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少し補足すると、この飛び地になっている2プロビは
一旦コア化を始めてしまえば、その後他のコアと連絡を失っても問題なくなりますからね。話を戻しますが、敵の
まだそこまで視界に入っておらんが、今回は連合を保っとるようだのう。長期戦になっては量・質ともに敵わぬから、さっさと各地の城を落として戦勝点を稼ぎ講和するんじゃ。(1490年)
まず
1500年代に入って最初の対莫斯科戦争(1502年終結)では
1494年に
技術コスト削減で思い出したが、
よくよく考えると、西洋から遠く離れた超大国という立場なら
実際、
一方で、
今のうちに以前の回で書いたことについて訂正を入れさせてください。前回プレイで
大変だ、1500年1月1日、予定通りに
ほう、今回は早かったのう。
なんじゃそれは、新手の詐欺かの?何が
可視域を見直してみると、確かに
ともかく、新大陸進出の段取りは計画通りに行くぞ。樺太からつけたClaimを通して
1515年、
割譲地の最前線は属国に渡しました。これで大国
まあこの時点でCivil Warが83%まで進行しとるゆえ、天命を増やすのはもとより最優先だったんじゃ。さて、明本土では1518年に海州でThe Arrival of Jesuitsが発生したぞい。
単純に考えると前回より28年遅れてますが、国土の拡張ぶりは比べ物になりませんね。前回は満洲・蒙古が手つかず、
前回と比べて取れていないところはせいぜい東欧の南部くらいだからな。次回はいよいよ2つの宝箱、印度と新大陸への本格進出だな!
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現段階では南方へはほとんど拡張しとらん。せいぜい
もとよりこの地域は明の領内でも、大理や
中国南部で発生する反乱軍は、南に若干突出した領土があるとそこを目指して南進するんじゃが、一旦そこまでたどり着いたのちになぜか西進を始めるのじゃ。
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どうやら
自国のためには帖木儿のためにわざわざ反乱軍潰ししている一方で、よく言ったもんですねぇ・・・
おおう、東インドの地域大国ベンガルも撃破しおった。この後反乱軍は霧の中に消え、以後消息を絶った。おそらく
たまに大国の脇をすり抜けて
最初に占領された中国本土のプロビも、ほっとけば朝貢国が塗り直してくれますね。
1590年8月30日 朱莫(4,4,3) 立太子(0歳)※庶子
1510年2月11日 成化帝朱莫 即位(19歳)
2月13日 波斯国から朱海妇女(Khair al-Nisa Zhu)(4,5,2) 立后(20歳)
1512年9月7日 朱琳源(3,5,2) 立太子(0歳) ※庶子
9月8日 朱琳源 廃太子
1514年9月29日 女子誕生 *8(2,2,2、Average) 立太子せず
1515年12月5日 朱皇后 崩御(25歳)
1517年5月8日 太原の谭氏から谭Kon*9(6,2,1) 立后(30歳)
朱戴基(3,4,4) 立太子(0歳) 皇后弱体
Два Рима пали, третий стоит, а четвертому не бывать.
