1249年にボルゴーニャ家のアフォンソ3世がポルトガル南端のアルガルヴェを征服して以来、
ポルトガル王は「ポルトガルとアルガルヴェの王」を名乗り、レコンキスタに貢献した修道院、騎士修道会、貴族との権力闘争が続いていた。
LisboaとCeuta以外はEstatesに支配されている。
1415年にジョアン1世の王子エンリケ、のちのエンリケ航海王子がセウタの攻略に成功したものの、
内戦を乗り越えてレオン王国を併合したカスティーリャ王国に後れを取っているのは明白であった。
1432年、エンリケの探検行が進む中でエンリケの兄でジョアン1世を継いでいたドゥアルテ1世がペストに罹患して急逝、6歳のアフォンソ5世が即位する。
ドゥアルテ王の弟、コインブラ公ペドロ王子の助けを受けて善政が敷かれていたが、
幼いころからエンリケ航海王子の影響を受けたアフォンソは、即位を前にして探検航海に夢をはせる少年へと成長していった。
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そんなアフォンソ5世の思いを受けてか、摂政であるペドロはポルトガルの1444年に長年の友好国であるEnglandとの同盟を破棄、
隣国Castilleとの同盟を締結し、国内の安定化を進めた。
百年戦争に巻き込まれるのは遠慮したい
ところがアフォンソの成人を機と見たブラガンサ公が、摂政がCastilleと結んで王位を狙っていると吹聴し、王は長年の恩師を自らの手で葬ってしまう。
EU4きっての悲しいイベント。でも安定度おいしい
親政を始めたアフォンソ5世は、対岸のイスラム勢力を忘れて大海原に心を奪われていく。
1457年、政策が実ってColonistの育成に成功し、叔父のエンリケ航海王子に倣って西アフリカの探検を行い、翌58年にはCape Verdeへの入植を開始した。
Portugalじゃないとこの速度では植民できない
1461年にはこの経験をもとに、長距離航海の技術を開発。1464年にはるか西の海に多くの島々と道の文明を発見するという偉業を達成した。
領土の拡張に限界を感じていたポルトガル人は新天地の発見に大いに沸き、我先にと国を離れていった。
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発見されて間もなく、カリブ海の小さな島に最初の植民地、St. Martinが築かれた。その名は発見された11月11日が聖マルティヌスの日であった事に因むといわれている。
ゲーム上の発見日は当然見ていなかった
一方大西洋の東側でも航海は進み、Cape Verdeの都市化とコンゴ王国の発見は、後の時代まで続くポルトガル人とコンゴ人の友好関係の足掛かりとなっていった。
完全に棚ぼたな歴史イベントは心休まります
1476年、大西洋全域の探索を終えたポルトガル人は一時探索を終え、Bahamaへの入植を開始した。
のちにポルトガルの歴史の転換点となる、逆転時代の始まりである。
Bahamaへの入植は、初めからうまくいきすぎていた。
植民地開拓に慣れてきていたこともあり、開拓史のみならず開拓を支える女性が大挙して押し寄せ、それに引き寄せられて現地住民との友好関係が築かれるという好循環に恵まれた。
ここまで連続するのも珍しい
一方で国の中枢部では王の弟で後継者のDuarteが若くして死亡。後継者選びに翻弄されるなか、幼いものの有能な女の子が候補に挙がる。
ポルトガルには強くなってもらうつもりはないが、うれしい誤算
その3年後、16歳になった後継者Filipaに席を譲るかのように王は息を引き取った。
このタイミングのよさ。後継者も超有能
この一連の王位交代劇に、一部の歴史家はコインブラ公の血筋による復讐劇と、
階級闘争に明け暮れるポルトガル本土を離れて新天地を目指す意思を見て取るものもいるが真偽は定かではない。
しかし、このFilipaが極端な新大陸政策を進めたのは事実である。