア元老院にロレーヌからの軍事通行許可の知らせが届く。イタリア元老院はそれを否決した。
1456年5月24日、首都スィノブを明け渡し、服従を申し出、ジャンダルのイスマイル・ベグ、オスマン帝国のメフメト2世と和平。
1456年6月30日、イタリアの異常な葡萄産出、減速
イタリアはルネサンスによって技術爆発を起こしていた。ラグーザ交易戦争中、歴史的な産出量を記録した葡萄酒は、一時価格が暴落、政府まで対応した。イタリア元老院の熱心な買い占めで、葡萄酒の価格が安定したが、それでも葡萄酒の世界における産出はイタリアがけた違いで一位だった。
1456年7月1日、ジャンダルのイスマーイール・ベイ、キプロス王国のジャン2世と同盟。
オスマンとの戦争でスィノブを取られ、オスマンの野心の矛先の一つとなったジャンダルはキプロス王にして、十字軍国家の血を継ぐジャン2世と同盟したが、十字軍家系ルジニャン家がイスラーム国家と同盟したことに各国の非難が相次ぐ。
1456年、7月29日、オスマン帝国のメフメト2世、カラマン侯国のイブラヒムと白紙和平。
一時マムルークの支援を受けたカラマンは南部アナトリアを占領するも、ジャンダルの首都スィノブを陥落させたアマシャーリ率いるオスマン本軍に敗退を重ね、ここにきて白紙和平を結んだ。オスマンもワラキア反乱やマムルークに負けた海軍の補修で戦争続行は無理であった。アナトリアは小康状態となった。
1456年8月6日、白羊朝のシャハーンギール、ジャンダルのイスマイル・ベイとの同盟でオスマンを牽制。
1456年11月3日、ジェノヴァ共和国でアントーニオ・マリーア・ロンゴが総督として即位。
半ばイタリアの属国とかしたジェノヴァはクリム・ハン国との戦争で打撃を受けており、この危機をどう対処するかが新総督には期待される。
1456年11月11日、ラグーザ市長ジョルジョ・ボスコが死去。
ジョルジョ・ボスコは1408年、同市で生まれる。黒海貿易で商売を行っていたが、市長に任命されてからは共和国評議会議長として職務をごく普通にこなした。
ラグーザ交易戦争でイタリアとハンガリーに屈辱的敗北を期し、和平の年にがんを患い、死去した。
新たな市長にはルドヴィーコ・ボーナが務めることになった。この男は親イタリア派の筆頭で、イタリア共和国元首ドーリアの親友でもある。
1456年、11月14日、オットー一世がザクセン選帝侯に即位。当時21歳。
若き選帝侯に民衆は沸き返る。
1456年11月23日、黒羊朝のシャハーンシャーはマムルーク朝のムハンマド3世を敵視。
1456年12月1日、ザクセン選帝侯オットー1世、市長アルブレヒト・ヴィクのリューベック自由都市に対する野心を示す。
1457年1月3日、ザクセン選帝侯オットー、ハンブルクに対する野心も示す。
戦役であれる北部神聖ローマ領、すなわちドイツだが、各都市が戦役で弱っているこのすきに、オットー選帝侯はこの領地を支配したいと見える。
1457年1月7日、バイエルン戦役終結。
結果はバイエルン選帝侯アルブレヒト2世の大敗である。ザルツブルク司教国とバイエルンの国境紛争で、小規模戦争で終わると思われたこの戦争は、皇帝国オーストリアやその他多くの国とバイエルンが対決した大規模戦争になった。
この戦争の最大の意味はスイス傭兵の活躍である。
バイエルン選帝侯アルブレヒトは皇帝まで敵に回したがさしたる危機感を抱いていなかった。バイエルンは帝国内ではザクセンに次ぐ軍事力を誇っていたのだ。ザルツブルク司教領の軍など気にも留めていなかっただろう。少し前にオーストリア大公にしてローマ王フリードリヒ3世がザルツブルクとスイスの友好を利用してスイスから軍勢を雇っていたが、アルブレヒトは田舎者のスイスと思い、特に懸念しなかった。
バイエルン軍とザルツブルク軍はインゴルシュタットで相まみえた。ザルツブルク軍は歩兵が中心で皇帝から貸し出されたスイス傭兵がほとんどを占めた。