二つのローマが陥落し、第三のローマが立った。そして第四は起こるまい。
———イヴァン3世 ウスペンスキー大聖堂での戴冠式にて*10
ウラル山脈。アジアとヨーロッパを分かつ境界のふもとに、それぞれの一雄が軍勢を結集している。
一方はロマン・ホルムスキー将軍率いるモスクワ・ペルミ連合軍、総勢2万4000人。モスクワ大公国は、初めてツァーリとして退官したイヴァン3世のもとで周辺の諸公国や旧主のジョチ裔諸国を次々と併呑し、その威光は中央アジアにも及ぼうとしていた。生まれる時代を間違えなければ、この武勇と狡猾さ、そして残虐さを兼ね備えたイヴァン3世は世界史の一線を張る驍雄であったかもしれない。彼の大公国がTerra Incognitaの中から現れるや否や没落の道をたどったためにあまり史料が残っていないのは惜しいことである。*11
もう一方は、哈薩克総兵・周賢率いる4万6000人の明軍である。なお哈薩克(カザフ)総兵すなわち中央アジア方面司令官という役職はもちろん明朝の官職であるが、これは明の西方戦略を牛耳るエセン・シャーがペルシア・シャー朝の属国カザン・ハン国の宰相の官職名として明朝廷にねだったもの、要するに明の孫属国カザフ・ハン国の事実上の統治者にしてペルシア・シャー朝の北方総司令官という意味であった。当然、明軍というのもそのほとんどがペルシア・カザフの兵である。周賢は漢人の将軍だが、エセン・シャーに従って西域遠征を支えた腹心だった。しかし野戦を避けて城塞を地道に攻略するのを得意戦略とする周賢は大軍を結集しての決戦を好むエセン・シャーと対立し、新設されたカザフ・ハン国に左遷されていた。とはいえこれは、だだっ広いステップ地帯の仮想敵国モスクワ大公国相手では周賢の戦略が有効であろうというエセン・シャーの建設的な方策でもあった。
天順3年(1487年)1月、ウラル山脈の西麓に周賢軍2万5000が現れた。西班牙大方陣を有効に使うための数的優勢は取れなかったものの、ホルムスキー側が不意を突かれ、主力のモスクワ軍が単独敗走したこともあり、ペルミの戦いは明連合軍の辛勝に終わった。
ここから周賢は各地から集結するモスクワ軍を避けつつ、首都モスクワへ突貫する方針を立てた。遥か遠く北方からモスクワの強大な同盟軍が来る途中という情報をもとに、短期決戦を狙ったのである。しかしニジニーノヴゴロドで付耆英率いる別動隊が若干小勢のホルムスキーに敗北を喫っしたことで、周賢は圧倒的優勢を作った上で大会戦を挑むことも侵攻計画に織り込むようになった。第二次ニジニーノヴゴロドの戦いでは3万の敵に4万2000の兵力であたり、何とかホルムスキーを撃退した。この一連の結果は、明連合軍兵の質の低さとそれを補って余りある西班牙大方陣の威力が再確認されることとなった。
天順6年(1497年)1月。モスクワが門を開き、明・ペルシア・カザフの連合軍が入城した。この地を「第三のローマ」と呼んだ「稀代の暴君にして暗君」イヴァン3世は、逃亡先のノヴゴロド市で周賢の和平案を受け入れた。明軍のこもるカザン要塞が5万のデンマーク・モスクワ連合軍を前に陥落しようとしていたことは、彼の目に入らなかったようである。
最初の2つのローマは正しい教えに背き、神の罰を受けて陥落した。そしてその地を受け継ぐはずだったモスクワが今、陥ちようとしている。
正教圏が東へ広がることはもはや無く、そして第三のローマなどない。ローマは再び第二へ、そして第一のローマへと回帰するのであろう。
何人もキリストに取って代わることはできない・・・
———スパソ・イェレーザロフスキー僧院典院フィラフェイ・プスコフスキーの日誌より
天順26年(1510年)、天順帝が45歳で崩じた。結局何皇后とは三三四事件(皇太子朱橚の誕生を受けて日本のShimousaとSettsuから送られてきた献上品の量が33:4だったことに由来)以来の関係が改善することは無く、19歳の庶子朱莫が成化帝として即位することになった。
これをうけてペルシア・シャー朝の姫が明に輿入れすることとなった。その名は朱海妇女(ハイル・アルニサー*12)と記録されているが、アルニサーは婦人の意であり、本名であったのか否かは定かでない*13。20歳のこの西域人は、明の知識人からは東西の血をつなぐ初めての試みであるとして期待されていた。オイラト人エセン・シャーの孫とはいえ、その容姿はもうほとんどペルシア人のそれだった。
しかし成化帝は彼女を気に入らず、4歳年増の淑妃谭氏との間の子朱琳源を立太子してしまう。気性の激しいハイル・アルニサーは思い余って朱琳源を毒殺しその母も殺そうとするが、淑妃谭氏は難を逃れ、毒殺に失敗したハイル・アルニサー3年後の成化5年(1515年)に憤死した*14。人々はハイル・アルニサーの悲劇に涙を流し、彼女を材に取った講談が民間で流行った*15。これをまとめた小説が中国四大奇書の一角を占めるようになるのは後の時代である。
成化7年(1517年)、淑妃谭氏に2人目の男子朱戴基が生まれ、これを機に谭氏もはれて立后された。
この朱戴基が帝位につく頃から、明帝国はさらなる激動の時代を迎えることになる。
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