AAR/Pax Sinica 古代神聖中華帝国の再興

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四国連合戦

t.png 1486年も末、いよいよヨーロッパ国家相手に開戦だ!

g.png 少し補足すると、この飛び地になっている2プロビは哈薩克(カザフ)建国のために乌孜别克(ウズベク)を叩いた時におまけで奪ったものじゃ。この飛び地のコア化は哈薩克(カザフ)を建国する前に始めねばならぬから、注意が必要じゃ。

z.png 一旦コア化を始めてしまえば、その後他のコアと連絡を失っても問題なくなりますからね。話を戻しますが、敵の莫斯科(モスクワ)にはカルマル三国が付いてきました。

g.png まだそこまで視界に入っておらんが、今回は連合を保っとるようだのう。長期戦になっては量・質ともに敵わぬから、さっさと各地の城を落として戦勝点を稼ぎ講和するんじゃ。(1490年)

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z.png この線状に切り取った意図は?

t.png まず喀山(カザン)を復活させる。講和時には彼尔姆(ペルミ)も解放しようと思ってたんだが、結局奪った後で考え直した*1。北西戦線でもう一つ属国を作りたかったから、外交関係枠を使いたくなかったんだ。

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g.png 1500年代に入って最初の対莫斯科戦争(1502年終結)では喀山(カザン)のコアを回収しつつ、当然もう滅亡しているであろう诺夫哥罗德(ノヴゴロド)を属国にしようとしたんじゃが・・・

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t.png 生きてるー!

z.png 莫斯科(モスクワ)丹麦(デンマーク)とは敵対関係にすらなく、立窝尼亚(リヴォニア)騎士団の保護までもらってますね。結局诺夫哥罗德(ノヴゴロド)復活は、莫斯科(モスクワ)によって北西の残存部が滅ぼされる1511年までずれこみました*2

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植民地なき植民地主義

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g.png 1494年に那海(ノガイ)を掃討して阿斯特拉罕(アストラハン)を獲得、2年後の1496年にOpen Chinaを発動させた。今回はこの補正を第一に狙ったわけでない分、この時期に発生させられたのは好調の証と言えるのう。

t.png 技術コスト削減で思い出したが、文艺复兴(Renaissance)は今回も自力受容しないのか?東回り航路で新大陸に行く分、殖民主义(Colonialism)受容の心配はしなくていいはずだが。

g.png よくよく考えると、西洋から遠く離れた超大国という立場なら文艺复兴(Renaissance)の技術コストペナルティくらい無視してもええじゃろうという気分になったんじゃ。

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z.png 実際、文艺复兴(Renaissance)の自力受容は必要なかったようですね。君主点の使いどころがなく明以上に余らせている朝鮮が代わりにやってくれるのですから。ライバル関係にある日本諸国には伝番しませんから、明が最先端国家を長期間維持できるというのもほぼ守られます。*3

g.png 一方で、殖民主义(Colonialism)受容の算段は遅れ気味じゃ。ようやく探検アイデアをとって楽扁(Bian Yue)率いる探検隊を出したのが1493年、1500年を間近にしても千島に植民するのがやっとじゃ。最近のバージョンでは西欧諸国が新大陸に植民するのが遅れがちなおかげで殖民主义(Colonialism)発生自体が遅れがちじゃが、それまでに明は新大陸にたどり着けるかのう・・・

z.png 今のうちに以前の回で書いたことについて訂正を入れさせてください。前回プレイで大洋洲(オセアニア)に植民地国家を建てたことで殖民主义(Colonialism)発生の条件を満たしたと言いましたが、コメントで若干指摘があった通りこれは伝播条件でした。本来の条件は新大陸を発見していること。一応発見してはいますけど、おそらく欧州国家の方が先を行ってしまっているでしょうね・・・

t.png 大変だ、1500年1月1日、予定通りに殖民主义(Colonialism)が発生したぞ!

g.png ほう、今回は早かったのう。里斯本(リスボン)塞维利亚(セビーリャ)か、はたまた肯特(ケント)か・・・どこであれ我らには関係ないじゃろう。何をそんなに焦っとる?

t.png 揚州(Yangzhou)だ!明が発祥国になっちまったんだ!