バイエルンの騎馬隊が正面から総攻撃をかけた。通常なら歩兵はかく乱され、バイエルンの後援の歩兵部隊がそれを撃滅する非常に伝統的な構図になるはずであった。だが。バイエルンの騎兵隊は歩兵中央で完全に足止めをされたのだ。四角陣形で密集っして腰を低くしながらパイクを構えてゆっくりと前進していたスイス兵と当たったバイエルンの騎兵は突き出されたパイクに馬上の人間が串刺しになるか、馬が恐れて近づかないか、落馬して4・5列目にいるスイス傭兵に殺された。
バイエルン歩兵は士気が下がり、インゴルシュタットの戦闘はザルツブルク軍の圧勝で終わる。
インゴルシュタットの戦いはスイス傭兵の百戦錬磨、欧州最強といわれる多くのスイス兵伝説、傭兵といえばスイスといわれる始まりの戦いとなる。
最終的にバイエルン公アルブレヒトはランツフート、ミュンヘン、インゴルシュタットをザルツブルクに明け渡した。皇帝の権威と帝国の名声も復活した。
1457年1月26日、皇帝フリードリヒ、ブルゴーニュ公シャルル突進公を敵視。
1457年1月31日、シチリアでまたもや兵士徴収に虚偽の名前が多数。
イタリア共和国はもしもの場合に備え、市民軍に徴集可能な陸軍兵の訓練を定期的に行っている。また水兵は完全に徴兵制で、頻繁に5年間の訓練と徴収を行っていた。
陸軍は主に傭兵を雇い、その傭兵に市民軍の訓練を行わせている。年金が兵役中には年金が払われるので農家などの低所得者かつ出生率が高い南部の人々が多く志願する。
水兵は5年間の間商船などの護衛を務めたり、海賊狩りを行ったりと、船の操作と海上船を徹底的に教え込む。貴族や指定された裕福な商人は必ず兵役の対象となる。また年金が支払われないため、海上貿易を行う商人や漁師などが多い北部の人々で多くが構成される。
今回はシチリア州知事でナポリ暫定政府代表にしてイタリア統一の英雄アルフォンソ・リドルフィとは親戚関係のアルトゥーロ・リドルフィが図った事件である。
シチリアの農村部に保険を掛けていたサンタガタ銀行の経営主であったアルトゥーロ・リドルフィだったが、1454年6月からの歴史的ブドウ豊作が終わりをつげ、財政的に難を抱えていた。
アルトゥーロは幹部の家族と自信の家族に偽りの人間を加え、陸軍の徴収にかけ、年金を不正に受け取っていた。その額は8000ドゥカートに上る。上流階級の8年分の収益になる。
アルトゥーロ・リドルフィその他共犯者は財産を没収され懲役刑を受けた。サンタガタ銀行は地元の貴族で元老院議員カルロ・ポテンタが引き継いだ。
1457年、2月9日、モロッコのアブド・アル=ハック2世、属国スースのムハンマド・アル・ジャズリーに金貨を送り、スース併合を試みる。
1457年2月19日、ブルゴーニュ公シャルルとイングランド王ヘンリー6世の間でとうとう戦争が勃発した。
イギリス海峡の独占を狙ってのイングランドとブルゴーニュはじめその属国フランドル・ホラントの経済競争はとうとう戦争に発展した。
ブルゴーニュ公シャルルの父親フィリップ善良公は最初は百年戦争でイングランド側でブルゴーニュ派を率いたが、ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの解放、ランス落城を受け、フランスに接近していた。
その息子は突進公というあだ名を受け、父王の方針をさらに改革し、イングランドと対立した。
1457年3月30日、ザクセン公オットー、マクデブルクと同盟。
1457年4月20日、皇帝命令でザルツブルク、バイエルンにミュンヘンを返還。
影響力と名声を得たオーストリア大公にして皇帝フリードリッヒ3世はザルツブルクの影響力拡大を恐れ、皇帝命令でザルツブルクにミュンヘンを変換させた。
1457年4月23日、カラマン侯国のイブラヒム2世、ラマザンを全土併合。さらにオスマンへの対抗対策を強化した。あれだけの損害をこうむったにかかわらず、性懲りもなく兵を集め始めた。
同日、ラグアット戦役終結。
結果はトゥーグラの大敗北に終わった。トゥーグラ、ビスラ、ラグアット、ムサブをトレムセンに、ガフサをフェザーンに奪われた。
