※現在作業中です。しばらくお待ちください。
なんか変なのが来た
白状すると、新しい外交官の名前をそれらしいやつにしようと、正統帝がリセット*1*2を繰り返してのう・・・ようやく鄭其昌(Qichang Zheng)という名前が出たのを確認してから前回の締めをしたんじゃが、一年後に
結局うまくいった世界線では、鄭でも和でもない、そもそも人名らしくもない謎外交官とやっていくことになったと・・・
はい、その話はもうおしまい!朝貢・改革担当の熊くんが中華帝国改革を解説するよ!
現段階で開放しているCelestial Reformは2段階。Meritocracyを上昇させる「改土帰流(Introduce Gaituguiliu)」と、貿易効率を上昇させ外交官を追加する「海禁改革(Reform Seaban)*3」だよ。
三帝冠プレイでは今後も外交官の数が結構変動するらしいよ。それはそうと、この改革はHRE改革と違って皇帝にしか効果が無いし、開放のために重い代償を払わなきゃいけないんだ。
天命(Mandate)-50と安定度-1ですか。改革のたびに帝国がぐらつくのは面白いシステムですね。
こちらとしてはたまったもんじゃないが、まあ様々な特典を享受してもおるから仕方ないのう。
後々はコア化コスト削減とか「新皇帝の統治力+1」とか美味しい効果がそろっているけど、全部開放しても何か起こるわけではないよ。
リセマラの混乱のおかげで7年ほど記録が消し飛んでおる。この第三次
今は覇権争いとかしている場合じゃありませんからね。
こっちはもう慣れたもんだ。mothballしていた要塞群に強襲を仕掛け続けて、ほんの5か月でこの有様。
一回壊滅させられてリセマラを覚悟したり、
ん?これで計画通りってことは、正統帝は
うむ。ここまで来て今回の方針が定まったらしい。前回プレイでは
ではそのように。
敵と同盟している朝貢国(
実際裏切るかどうかは内訳を見れば確認できるし、どちらにしろ大した違いじゃねぇな。一気にバルト海まで突っ切って
シャーン!
ふう・・・びっくりしました・・・てっきり青州に放置していた宣教師が改宗に成功してしまったのかと。
それがじゃな、第3章で得意顔で紹介した「Catholic Zealotsを生成する方法」がなぜか使えなくなっての。何をしてもQi Separatistが消えなくなりおった・・・リセマラの中では1550年代まで行っても解決できなかったこともあったんじゃ。仕方がないのでOpen China系列イベント第四弾の発動を待つことに・・・
あ、分かったかも知れねぇ。調べてもそれらしい記述がさっぱり無いんだが*6、実のところ「天命が50を下回ると反乱タイプが固定される」仕組みになっているんじゃないか。おそらく反乱タイプを変えて進行度をリセットする手を封じ、反乱を起こしやすくしているんだろう。
ならば今が好機じゃ。プロビのUnrestは宣教師派遣で+6、不忠な
こちら東アジア戦線。
こちら西アジア戦線。
こちら欧州!第二次対明包囲網戦争だよ!(1530年1月16日)
&ref(): File not found: "coalition.png" at page "AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興/第4章 泰平楽土の乱";
ん?この面子でかかって来おるのか?1516年に
・・・列強の数が偏っています。こちらが明奥の2国、敵は波1国。これでは敵側に介入される恐れがあります。(RoM要素)
&ref(): File not found: "coaliton3.png" at page "AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興/第4章 泰平楽土の乱";
まあポジティブに考えれば、
朝貢国攻めの対策はリセマラ中に確立済みじゃ。あらかじめ
毎度ながらチキン戦法の連続ですね。しかしこれ以降の明の改宗運動期間中、なぜか
もう戦力にならない
最終的に欧州征服する際には、この両国がラスボスになるでしょう。その前にいつ
時代遡って1518年6月。おなじみXiaoren?がポップしたぞ。
戴基(0, 4, 6)に代えて(3, 5, 1)じゃと・・・?なぜ合計値をわざわざ下げねばならん、ということで却下じゃ。
2年後
名君成化帝が身罷られたよ。(1520年9月20日)この能力で享年59歳、在位32年ってのは驚異的だね。
次の帝は弘治帝戴基ですね。・・・あれ?この皇太子、見覚えがありますね。
(3, 5, 1)が(3, 4, 1)に落ちたとはいえ、この似方は同一人物としか思えんのう。朱雄英、この子こそ嗣子でありながら反朱戴基派に担ぎ上げられた「貴族」だったというのか・・・!