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g.png なんじゃそれは、新手の詐欺かの?何が殖民主义(Colonialism)じゃ、わしらはまだ一プロビも植民完了しておらんわ!

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z.png 可視域を見直してみると、確かに阿留申群島(アリューシャン)だけはかろうじて見えている状況ですね・・・強運*4と言うべきなのでしょうか。

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t.png ともかく、新大陸進出の段取りは計画通りに行くぞ。樺太からつけたClaimを通して堪察达尔(カムチャダール)から大陸最東端を奪った。ここから阿拉斯加(アラスカ)、&ruby(pronunciation){words};、墨西哥(メキシコ)と南下していくんだ。

西方との付き合い方

t.png 1515年、莫斯科(モスクワ)との第三次戦争が終結。緩衝国だった诺夫哥罗德(ノヴゴロド)が消えたせいか丹麦(デンマーク)との同盟が切れていたので以前よりも楽になったな。再征服CBで宣戦したものの、狙いを変えて大量の直接割譲させたぞ。

z.png 割譲地の最前線は属国に渡しました。これで大国莫斯科(モスクワ)と明が直接接する国境線が無くなり、天命の変化が0付近から+0.08に好転しました。ここからは大国と接するのを避け、改革を積極的に進めていきましょう。

g.png まあこの時点でCivil Warが83%まで進行しとるゆえ、天命を増やすのはもとより最優先だったんじゃ。さて、明本土では1518年に海州でThe Arrival of Jesuitsが発生したぞい。

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z.png 単純に考えると前回より28年遅れてますが、国土の拡張ぶりは比べ物になりませんね。前回は満洲・蒙古が手つかず、波斯(ペルシア)も独立国でした。

t.png 前回と比べて取れていないところはせいぜい東欧の南部くらいだからな。次回はいよいよ2つの宝箱、印度と新大陸への本格進出だな!

g.png このペースじゃと基督教化はまだ先になるのう・・・

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おまけ

全自動黒黴清浄機*5

g.png 現段階では南方へはほとんど拡張しとらん。せいぜい孟養(Mong Yang)*6で独立しとった大理をネコババした程度じゃ。

z.png もとよりこの地域は明の領内でも、大理や長生(Changsheng)などの反乱がおきやすい地域ですけど、治安部隊すらおかないで大丈夫なんですか?

t.png ああ、実際ほっといても全く問題ないんだ。

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g.png 中国南部で発生する反乱軍は、南に若干突出した領土があるとそこを目指して南進するんじゃが、一旦そこまでたどり着いたのちになぜか西進を始めるのじゃ。

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t.png どうやら波斯(ペルシア)方面のプロビを目指しているらしいんだな。道路にされた小国はなすすべもなく主力軍を潰されていくが、明としては領外に出た反乱軍について関知しないので、ポップコーン片手に眺めることくらいしかしない。

z.png 自国のためには帖木儿のためにわざわざ反乱軍潰ししている一方で、よく言ったもんですねぇ・・・

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g.png おおう、東インドの地域大国ベンガルも撃破しおった。この後反乱軍は霧の中に消え、以後消息を絶った。おそらく德里(デリー)に侵入したあたりですり潰されたんじゃろうのう。

t.png たまに大国の脇をすり抜けて波斯(ペルシア)まで到達する反乱軍もいるが、そこには俺らの主力軍がいるから処理に困らないというわけだ。*7

z.png 最初に占領された中国本土のプロビも、ほっとけば朝貢国が塗り直してくれますね。

三帝冠への系譜

1590年8月30日 朱莫(4,4,3) 立太子(0歳)※庶子

1510年2月11日 成化帝朱莫 即位(19歳)
   2月13日 波斯国から朱海妇女(Khair al-Nisa Zhu)(4,5,2) 立后(20歳)

1512年9月7日 朱琳源(3,5,2) 立太子(0歳) ※庶子
   9月8日 朱琳源 廃太子

1514年9月29日 女子誕生 *8(2,2,2、Average) 立太子せず

1515年12月5日 朱皇后 崩御(25歳)