1457年6月20日、古グルジア王国を征服したイメレティ王ジョルジュ2世、新グルジア国王を名乗のる。
1457年10月18日、オスマン帝国のメフメト2世征服帝、ヒスン・カイファ国のサラーフ・アッディーンと同盟。
1457年10月29日、教皇エウゲニウス4世、崩御。
第207代ローマ教皇エウゲニウス4世、彼の人生は非常に波乱にとんだものだった。
本名はガブリエッロ・コンドゥルマーロといい、1383年ヴェネツィアの裕福な商人の家に生まれる。伯父に教皇グレゴリウス12世がいる。
1407年に伯父の引き立ててでシエナ司教となり、翌年枢機卿となった。コンスタンツ公会議などで知見を深め、マルティヌス5世の逝去に際して大207代ローマ教皇となった。
百年戦争によるイングランドとフランスの和睦に努め、ボヘミアのフス戦争でも急進派を撃滅し、穏健派と和睦をすることによって平定した。
しかし彼の治世もバーゼル公会議から運が下がり気味になる。十字軍思想に偏りすぎたため、東方正教会とカトリックとの合同を唱え、各国を敵に回し対立教皇アメーデオの即位を許してしまう。
結局招集した十字軍もヴァルナの戦いでの総指揮者ヴワディスワフ3世の戦死で大失敗に終わる。
イタリア統一を防ぐため、イタリアに野心を燃やすアラゴン王を支持し、ローディ同盟への参加を拒絶した。しかしサンピエトロ大聖堂の崩落、ローディ同盟のフィレンツエ・ミラノの画策でローマ市民とコロンナ家が反乱を起こし、ローマから逃亡し、対立教皇と入れ替わる形でフィレンツェのサンタマリアノヴェッラ、アッシジ、モンテカッシーノ大修道院を転々として最終的にアヴィニョンに逃げた。
1445年にはアヴィニョン侵攻でアヴィニョンから追われバーセル公会議を解散させられた。そののちはイタリアと和解し、ブルターニュ公フランシスを利用しアヴィニョンを奪得し対立教皇もいなくなったローマに入城しサンピエトロ大聖堂の修復や増築を計画するなど、通常の職務を執行した。
だがローマはすでにイタリア領でヴァティカンでは狭すぎて彼にはもう見知った場所ではなくなっていたのだろう。ローマ近郊のオルシーニ家の城への狩りの招待に応じ、そのままそこに居座った。
9月から冬季に伴い、狩で風邪をひき、10月29日、その地で没した。
教皇の遺体とともにオルシーニ城から急ぎ枢機卿が帰還し、11月3日に葬儀が執り行われ13日にコンクラーヴェが行われたが、その日に教皇は決まった。あらかじめ教皇逝去に際しての取り決めが教皇エウゲニウスのローマ帰還の際に取り決められたともいわれている。
ペルージャの枢機卿でフランス王と親交が深いグイード・バリオーニがレオ10世として第208代ローマ教皇として即位した。イタリア市民は親フランスと聞いて警戒したが、イタリア人ということ、そして名高い傭兵隊長マラテスタ・バリオーニの息子と聞いて満足した。
1457年12月10日、クリム・ハン国のハジ1世、オスマンやモスクワに対抗するため、カラマン侯国と同盟。
1457年12月31日、マムルーク朝のムハンマド3世、ヒジャーズの太守アブドゥル・カーシム・ハワーシムに圧力。
オスマンの陸軍力を思い知ったマムルークはイスラーム世界の最高権威を手に入れようとメッカを守護するヒジャーズ征服とハリーファの称号を狙う。
1458年1月15日、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ、ヘッセン自由都市のルードヴィヒ1世に返り討ちにされ賠償金。
1458年2月7日、黒羊朝のシャハーンシャー、キルマーンシャー征服を掲げ宣戦布告。アルダラーン、ローレスターンが黒羊朝に続く。
1458年3月22日、チュニスのうすまん・ハフシード、トゥーグラのムバラク・ベニ・ジェッラブと同盟。
フェザーン・トレムセンの拡大を懸念したチュニスはラグアット戦役で両国に敗れたトゥーグラと同盟した。