Xiaoren?イベントは脳内補完のためには素晴らしい要素ですよね。
この会話は「おまけ」に入るものだと誰もが思っていた。
そう、あの衝撃的な事件(RP的に)が起こるまでは・・・
よぉし!ついに青洲でCatholic Zealot蜂起じゃ!(1531年4月)
たった2プロビの
&ref(): File not found: "chart.png" at page "AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興/第4章 泰平楽土の乱";
現段階で
北京を占領されてしばらくすると反乱が「成功」してしまい、占領地域のAutonomyが上がるだけで終わってしまう。近郊に軍を待機しておいて、反乱軍占領後すぐに取り返せるように準備しておかなけれb
正徳帝雄英(3, 4, 1)が即位し、朱瞻埏(4, 4, 4)を立太子。年からして子ではないが、正徳帝立太子の経緯から弟とも考えられんのう。能力が正徳帝の祖父成化帝に似ておるし、従弟ということにしよう。成化帝には及ばぬが、バランスの取れた名君の登場が期待できるのう。
北京は城壁破壊・強襲ですぐに奪還したが、肝心の反乱軍が突然
それは当章から導入した軽量化Mod“Fast Universalis”の仕業じゃ。*11それよりも大変なことをしてくれたのう・・・このままではCatholic Zealotが消滅してもう一度沸かせるのが困難になるんじゃ。
残っている反乱軍の占領地を放置すればそのうち新手が沸くのでは?
中華帝国において、それはなかなか難しい問題なんじゃ。こういう時に限って朝貢国が従属国家面して反乱鎮圧にやってくるからの。
手下に鎮圧されたくなかったら、親分が鎮圧するふりをしていればいいんじゃない?
ふむ。一理あるのう。高歓、特務命令じゃ。残っている反乱軍占領地域3プロビに軍を置き、「占領しそうになったら一瞬離脱するそぶりを見せ、また元に戻る」のを繰り返し、一か月弱ごとにひたすら占領進行度をリセットしつつ占領行動をし続けるのじゃ!
何だそれは!正統帝も「ここまでフラストレーションの溜まるEU4プレイはなかなかない」ってぼやいてたぞ。
こうして明史上最大の偽装作戦(笑)が始まった。(1535年4月24日)
さて、こちらもできる限り早く新手の反乱軍を出さねばならん。高歓と正統帝の集中力が切れる前にの。
反乱進行度が40%以上になると、そのRebel Factionが活動しているプロビの反乱タイプは固定される。高Unrestの異教プロビに次々に宣教師を送り、反乱タイプをZealotに塗り替えることもできるんじゃ。
よう分からんが、実際Unrest+17のプロビに宣教師を送ってもZealotsが発生したのう。謎じゃ。
Spread of Christianity発生。
これじゃ。Open China系列イベント第4弾、これを待っていたんじゃ。
The arrival of the Jesuitsで
重要なのは立地じゃ。前回の青洲のように北方のプロビに反乱軍が発生すると、北京を目指したり北方を彷徨って大国に潰されてしまったりする。南海に近い広西および澳門から反乱軍が発生すれば高確率で儒教プロビを占領してくれるし、高プロビの江南地域がひっくり返るのも期待できるからの。
うう・・・反乱はまだか・・・1か月ごとにピコピコ軍を動かす苦痛から救ってくれる反乱は・・・やった!ついに反乱軍第2弾だ!