1517年5月8日 太原の谭氏から谭Kon*9(6,2,1) 立后(30歳)
        朱戴基(3,4,4) 立太子(0歳) 皇后弱体

年代記





Два Рима пали, третий стоит, а четвертому не бывать.
二つのローマが陥落し、第三のローマが立った。そして第四は起こるまい。

                ———イヴァン3世 ウスペンスキー大聖堂での戴冠式にて*10



周賢のロシア遠征

ウラル山脈。アジアとヨーロッパを分かつ境界のふもとに、それぞれの一雄が軍勢を結集している。

一方はロマン・ホルムスキー将軍率いるモスクワ・ペルミ連合軍、総勢2万4000人。モスクワ大公国は、初めてツァーリとして退官したイヴァン3世のもとで周辺の諸公国や旧主のジョチ裔諸国を次々と併呑し、その威光は中央アジアにも及ぼうとしていた。生まれる時代を間違えなければ、この武勇と狡猾さ、そして残虐さを兼ね備えたイヴァン3世は世界史の一線を張る驍雄であったかもしれない。彼の大公国がTerra Incognitaの中から現れるや否や没落の道をたどったためにあまり史料が残っていないのは惜しいことである。*11

もう一方は、哈薩克総兵・周賢率いる4万6000人の明軍である。なお哈薩克(カザフ)総兵すなわち中央アジア方面司令官という役職はもちろん明朝の官職であるが、これは明の西方戦略を牛耳るエセン・シャーがペルシア・シャー朝の属国カザン・ハン国の宰相の官職名として明朝廷にねだったもの、要するに明の孫属国カザフ・ハン国の事実上の統治者にしてペルシア・シャー朝の北方総司令官という意味であった。当然、明軍というのもそのほとんどがペルシア・カザフの兵である。周賢は漢人の将軍だが、エセン・シャーに従って西域遠征を支えた腹心だった。しかし野戦を避けて城塞を地道に攻略するのを得意戦略とする周賢は大軍を結集しての決戦を好むエセン・シャーと対立し、新設されたカザフ・ハン国に左遷されていた。とはいえこれは、だだっ広いステップ地帯の仮想敵国モスクワ大公国相手では周賢の戦略が有効であろうというエセン・シャーの建設的な方策でもあった。

天順3年(1487年)1月、ウラル山脈の西麓に周賢軍2万5000が現れた。西班牙大方陣を有効に使うための数的優勢は取れなかったものの、ホルムスキー側が不意を突かれ、主力のモスクワ軍が単独敗走したこともあり、ペルミの戦いは明連合軍の辛勝に終わった。

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ここから周賢は各地から集結するモスクワ軍を避けつつ、首都モスクワへ突貫する方針を立てた。遥か遠く北方からモスクワの強大な同盟軍が来る途中という情報をもとに、短期決戦を狙ったのである。しかしニジニーノヴゴロドで付耆英率いる別動隊が若干小勢のホルムスキーに敗北を喫っしたことで、周賢は圧倒的優勢を作った上で大会戦を挑むことも侵攻計画に織り込むようになった。第二次ニジニーノヴゴロドの戦いでは3万の敵に4万2000の兵力であたり、何とかホルムスキーを撃退した。この一連の結果は、明連合軍兵の質の低さそれを補って余りある西班牙大方陣の威力が再確認されることとなった。

モスクワ陥落

天順6年(1497年)1月。モスクワが門を開き、明・ペルシア・カザフの連合軍が入城した。この地を「第三のローマ」と呼んだ「稀代の暴君にして暗君」イヴァン3世は、逃亡先のノヴゴロド市で周賢の和平案を受け入れた。明軍のこもるカザン要塞が5万のデンマーク・モスクワ連合軍を前に陥落しようとしていたことは、彼の目に入らなかったようである。




最初の2つのローマは正しい教えに背き、神の罰を受けて陥落した。そしてその地を受け継ぐはずだったモスクワが今、陥ちようとしている。
正教圏が東へ広がることはもはや無く、そして第三のローマなどない。ローマは再び第二へ、そして第一のローマへと回帰するのであろう。
何人もキリストに取って代わることはできない・・・