同日、イタリア統一の4傑フランチェスコ・フォスカリ死去。
イタリア統一4傑として歴史に名を遺すフランチェスコ・フォスカリは1373年、ヴェネツィアで生まれる。1432年、貴族フォスカリ初の元首として就任する。
当時ヴェネツィア共和国はミラノ公国と戦争状態にあり、フランチェスコ・フォスカリは多くの戦勝をあげた。最終的にミラノのヴィスコンティと和平し、フィレンツェ共和国とも親交を深めた。
このころからオスマン・トルコの進出とそれに押される形の各国を見て、イタリア統一構想を立てる。コンスタンティノポリスの陥落とビザンティンの滅亡もすでに見抜いていたといわれている。
1444年にはナポリ動乱を成功させナポリ暫定共和国を組み込み教皇庁を無理やりに乗せローディ和平同盟からのイタリア統一を成功させる。
自身はイタリアに反発し、残った共和国領に移住したヴェネツィア市民の元首を務め、一生イタリアの政治には参加はしなかった。その代わりイタリア内のヴェネツィア商人の優先的商業圏とヴェネツィア市の市長はヴェネツィアの了承を得る義務をイタリアに認めさせた。
しかし1457年ヴェネツィアをイタリアに売ったと思われた強固なヴェネツィア独立派の議員の陰謀で息子ヤコポが贈収賄の罪で起訴、有罪となると10月、その責任を負ってヴェネツィア十人委員会によって元首を退陣させられた。10月31日にはトンマーゾ・ヴェニエロが66代元首として就任した。
イタリア元老院からの執拗な元老院議員の誘いを断り続け、最後はクレタの自宅で息を引き取った。75歳の生涯に幕を閉じた。生涯ヴェネツィア人であり続け、イタリアの英雄でもあった彼の葬式はヴェネツィアで両国合同式が行われ、その遺体は歴代のヴェネツィア元首が眠るサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に埋葬された。
同じく同日、ポルトガル王アルフォンソ5世、死亡。新王ジョアン2世が2歳のためルイーザ・デ・サルバンハがポルトガル摂政となる。
アルフォンソ5世は1432年1月15日、シントラ宮で生まれる。父王ドゥアルテ1世の急死でわずか6歳で即位、摂政としてコインブラ公ペドロが就いた。親政を許さないコインブラ公と争い、コインブラ公と対立するバルセロス伯アルフォンソをブラガンサ公し、味方につける。
1446年14歳となるとコルテスとブラガンサ公を味方につけ、コインブラ公を退け親政を始める。1448年にコインブラ公の従妹イザベルに求婚を申しこむが、コインブラ公に難色を示されるばかりかイザベルにも拒絶された。激怒したアルフォンソはブラガンサ公に軍を率いさせ、コインブラ公領をコインブラ公もろとも滅ぼした。
コルテスの要求でブラガンサ公の姉ルイーザと結婚、ジョアン王子を設ける。
伯父フェルディナンドがフェズで獄死し、逆さ吊りで見せつけられたのに憤慨し、モロッコ征服を企むが、コインブラ領を巡視中に馬から落馬し、急死した。
息子ジョアンはまだ2歳のため、王妃ルイーザが摂政になった。実際はルイーザの母アルフォソが実権を握った。
1458年7月3日、サンピエトロ大寺院の修復と増築が本格的にスタートした。新教皇レオ10世は芸術に関心があり、異教的なルネサンスにも一向に不快感を示さないどころか、逆に率先的に受け入れた。
銀行家コジモ・デ・メディチが鳴り物入りでこれでもかというばかりに当時最高の腕を持つ芸術家を送り込んできた。
サンピエトロ寺院は絵画論を執筆し、当時天才といわれていたレオン・バティスタ・アルベルティが主任を務め、バジリカ様式にすると決定した。ファサードとドームを持つ建物である。大聖堂だけではなく、ローマ市自体が整備され、拡張されることとなった。
コジモの親友にして修道士にもかかわらず崩壊的な生活を送る宗教画家フラアンジェリコとその弟子たちはバチカン宮殿内を装飾した。
人文主義に興味を示していた教皇レオはコジモにいつも付き従っているプラトン哲学者マルシリオ・フィチーノとその一団をコジモから数日間借り受けたりもした。