ここまで反乱軍の動きを実況して応援するAARもなかなか無いだろうね。
この頃は反乱軍の一挙一投足に一喜一憂して、本当に他の事に目を向けておらんかったからのう。
長々とワガママなZ;ealotに振り回され続けてきたが、何となくその進軍する性格が分かったような気がするから箇条書きでまとめるぞ。ただ各項目の優先順位は分からなかった。
ところで、第3章で「もう一つ」を断念する、と言ったの。あれは嘘じゃ。
正統帝いわく、そのもう一つ、Open China系列イベント第五弾が「存在している意味を理解していなかった」ことに気づいたそうじゃ。詳しくは次回に回すが、反乱改宗と「もう一つ」は両立する、というより本来組み合わせるべきものじゃったんじゃな。
※実のところ至極当たり前のことを言っているのですが、正統帝が受けたショックの大きさを鑑み無駄話を続けております。
どちらにしろ、目指すのは
色々ありましたねぇ・・・
天命0で
オオオ・・・やめい、やめるんじゃ・・・1 October 1503の日付を繰り返した記憶など思い出しとうない・・・
陽明学だな。よく分からんが王陽明は超絶優秀な将軍(史実)だから、ぜひ受け入れようじゃないか。
残念ながらそういった効果は無いみたいですよ。異端寛容度が上がるようですけど、儒教にとっての異端って何です?
東方宗教グループ、すなわち仏教と神道じゃな。今はそこまで必要ないが、基督教に改宗した際にはお世話になる効果じゃろうの。
このままでは隣接されて天命に大きなペナルティが付いてしまうな。どうすればいい?
はいはい!奪われちゃマズいところにInterestをつければ、明に睨まれるのを恐れて
その後
Interestをつけていた2プロビだけ
そりゃライバルの目標をくじくのは基本じゃから当然じゃろ・・・もとより
&ref(): File not found: "emperior.png" at page "AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興/第4章 泰平楽土の乱";
今更になって気づいたんですけど、太平洋の一角、
その海域とワープで行き来できるわけでもないんじゃがのう。おそらく、ネタとして
1533年5月24日、
成化帝のおかげで君主点が余り過ぎて、結局
1550年1月、時間通りに
少しでも
しかし
今回、2回ほどオスマンと無関係のところで朝貢国からの参戦要請を拒否しました。
勝手に拡張して包囲網組まれた・・・じゃと?んなもの朝貢国放棄するなりk単位で賠償金払うなりして自力で解決せんかい!
それは無茶ですよ。しかし明が好き放題に食べまくっている一方で、一地方を統一しただけの中小国がフルボッコにされるのは少し可哀そうです。
まあうちらには関係ないもんね。天命スタック増やしててよかった*14。(真顔)
‘'成化帝''の快進撃は止まらない。中華皇帝として自身2度目の
とはいえ晩年になっても彼は常に戦場に居場所を求め、中央
皇帝不在の北京は、陰謀の坩堝と化していた。粗暴な振る舞いが目立つ皇太子朱戴基が国政を代理していたが、各地に急速に広がる基督教の処遇について一切対策を講じることが無かった。そのうちに江南出身の官僚の間に基督教が広まり、ついに四川出身の将軍徐貫などは重臣の地位にあって信仰を口にすることを憚らなくなった。皇太子につく旧支配者階級と対立を深めた基督教徒勢力は皇太子の一人息子朱雄英の擁立を試み、一度は失敗するも、2年の潜伏を経て成化帝崩御と共に復活、朱雄英の立太子に成功して、新帝・弘治帝朱戴基の取り巻きに比肩する力を持った。
‘'弘治帝の治世は、成化帝の遺産を食いつぶしたに過ぎないと酷評される。西方の超大国