                ———スパソ・イェレーザロフスキー僧院典院フィラフェイ・プスコフスキーの日誌より

波斯の花嫁

天順26年(1510年)、天順帝が45歳で崩じた。結局何皇后とは三三四事件(皇太子朱橚の誕生を受けて日本のShimousaとSettsuから送られてきた献上品の量が33:4だったことに由来)以来の関係が改善することは無く、19歳の庶子朱莫が成化帝として即位することになった。

これをうけてペルシア・シャー朝の姫が明に輿入れすることとなった。その名は朱海妇女(ハイル・アルニサー*12)と記録されているが、アルニサーは婦人の意であり、本名であったのか否かは定かでない*13。20歳のこの西域人は、明の知識人からは東西の血をつなぐ初めての試みであるとして期待されていた。オイラト人エセン・シャーの孫とはいえ、その容姿はもうほとんどペルシア人のそれだった。
しかし成化帝は彼女を気に入らず、4歳年増の淑妃谭氏との間の子朱琳源を立太子してしまう。気性の激しいハイル・アルニサーは思い余って朱琳源を毒殺しその母も殺そうとするが、淑妃谭氏は難を逃れ、毒殺に失敗したハイル・アルニサー3年後の成化5年(1515年)に憤死した*14。人々はハイル・アルニサーの悲劇に涙を流し、彼女を材に取った講談が民間で流行った*15。これをまとめた小説が中国四大奇書の一角を占めるようになるのは後の時代である。

成化7年(1517年)、淑妃谭氏に2人目の男子朱戴基が生まれ、これを機に谭氏もはれて立后された。
この朱戴基が帝位につく頃から、明帝国はさらなる激動の時代を迎えることになる。

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*1 後から見直してみると、RP的には典型的な二枚舌外交である。この後ペルミ反乱が頻発したのも無理はない。
*2 復活させるために早期滅亡を願うというこの
*3 5chスレを見てると、朝鮮がルネッサンスを自力受容するのはよく知られているらしい。Institution導入以降、西欧国プレイか明で自力受容するプレイしかやってこなかったので気づかなかった。
*4 なお、この後はことごとくInstitution発祥を逃すこととなる。ここで運を使い果たしてしまったのか。
*5 さすがにこれは言いすぎですね。ごめんなさい。
*6 コメントでの情報ありがとうございました!
*7 以前のプレイでは、このインドを横断してくる反乱軍を効率的に処理するためだけにアフガニスタン東部(デリーとの係争地)Rohプロビを先んじて取るようにしていた。このプロビはヒンドゥークシュ山脈中にあり交通路が限られているためすべての遠征反乱軍が集約されてくる。しかも最初から山地形城塞が付いてきているので、反乱軍が集まったところを後から容易に処分しに行けるのである。何でこんなどうでもいいことを延々と語ってるんだろう
*8 男子を望んでいる君主に娘が生まれるというヘンリー8世イベント。能力値が分かっている女子を後継者にするか否か選択できるが、拒否した場合1年間不穏度が+3され、また同じ期間中は後継者が生まれなくなる。
*9 KongではなくKonで良い女性名ありませんかね
*10 フィラフェイ・プスコフスキーのヴァシーリー3世を讃える文章より。これを映画『イワン雷帝』第一部の冒頭の戴冠式でイワン4世が述べあげるシーンが印象に残っている。
*11 前の脚注の通り、イヴァン4世の要素がまぜこぜになっている。なおThird Rome未導入なので、雷帝イヴァン3世もストレリツィまでは創設できなかったらしい。
*12 ペルシア人名まったく分かりません
*13 そういう名前ってあるんですかね ちなみにKhairに海の字をあてたのは、バルバリアの某赤髭ハイレッディンの中国名から持って来たため。正しいのかどうかさっぱり。
*14 ここの文章は成化帝のWikipediaがテンプレ。
*15 よくよく考えると悪役の方がかわいそうなのが古今東西の悲話あるある。

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