その優美な笑顔が特徴なダヴィデ像やユーディトとフォロフェルネスの像で名をはせていた彫刻家ドナテッロもとその友で彫刻家ミケロッツォとコジモに無理やり工房から引き出されローマに来ていた。
サンタ・マリーア・デルフィオーレの不可能といわれていたクーポラを完成させていたブルネレッスキも教皇にここぞとばかりに設計図を見せにローマに赴いた。
つまり、ローマは芸術活動で興っていた。フィレンツェに限られていたリナシタ運動がローマに飛び火した。共和国元老院と国会が新たにサンタンジェロ城の横に建設され、元首官邸クイリナーレ宮殿も装飾された。
1458年7月23日、ケルン大司教マクシミリアン・フリードリヒ1世、ヘルレの征服に関心を寄せる。
1458年7月24日、マムルークのスルタンムハンマド3世、メディナの太守ダイガム・ビン・カスラム・フーサイードに圧力をかける。
メッカに続き、今度はイスラーム第2の聖都メディナに矛先が向けられた。
1458年8月5日、デンマーク王クリストファ3世、リガ司教国に賠償金を支払わせ和平。
1458年9月16日、欧州初と思われる海洋調査船がイタリアのジェノヴァ港を抜錨する。
船長は45歳フィレンツェ出身のバルトロメオ・ルッチェラーイ。旗艦サン・ジョバンニ号を含め2隻が出航した。
経済圏獲得のため、十人委員会のコジモが提案したものである。
1458年9月20日、タンボフ戦争終結。
モスクワはカザンからペンザ、シルヒンスク、カザン、ウドムルティア、ヴェダニスヴァル、テシューチ、イジカル、タンボフを奪う大勝利。クリム・ハン国もカザン・ハン国も国家破産となった。
1458年10月1日、モスクワ、イタリア共和国を敵視。
1458年10月7日、クリム・ハン国、新グルジア王国を敵視。
1458年11月4日、マムルーク朝のスルタン・ムハンマド3世、アナザのアブドウッラーにも圧力。
1458年11月20日、金づちの音響く新元老院堂で第6回目イタリア・ダシリエレ。
元首ドーリアは信任され、共和国史上初めての第2期元首が誕生した。のちにこれが主流となる。
シニョリーアと十人委員会はローディ憲章に基づき完全に入れ替えられる。
アスカーニオ・マリーア・キージが国務長官に、ロドヴィーコ・マリーア・ポンコンパーニが外務長官に、ベネデット・ポンコンパーニが国防長官となる。
サンマルコ財務長官だけは終身制なのでガスパル・コンタリーニが引き続き務める。
十人委員会はピエトロ・ボルゲーゼ、バルトロメオ・ヴェスプッチ、アゴスティアーノ・モチェニーゴ、パンドルフォ・ペトゥルッチ、ミケーレ・オルシーニ、アントーニオ・リドルフィ、アルトゥーロ・ダ・プーリアに元首補佐ランベルト・ベンティヴォーリオ、アンドレア・コロンナそして元首ドーリアである。
元老院の議席は、ほとんどヴェネツィアとローマ出身のノーヴィレが占めた。ピエモンテ地方からの選出者はわずか2名であった。
1458年12月16日、皇帝命令がまたもや出され、メクレンブルクはそれに基づき、ポメラニアにグライフスヴァルト州を返還した。
このように皇帝命令が頻繁に出されるようになるのは久しぶりである。
1458年12月27日、チュニス海賊によりイタリア沿岸の町々が荒らされる。
チュニスの海賊を率いるのはチュニス戦役ではチュニス海軍の海将を務めていたブトゥルス・バドラだと報告されていた。イタリア海軍を挑発するかのようにメッシーナとカラブリアを正面から、イタリアとは良好関係なマルセイユの商人の旗を掲げ攻撃した。
1459年1月15日にはフェザーンにコセンツァが襲われ、イタリア海軍も対策を迫られた。セヴァスティアーノ・ロレダン海将率いるイタリア艦隊34隻が西地中海航路を巡回する。
1459年2月7日、セヴァスティアーノ・ロレダン海将死去。