皇太子朱雄英は、皇帝弑逆の報を副都南京で聞いた。立太子の経緯から父帝に疎まれ南方に飛ばされていた彼は、確かに名君ではなかったが、能臣を見抜き用いる術と、時局を見極める眼は持ち合わせていた。喪をすっ飛ばして正徳帝として即位すると、北京へ向かう途上で皇太弟朱瞻埏と連名で淮安勅令を発布(弘治帝の元で中書省が復活していたが、この勅令における中華的体裁を無視した画期的な形式・書式に対応できず、再び形骸化した)、儒教・道教に次ぐ形で基督教を公認する。北京の民衆はこれを良しとして再び簡単に開城して泰平楽土の首領の洪禿全を追放、反乱軍中でも目的を失った農兵が次々と脱走して、泰平楽土は事実上崩壊した。洪禿全は絶望して「
確かに正徳帝は基督教徒に支配されていた。しかし後世発見された資料からは、陰謀家として重臣から下層民に至るあらゆる階級を操っていた恐るべき一面が明らかとなりつつある。儒学者を弾圧したうえで基督教徒に対抗させ再蜂起を誘ったり、澳門の基督教結社にスパイを送って広西の正一教徒地域へ宣教するよう仕向け、成功させたりするなどといった策動は、正徳帝と僅かな近臣のみが認知していた。それでいて、
その目的は、不可避となった基督教革命を乗り切り、自らの地位を除くすべての体制の大変革を実現するという、今日から見ても狂気的な野望の賜物であった。
さて、ここで宮廷を離れ、民草の間に生まれた英雄の話をしたい。先の第一次泰平楽土の乱の発生地・青洲の北、武定に、洪禿全の遺児とされる童がいた。この神童「洪秀金」は、姿かたち、声音、そして能力に至るまで父の生き写しのようであると宣伝された(実のところ洪禿全の顔を覚えているものは皆無であり、今に伝わる彼の肖像画は洪秀金の顔をもとにしている)。先の戦乱に敗れた過激派は、まだ十を過ぎたばかりの少年のもとに集まり、再決起の算段を始めた。そして僅か3年の空隙をおいて、1538年11月、第二次泰平楽土の乱が勃発する(この短期間に前回を上回る3万の反乱軍が結成された点、正徳帝らの暗躍があったことは疑いない)。
泰平楽土軍は前回同様に北上するが、洪秀金はなぜか北京を避けて黄海を押し渡り、対岸の
この1542年11月の出来事は朝鮮史上最大の謎「
危機が去ったことで、泰平楽土軍の士気は上がった。父のように無駄に北京を攻めず、不敗を貫いたことで洪秀金のカリスマ性はいやがうえにも高まった。立ちふさがる
そんな泰平楽土軍の大きな転機となったのが、1548年7月にもたらされた「北京周辺の泰平楽土が破壊され、基督教徒が弾圧されている」という情報だった。
これをもって洪秀金は中国帰還を決意、蒙古高原を荒らしつつ
洪秀金の名を世界に轟かせたのは、1553年10月から12月16日まで続いた「
‘'正徳帝''は、この報告を受けた日の隠し日記に一言こう記している。
‘'「我祈了、他克了。」''
すなわち、正徳帝の人為すら、この天命がもたらした奇跡に一切かかわっていなかったのである。
1555年1月、ついに泰平楽土は青洲に次ぐ聖地、
その後の泰平楽土軍は縦横無尽に中華を駆け巡り、孔子像を打ち壊しては教会を建てていった。
・・・しかし、この大騒乱第二次泰平楽土の乱は、たった2通の「同時に発された」文書によって終焉を迎える。その結末を最初から心中に思い描いていた人間は、全世界に2人しかいなかった。
1通は、1560年8月1日に正徳帝が発した 雄英勅令(ジェンデ勅令)である。「中華皇帝の基督教洗礼」と「基督教の『国教』化」をうたったこの勅令は、基督教徒の重臣ですら発布を知らされていなかったが、既に泰平楽土軍の元で改宗していた多くの人民からの歓迎が非難を上回った。
もう1通の武定発の文書は、「中国最初の活版印刷物」とも呼ばれるが、それはたった一文が記された「ビラ」だった。「臣秀金」という書き出しに始まり、執筆時には知られていないはずの皇帝改宗を寿ぎ、終わりに「朱
→NEXT