セヴァスティアーノ・ロレダンは1378年にヴェネツィアの名門ロレダン一門に生まれる。次男だったので最初から軍事を担当すると決まっていた。ヴェネツィアの習慣にしたがい、商船護衛船団の船員として下積み経験を積んだ。1444年のイタリア統一時にヴェネツィア元首であったフランチェスコ・フォスカリと親交を深め、イタリア海軍初代海軍総司令官、ウォーモ・ディ・マーレとなり、エルメス・オルシーニとは親友の間柄になる。
タラント沖で体調を崩し、タラント港で急死した。風による肺炎ともいわれている。
チュニスの海賊を追跡中だったため、遺体はタラント港に置かれ、そこからイタリア政府の手によってヴェネツィアに埋葬された。
第2代海軍総司令官にはアゴスティアーノ・ヴェニエルが元老院で選出された。元老院議員でも会ったヴェニエルは元老院議員の職を停止し、チヴィタベッキア港から快速船でイタリア艦隊に合流した。
1459年2月7日、バイエルンのアルブレヒト3世、ヴェルツブルクのゴットフリート4世と同盟。
1459年2月16日、フランスのルイ11世、プロヴァンス公ルネと同盟。
1459年3月14日、トレムセンのアフマド2世ザイヤーン死去。正当な後継者がいなかったため、摂政議会制に移行した。
アフマド2世は優れた君主としてその統治を終えた。1403年に生まれたとされるこの人物はラグアット戦争でトゥーグラに勝利しトレムセンの領土を拡大した。
1459年5月11日、ナッサウは賠償金でトーリアのヤーコプ・フォン・シルクと和平。
1459年5月29日、トーリア次なる目標としてヘッセンを定める。皇帝の権威も荒ぶる選帝侯国までには及ばない。
1459年6月4日、キプチャク・ハン国のクチュク・ムハンマド、リャザンのイヴァン・ジョードロヴィチと白紙和平。
1459年7月1日、ボヘミア王イリツ・ポデブラド、ジレジアを併合。
1459年7月24日、フランス、スイスに圧力。
フランス王ルイ11世はバイエルン選帝侯国とオーストリア・ザルツブルクを主としたドイツでの戦いで、スイス傭兵が騎兵に勝ったことを耳に入れた。ルイ王は早速スイス傭兵を試そうと考えた。
しかしスイス同盟はフランス王の要求を拒否したのだ。スイスの民は神とイエスキリストのみに服従せよ、この教えはスイスの端から端までに隅々といきわたっていた。たとえ教会の保護者たるフランス王でも、彼らには関係がなかった。
フランス王は少しずつ懐柔に努めることにしたという。
1459年10月31日、リヴォニア戦争終結
リヴォニア騎士団は奮闘したが圧倒的な軍事力を保持するデンマーク王国に連敗し、とうとう賠償金を払い和平を結んだ。
1459年11月2日、ザクセンのオットー1世選帝侯急死。
1435年に公国の首都ザクセンで生まれる。彼の治世に何ら不具合はなく、政治にあまり関心を持たなかったオットー公の性格も全く支障はきたさなかった。
美男ではあったが女ではなく狩りに異常なまでの快楽を見出し、宮殿に帰ることも少なかった。ザクセン近郊で外遊中、新しく購入した馬が突然暴れ公を載せたまま崖から飛び降りた。
ザクセン公の弟で16歳のアルブレヒト1世が継承する。
1459年12月13日、コルフ島で第2代侯爵レスタイアーノ・ジョアッキーノが15歳で即位。
1459年12月24日、デンマーク王クリストファ3世、ポメラニアのヴァルティスワフ9世と同盟。
デンマークは大陸への進出をさらに推し進める。
1460年1月1日、トレムセンからジェリド、ムザブが独立、トゥーグラもフェザーンに奪われた領土を一部復帰する。
トレムセンは摂政政治で安定していない。摂政政治を行う限り、トレムセンは満足に戦争もできない。
1460年1月4日、ジェリド、フェザーンやトレムセンから身を守るため、アブド・アル・ハック2世と同盟。
1460年1月24日、スコットランド公国のジェームズ2世スチュアートは諸島連合を併合。
イングランドの脅威に対抗するため、ブリテン島北部の団結を強調する。
1460年3月9日、クリム・ハン国のハジ2世没す。
ハジ2世の治世はクリム・ハン国の影響力が著しく停滞した。